#10 二枚のライセンス

 爆発。
 飛来したミサイルがハイドラがばら撒くチャフによって次々と迎撃され、霧の中、爆炎を無数に撒き散らす。
 爆風に煽られて『ライズラック』の姿勢が崩れそうになるのを、エイビィは操縦桿を握って立て直した。振動と爆音が操縦棺を通して伝わってくる。常ならば外の音を聞き分けるために入れている外部マイクも、今日はさすがに切っていた。先ほどから何度も何度もミサイルが飛び交って、耳が馬鹿になりそうだったからだ。
 ストラトスフェア要塞に配備されている、という噂であったミサイルキャリアーは、二つ目の砦、バイオスフェアで相対したバイオコクーンよりは馴染みのある風体をしていた。その攻撃方法もシンプルだ。ただひたすらに、こちらの頭を押さえながらミサイルを撒き散らすだけ――その量が、尋常ではないだけだ。どれほどの弾数を内蔵しているのか、深い霧を割いて飛来するミサイルの爆音と爆風が、戦場から絶えることはまだなかった。
 『ライズラック』は赤熱したヒートソードを構えながら、低空を舐めるように移動していく。いつもと違い、派手に動き回って敵を引き付けるということはしていなかった。ただ味方と敵の合間を縫うように走り回っている。
 ミサイルを恐れている――わけではない。いや、実際、恐れているからこういう動きになっているのか。
 エイビィは嘆息して、手元の画面に目を移した。画面にはレーダー図が表示されており、その横に小さく、ひっきりなしに『送信成功』『受信成功』のログが流れていく。
 ウォーハイドラは味方同士、声を発することはなくとも常に通信を行っている。霧の濃い戦場において、互いの索敵範囲や情報を共有し、不完全なレーダー図を補完し合って戦場の情報を完全なものへと仕立て上げていく。
 ただし、レーダーはHCSに接続しなければ機能しないため、戦闘に特化した機体の多くは、索敵の得意な支援機にレーダーをアセンブルすることを任せきりにして、火器を多く組み込むことがこのところの主流になっていた。エイビィも、ハイドラ大隊として出撃する時は、ほぼレーダーを積んでいない。
 もちろん、それは索敵が得意な機体が戦場にいれば、の話だ。
「――」
 レーダー図の中、『ライズラック』へ近づく反応があるのを見て、エイビィは背面にアセンブルされたブースターの出力を強める。
 深い藍色の髪を振り乱した、巨大な女の上半身がこちらへ向かってくるのが濃霧の向こうに揺らめいて見えた。下半身は、赤黒い蚯蚓に飲み込まれ、女と蚯蚓の周囲には、炎が揺らめいている。
 『オルゴイコルコイ』は、リソスフェア後に報告のあった未確認機体の中でも、ひときわ特異な見た目をした機体だった。
 そもそも、『機体』と表現するべきではないだろう。純白の女の体は、ハイドラのような機械ではなく、確かに肉を伴っている。
 『ライズラック』は『オルゴイコルコイ』から距離を置き、その間合いから離脱する。女は明らかにこちらへ目を向けて追ってくる素振りを見せたが、そう深追いはしてこなかった。途中で見つけた手近な機体に、炎を纏いながら向かっていく。
 エイビィは息をついて、レーダー図へ目を向ける。『送信成功』の文字が何行にもわたって連なり、その数は受信よりもずっと多い。
 ここのところ特化機が増えた影響か、ハイドラ大隊の部隊の編成バランスはよいものとは言えなくなっていた。
 元より、人員を配置している人間が仕事をしているとは思えない、アトランダムな編成が疑われている。今回も、エイビィたちが担当するブロックには索敵を得意とする機体は存在していなかった。しかも、部隊の人間同士が個別で連絡を取ろうとしない限りは、互いのアセンブルについて打ち合わせることもない。
 ――もっとも、この攻砦戦に限って言えば、エイビィも多少の打ち合わせは行っていた。それでも、たった二人だ。
「向こうも仕事をしてくれているみたいね、『ライズラック』」
 『ライズラック』を諦めた『オルゴイコルコイ』の炎を、蜘蛛のような見た目をした多脚機が受けるのを見て、エイビィは口元を緩める。今は見えないが、もう一機。エイビィの代わりにこの戦場の敵を一掃してくれる男が、こちらの送信したデータを利用して動き回っているはずだった。
