つまらない話が続いていた。
ダリル=デュルケイムは眠気を何とか噛み殺しながら、ステージの上、巨大なスクリーンに映し出された壮年の男に視線を向けた。ステージ上にも男の姿はあったが、回線の調子が良くないのか、時折ノイズがかったり、像がぶれたりしている。立体映像だ。実際、男はこの場にはおらず、どこか安全な場所で話しているはずだった。ほかならぬ、ダリルの所属する警備部が、そうするべきだと進言していた。
数千人を収容できるこの大がかりなホールは、マヴロス・フィニクスのなにがしかを記念して建てられた、式典用の会場だったと記憶している。何の記念だったかは覚えていないが、それなりに古いものであるはずだ。立体映像を投影する装置も、やや型落ちなのかも知れなかった。
出入り口にほど近い、最上段の席に腰かけて、ダリルはスピーカーで拡張された男の話にぼんやりと耳を傾けている。マイクで拡張された男の声も、映像と同じように歪みやぶれがあったが、それでも役者のように朗々とした、通りのいい声をしていた。本当に役者の可能性もある。男は『冠羽』の役員という態で現れてこうして話しているが、本人である保証はない。身を護るための策は、いくつ打っておいても損はないからだ。
男の言葉も、原稿がしっかりと用意されているのだろう。淀みなく、聞こえのよい言葉が並べ立てられている。話題は、先日行われた無断の性能試験への批判だ。マヴロス・フィニクスにおいてこのように人道にもとる行為がなされたのは、きわめて憂慮すべき事態である云々。
ダリルは鼻で笑うのを何とか堪える。男は続けて犠牲となった警備部のハイドラライダーや、その遺族に対して神妙な面持ちで哀悼の意を述べたが、それが心にもない茶番であるということは、ここに集まっている大半の人間が知っていることだった。
黒い不死鳥の警備部は、『冠羽』を護る盾だ。……と、言えばそれなりに聞こえはいいものの、要するに『冠羽』を護るためならばどんなことでも平然と行う集団だ。脅しすかしに暴力、圧力、えげつないことはいくらでもしてきた――これからもいくらでもやる――部署である。さすがに、死んでいった同僚がそうなって当然の連中だったとは思ってはいないが、操縦棺の中でハイドラライダーとして死ねたことを、むしろ望外の幸運だと思っているものも少なくはないはずだ。それを、よりにもよって人道にもとるとは。美辞麗句でまとめるにしても、もう少し言いようがあっただろうに。
とは言え、それぐらいは言ってみせる恥じらいのなさが必要な場だろうということは、ダリルも理解している。
男の話題は、来たるべきマヴロス・フィニクスの企業『内』戦争に移っていた。
買収・独立・分裂・合併。そして戦争。
際限のない肥大こそが、ダリルたちが所属する黒い不死鳥の本質である。
企業倫理もなければ、掲げるべき主義主張もない。ただ己の成長と拡大だけを目的にした、残像領域の複合企業だ。
そのための食い物は、何も外だけに求めるものではない。膨張した企業体の中で、己の力を増すために手近な部門同士が食い合うことは珍しくない話だ。
ただし、それは末端の『尾羽』同士の話だ。今回は黒い不死鳥の中心にほど近い、『冠羽』同士の大がかりな戦争である。どれだけの関連企業が巻き込まれるのか、予測さえ立たない状態だ。
警備部、また、混成部隊が巻き込まれた性能試験は、その一環だった。
AI。勢力で劣る派閥によって、数を補うために開発された粗製の兵器。大隊で活躍するハイドラライダーたちの戦闘パターンをコピーし学習させた、無人のハイドラ部隊。
壇上で話す男の企業は、AIにおびやかされ、下剋上で食われそうになっている側だ。こうして正当性を何とか見つけ、感情に訴えて士気を煽る程度のことはするだろう。とはいえ、ダリルをはじめとする警備部の人間がこの場に揃っているのは、仲間の仇討ち、というのもあるにはあるが、そもそもAI部隊を用意した『冠羽』から、すでに梯子を外されているのが大きい。煽られたからと言って、やる気を出すこともない。
