#13 VS『ライズラック』

 白い壁に乾いた血の痕がこびりつき、黒くなっていた。
 そこへ頭をぶつけたのがどれほど前のことだったか、もう思い出せない。
 人間たちは、暴れる自分をベッドへ縛り付け、点滴を打って、しばらく放っておいている。何度か、点滴を交換する以外、部屋の扉はかたく閉ざされたまま、誰も入って来ることはなかった。
 指先一つ動かせず、ただ眠るのと、目を覚ますのを繰り返している。
 そうしていると、自分が生きているのか、目を閉じているのか、開いているのかさえ、さだかではなくなって、ただぼんやりと天井や壁を眺めていた。
 変哲もなく、変化もない白い壁や天井は、注目するところもない。強いて言うなら自分がつけた、あの黒い血の痕だけだ。それも、見ていてなにか、心が動くということもない。
 ただ、喚いて暴れて、あそこへ頭をぶつけた時の、あの激しい感情がどこへ行ったのか、ということはちらりと頭をかすめた。
 もしかしたら、点滴の中に何か薬が入っていたのかも知れない。あるいは、感情というものは、それほど長いあいだ持続するものではないのかも知れない。
 あの時、自分が何を思っていたのかさえ、分からない。自分がやったことではないようにさえ思われる。
 このまま、ここでこうしていたら、何も思わないまま、何も感じないまま、眠るように死ぬのだろうか。その方が、きっといいのではないか。
 ――もう誰も、待ってくれてはいないのだから。
「……」
 扉が開く。
 思わず点滴に目を向けたが、まだ中身がだいぶ残っていた。まばたきをして、再び開いた扉の方へ視線を戻す。
 そして、見る見るうちに顔が強張るのを感じた。
 入ってきたのは、長身の男だった。青白い顔には、貼りついたような笑みが浮かんでいる。
 知っている顔だった。自分をここへ連れてきた男だ。父を、家族を殺した男だ。『家』を壊した男!
「おまえ……ッ」
「エイビィ」
 瞬時に怒りが沸騰し、目の前が熱で眩む。男は何気ない口調でそう返してくると、大股にこちらへ近づいてきた。
「……あたしの名前。覚えられる?」
「パパを……返せ、みんなを、返して!」
 こちらの怒鳴るのに、男は落胆したように嘆息し、目を伏せる。
「手を出したのはあちらが先よ。と言っても、あなたには関係のない話か。
 あの遺跡はもう、うちの会社の管理下にある。あそこにあったドローンのメモリー、残っているものもあるでしょうけど……ミストエンジンを餌にするような代物の再起動を許すかどうかまでは、あたしには分からない」
「……!」
 破壊された父の身体が、目の前に鮮明に思い出される。男の乗った巨大な機械が、破壊しつくした『家』。その中に折り重なるようにして敷き詰められた、きょうだいたちの遺骸が。
「ころしてやる……」
「……」
「ころしてやるから、絶対……エイビィ!」
「……ええ、できるならね」
 男の口元に、不意に笑みが広がった。
 冷淡だった金色の目が細められ、男はこちらへ手を伸ばす。白い大きな手が身体を拘束するベルトへ触れられ、あっさりと緩められた。ただ、起き上がることは叶わなかった。男の手が身体を押さえつけ、力も入らない。
ハル。いいことを教えてあげましょう。あなたはあたしを殺すことはできない。それどころかこの霧の中でひとりで生きていくことさえできない」
「……」
「うちへ来るといいわ。いつか、あたしを殺すといい。殺せるようになったらね。それがいつかは……分からないけれど」
 何を言っているのか、理解できなかった。どうして男が手元に自分を置いておこうとするのか。馬鹿にしているのか。侮っているのか。何か、目的があるのか。
 男の手が離れ、こちらへ背を向けるに至っても、体を動かすことはできなかった。殺してやる、と呻くことしか。
 ――結局、ハルはこうしてエイビィのところへ引き取られ、そこから今まで、エイビィを殺せずにいる。
 なぜ、エイビィが自分を引き取ろうと考えたのかも、分からないままだ。どうして笑っていたのかも。殺せるはずがないと思っていたのか。