「支援に回ったのは警戒しすぎだったかしら?」
 エイビィは歌うように言って、ふと視線を上げる。『オルゴイコルコイ』に代わってもう一機、こちらを標的に定めた機体がレーダー上に確認できた。識別名は『ミサイルキャリアー』。
「――そうね、少しはこっちでも働いておかなきゃいけないわね」
 ヒートソードを構え直し、『ライズラック』は地を蹴った。


 『ラック』に横たわる『ライズラック』から、Se=Bassセバスの機械の腕が次々にパーツを取り外していく。
 エイビィはマグカップを手に取って、パーツが格納庫の床に整然と並べられていくのを見つめた。
 温くなったコーヒーを飲み下し、エイビィは隣の『棚』の隅へ目を向ける。以前は、巣のように毛布やトレーが置かれていた場所だ。綺麗に片付けられて、誰かがいた痕跡さえ残っていない。
 巣の主だった少女は、このところようやく居住区画の部屋にいつくようになった。今頃はSe=Bassに話しかけながら、塩の入ったコーヒーを飲んでいるはずだ。いい変化なのか、どうなのか、エイビィには分からない。
 ただ、あのマーケットの一件以来――エイビィも、彼女には悪いことをしたと思っている――ハルに何らか変化が起こったのは確かだった。正確には、あの一件でチャーリーと話すようになってからだが。
 あの時、チャーリーがハルとどういった話をしたのかは分からない。
 ただ、チャーリーとのかかわりがハルに影響を与えたのは、およそ間違いないだろう。実際あの後も、ハルはチャーリーと何度か会う約束をしていた。
 それがハルにとって間違いなくいいことであることは分かっている。
 ただ、自分にとってはどうなのか。それは判断がつかなかった。
 ハルが『キャットフィッシュ』の中の機械たちやエイビィ以外に目を向けて、人間にも興味を持つのは、恐らく歓迎すべきことだ。……問題は、その相手がチャーリーであるということだった。
 ダリルと違い、彼女は表立ってエイビィに何かを言うことはない。マーケットで会った時も、エイビィに必要以上にかかわりを持とうとしてくることはなかった。それはいい。けれど、チャーリーとエイビィが初めて会ったあの時あの部屋の中で、チャーリーが一瞬でも、死んだ人間とエイビィを重ね合わせたのは間違いない。
 ……そう、死んだ人間だ。
 エイビィはため息をついて、知らぬうちに寄っていた眉間の皺を指先でほぐす。
 二年。あるいは、ハルを引き取ってからの一年弱。エイビィは変わらずマヴロス・フィニクス――『シルバーレルム』のハイドラライダーとして戦ってきた。
 『ライズラック』は戦場の変化に合わせてそのアセンブルを組み換え、エイビィ自身もその戦い方を動かしてきたが、基本的にやることは変わっていない。変わらないように努めてきた。それが、このところ立て続けに揺らいでいる。
 チャーリーに会ってからか。
 それとも、ダリルに目をつけられたためか。
 ……もしくは、その前に予兆があったのか。
(考えても詮無いこと)
 マグを置き、『ライズラック』へ向けて手を伸ばす。操縦棺の周りに備え付けられた装甲は、『キャットフィッシュ』の忠実な執事ボットによって丁寧に磨き上げられている。ただ、いくらきれいに磨かれていても、白くつるりとした装甲は鏡のように何かを映し出すことない。霧の中のように。
 エイビィはふと苦笑して、かぶりを振った。次の出撃のためのアセンブルが、まだ詰め終わっていない。物思いに耽っている時間はなかった。
 それに、『ライズラック』に乗る以外にもやることはある。
「――エイビィ!」
 かかった声に視線を巡らせる。居住区画の方から、ハルが駆けてくるのが見えた。以前とは、立場が逆だ。いつもはこうした時は何も言わなくても『ライズラック』から離れなかったのだが。
「どうしたの、ハル?」
「……」