(……エイビィ)
スポットライトの当たるステージ上から視線を外し、ダリルは薄暗いホールの中をぐるりと見渡した。ホールの中には大勢の人間が集められていたが、一見して席にエイビィの姿はなかった。
彼が所属している『尾羽』――『シルバーレルム』の方針について、ダリルは調べてはいなかった。先日のシミュレータでの一戦以降、エイビィとの約束を守っているかっこうだ。
しかし、会社の方針がどうあれ、エイビィが向こうへついた可能性はじゅうぶんにある。自分のアセンブルや戦闘パターンを模倣されたことについて、かれは特に何の感想も抱いていないようだったし、無人のハイドラについて、きな臭い方法が用いられているかも、とは言っていたものの、大した関心は寄せていないように見えた。エイビィに『敵に回るつもりはない』などと言ったものの、エイビィはこちらの敵に回ることに躊躇はないだろう。
――エイビィがあの日、『シルバーレルム』のシミュレーションルームに来ることをダリルは予測していた。大きな環境のアップデートを控えて、アセンブルを確認しに来るだろうとあたりをつけ、待ち伏せしていたのだ。
エイビィに、ビルが使っていたアセンブルを使わせてみてはどうか、と提案したのはチャーリーだ。
チャーリーとは、例のAI部隊の襲撃の後、何度か連絡を取り合うようになっていた。ほとんどは彼女が所属する企業と、こちらの『冠羽』のどれかへつなぎを取ってほしいという要請ではあったけれど、ダリルの相談にも乗ってくれていた。
あのシミュレーターで、あのアセンブルを使って、あのビルのアセンブルを、エイビィは『シェファーフント』と呼んだ。
シミュレーターでエイビィが見せた動きは、ほとんどは『ライズラック』と違うアセンブルに戸惑っているように見えた。だが、あの時、『シェファーフント』の名を叫んだ、その直前の動きだけは、あの機体を昔から知っていたかのような慣れた動きをしていたように見えた。
エイビィは熟練のハイドラライダーだ。あの短時間で、慣れないアセンブルの使い方を把握した、ということもあるだろう。
だが、ダリルはそれだけではないと考えている。エイビィは、ビルの機体の名前を調べて知っていたと言っていたが、だからと言ってあそこで咄嗟に名前が出てくるとも思わない。
……チャーリーは、ダリルを動揺させるためにエイビィが最後の最後まで取っておいた手だと言っていたけれど、それはともかくだ。エイビィはその口で、確かに『シェファーフント』と言ったのだ。
それを言わせた代償として、ダリルはエイビィに敗北してしまったのだが。おかげでエイビィの動向も分からず、こうしてここで興味もない話を聞き流す羽目になっている。
ダリルは椅子に深く沈み込んだ。
もし、エイビィが向こうの『冠羽』についたのなら、間違いなく彼はダリルを殺そうとするだろう。一体何者であれ、彼はエイビィという人間のままであろうとしている。ダリルのことは邪魔なはずだ。そうでなくても、エイビィが戦場で、相手が知り合いだからと言って手心を加えることは考えづらかった。
そう思うと、体に緊張が走る。エイビィは、慣れない機体を使ってでさえダリルを倒して見せた。自分が勝てる相手とは思えない。
ダリルは大きくため息をつき、首を横に振った。考えても仕方がないことだ。
壇上では、悲しげな音楽とともに、犠牲者を追悼するセレモニーが始まっていた。老いた女性がスポットライトの下に立ち、涙ながらに何かを訴えている。そういえば、死んだ仲間の中に、母親と二人暮らしをしている奴がいたような気もした。
――彼女の話ぐらいは聞いておいてもいいかも知れない。
そう思いながら、ダリルは再び眠気に襲われるのを自覚していた。座るシートが柔らかくて心地がいいのも、辺りが薄暗いのもいけない……で、老女が呼んだのは、知らない男の名前だ。
よし、と思いながら、ダリルは重い瞼を閉じた。
「――お客さん、朝ですよー」
肩がゆすられている。