 それとも、いつか、本当に。誰かに殺して欲しいと思っていたのか。


「――エイビィ!」
 ハルが叫び声を上げた途端、へたり込んでいたエイビィが弾かれたように立ち上がった。
 注射器が澄んだ音を立てながら床へ落ち、その破片と中の薬液をぶちまける。
「あっ……!?」
 エイビィと向かい合うようにして立つ女は、唖然とした顔になった。どこかで、見たことがある気がする顔だ。琥珀色の目を見開いて、自分の手首を掴んだエイビィを見つめている。
 硬直する女と対照的に、エイビィの動きは素早かった。女から手を放し、だれかが横たわっている手術台へと伸ばす。
 女が逃げるべく身を翻すよりも、再びエイビィがその体を捕まえ、掴んだ刃針メスを胸元へ突き立てる方が早い。
 悲鳴さえ上がらなかった。
 咳き込むような音とともに、エイビィの腕の中で、女の身体が壊れた玩具のように痙攣する。
 こちらに背を向けたエイビィが、どんな顔をしているかは、分からない。
 遠くで、地鳴りがしていた。ハイドラ同士のぶつかり合う音が。
「……そうね。ずっと、殺すつもりだった」
 かすれた声は、『ステラヴァッシュ』の中で聞いたものとは違って、確かにエイビィのものだった。
 エイビィが緩やかに手を放すと、力を喪った女の身体が、床の上に沈み込む。
「でもそれが、今日だったのかは分からないわ、ウジェニー――先生。こういう形になるとも思っていなかった。どうしてこんなことになったんだったか……」
 もはや動かなくなった女へ向けて疲れきった声で言葉を吐き出し、エイビィは大きくため息をつくと、ゆっくりとこちらを振り向いた。顔に散った返り血を指先でなぞるように拭い、こちらへ目を向ける。
「ありがとう、来てくれて助かったわ。ハル」
 その言葉に、あるいは、見たことのないような緩んだ笑みに、ハルはどう答えていいのか分からなかった。
 けれども、分かることもある。エイビィがハルをそばに置いていたのは、まさしくこのためだったのだ。
 そして、もうひとつ。
「……ビル」
 低く呻いたのは、隣に立つダリルだった。止めていた足を踏み出し、恐る恐るエイビィに近づいていく。
 ……チャーリーも、ダリルも、エイビィを違う名前で呼ぶ。それがなぜかも、エイビィがそれを厭うているのも、もう分かっている。
 今までと違うのは、エイビィがそのダリルの呼びかけに応じるように、しかめ面しい顔をして見せたことだ。それもまた、見たことのない表情だった。知らない人間の顔だ。
「そこに。あんたの中に、いるんだな」
「……さあ、いるのかどうかまでは。でも、あなたはどうして欲しいの?」
 ただ、一度目を伏せ、ダリルを睨み付ける時には、その顔つきは馴染みのあるエイビィのものになっていた。
 ダリルの喉から、ぐ、と殴られたようなくぐもった声が漏れる。続く言葉は、その口からは出てこなかった。どうするのか、何をするのかまだ分からない、とダリルが『ステラヴァッシュ』の中で言っていたのを、ハルは思い出す。
「そう……」
 エイビィは表情を和らげてため息をつき、視線を巡らせた。ハルはそれに合わせて、ふと廊下を振り返る。
 まだ戦闘が終わっていない。複数のハイドラがだんだんとこちらへ近づいていた。それはいい。
 だが、それに紛れて、覚えのある気配がした。エイビィがここにいるのに、聞こえるはずのない音だ。
「――『ライズラック』?」
「ハルちゃん!」
 足が地面から浮くのを感じて、ハルは思わず息を詰める。
 ダリルに抱え上げられたのだと気が付いた時には、振り返った廊下の窓を『ライズラック』の腕が突き破っていた。衝撃で、建物自体が大きく揺れる。
「ッ……あんた、何を!」
 地鳴りに負けぬような大声で、ダリルが怒鳴った。エイビィは答えぬまま廊下を駆け抜け、『ライズラック』の掌へ飛び乗る。こちらを振り返ったエイビィの顔には、引き攣った笑みが浮かんでいた。
「あなたとあたしは『あちら』側と『こちら』側でしょう?