 ハルはパーツの外された『ライズラック』の姿を見て足を止め、視線を彷徨わせた。エイビィは、ハルが肩からナップザックをぶら下げているのを見て――チャーリーに会うようになってから、彼女が欲しいと言ったものだ――何を言いたいのかを察する。
「チャーリーに会いに行くの?」
「……うん、そう。でも……」
「『ライズラック』のことなら、あたしとSe=Bassが面倒みておくから大丈夫よ。帰ってきてから調子を見てもらえればいいわ」
「…………分かった」
「チャーリーに連絡はしたの? 『ヴォワイヤン』が迎えに来るのかしら」
 ハルが躊躇いがちに何度か頷くのを横目に見ながら、エイビィは格納庫の中を横切るように歩き出す。Se=Bassが格納庫の壁面に備え付けられた画面に、周辺のレーダー図を映し出した。
 『ヴォワイヤン』の反応がそのレーダー図上に現れ、『キャットフィッシュ』に接舷してハルを連れていくまで、ほんの一時間程度しかかからなかった。チャーリーももう慣れたもので、エイビィにわざわざ声をかけることはない。エイビィも、ハルに軽く手を振って、二人をただ見送った。
 霧の中、『ヴォワイヤン』が離れていくのを眺めながら、エイビィはふと息をつく。
「『もし、ハルのためになるのなら、チャーリーのところへ行ってもらった方がいいのかも知れないわね』」
 無感動に言葉を紡ぎ、エイビィは画面に背を向ける。
 ――ハルはその日、帰ってくることはなかった。


 霧が、塊のように凝っている。
 『ライズラック』は雲をかき分けるようにしながら、戦場を駆けていく。操縦盤に指を踊らせ、エイビィは唇を歪めた。味方機から機械的に送られてくるレーダー図は完璧ではなく、全体を見通すことはいまだできずにいた。
 それを埋めるように『ライズラック』を駆けずり回らせながら、エイビィはチャーリーと『ヴォワイヤン』のことを思い出す。
 チャーリー=キャボットと彼女が所属する会社は、マヴロス・フィニクスと提携する立場ではあるが、その企業内戦争には不干渉の立場を取っている。それはあくまでスタンスの話であって、実際には利害が一致すればどこの戦場に彼女が現れてもおかしくはないと考えてはいたが、幸い、こちらが位置を捉え切られ、早々に壊滅せしめられたことはいまだない。
 ただ、ハルをチャーリーについて行かせたのは、あるいは迂闊だったのかも知れなかった。
 ハルが帰ってこず、『ヴォワイヤン』ともコンタクトが取れなくなって、まだ丸一日と経過していない。足取りの調査を依頼しているものの、すぐに見つかるものでもないだろう。
 もちろん、『ヴォワイヤン』に何かあった可能性はある。
 しかし、それはあくまで可能性であって、エイビィはチャーリーがハルを引き留めている可能性が高いと考えていた。もしかするとハルも同意のあってのことかも知れない。
 いずれにせよふたりは一緒にいて、断りなくエイビィの前から姿を消した。それは、何か意図があってのことだろう。
(何のために?)
 腕を振りかぶり、構えたダガーをすれ違いざま敵機へ突き立てる。
 脚部が巨大な車輪となったウォーハイドラのその操縦棺には、黒い不死鳥のエンブレムがペイントされていた。『ライズラック』はすぐさまダガーを引き抜いて、次の獲物を見つけるべくまた濃霧の中を走り出す。
 マヴロス・フィニクスの企業内における戦争に紐づく出撃は、ハイドラ大隊が〈月の谷〉へと近づくにつれて日に日に増えていた。企業連盟の意図しないところで動き始めたハイドラ大隊を黒い不死鳥はあくまで容認しているが、焦りはしているのかも知れない。ハイドラ大隊が企業連盟の支配下から外れたこと自体は、歓迎すべきことではあるはずなのだが。まさか、真っ向からケンカを売るとは思っていなかったのだろう。
 ともあれこうして、身内相手の戦闘を頻繁に行う羽目になっている。しかも、味方として編成されているのは、そのほとんどがハイドラライダーを載せていないAI機だ。
「――あら、今日もいるの」
 黒々とした巨体をカメラに捉えて、エイビィは口の端にゆるく笑みを作った。