瞼を開けると、ホールの中はもう明るくなって、壇上には誰も立ってはいなかった。そればかりか、シートにも座っている人間はほとんどいない。いつの間にか集会は終わっていたらしい。ダリルは目を瞬かせて、辺りを見回す。
「あ、起きた。ぐっすり寝てたねー。大丈夫? 疲れてる?」
色とりどりに染められた、癖の強い長い髪が目に入った。肩に置かれた白い手を寝惚けた目で見つめ、ダリルはその腕をゆっくりと辿る。
知らない顔だった。痩せぎすの不健康そうな女で、セルフレームの黄色と黒のきつい色合いの眼鏡をかけている。普段通りのつなぎを着ているダリルが言うことではないが、TPOを弁えないタイプらしい、やはり色とりどりの派手な服の上に、不釣り合いな白衣をまとっていた。
胸のポケットには何本かペンが差してあり、首から下げた社員証も突っ込まれている。名前や所属は確認できない。
「……誰?」
「エッジワース博士!」
女はそれだけ答えて、薄い胸を張ってみせた。それからダリルの肩を軽く叩き、
「君ってさ、警備部の人でしょう? ちょっとお話聞かせてもらいたいんだけれど、このあと用事があったりする?」
「いや、ないですけど……」
「社食でいいかな? 近くにあるよね。わたしまだ昼を食べていなくてさ。ほらほら」
立つように促され、ダリルはまだはっきりしない頭のままシートから腰を浮かせる。
女の琥珀色の瞳が、とろけるように笑みに細められた。
エッジワースは、一言で言うと派手な女性だった。
長く伸ばしたくせっ毛を色とりどりに染め上げて、手指と言わず首と言わずアクセサリーをじゃらじゃらとつけたさまは、『博士』という単語からダリルが想像するイメージとは乖離している。『学会から追放された』とか何とか枕詞を付ければ、まあ何とか、というところだ。
言葉遣いは軽薄で、道中、彼女もまた死んだ同僚を悼むような言葉を投げかけて来たが、こちらはより分かりやすく中身がなかった。別に、知りもしない他人の死に心から同情して欲しいと思っているわけではない。ただ単純に、信用できない。何の話を持ちかけてこようとしているのか、分かったものではなかった。
エッジワースが大股に先導して足を踏み入れた食堂は、いつか、エイビィを初めて見たのと同じ場所だった。
「わたし、生物系の研究部門に所属しているんだけれど」
栄養バーとコーヒーだけを頼んで椅子に座ったところで、エッジワースはようやく自分の身分をそう説明する。が、それ以上は詳しく話すつもりはないようだ。栄養バーをかじって、ダリルの顔をまじまじと覗き込む。
「……それで?」
「ああ、そうだった! 君って、例のAI部隊と二回も戦っているでしょう。そのことについてちょっと聞きたくって」
どこでそれを、と自分が思うことになるとは思わなかった。
ダリルは自分の分のコーヒーに口をつけながら、眉根を寄せる。調べようと思えば、調べる手段はいくらでもあることは、ダリルがいちばんよく知っている。ホールではわざわざ身許を確認をしてきたが、もともとこっちの顔と名前を知っていたのだろう。しかし、それならわざわざダリルに聞きに来ることもないはずだ。
「俺が参加した作戦の報告書は、警備部にちゃんと上がってる。俺が書いたんじゃないけれど、俺から話を聞くよりも詳しくて正確な奴。……そっちを見ればいいんじゃないか?」
「うーん、必要としているのは生の声って奴? そういうんだよ。あそこで見たもの以外にも、感じたこと、考えたこと、不確実で報告書には載せられない推論……とかとか、あるでしょう? わたしは、そういうのが聞きたいんだ」
作ったような甲高い声でまくしたて、エッジワースは歯を見せてにっと笑って見せる。早口ではないが、こちらが口を差し挟む隙がないような、流れるような喋り方をする。まるで、原稿が用意されているような。
ダリルはエッジワースの顔をまじまじと見返した後、彼女の胸元に向けて手を差し出した。エッジワースは目を瞬かせたが、すぐに意図を察したらしい。胸ポケットに入れていた社員証を、こちらに向けて見せる。確かに、名札には彼女の顔写真と、エッジワースという姓が書かれていた。会社の名前には見覚えがない。『尾羽』のどれかだろう。ダリルはため息をついた。