 ――それに、ウジェニーが死んだ今、あたしのことを知ってるのはあなたたちだけよ」
「本気で言ってるのか!」
 ダリルがそう問い返す前に、『ライズラック』がエイビィを載せたまま腕を引く。
 小さな音を立てて、血の付いた刃針メスが床に転がった。ハルは身を竦めたまま、自分を抱えるダリルの顔を見上げる。
「大丈夫、ちょっと刺さっただけだ! クソッ……あの『ライズラック』、どういうんだ!?」
 毒づいて、ハルを軽々と抱え上げると、ダリルは辛うじて体裁を保っている廊下に走り出た。そこで、顔を強張らせる。掌の上にはすでにエイビィの姿はなく、『翅』を広げた『ライズラック』は、その右手にブレードを構えていた。
 しかし、ブレードを振り上げることなく、すぐに『ライズラック』は『翅』を広げてその場を離脱していく。
「……何だ?」
 ダリルが顔をしかめて唸る。
 エイビィが前言を翻したわけではないことは、すぐに分かった。轟音が辺りを包み込み、再び病院が大きく揺れる。
 ここから離れていたはずの戦線が、今やマヴロス・フィニクスの敷地の中にまで広がっているのだ。機関銃の弾が病院のコンクリートを抉る音をハルは何とか聞き分けたが、だからと言ってなすすべはない。
 『ステラヴァッシュ』と、呻くようにダリルがつぶやいた。もう、言葉尻は爆発音に飲み込まれている。
 床に走ったひびが大きな亀裂となり、ダリルとハルは一緒になって階下に落ちて行った。


 操縦棺の中では、水の流れる音がする。
 ミストエンジンの供給する動力、残像領域に満ちる霧を液化したが、張り巡らされた配管の中を流れてゆく音だ。その音を、血流に喩えるものもあれば、羊水の中にいるようだと言うものもある。
 その音に耳を傾けながら、エイビィは『ライズラック』の操縦棺の中、操縦盤の上に取り付けられた小さな装置を剥がし取った。その拍子に手から零れ落ち、座席の下へ落ちて行ったそのチップを、追いかけて拾い上げる気力はない。ライセンスを掴んでシートに沈み込み、頭を押さえる。
「……『ライズラック』、そうね。分かってる」
 何か言葉が聞こえたわけではなかった。
 さらさらと水の流れる音がする。それを上から覆うように、ミストエンジンの駆動する音が。
「……戦いましょう。戦い続けましょう。あたしは、あなたのハイドラライダーだわ」
 空が。
 ハイドラ同士の戦闘によって、わずかに霧のけぶる大気の向こうには、目の痛くなるような青空が広がっている。霧の濃度は限りなくゼロに近いが、『ライズラック』の動き自体には支障はない。
 眼下に目を向ければ、『ステラヴァッシュ』の巨体が見えた。主が離れ、起動もせずに置いておかれたハイドラを破壊するのは容易だが、それをしようとは思わなかった。
 四枚の『翅』を広げ、飛び交う銃弾を躱しながら、『ライズラック』は病院の周囲を旋回する。流れ弾によって崩壊し、煙を上げる瓦礫の山の様子が、カメラの映像からはっきりと見て取れる。
「ハル……」
 縋るように呟いて、エイビィはヘッドフォンを下ろした。


 幸い、ハルには目立った怪我はなかった。
 瓦礫の中から這い出し、ダリルはハルを抱えて身を低くしながら、何とか『ステラヴァッシュ』の操縦棺へと辿り着く。
 辺りはひどいありさまだった。煙と火の手が上がり、爆発音が断続的に聞こえてくる。企業内戦争と言っても、ここまで敷地の中をずたずたにされることは『冠羽』の人間たちも想定はしていなかっただろう。もっとも、用心深い連中はもっと安全な場所で身を潜めているのだろうが。
 シートに沈み込み、HCSを起動したところで、ダリルはようやく右目が開けられなくなっていることに気が付いた。慌てて触れてみるが、痛みはなく、ただぬるりとした感触だけがある。どこで切ったのか、頭の傷から流れた血が目に入ったらしい。傷はそれほど深くないが、出血が多い。
「ハルちゃん、そこの箱、取ってもらえるか……」
 身を丸めたハルが足元でもぞもぞと動き、白い救急シートを取り出してくるのをちらりと横目で確認して、ダリルは目元を乱暴に拭いながら画面を覗き込む。『ライズラック』が、崩れた病院の上空を旋回するように移動しているのが見えた。