 ダリル=デュルケイムと彼の乗る『ステラヴァッシュ』を敵に回したのは、意図的なことではなかった。もちろん、無断で性能試験に使われた警備部が、こちらにつくことはあるまいとも思っていたが。人間と組んで機械の群れと戦うよりは、機械と組んで人間と戦うことの方が、まだ退屈ではない、と思った。そちらの方が大きい。
 『ステラヴァッシュ』がまだこちらに気付いていないことを確認し、エイビィは『ライズラック』を瓦礫の影に隠しながら移動していく。今回の作戦目標は敵の殲滅ではない。構うだけ無駄だった。
 以前、ダリルはエイビィの敵に回ることはないと明言していた。
 嘘をつく男にも、気の変わりやすい男にも見えなかったが、今や『ステラヴァッシュ』は多少なりとも手強い敵となっている。
 それは『ステラヴァッシュ』が、というよりも、彼を組み込んだ敵の部隊が、という意味でもあるけれど、少なくともダリルは自分の分を弁え、編成の中の一機として仕事に徹していた。『ライズラック』を付け狙うということもない。こちらの仕事をやみくもに邪魔してこないという意味では助かるが、全体で見れば厄介さは上がっている。
 しかし、今まで追いかけ回されたのに比べれば、それはまったく不快ではない。こちらがAIを引き連れていることに引け目さえ感じるほどだ。
 粗製で大量生産のコンセプト通りにAI機は運用されている。どれだけ戦っても、ダリルたちの方の人的被害が大きくなることは避けられない。この戦場においても、こちらが有利にことを進められていた。ただ、退屈ではある。
「……長引かせても酷ね」
 エイビィは小さくつぶやき、『ライズラック』に地を蹴らせた。『ステラヴァッシュ』がこちらに反応する前にその下を潜り抜け、かれが護るカーゴトラックへ突進していく。
《エイビィ! 待て――》
 通信機を通してダリルの声が耳に届いた。この期に及んでわざわざ通信とは、悠長なことだ。
 赤熱したヒートソードを振りかぶり、『ライズラック』は過たず、紙のようにトラックを切り裂いた。


《二人の足取り、途中までは追えてるよ。
 君と連絡が取れなくなった後だから、意図的に応答していないのは間違いないと思う》
 画面の向こうで紙をめくりながら、壮年の男がため息をついている。その歯は、岩を噛み砕けそうなほどに鋭い。
 ロックバイツには、バーのマスターである一方で、情報屋としてのもうひとつの顔がある。
 その彼が、こうして通信で連絡を取って来るのは、ひどく珍しい。
 こちらが急な出撃要請を受け、直接会うことのできなかったのもあるが、主な理由はハルの方だろう。以前から、この男はハルのことを気にしている。
《念のため聞くけれど、身代金は要求されてないんだよね?》
「残念ながら音沙汰なし。さっきも念のため通信は送ったけど、さっぱりね」
 タオルで濡れた髪を拭きながら、エイビィは首を竦めて見せた。
 エイビィはソファにずるずると沈み込み、『窓』へ映し出されたロックバイツへ目を向ける。
「あの子があたしのところにいたのは、ここ以外では生きていけなかったからよ。
 チャーリーがあの子を引き取るつもりなら、ハルもついていくかも知れないわね。あたしのところにいるよりはいいでしょう。もともと、あの子はあたしを殺そうと思っていたんだから」
《それ、本当にそう思っているのかい?》
「――マスター、あの子が私と殺し合うことになったら、あなたはどっちを応援してくれる?」
 問いに、ロックバイツは眉根を寄せた。まさか本当に悩んでいるわけでもないだろうが、少しの間沈黙する。
《そうならないのが一番だと思っているよ、エイビィ》
 結局、出てきたのはそんなあたりさわりのない言葉だった。手に持った書類を置いて、ロックバイツはかぶりを振る。
《とは言え、足取りは途中で途絶えているから、『ライズラック』で迎えに行くのは難しいな。ただ、アドレスは分かってるんだろ。
 僕からコンタクトをとってみるかい? 君の通信は受け付けなくても……》
「必要ないわ。ありがとう」
 湿ったタオルをテーブルの上に放り、エイビィは目元を押さえる。