「俺は部隊の後列にいたし、そんなに戦場を把握してたわけじゃない……」
「でも、途中から、前に出て部隊を縦断してるよね。あれって、どういう行動だったの?」
まるで見ていたような言いぶりだ。バーを食べきって優雅にコーヒーを飲むエッジワースを半眼で見つめ、ダリルは手を振った。
「そこまで部隊を釣ってた機体の動きが、知り合いのものに似ていたからだ。実際それは、たぶんそのハイドラライダーのアセンブルや動きをコピーしたAIで、ハイドラだったはずだ。
……もう一つ確認しそびれてた、あんた、なんでこんなことを知りたがってるんだ?」
「うーん、ちょっとした遺恨かな」
エッジワースの言葉からは、何の感情も見えてこなかった。ちょっとした世間話をするような口調だ。
「わたしが開発に携わっていた製品が、あれのせいで予算縮小されちゃったからね。まあ、あっちの方が性能は劣っても安価でインスタント、時間もかからないから、そりゃ負けるよって感じなんだけれど、それはそれとして気に入らないでしょ。
だからこっちで勝つために情報集めてんの。ABも手伝ってくれると思ってたんだけれどなあ」
「……すまない、なんだって?」
聞きとがめ、ダリルはエッジワースに問いかけた。
「だから、"偽りの幸運"だよ、君」
エッジワースはコーヒーの入ったカップをテーブルの上に置くと、頬杖をついてちょっと顎を上げて見せ、なぜかどこか得意げな顔になった。
「『シルバーレルム』所属、小型の高速格闘機・『ライズラック』のハイドラライダー。わたしって、彼のファンなんだよ。
彼、ハイドラ大隊に参加してるでしょ? だからあのAI、絶対気に食わないと思ってたんだけれど、今日顔見なかったし。あっちについたんだったらちょっと悲しいよね。君、彼のことはなにか分からない?」
相変わらず、立て板に水を流すようなまくしたて方だ。ダリルは言葉を噛み砕くように、ゆっくりと目を瞬かせる。話の切り出し方が唐突すぎてついていけない。
「――俺は何も。
同じMPのハイドラライダーって言っても、全然別の企業だし。うちの横のつながりがだいたいどこも弱いってのは、あんただって知ってるだろ」
「そうかあ、それもそうだね。君って彼に負けちゃったもんね。約束通りやめたんだ、そういうの」
「……何でそれを?」
今度は疑問が口を突いて出た。
『シルバーレルム』のシミュレーションルームは、確かに人目があった。エイビィも声を少し荒げていたし、聞いていた人間がいてもおかしくはない。とするなら、エッジワースがそれを知ることは不可能ではない。
……不可能ではないが、それはあくまで可能性の話だ。あのやり取りを聞いていた人間は、そんなに多いわけではないのだ。一体、どこから聞きつけたのか。
頬杖をついてダリルの話を聞いていたエッジワースは、背もたれにもたれかかるとけらけらと笑いだした。
「どうして知ってると思うー?……まあ、ここで耳が早いのは君だけじゃないってことだね、ダリル=デュルケイムくん。
君は、うちの病院のこともさんざん調べてくれたけれど――」
「――」
聞くが早いか、ダリルは立ち上がり、エッジワースの首へ向かって素早く腕を伸ばしていた。
大きくはだけた襟首を引っ張り、無理やり立ち上がらせる。
ボタンの弾け飛ぶ音がした。
うちの病院というのがどこのことなのか、すぐにわかった。分からないはずはない。ダリルは食いしばった歯をゆっくりと解き、唇を開く。
「ビルを、」
頭の後ろが焼け付くように熱い。
この女の顔を見たのは、今日が初めてのはずだ。あの時、あの病院にいくら問い合わせても、医師は一人として顔を見せることはなかった。電話でさえ話すことは叶わなかったのだ。どれだけ調べても、あの病院から、あの病院にいたはずの、一人の男の痕跡が出てくることはついぞなかった。
「……ビルを、どこへやった! お前は、何か知っているのか!?」
「アハ、怖い……知らないよ、なァんにも」