 放置されていた『ステラヴァッシュ』をあえて攻撃しなかったのは、周囲の状況が思ったよりも乱戦になっていたからか、それとも何か考えがあるのか。いずれにしても、ダリルとハルを殺すつもりならば、詰めが甘い。
「ああ、悪い。ありがとう」
 頭に触れたひやりとした感触に、ダリルはハルに笑んで見せる。が、ハルはもうこちらを見てはおらず、ダリルの足の間に腰かけてカメラを覗き込んでいた。
「来る。いそいで」
 言葉に、慌ててダリルは操縦桿を握った。右目は、涙で滲んでいるが、見えないほどではない。
 『ライズラック』が四枚の『翅』を広げ、『ステラヴァッシュ』を正面に捉える。その周囲だけが霧に覆われ、その姿を覆い隠す。
 もっとも、もとより『ライズラック』に対して『ステラヴァッシュ』は巨大すぎる。避けるなどとは考えたこともない。問題は、こちらの射撃が当たるかどうかだった。
「ハルちゃん。俺は、エイビィを……」
 ここに至っても、ダリルはそこで言葉を切る。
 エイビィに殺されるつもりはない。それは確かだ。
 だが、殺すつもりがあるかどうかと言われれば、それはまったく別の話だ。
 『ライズラック』をカメラで追い、その機影に照準を合わせながら、ダリルはエイビィの叫ぶ声を思い返す。あるいは、病院でエイビィが浮かべて見せた表情を。
 間違えるはずはない。あれはビルだ。あの時、あの日、見送ったきりいなくなった、ウィリアム=ブラッドバーン。
 エイビィの中には、確かにビルの記憶がある。恐らくオーガストのそれも。拭い去れず、咄嗟に振る舞いに出てしまうほど、エイビィの中に残っている。
 もしかしたら、と考える頭がある。まだ助けられるのではないか。取り戻すことができるのではないか。ああやって、自分に声をかけてくれたのだから、戻ってきてくれるのではないかと思わずにはいられないでいる。
(嘘だ)
 まだ望みが残っているのではないかと夢想する一方で、どうしようもなくそれを否定していた。
 あそこにいるのが、ただの面影に過ぎないことを願っている。死んでいて欲しいとさえ祈っている。
 苦しんでいて欲しくなかった。この二年間、苦しみ続けていたと言って欲しくなかった。
 生きていて欲しいと思っていた。だが、それはこんな形でではない。
 これ以上、自分に何ができるのか分からない。ビルに対しても。エイビィに対しても。
 結局、そんな体たらくでここまで来てしまったのだ。
「ダリル! 前に!」
 ハルが叱責するのに合わせて、ダリルは反射的に操縦桿を押し倒した。
 今さら確認するまでもなく、小型の高速格闘機である『ライズラック』に比して、大型の『ステラヴァッシュ』の動きはあまりにも鈍重だ。周囲がよく見渡せるとは言え、『ステラヴァッシュ』の動きが速くなるわけではない。
 それでも、回避行動によって相手の間合いを外すことは可能だ。『ライズラック』の電磁ブレードによって装甲が削られ、『ステラヴァッシュ』の機体が大きく揺れるが、直撃は何とか避けることができていた。
 少女はこちらに背を向けたまま、せわしなく辺りを見回している。カメラが追いきれない『ライズラック』の動きを捉えているようだった。
 ――いつか、『ステラヴァッシュ』と『ライズラック』が戦った時に、エイビィとハルがこちらへ近づいてくるDRや戦闘機にいち早く気づいていたことを思い出す。見えている。以上に、『ライズラック』を把握している。
「ハルちゃん、俺は……」
「分かってる。エイビィをころそう」
 ごく小さな声で答え、ハルはこちらを振り返る。
 それが、ダリルの顔を見るためではないことはすぐに分かった。ハルの目の焦点は、こちらの背後、操縦棺を超えて、遠く『ライズラック』に合っている。眉根を寄せて、ハルはダリルの膝の上に乗せた指先へ力を込めた。
「あっち! うって!」
「……ッ」
 躊躇いながらも、ダリルは『ステラヴァッシュ』の砲塔をハルの指差した方向へ差し向ける。
 青い空の中、白々と目立つ『ライズラック』が霧の尾を曳きながらこちらの射撃を避けるのを画面の中に追い、ダリルは顔を歪めた。