 それほど長引いた戦闘ではなかったが、出撃直後で疲労はしていた。眠気と倦怠感が体を襲っている。二人がとりあえずは無事であるという確証が得られたせいもあるかも知れない。ため息をついて、続ける。
「こちらに断りもなく、というのが気になるけれど、何かするつもりならそのうち向こうからアクションがあるはずよ。……ないならそのままでも。二人が協力してこちらを殺しに来ない限りは、何もしなくったっていいわ――いえ、別に殺しに来たっていい……」
 ソファの上で大きく伸びをして、エイビィは脱力する。
《お疲れ様だね。……ところで、寝る前に一つだけ質問をしてもいい?》
「何かしら」
《君があの子を引き取ったのは、何のためだったんだい》
「……」
 エイビィは薄く目を開けて、『窓』へ目を向けた。ロックバイツは眼鏡を押し上げて眉尻を下げ、
《子供を引き取ったと聞いた時、僕は――いや、僕以外のみんなも、何か理由があるだろうと考えていた。
 それから彼女に機械と話す特別な力があると流れてきた時は、やっぱり、と納得したものだ。
 エイビィというハイドラライダーは、単なる慈善や気まぐれで女の子の面倒を見るような人間じゃない。そういう感覚に、答えが与えられたような気がしたからね》
「ずいぶんな言いようだわ」
《他ならない君自身が、そう思われるように振る舞っていたんじゃないか。
 でも今――それは間違いだったんじゃないかって思ってね》
「あら、見直してくれたのかしら」
 エイビィは笑みを浮かべて見せる。
 だが、画面の中のロックバイツは笑ってはいなかった。戸惑うような、躊躇うような表情で、顔を俯かせている。
《彼女には確かに機械と話す力があって、『ライズラック』とも話し、メカニックとして働いていた。君は、彼女の力を利用していた。
 でも、君にとってそれは……別になくったっていいもののような気がしたんだ、今》
 エイビィは目を伏せ、肯定も否定もしなかった。
 ただ、画面の向こうのロックバイツに、今の自分がどう見えているだろうということを考えた。
《……エイビィ、君は、なぜ彼女を『キャットフィッシュ』に置いていたんだ?》
「あなたと違って、そういう詮索をしないからよ」
 ソファから立ち上がり、エイビィは『窓』に背を向ける。天井から機械の腕が下りてきて、タオルを回収していった。
「でも、これからは分からない。すべては変わっていくものだわ、ロックバイツ。不思議なことに――」
《君が全然、僕と会ってくれなくなったこともかい?》
「さあね。――切るわ」
《ああ、それじゃあまた――今度は店に来てくれると嬉しいよ》
 エイビィは答えなかった。
 画面が切り替わり、音声が途絶えるのと前後して、『窓』がメッセージの新着を告げてくる。
 そこにチャーリーの名を認めて、エイビィは眉を寄せた。


 残像領域には、放棄され、廃墟となった建造物がいくつも存在する。それらはみな例外なく、辺りを覆う深い霧によって腐食され、苔生してぼろぼろに崩れている。
 チャーリーに指定されたのも、そういった建物の中のひとつだった。霧が建物の中に入り込んでいて鉄筋コンクリートを侵し、ひんやりとした空気に混じってどこか黴臭い匂いが漂っている。
 エイビィは口元をハンカチで覆いながら、湿った埃の溜まる非常階段をゆっくりと上っていた。
 チャーリーからのメッセージには『ハルを迎えに来てほしい』という端的な一言と、この場所の地図に指定の時間だけが記載されていた。
(……誘拐犯)
 とだけ返信してやろうか、エイビィは最後まで迷ったが、結局のところ何も返さず、こうしてここで階段を上がっている。
 ハルは恐らく、自分の意志でチャーリーと一緒にいるのだろうし、チャーリーがこれから何をするつもりなのかも、なんとなくは予感していた。
 だから、ロックバイツに言った通り、放っておいてもよかったのだ。それがここにこうして迎えに来ているのが何故なのか、エイビィは自分でも分からずにいる。
 ――いつか。自分の利になることしかしない男だ、と『園長』に言われたことがあった。
 ロックバイツが言っていたのも、似たようなことだろう。エイビィ自身が、そう思われるように仕向けているのだと。
