#7 『シェファーフント』

 高圧粒子によって形成された槍が、白く柔らかい壁に突き立てられる。
 丸みを帯びた壁は、槍をほとんど抵抗なく飲み込んだ。だが、槍の動きは途中でゆるやかに止まり、奥に突き入れることもできなければ、左右にも動かなくなる。串を刺した綿あめが、途中で固まったかのような感触。
 そのはっきりしない手応えに、エイビィは思わず舌打ちした。槍を引き戻し、ブースターを起動させる。
 後退する『ライズラック』の後に追いすがるように、白い壁から綿埃の舞うように繊維が噴き出してきた。それは大きく後ろに下がるにつれ力を失い、ブースターの噴霧に吹き散らされてぼろぼろと崩れ落ちていく。
 うっすらとかかる霧の中を後退しながら、エイビィはひとまずは安堵の息をついた。軍閥の連中のようにあれに取り込まれては、笑い話にもならない。
 壁から距離を置くにつれ、『ライズラック』のカメラに、再び壁の全容が収まるようになっていた。
 広大な密林のど真ん中に鎮座する、巨大な白い塊。これを、企業連合は『バイオコクーン』と呼称している。文字通りの繭である。ただし、その中から生まれるのは蛾や蜻蛉ではない。
 エイビィは自分が槍を突き刺した場所から、奇怪な色の生物が触手を蠢かせながらもぞもぞと這い出てこようとするのを見て、うんざりと息を吐き出した。
 〈月の谷〉へ続く道に立ち塞がる四つの遺跡要塞、その二つ目の要塞となるバイオスフェアは、その名の通りに、『繭』によって無数に生み出されるバイオ兵器たちを相手取る戦場となっていた。
 バイオ兵器とは、HCSにアセンブルされた培養装置によって生み出されハイドラライダーの指示のもと攻撃を繰り返す、自律兵器のようなものらしい。
 大隊の中にもアセンブルに使用するハイドラライダーはおり、マーケットにもごく当たり前に培養装置は並んでいるが、エイビィはそれほど〈かれら〉について詳しくなかった。
 残像領域に満ちる霧によって為されるいわゆる不可思議な力――霊障を用いて戦うことが、感覚的に馴染みにくいのがひとつ、――そもそも、培養装置が『ライズラック』に積むには重すぎる、ということもある。大隊においても、それほど採用人口が多いユニットではない。
 バイオ兵器をかつて使用していたハイドラライダーの話では、かれらには自我のようなものがあり、自我のある兵器を使いつぶすことに抵抗があったため使用をやめた、ということだった。
 事実、エイビィの耳には、ハイドラライダー同士の通信に混じって、舌ったらずな子供の声のようなものが聞こえている。バイオ兵器が放つ霊障に引き潰されるハイドラを見ては、ただ不気味としか思えなかったが。
 しかも、ことあの『繭』とバイオ兵器に限って言うならば、あれは人間から作り出されているものだ。嫌悪や恐怖を覚えこそすれ、親近感など湧くはずもない。
 バイオコクーンを起動させた敵方の軍団長――ルオドという男に対して、エイビィは多少、同情的だった。もっとも、哀れである以上に、愚かだったのだろう。遺跡要塞は謎が多く、中には人の手には余るものもある。目の前のバイオコクーンは、まさにそれを体現している。
 企業連合を迎え撃つべくバイオスフェアの力を利用しようとしたルオドの部隊は、全て『繭』に取り込まれ、その養分となったという。オープン回線で大隊へ向けて通告を入れてきたルオドもまた『繭』と同化し始めており、正気を半ば失していた。
 手に構える武器を粒子スピアから硬質ダガーに切り替えながら、『ライズラック』は大地を舐めるように低く荒野を駆ける。
《がんばるぞ~》
 気の抜けた子供のような声を上げながら、荒野に産み落とされたバイオ兵器が触手を蠢かせた。『ライズラック』はそのぶよぶよとしたからだを一息に駆け上がりながら、巨大なカッターナイフのような硬質ダガーの刀身を、バイオ兵器の青い頭部に差し入れる。
 血液か、単なる循環液か、粘性の光る桃色の液体が噴き出し、バイオ兵器ががくがくと痙攣した。『ライズラック』はそのまま動かなくなったバイオ兵器の背を蹴り飛ばして、再びバイオコクーンへと走り出す。