化粧が乗った肌にうっすらとそばかすが散っているのが見えた。眼鏡のレンズ越しに見えるエッジワースの目はとろけるように細められていたが、口元はさすがにひきつっている。ビーズのブレスレットがじゃらついた両腕を曲げ、ダリルの腕に手をかけようか躊躇うように指先が折られていた。
「だってそうでしょ? あれはさ、手違いだったんだよ、情報ミス! 希望を持たせたのは申し訳なかったけれど――」
「嘘を……」
「嘘じゃないよ。あの時、あの戦場。
君はあの場にいなかったから分からないでしょう。すごくすごく混乱していた。ひどい戦いだったんだよ。
わたしは病院で、負傷者の手当てをしていたの。敵なんだか味方なんだか、みんな途中から分からなくなって、いろいろなものが運ばれてきた。
そうだよ、もう物としか言いようがないものが、たくさん――」
エッジワースは、ダリルから目を逸らすことはなかった。笑みを浮かべたまま、首を傾げて見せる。
「……それはもちろん、人間の一部って意味でもあるけれど、ライセンス、身分証、ドックタグ、エトセトラエトセトラ、重傷の人間とセットで運ばれては来たものの、全然関係ない人間のものだったってこともあった。
確かにそういうのは全部、いったんはデータベースに登録されはしたよ。でも、生存者を確認した後、それ以外のものは全削されたし、物品も破棄された。仕方ないよね。膨大な数だったし邪魔だったもの。
だから、死んだとも生きているとも言えない。データのミス、手違い、幻ってわけ――これって説明されなかった?」
ダリルはエッジワースから手を放した。
含み笑いを漏らし、エッジワースはテーブルの上に倒れたカップを起こした。中身はそれなりに残っていたはずだが、トラベラーリットのおかげでそれほどはこぼれなかったようだ。落ちる黒い雫を紙ナプキンで拭いて、女は軽くカップを揺らす。
「その話は、飽きるほど聞いた」
エッジワースを睨み付け、ダリルは呻くように言う。納得したわけではない。この女はあの病院の電話手と同じで、何も話す気がない。それだけだ。
「そうだよ。うちの病院で消えたのは君の友達だけじゃない。
でも、あんなにしつこかったのは君だけ。ほかの人はみんな、死を受け入れている」
「ビルは死んでいない……!」
「どうやったらそこまで信じられるのか分かんないね。
あはは、君、怖いから今日は帰るよ。でもまあ、同じ側についたんだし、仲良くしよう――」
エッジワースが不意に言葉を切った。
その視線が対面に立つダリルから外れ、今までとは打って変わって、見る見るうちに強張っていく。
「……AB」
エッジワースのかすれ声に、ダリルは慌てて背後を振り返った。
鈴を模した機械音が、店内に鳴り響く。
食堂の中を見回したエイビィは、ダリルの姿を認めると、分かりやすく眉をひそめた。次いで、恐らくエッジワースの方へ目を向け、胡乱に目を瞬かせる。
この男も、どこか社内の集会に出席してきたのかも知れない。いつも通りつなぎを着ているダリルと違って、いくぶん硬い格好をしていた。もっとも、この食堂に入ってきて違和感のない程度だ。
少しの間、戸惑うように入口に立ち尽くしていたエイビィは、結局ダリルたちを無視することに決めたらしい。こちらから視線を外して、店内に入ってくる。いつもの少女は、今日は伴っていなかった。
エイビィがカウンターへ向かうのを見て、ダリルはエッジワースを振り返る。彼のファンだ、と言っていた彼女は、歓声を上げることもなく、強張った顔のまま黙りこくっていた。意外に晩生なのか、それともほかに理由があるのか。トレーを持ったエイビィが、少し離れた席に腰かけても、微動だにしないままだ。かと言って、座り直しもしない。
「エイビィ」
ダリルは少し迷った後、エッジワースを置いてエイビィの方へ向かった。エイビィはちらりとダリルに視線を向けたが、再びトレーに目を落とし、
「約束、守ってくれると思っていたけれど」
「……もちろん、守ってる」