 ハルは『ライズラック』を捉えている。ハルの指示に従えば、ハルの言う通りにエイビィを殺すことが出来るのかも知れない。
 ……だが、それをしたくない。
「だめだ、ハルちゃん。あいつを殺す理由がない。あいつは、……あいつと戦う理由がないんだ、俺には!」
「エイビィにはある」
 ハルの声はごく抑えられてはいたが、切りつけるような強さがあった。
 小さな手が、操縦桿を握るダリルの手を上から握る。ハルの力を込めた方向へ、ダリルはされるがままに操縦桿を倒した。『ステラヴァッシュ』が、再び衝撃に揺れる。ハルの目は『ライズラック』を追っているが、ダリルはその姿を見失っていた。集中できない状態で追いかけられる機体ではない。
「エイビィが何をしたいか、分かる。
 だからいっしょに、エイビィをころして」
「なに……」
「エイビィは、ハイドラライダーだから。……『ライズラック』も、分かってくれる」
 その言葉の意味が、ダリルには分からない。分かるのは、ハルはもう決めているということだけだ。
 そして、迷っている時間もない。
「そこ!」
「くそっ!」
 ハルの指先に合わせ、ダリルは今度こそ躊躇いなくスイッチを押した。カメラを覗き込み、白い機体を再び視界に収める。
 そもそも、迷うことなどできないのだ。『ライズラック』を相手に、『ステラヴァッシュ』の機動性では逃げることができない。戦うしかない。
「けど、エイビィ! 俺は……」
 霧のない戦場は、確実に『ステラヴァッシュ』に有利に働いていた。
 こちらの弾はまだ一度も当たっていない。だが、『ライズラック』の周囲を覆う霧は確実に薄れていたし、『ライズラック』を近づける回数は少しでも減らせている。そして、ハルは『ライズラック』を捉えている。こちらの装甲が削りきられるまでに、『ライズラック』を墜とせるかも知れない。自分が何も、覚悟も、決められていなくても。
「今――うって!」
 ハルの言葉に従って、『ライズラック』を迎え撃つべく、『ステラヴァッシュ』から銃弾が放たれる。
 だが、『ライズラック』は急激に横に軌道を変えて、その弾をあっさりと躱した。出鱈目な高機動。再び照準を合わせる前に、『ライズラック』はブレードを振り上げる。迎撃は、間に合わない。
「な――」
 が、不意にその動きが止まる。
 直後、『ライズラック』の背から爆炎が上がった。
「ダリル!」
 ハルの声。ダリルは呆然としたまま、『ライズラック』に砲口を向ける。
 『ライズラック』は、避けなかった。いや、避けられなかったのか。
 焔を上げながら、白い機体が墜ちていく。
 ――その向こうに、『ヴォワイヤン』の姿が見えた。


 DRに乗るのは久しぶりだった。
 『ウィンドベル』や『ポーン』ですらない、作業用の小さい機体である。作業用と言っても、目的に合わせて出力はそれなりで、マニピュレーターもしっかりと作られているため、大きな瓦礫を掴んで運ぶにも、それほど苦労はしない。ただし、外部センサーの類は搭載されておらず、コックピットは外の様子を見るために剥き出しになっている。そのため、外気が絶えず流れ込み、少し肌寒い。
 ダリルもつなぎの上に上着を重ね、相当に着膨れていた。霧が晴れ、日が差すようになった残像領域では、まだどれほど着込んでいいかの勝手が分からず、逆に汗をかき始めている。
 額に浮かんだ汗を拭って、ダリルは息をついた。辺りを見渡せば、まだまだ一面の瓦礫の山が広がっている。
 ――マヴロス・フィニクスの企業内部における戦争は、『冠羽』同士の痛み分けという形で幕を閉じた。
 関連企業の多数入った区画が戦場となり、こうしてほとんど破壊されたこともあって、マヴロス・フィニクス全体としても、大きな痛手を受けている。典型的な、骨折り損のくたびれ儲けだ。音頭を取っていた『冠羽』二社も力を削がれて、今は立て直しと責任逃れに躍起になっていた。その代わりに、いくつかの『尾羽』が勢力を伸ばしたという話だが、それはダリルたち警備部にはまだあまり影響のないことだ。