 『繭』からは、今もなおバイオ兵器が産み出され続けていた。連合側のハイドラが弾を撃ち込み、刃で切り裂いた場所から、あるいは厚く『繭』に覆われた場所からでも、少しずつもがきながら、人間を養分にしたものたちが無数に産声を上げ、霊障を振り撒いている。『繭』に対する攻撃は、果たして効いているのかいないのかさえ分からない。
 それでも、企業連合はこちら側が一機残らず潰されるまで、撤退の指示を出しはしないだろう。
 であるなら、こちらがやることは先程からやっていることの繰り返しだ。『繭』との距離をはかり、取り込まれないように気を付けながら増殖するバイオ兵器を掃除し、『繭』が壊れるまで殴り続ける。やることが決まっているなら、見通しは良好だ。見通しだけは、だが。
「……ええ、やりましょう。仕事だわ、『ライズラック』」
 自らのウォーハイドラに呼びかけると、エイビィは苦笑して操縦桿を握り直した。


 空調にゆらゆらと大きな葉が揺れている。
 水をきちんとやっていないのか、それとも置く場所が悪いのか。大輪の赤い花は張りを失って、だんだんと萎れ始めていた。
 残像領域ではほとんど見慣れないその花は、恐らくバイオスフェアから持ち帰られたものだ。
 〈月の谷〉へ続く二つ目の砦を陥れた企業連合は、バイオスフェア自体の調査とともに、再起動に伴って出現した広大な密林にも目を向けていた。その影響で、不毛の残像領域では珍しく、街でこうして派手な色の花を見かける機会が増えている。どこかの企業で、安定して植物を供給するべく栽培を試みているらしいという噂もある。
 商売っ気があるのはよいことだが、正直なところ気が知れなかった。……ただ、それは恐らくあの『繭』をこの目で見て、相手取って戦ったものだけが覚える感情だろう。街で暮らす人間たちには、関わりのないことだ。
 ここの店主も物珍しさに買い求めて、こうして店に飾ったのだろうが、残念ながら花の面倒の見方は知らないようだった。洒落た雰囲気のカフェの中で、しぼみかけた花が悪目立ちをしている。
「――ここ、いいかな?」
 かかった声に、エイビィはカップを置いた。鮮やかな赤のジャージが目に入る。
 視線を上げると、顎ひげを整えた壮年の男が歯を見せて笑っていた。岩を噛み砕けそうな鋭い歯並び。
「どうぞ。……全然気が付かなかった。あなたって、いつもはそういう格好なの?」
「君の熱心なファンに刺されないようにしておこうと思ってね」
 言いながら、ロックバイツはトレーをテーブルの上に置くと、紺色のキャップを外した。エイビィはしかめ面を作って見せて、コーヒーの入ったカップを再び手に取る。
「最近どうだい? その彼は」
「ありがたいことに多少はおとなしいわ。……少なくとも、アポなしでいきなり押しかけて来たりはしなくなった」
「静かで張り合いがなくなったんじゃないの」
「冗談はよして。今は上も下も大騒ぎよ。それに彼も巻き込まれているというだけ。
 もちろん、あたしもね。だからこうして来てもらったんじゃない」
「連合が足並みをそろえて谷へと向かっているのに、MPは頭を作って自分の肉を食む準備か。好きなんだねえ」
 やれやれと言わんばかりに首を振って、ロックバイツは鞄からファイルを取り出すとこちらへ差し向ける。
「そういえば、今日はあの子は一緒じゃないんだね」
 それから、思い出したようにそう言った。前に連れて行った時にも、この男はハルのことを気にしていた。本当に子供好きなのかも知れない。エイビィは首を竦める。
「さすがにね。それに、あの子も大人しい……と、言うよりは、落ち込んでる最中。
 あんまり言うからハイドラに乗せたんだけれど、酔っちゃってね。自信を失くしているの」
 ロックバイツは珍しく、呆気にとられた顔になった。
「……君のハイドラって、あの小さい奴だよね?」
「『あの』がどういう意味か分からないけれど、多分その小さい奴ね」
おもブーをたくさん乗せた……」
 念を押すような、言外にこちらを責めるようなロックバイツの言葉に、エイビィは手を振る。
「あたしだって止めたわ。内臓を痛めても知らないわよって。それでも乗ると言ったから乗せたのよ」
「そこは、彼女がどう言おうと止めるべきだと思うけれど……いや、ごめん。そうじゃないな。参った、子供作っておけばよかったかな……」