醒めた声に鼻白みながらも、ダリルは何とかそう答えて、エイビィの対面の椅子を引いた。座りはせずに、背もたれに手を置く。
「ただ――あんた、向こうについたのか」
ダリルの問いに、エイビィは目を伏せ、鼻で笑った。
「向こう? そうね。あなたって、そういう喋り方をする男だわ。
でも、きっとそうなんじゃないかしら。あなたの顔、こっちでは見なかったもの」
トレーの上からスプーンを取って、エイビィはふと顔を上げた。ダリルの向こう、エッジワースへ再び視線を向ける。
「そういえば、彼女は? 放っておいて大丈夫?」
「……」
ダリルはその問いに、思わずエイビィの顔を注視した。
表情から、何かを読み取れるような気がしたのだ。咄嗟に、エッジワースとエイビィは知り合いで、互いにそれを隠そうとしているのではないかと考えていた。
……どうしてそう思ったのか、と自分で疑問に思った時には、すでに理由を思いついている。エイビィがもしもビルなら、あの病院に彼はいたということになり、もちろん、エッジワースのことも知っているはずだ。
もっとも、エイビィは特に何かを隠そうとするそぶりもなく、平静そのものだった。ダリルからの答えがないことに、胡乱げな顔になっただけだ。
「あなたが誰と親しくしようが、文句を言うつもりはないわよ。ちょっと気になっただけ」
「……彼女のことは、俺も何も知らないんだ。さっき会ったばっかりで、生物系の研究者だって言ってた。AIが……気に食わないって」
ダリルは言葉を止めて、エッジワースを振り返る。エッジワースは立ちっぱなしで、テーブルの上にその両手を乗せたまま、じっとこちらに目を向けている。言葉を選んでいるようにも見えたし、こちらを責めているようにも見えた。
その硬直した顔を見ながら、ダリルはエッジワースが先ほど言っていたことを思い返す。――所属する部門が、AIの研究のせいで縮小された、と彼女は言っていた。それはいつか『園長』が言っていた、バイオノイドのことではないだろうか。
「ああ、それで向こうに?」
自分で聞いておきながら、そう言うエイビィの声は大して興味深そうでもない。話は終わりとばかりに軽く手を振った。
「なら、あたしには構わずに、どうぞ二人でお話をしてちょうだい。
向こうとこっちで話していたら、彼女も気が気じゃないでしょう?」
「それは――いや、エッジワースは、あんたのファンだって言ってたんだ。その話をしていた。
なあ、なんだったら、エイビィに直接さ……」
エッジワースがふたたび顔を引き攣らせるのを見て、ダリルは言葉を飲み込んだ。どうもぎこちなく、やりにくい。先ほどまでの多弁はどうしたのかと問い詰めたくなる。ダリルに胸倉を掴まれた時よりも、彼女はよほど動揺している。
「――わたし、大丈夫」
笑みを取り繕おうとしているのだ。
エッジワースは頬を歪め、硬い声で言って、ボタンの飛んだシャツの胸元を思い出したように押さえた。空になった栄養バーのパッケージとコーヒーカップを片手でまとめて持ち、あとじさって椅子を引く。
「ほら、さっき今日はもう帰るって言ったでしょ? ちょっとだけだけど君の話は聞けたし、ABも見れたし、いい時間だもの。今日はもうじゅうぶん満足したよ。だからお構いなく。それじゃあ」
今までとは打って変わって早口に、しかしあたふたした口調で、しかもこちらと目を合わせることはなく。
エッジワースは弁明するように言って、そそくさと入口に向かっていった。
妙だ、とは思ったが、引き留める理由も思い浮かばない。ごみを持ったまま小走りに駆けていくエッジワースを、ダリルは憮然とした顔で見送る。
「振られちゃったわね」
エイビィは入り口を振り返ることもせず、相変わらず気のない口調で言った。
ダリルはエイビィがようやくスプーンでスープをすくい上げるのに背を向けて、食堂内の時計を見やる。エッジワースはいい時間、と言っていたが、確かにその通りだった。駆けだしそうになるのを抑えながら、エイビィを見下ろす。
「なあ……次に会う時は」
「ええ、あなたの機体はよく目立つから。もっとも、それはお互いさまかしら?」