 ただし、警備部にとって不倶戴天の敵となっていたAIによるハイドラ部隊の計画が、今回の件で凍結に追い込まれたのは朗報だった。
 計画を主導していた『冠羽』が打撃を受けただけでなく、AIにHCSを起動させるために、死亡したハイドラライダーのライセンスが流用されているということが明らかになったのも理由の一つだ。倫理的にというよりは、コスト面で疑問が噴出し、いったんは生産が止まっている。
 翻って、エッジワース博士の手によってふたたび動き出そうとしていたバイオノイド計画――実際は、培養の手間を省くために死体を利用しようとしていた――についても、彼女の死によって頓挫していた。
 もっとも、彼女が生きていたところで、残像領域の霧が晴れ、世界が大きく変わろうとしている今、マヴロス・フィニクスも身内の食み合いのための計画ばかりを動かしているわけにはいかなくなっていただろうが。
 警備部は、命令無視に戦場放棄を重ねたダリルのことを特別咎め立てることはしなかった。
 人員不足に状況の混乱で、有耶無耶になっている、という方が正しいか。戦場放棄に関しては『ライズラック』を追って病院へ向かったあの一回だけで、そのあとは拡大した戦線の中で失点を取り返せたのも大きいかも知れない。ただ、恐らくあの場で『ステラヴァッシュ』が戦場から離脱したことによって死んだ仲間は、一人や二人ではない。
 こうしてダリルが瓦礫掃除に勤しんでいるのは業務の一環で、その罪滅ぼしというわけではないが、こうしてDRを動かしていると、そのことに思いを馳せずにはいられなかった。
 ……もっとも、エイビィについて考えている時間の方が、どうしても多くなる。
 すでに、二週間が経過していた。
 あのあと、『ステラヴァッシュ』も『ヴォワイヤン』も戦闘に巻き込まれ、撃墜された『ライズラック』を放置して離脱することもできずに、戦い続ける羽目になった。
 チャーリーは何も言わなかったし、ダリルも言うべき言葉が見つからなかった。ただ、『ヴォワイヤン』から送られてくるデータだけは正確無比で、『ライズラック』に痛めつけられた『ステラヴァッシュ』でも、何とか生き残ることができた。
 しかし、戦闘が終わった後、瓦礫の山の中に『ライズラック』の姿を見つけることはできなかった。
 『ライズラック』はあの時、『ヴォワイヤン』と『ステラヴァッシュ』の射撃によって致命的に破壊されていた。自力での脱出ができたとは考えづらい。
 一方で、いくら戦闘が激しかったと言っても、残骸も残らないほど破壊されたのか、と言えば疑問が残る。
 ――要するに、行方不明だ。ビルがいなくなったのと同じように。あの時と違うのは、ダリル自身がその場に居合わせたことと、結局はこの無数の瓦礫の中のどこかに、下敷きとなって埋まっている可能性が高い、ということだ。
 姿をこの目で確認しなければすっきりしない、というのは変わらないが、二年前よりはずっと諦めがついていた。
 何よりハルが、エイビィは死んでいる、と言い切っている。
 あの時、彼女がエイビィの意志をどのように受け止め、何を思って行動したのか、『ステラヴァッシュ』の中で言った以上のことをハルが語ることはなかった。
 チャーリーも、この件に関してはあれっきり、話題にも上らせない。だからこそ、彼女がハルを引き取ると言い出した時は意外にも思ったが。
「……よし」
 決められた範囲の瓦礫をあらかた運搬し終わって、ダリルは一つ息を吐く。
 辺りを見回すと、ダリルと同じように瓦礫掃除に勤しむ人々やDRがよく見えた。この残像領域に久しく差していなかった日光のために、目を一時的に痛めたり、肌に軽いやけどのような症状を負う者も見られたが、こういう作業はやはり見通しのいい方が進みは早い。
 たくましいのは『園長』だ。ねぐらにしていたテントがもろに戦闘に巻き込まれて吹き飛ばされたくせに、本人はしぶとく無傷で逃げおおせ、瓦礫を除いた場所にもう新しいテントを構えている。とは言え、パーツの依頼人として上客だったらしいエイビィが行方知れずになったため、前に顔を見に行った時はまだぶすくれた顔をしていたが。