 眉を下げて言葉を切り、ロックバイツは眼鏡を両側から押さえて軽く持ち上げ、位置を直した。まじまじと見れば、いつもとは違ってレンズに色が入っている。これも隠密の一環だろうか。
 エイビィはファイルから数枚の書類を取り出し、そこに書かれていることを確認すると、改めてロックバイツを見やった。
「ありがとう、よく分かったわ。
 ……そうね。何もこのタイミングでやらなくてもいいのにね」
「このタイミングだからこそ、じゃないかな。みんな遺跡要塞の方を向いている。他が暇をしている時にことを起こして、つけ込まれるのは嫌じゃないか。……で、君はどうするの?」
「身の振り方を決める余地があればいいわねってところかしら」
 ファイルに書類を戻し、エイビィは鞄にファイルをしまい込んだ。ロックバイツはコーヒーに口をつけて、片頬を持ち上げてみせる。
「うん、うちの方が美味いな。
 何にせよ、生き残るのは力があって運がある奴だ。僕も見守らせてもらうよ」
「ええ。飛び火で燃えないように気を付けてね」
 ロックバイツは答えずに、ひらひらと手を振った。


 差し出された紙を受け取って、エイビィは首を傾げてみせた。
 『園長』のテントの中はいつものように所狭しとジャンク品が積み上げられていた。信じがたいことだが、来るたびにその配置や顔触れは変わっている。今日はテントの中までもうっすら霧が漂っていたが、錆びたパーツを見た覚えもなかった。
 エイビィは間を持たせるようにぐるりとテントの中を見渡した後、相変わらず不機嫌そうな顔をしている『園長』の、深い皺に塗れた横顔をまじまじと見つめる。
「だめかしら」
「とは、言ってねえ。成る程なと思っただけだ」
「……それだけ?」
 手元に戻ってきた紙に目を落とし、エイビィは不満げな声を漏らした。紙に書いてあるのは、『ライズラック』の次のアセンブル案だ。
 ウォーハイドラは進化する兵器。それは、絶え間ないアセンブルの変更によって新陳代謝を繰り返すということだけを意味しない。開発者たちによって新たな技術が日々試行錯誤され、前線のハイドラたちに組み込まれているのだ。
 新しい機能を使いこなせるかどうかはハイドラライダーとアセンブル次第。それは、OSのアップデートにも似ていた。望む望まざるにかかわらず自動的に更新されるところまで同じだ。企業連盟が遺跡要塞を攻め立て、黒い不死鳥が内紛の気配を漂わせていても、それは変わりない。
 久方ぶりの大幅なアップデートを控え、ハイドラライダーたちは新たな環境に適応するための準備を整えていた。
 エイビィが『園長』に普段は見せないアセンブル案を見せたのも、なにがしかの意見が欲しいと思っていたからだ。
 『園長』はため息をついて、じろりとこちらを睨み上げた。
「脚を変えたのは少し前からだったか?」
「ええ、いろいろ考えたけれど、こちらの方が軽くて速いから」
 軽逆関節から軽二脚への変更は、今回のアップデートとは関係がないが、これも『ライズラック』にとってはかなり大きな変更だ。
 どちらも高速機動を得意とするタイプの脚部だが、逆関節はどちらかと言えば跳躍に性能が寄っている。
 戦場において、小型機が有利な位置を確保するためには、確かに跳躍は有効な戦術だ。エイビィも跳躍から大型機の頭を押さえるのを得意としていた。
 だが、今の『ライズラック』には速さが求められている。より速く動き、より早く敵を殲滅する。大隊のハイドラライダーは、常に戦果という限られたパイを奪い合っている。より大きな貢献をするため、と言えば聞こえはいいが、要は金や評価のためだ。
「……得意の戦術に拘泥はしてられないしね」
「射撃武器を入れたのもか?」
「それは試し。新しいシステムは動かしてみないと分からないから」
 連動攻撃は今回のアップデート含まれている目玉のひとつだ。
 射撃火器と格闘火器を各一種だけ装備することで、ウォーハイドラの機動性や操作性が格段に向上するシステムが組み込まれた、ということなのだが。
「試しなら俺に見せるこたねえだろ。実戦で答えが出る」
「あの修正表は見てるんでしょ? とにかく意見が欲しいのよ。そっちに依頼をかけるパーツだって変わってくるんだから、関係ない話じゃないでしょ?」