エイビィの口元に浮かんだ笑みは、いつになく楽しげだった。
ダリルは首を竦め、自分の席にとって返すと、カップだけ拾い上げて入口へ向かう。エイビィはもうこちらに目を向けていなかった。何か考えているようでもある。
――まだ何か。聞きだせることがあるような気がしたが、ダリルは結局、それ以上は声をかけずに食堂を出た。
約束の時間まで、もう間がなかった。
「悪い、少し遅れた!」
待ち合わせ場所には、連絡していた相手のほかに、もう一人見覚えのある顔があった。
小会議室の扉を開けたダリルは、続く言葉を思わず飲み込む。チャーリーと、その隣に腰かけた金髪の少女――ハルは、きょとんとした顔をして、息をついて飛び込んできたダリルを見上げた。
「そんなに待ってはいないわ。あなた、ここまで走って来たの?」
「ああ、ちょっと変なのに捕まって……それよりその子は」
手狭な会議室の中、空いている椅子を引いて腰かける。
ハルは視線を受けて、ダリルから身を隠すようにチャーリーに体を寄せた。……知り合ったのは、チャーリーよりもこちらの方が先だと思うのだが。男と女の差だろうか。それとも、自分が特別警戒されているのか。
「……エイビィには、チャーリーにお礼を言うって言ってある」
「この前、いろいろあってね」
小さく口走ってそれきり押し黙ったハルの言葉を、チャーリーが引き継いだ。
「もっとも私もこの子には助けられたから、お互いさまなんだけれど」
「でも、なんでここにいるんだ?……ええと、つまり、俺たちと違って、彼女はエイビィの素性を暴く理由がない……」
チャーリーがテーブルの上に写真を置いたのを見て、ダリルは唇を曲げる。
見たことのある写真だった。写っているのは、若い茶髪の男だ。
その顔は、どことなくエイビィに似ているように見える。……死んでいるはずだった人間が、目の前に現れた、と勘違いしてもおかしくない程度には。
「あんたの婚約者は死んだんだろ」
「足しか見つからなかった。それ以外は、条件はあなたのビルとそう変わらない。
彼、どうもあなたとシミュレーションルームで戦ってから、しばらく調子が悪かったそうなの。何にも説明しないから、彼女も調子を崩した理由を知りたがってる」
ハルは頷きもしなかったが、否定を口にすることもなかった。うつむいて、テーブルの上の写真に目を向けている。
「さっき見た時は何ともなさそうだった……いや、直ったからああやって出てきてるのか」
ダリルはかぶりを振る。
もし、あの時エイビィに勝っていたら、その調子の悪いエイビィを見られたのかも知れない。いや、そもそも直接エイビィの口から、彼の経歴の空白について聞くことができたのか。
「でも、ってことは、あいつはやっぱり……」
「彼が誰であれ」
ダリルの言葉を遮って声を上げ、チャーリーは目を伏せる。
「ログがない以上、叩けば埃が出るのは確か。彼女が協力してくれるなら、調べられることも増えるわ」
「……なら、アレを探してもらうのか? でも、エイビィも自分のやつを持ってるはずだし……
それに、あの病院に運び込まれた奴らの私物は、全部処分されたって話だった。今も持っているとは思えない」
「いいえ」
チャーリーはゆるゆると首を横に振った。憂うような顔で、ハルの肩に手を置く。ハルは顔をびくつかせて上げ、チャーリーとダリルを見比べた。
「彼がもし、本当にそうなら……所有権がほかに移ったのでない限りは、まだ持っているはずよ。簡単に捨てられるものじゃない。これは感情の問題じゃなくて、物理的な話としてね」
「……なにをさがすの?」
ハルの問いに、ダリルはチャーリーと顔を見合わせる。この少女が、エイビィにとってどういう存在なのか、ダリルはいまだによく分からずにいた。……だが、彼女にしか頼めないことには違いない。ダリルは頷いて、口を開く。
「君にしか探せないものだ。ウィリアム=ブラッドバーンが持っていたもの……」
「あるいは、オーガスト=アルドリッチがね」
チャーリーが言葉を継いで、写真へ目を向けた。