 であるのなら、これは自分のためか。
 ……そうではないように思われた。だが、チャーリーやハルのためでもない。なら、何のためだろうか。
(分かるはずがない)
 頭痛を覚えて、エイビィは眉根を寄せた。自分が今からしようとしていることさえ、分からずにいるのだから。
 割れた窓の外に目を向けると、『ライズラック』の白い機体が、荒野にうずくまっているのが見えた。エイビィは息をついて、きざはしを踏みしめる脚に力を籠めた。


 扉はずいぶん前に壊れていたようだった。
 通路に横たえられた板を一瞥して、エイビィは部屋の中へ入る。
 大きくとられた窓を背に、チャーリーが立っていた。その背後には、隠れるようにしてハルの姿があった。エイビィの顔を見た瞬間に、顔を強張らせる。
「――怒っていないわ、ハル。帰りましょう。Se=Bassも待っている」
「エイビィ……」
 笑みを浮かべ、手を差し伸べて見せたエイビィに対して、ハルはチャーリーの服の裾を掴んだまま動こうとはしなかった。ただ、その表情に敵意はない。硬い顔でこちらを見つめているだけだ。
 エイビィは息を吐いて、チャーリーへ目を向ける。彼女は両手をだらりと下げて、こちらをじっと見つめていた。この期に及んで、こちらを探るような。
「いつもとは少し違う立場だわ、チャーリー。あたしに用があるのはあなた?
 それとも、ダリル=デュルケイムかしら?」
「……」
 背後から、驚くような呼気が漏れるのを聞きつけて、エイビィは苦笑する。チャーリーがエイビィの背後へ向かって頷いてみせると、足音が耳に届いた。
 エイビィは一歩右に動いて、横目で入口から入ってきたダリルを見やる。数時間前に命のやり取りをしたばかりの男は、相変わらず少し、どこか間の抜けた、人懐っこい顔をしていた。
「……どうしてわかった?」
「こんなに埃とカビ塗れの場所で、足跡を見落とすはずがないでしょう」
 肩をすくめて、エイビィはダリルに、ハルたちの方へ向かうよう顎をしゃくって見せた。ダリルは戸惑うような表情を浮かべ、その場から動こうとはしない。
 エイビィはため息をついた。
「前から後ろから、――挟まれて和やかに会話をするほどお人よしじゃないわ。そのままそこにいるつもりなら、帰るけれど」
「話はすぐに終わるわ。そのあと、帰るかどうか決めたらいい」
 あっ――と、ダリルが声を上げた。エイビィは眉根を寄せて、チャーリーの方へ目を向ける。
 それから、息を飲んだ。
 ……だが、納得してもいた。ハルが帰ってこなかった理由も、ここのところ、居住区画に出入りするようになったわけも。
 チャーリーは険しい顔で、軽く手を掲げていた。そこには、ハイドラライダーにとって、ごくごく見慣れたものが握られている。
「これは、ハルが『キャットフィッシュ』で見つけたものよ……あなたに、これが何だか説明できる?」
「チャーリー、どうして……!?」
 ここに来るまでに、何も聞かされていなかったのだろう。狼狽振りで言えば、エイビィよりもダリルの方がよほど上だった。エイビィが何か言う前に震える声で叫び、チャーリーの方へ足を踏み出す。だが、詰め寄ることはなかった。ダリルは恐れるように足を止めて自分の胸元を握りしめ、息苦しさに喘ぐように首を振って、唇をわななかせる。
どうしてライセンスが二枚あるんだ?!」
 チャーリーはダリルの叫びに答える代わりに、手に持った二枚のカードをダリルへ向かって無造作に放り投げた。
 ダリルはそれを受け取ろうとして――それがまるで熱を持っていたかのように、指で弾き飛ばす。
 ライセンスは二枚とも、エイビィの足元へ落ちた。そこにはそれぞれ、全く別の人間の顔と名前が印字されている。
 ひとつには、オーガスト=アルドリッチ。もう一枚には、ウィリアム=ブラッドバーン。
「……あなたたちが引き取ってくれるのなら助かるわ。
 ほかのものはすべて処分されたらしいのだけれど、そのふたつだけはどうしても……切り刻んでも、燃やしても、いつの間にか手元に戻ってきてしまっていたから」