 ひらひらと紙を振る。『園長』は鼻を鳴らし、こちらに人差し指を突きつけた。
「なら言っとくが、付け焼刃じゃあ結果は出んぞ。
 『ライズラック』は格闘機だ。特に最近はそっちにセッティングを寄せている。速射砲を振り回したところで、機体のバランスを崩すだけだ。成果が出るとは思えんな」
「……参考にしておくわ」
「お前らが試すなら、シフトのほうが先だと思うがな」
「あれは……」
 エイビィは眉をしかめた。
 残像領域で確認される霊障と呼ばれる現象を、ウォーハイドラのHCSは意図的に引き起こすことができる。
 〈不可思議な力〉と表現されるそれは、術導肢というパーツをアセンブルすることによってさらに確実な武器となる。ただたいていの場合、弾もエネルギーも尽き果てたウォーハイドラが苦し紛れに放つ最後っ屁のようなものだ。
 シフト格闘は、この不可思議な力を推力や火力に変換し格闘機体を強化する、新しいシステムであるらしい。確かに、連動攻撃システムよりもよほど『ライズラック』に向いたシステムではある。ただし、デメリットもあった。変化する際に、機体に大きく負担をかけ、装甲を弾き飛ばすことさえあるというのだ。
「機体に負担はかけるがな。エンジンに無茶をさせるよりはよほどいいだろう」
「……考えてみるわ。霊障を利用するってのがどうも性に合わないのだけれど」
 エイビィは紙に目を落とした。改めて見ると、新しいシステムを利用しようとはしているものの、精彩を欠いたセッティングになっているようにも思える。実際のところは試してみねば分からないとは言え、不安は拭いきれなかった。
「テストは結構だが、俺のパーツをアセンブルして死ぬんじゃねえぞ。評判が落ちる。ハイドラライダーがへぼだっただけってことを分からん連中もいるからな」
「心配してくれてありがとう、『園長』。でも、大隊の仕事で死にはしないわ」
 『園長』は顔を奇妙に歪めた。笑いを噛み殺したようだった。
「死んだ方が、奴に追っかけまわされずに済むだろうがな」
「……それ、もしかして噂になってる?」
 奴、が誰か言うまでもない。エイビィは眉根を寄せて問いかけた。『園長』はあっさりかぶりを振り、
「直接聞いたんだよ。お前もよくここまでのこのこ来たもんだ。奴もまともに働いてれば、その辺をうろうろしているはずだぞ」
「どっちにしろ、定期報告で来なきゃいけなかったの。シミュレーターも使いたいしね」
 『シルバーレルム』に設置されている戦闘シミュレーターは、VRを利用した大がかりなシステムで、一週間に一度、マーケットの取り込みを行っている。
 まだアップデートの内容は反映されてはいないはずだが、アセンブルを試すことはできるはずだった。こうして、アセンブルを紙に出してきたのはそのためもある。
「……シミュレーターか」
 『園長』は苦虫を噛み潰したような顔になった。以前、製作したパーツが実際よりも低い性能で登録されたのを理由に彼がシミュレーターを嫌っているという話を、エイビィは思い出していた。
「ま、おっしゃる通り、――彼に出くわしては堪らないから、さっさと会社に籠もるわ。相談に乗ってくれてありがとう、『園長』」
 『園長』はエイビィの言葉に答えず、さっさと行けとばかりに手を振る。エイビィは首を竦めて踵を返した。


「……どうしてあなたがここにいるのよ?」
「どうして、と言われてもなあ」
 困った風でもなく頬をかいて、ダリルは自分の背後に目を向けた。
 エイビィはつられてそちらに目を向け、思わず額を押さえる。『ヴォワイヤン』のハイドラライダー、チャーリー=キャボットが背筋を伸ばしてこちらを見つめていた。
 ドーム状の部屋の中には、操縦棺を模した『箱』が同心円状に並べられている。『箱』はいくつか使用中のランプが点灯しており、部屋の上部から降ろされたスクリーンには、シミュレーター内の映像が映し出されていた。
 『シルバーレルム』程度の規模の会社にしてはそれなりの設備ではあるが、ダリルの場合は警備部が持っているもっと質のいいシミュレータールームがあるはずだ。