 何にせよ、エイビィだけではなく、今までそこにいた人間の死を受け止めて、いなくなる前と後の差分を吸収し、ひとびとは動き出している。
 それは、ダリルも変わらない。この瓦礫掃除が終わったら。果たしてその中に『ライズラック』の残骸を見つけたら。もっときちんと前に進む気持ちになるはずだった。
 だからそれまで、死んだ男のことを考え続けることも、許されるように思う。
 あの時、エイビィの問いに自分がどう答え、『ライズラック』に対してどう応えればよかったのか、問いを繰り返すことも。あとほんの少しの間だけ。
「ん……?」
 と。
 こちらに近づいてくる姿があるのを見つけて、ダリルはふと眉根を寄せた。
 青空の下、誰も伴わず、DRに乗りもせずに、まっすぐに歩いてくるその男は、軽く手を挙げて、ダリルへ向かってひらひらと手を振る。
 見覚えのある顔だった。
「……あんたは……」
「やあ、久しぶり。元気そうで何よりだ」
 男は小さな瓦礫を避けながら、DRの足元まで歩いてくると、歯を見せてにっと笑って見せる。
 ――その歯は、岩を噛み砕けそうなほど鋭く尖っていた。


 屋根が吹き飛ばされ、焼け焦げた柱と床だけが残った食堂に、間に合わせの簡素な椅子とテーブルがいくつか並べられている。
 ダリルと男――ロックバイツは、その中の一つに向かい合って座っていた。
 ここにいるのが当然というような顔をして、ペットボトルの水を飲む壮年の男を、ダリルは胡乱な目で見つめる。
 ロックバイツはいわゆる情報屋だ。残像領域に流れる噂、隠された秘密、人や企業の確かな目録にいたるまで、およそ『情報』と呼ばれるものはすべて取り扱う昔気質の耳聡い男で、顔を合わせてしか商売をしないことで知られている。ダリルも、彼に何度か調査を依頼したことがあった。
 だが、今は何も依頼などしていない。ここに、ダリルに会いに来た理由が分からない。
「エイビィという男のことなんだけれど」
 ペットボトルの蓋を閉じながら、ロックバイツは何気ない口調でそう切り出した。ダリルは身を乗り出しかけて慌てて抑え、口を噤んで男の言葉の続きを待つ。
 ダリルがこの男に調査を依頼していたのは、そのエイビィの経歴のことだ。そのあとはハルについても。だが、こうしてアフターサービスめいたことをしてくるタイプだとは思っていなかった。
「そこの病院……今はすっかり崩れているが、そこの下から彼のカルテが掘り出されてね。彼がどういう状態だったのか、事細かに記されていた」
「……この辺りの瓦礫と掃除と調査は俺たちの仕事だ。何であんたが先に知ってる?」
「知っての通り耳が早くてね。まあ、いいじゃないか」
 通り名の由来である鋭い歯を見せて微笑み、ロックバイツは肩を竦めてみせる。ダリルはなおも言い募ろうとしたが、好奇心が先に立った。
「……カルテには、何が書かれていたんだ?」
「君は、拒絶反応っていう言葉を聞いたことはあるかい?」
 問い返され、ダリルは戸惑いながらも頷いてみせる。ロックバイツはテーブルの上にペットボトルを倒して置き、小さく息を吐いた。
「臓器や体の一部を移植する際に、免疫の反応によって移植したものが受け入れられず、様々な問題が起こることがある。
 反応を起こす理由や時期によっていくつか種類があるが、移植後三ヶ月後経ってからは、慢性拒絶と呼ばれる反応が出る場合があってね。
 『彼』は、それを抑えるために、免疫抑制剤を投与されていた。
 副作用の強い薬だ。体内で薬の血中濃度が少しでも変わると、強い頭痛や吐気に悩まされるとか。
 もちろん、薬が抜けてしまえば拒絶反応が起こり、移植した臓器が障害を受ける可能性がある」
 テーブルの上で水の残ったボトルを転がしながら、滔々と並べたてられる男の言葉に、ダリルは思わず辺りに目を向けた。この瓦礫の中、どこかに埋まっているはずの、あの白い機体。それに乗っていた男。
「なら、もしあいつがどこかで助かっていたとしても、その薬がなかったら――」
「うん。だから、早めにカルテが見つかったのは幸いだった。
 彼が薬を服用しているのは分かっていたんだが、その種類までは医者も特定できていなかったからね」