「俺が言いたいのはそういうことじゃない!」
 エイビィの言葉に激高したように、ダリルが再び怒鳴り声を上げる。
 その顔は、普段からは想像もできないほど蒼白になっていた。恐らく自分の顔もそうなっているだろうとも思っていた。頭痛がひどい。吐き気がこみ上げてくる。もう分かっているはずだと、ダリルに突きつけることすらできない。
「……それは彼が、オーガストであり、ウィリアムでもあるからよ」
 チャーリーだけが、ただ淡々と言葉を紡いでいた。それはそうだろう。彼女が、彼女だけが、たっぷり覚悟をしてここへ来た。あるいは、ダリルの動揺を、自分一人で受け止める自信がなかったからかも知れない。
 声音とは裏腹に、挑むようにこちらへ向けられたチャーリーのまなざしを、エイビィはぼんやりと眺めやった。
「そうとしか考えられない。エイビィ、あなたの名前は……そもそも、そんな名前を名乗って、あなた、見つけて欲しかったの。見つけて欲しくなかったの」
「それは……」
 背後からダリルに強く肩を掴まれ、エイビィは痛みに言葉を切った。
 無理矢理に、振り向かせられる。ダリルの鳶色の目が、今にも泣きだしそうに――あるいは、今にもエイビィを引き裂きそうな強さで持って、こちらを覗き込んでいた。
「……お前は」
 地の底から聞こえるような押し殺した声を聞き、エイビィは不意に笑いがこみ上げるのを感じた。初めて会った時も、こんな風に肩を掴まれた。この男が自分を見出さなければ、こんなことにはならなかったのだ。
「お前は、誰なんだ……ビルは、どこへ行ったんだ!」
 エイビィは答えず、黙ったまま自分の首元へ指を伸ばす。
 パイロットスーツのジッパーに手をかけて、腹まで一息に下ろした。ダリルが虚を突かれた顔をするのを見上げながら、合わせに手をかけて、ダリルに肌を晒す。
 その腰には、上半身と下半身を繋ぎ止めるように、手術痕が、縫い合わせた傷跡が、生々しく残っていた。
「……あ」
 気の抜けたような声。
 ダリルの目が見る見る見開かれ、肩を掴む指先に骨を折らんばかりに力が込められた。エイビィは思わず苦鳴を漏らし、顔をしかめる。が、力はすぐさま抜けて、ダリルはずるずると気が抜けたようにその場に座り込んだ。
「……返してくれ。ビルを……」
「無理な相談よ」
 ダリルの声は、ほとんど涙声になっている。エイビィはにべもなく答え、ジッパーを引き上げた。
「オーガストの腰から下がなくなっていたように、ウィリアムは上半身を吹き飛ばされていた。残りのウィリアムがどこへ行ったかは、あたしにも分からない」
「だったら、どうして教えてくれなかったんだよッ!」
 子供のようにわめいて、ダリルは拳で床を叩きつけた。湿気た埃と苔が、辺りに舞い上がる。
「一言、一言でも、教えてくれていれば、死んでるって知っていれば、俺は、こんな……どうして……どうして……」
 声は次第に弱々しくなって、意味をなさない呻き声になった。ダリルはその場に座り込んだまま顔を覆い、首を振る。
「……あの病院で、いったい何があったの?」
 チャーリーが、抑えた声でエイビィに問いかけた。
 振り返ると、ハルがじっとこちらを見つめているのが目に入る。彼女が何を言われてチャーリーに協力し、何を考えて今ここにいるのか、今何を考えているのか、エイビィには分からなかった。もう少しだけ上手くやれていれば、隠しおおせたままでいられたかも知れない、と思う。ただもう、すべてが遅い。
「……面白い話にならなくってもいいのなら」
「そんなことは分かってる。でも、私はあなたの話を聞かなきゃいけないのよ……そうでしょう、オーガスト」
「……ふふ」
 意を決したように、チャーリーが名前を呼ぶのを、エイビィは鼻で笑う。柳眉をつり上げるチャーリーを見返し、エイビィは小さく息を吐いた。
「何がおかしいの……」
「いいわ、教えてあげる。でもきっと、あなたが望むような話ではないわ、チャーリー。
 ――これは、オーガストとウィリアムが死ぬまでの物語なんだから」
 言って、エイビィは足元の二枚のライセンスへ目を向けた。