「は……?」
 一瞬、男が何を言っているのか分からなかった。
 ダリルは間の抜けた声を漏らして、ロックバイツに目を向ける。
 男は相変わらず何気ない顔で、手の中でペットボトルを弄んでいた。
「怪我は酷くてかなり弱っているし、ハイドラライダーとしてどうかは分からないが、これで命は何とかなった。あとは、本人の気力次第かな」
「…………い、」
 生きているのか。
 言葉にならないまま身を乗り出すダリルに、ロックバイツは眼鏡の奥から視線を向ける。
「合併症や拒絶反応の懸念はあったけれど、運び込まれた先がよかったんだろうな。怪我の経過は良好で、命の危険はもうほとんどない。意識も戻って、だいぶはっきりしてきたよ。
 でも、状態はよくない。記憶に大きな混乱が見られるし、大きく欠けているんじゃないかって部分もある」
「……オーガストやビルの記憶か?」
「それは僕には何とも。ミス・キャボットは面会を拒否したし、僕も彼女には冷静になる時間が必要だと思う」
 ペットボトルを立てて、ロックバイツは首を竦めた。
「ただ、そうだな……彼と少し話をしたけれど、ウォーハイドラに関わる記憶はほとんど全滅だった。つまり、彼のほとんどすべてだよ。
 自分の名前さえもあいまいで、だから僕も彼を見つけるのにずいぶん時間がかかった。
 ハルちゃんが会いに行ってはいるが、彼女のことをちゃんと覚えているかも怪しいと思う。今の彼は、なんて言うか……」
「………『まばたき一つ満足にできない』ような?」
「うん……」
 男は曖昧に頷いた。眉根を寄せて、大きくため息をつく。
「少なくとも、僕や君が知っている男とは、大きく乖離している。僕にもさすがにお手上げだ。
 ……君はどうだい? 今の彼に、それでも会おうと思うかい」
「ああ……会わなきゃいけない」
 ダリルは即座に頷いて、立ち上がった。ロックバイツが驚いたように目を瞬かせるのを見返して、ダリルはもう一度、頷いて見せる。
「いや、たぶん、会いたいんだ。
 それに、ハルちゃんが行ったのなら、きっと俺たちが次に会うのは」
 言葉を切り、ダリルは視線を巡らせた。チャーリーが言っていた言葉を思い出していた。
 恐らく、それは正しい。あの時、確かにビルがエイビィの中にいたように。ハルの言葉でエイビィが動いたように。彼がエイビィであったのなら、人間の記憶はそう簡単に消せるものではない。
 ただ、それが呪いなのか希望なのか、まだ判断がつかないだけで。


 ……その少女の姿を認めた瞬間、ベッドに患者の表情が劇的に変わった。
 近くの戦闘で撃墜されたハイドラライダー、という話だったか。怪我のせいか打ちどころが悪かったか、自分の名前さえ言えない始末で、ほとんど抜け殻のようになっていた男だ。
 それが――呆けたようだったその顔に、見る見るうちに表情が生まれる。ここへ入院してから、見たことのないような顔だった。様々な感情を一度に出力しようとして、つっかえてしまったような。
「かみ」
 男が言葉を発する前に、少女は綺麗に梳かれた金髪へ手をやって、小さく声を上げる。男は釣られたように、乱れた自分の髪へ手を触れて、そこで初めて、困ったような笑みを浮かべた。
「ああ、染め直さないと……次は、何色がいいかな……」
 押し出すようにそれだけ言って、男は深呼吸すると両腕をベッドに投げ出した。長く伸びた白い前髪の間から、少女へ目を向ける。
「……どうする? 今度こそ、とどめを刺しに来た?」
「あなたは?」
 問い返されて、男は虚を突かれた顔になった。少女の青い瞳は、真っ直ぐに男を捉えている。
「あなたは、どうしたいの?……だれになりたいの」
「……あはは」
 力なく笑い、男は天井を仰ぐ。
 風に揺らぐ薄いカーテンの向こうには、雲一つない青空が覗いている。
「それって、自分で決めなきゃいけないことなの?」
「そうだよ」
「そう、……そう。なら、そうね」
 言いながら、男は自分の腰に指を滑らせた。少女の方へ、祈るような眼差しを向ける。
「……ハル、どうか、あたしの名前を――」

MIST OF WAR Rejection
アルファベットの境界線