「彼女の持ってる許可証だと、警備部にはさすがに入れなくてさ。『尾羽』になら入れるって言うから」
「……そもそも、なぜあなたがここに?」
 チャーリーは首から『VISITOR』とだけ書かれた入場許可証をぶら下げていた。正規の手続きを踏んで入って来たには違いない。が、ここにいる理由が分からなかった。どちらがどちらに抗議をするか見物、と彼女は以前去り際に言っていたが、向こうからの抗議にハイドラライダーが来はしないだろう。
「それがね、そちらと弊社は、正式に業務提携するんですって」
 腰に手を当てて、チャーリーは片頬を持ち上げてみせた。笑うしかない、と言った風だ。
「マヴロス・フィニクスに開き直られたらそれ以上は追及できない。残像領域の企業は暴力で成り立っている。外聞や風評なんて趣味レベル。
 ……よく言われることだけれど、実際こうやって目の当たりにすると絶句しちゃうわ」
 という割に、彼女は雄弁だった。シミュレーションルームを見渡して、軽くため息をつく。
「そちらの会社がこっちの会社の何を求めているのかは分からないけれど、戦争のついでに食い潰される可能性は高い。……だからこうやって、まずは様子を見に来たんだけれど」
 許可証を指でつまみ上げてからパッと放し、チャーリーは改めてこちらへ目を向けた。
「それで、うちのシミュレーションルームはお気に召した?」
「最初の一歩としてはね。次はもう少し入れる範囲を広げるつもり……」
「なあエイビィ、あんた、次のアセンブルを試しに来たんだろ?」
 ダリルが思い出したように口を挟んできた。
「約束、覚えてるか?」
「あなた、そのつもりで待ち構えてたわけ?」
「今回はほんとに付き添って来ただけだって。でも、ちょうどいいだろ? まさか、自信がないなんて言わないよな」
「……」
 安い挑発だ。エイビィはため息をついた。しかし、確かにちょうどいいには違いない。シミュレーションならば、前回のように余計な茶々が入ることもない。
「分かったわよ……」
「やった! チャーリー、待っててくれ」
 子供のように喜ぶダリルを見ながら、ふと、なぜ彼がチャーリーと一緒にいるのかと疑問に思う。
 だが、ダリルが背を向けてさっさとシミュレーターへ向かう間に、その問いは霧散してしまった。


 『箱』の中は奇妙なほどに静かだった。
 ウォーハイドラを駆動させるのは、全身に張り巡らされたチューブの中を流れる液化した残像領域の霧。ハイドラを揺り起こした瞬間に操縦棺の中を満たす静かな水音。それがこのシミュレーション装置では再現されていない。『箱』に備え付けられていないもののひとつだ。殺人的な加速による強烈なG、蒸すような湿気、それから、羊水にも例えられる操縦棺の水音。
 暗闇の中に、うすぼんやりと画面が点灯した。霧に覆われた残像領域、荒涼たる地平に、廃墟と塵芥が転がっている。画面を通して見る、という意味では、実際の戦場とほとんど変わらない。
 ヘッドフォンと『箱』の二重の壁によって、流れ込んでくる音も厳密にコントロールされる。『箱』の外の音は聞こえることはなく、ただ風の流れる音、自分の呼気、そして、ウォーハイドラのわずかな駆動音だけが聞こえてくる。
 コンピュータ・グラフィクスと合成音によって作り上げられた戦場は、細心の注意でもってその雑然さを再現されていた。どこか作為的な光景に感じるのは、おそらくこちらの先入観の問題だろう。
 しかし、現実と同じように霧に覆われた仮想空間を見渡して、エイビィはふと胡乱な顔になった。
 いつも見る残像領域と、決定的に見えるものが異なっていた。しかもそれは、ここが仮想空間であることが原因ではない。目線の高さが違うのだ。
「チャーリー?」
 『箱』の中で視線を彷徨わせる。『箱』の外、スピーカーを通じてこの声は彼女に届いているはずだったが、返答はない。
 はかられた。チャーリーに渡したアセンブルの紙のを思い浮かべ、エイビィはほぞを噛む。
 この『箱』のアセンブルを設定したのは彼女だった。ダリルの方も合わせて、公正を期すために自分が設定するという申し出だったが……今思えば、なぜダリルと彼女が一緒にいたのか、もう少し深く考えておくべきだったのだろう。
 操作盤に指を走らせ、画面にアセンブルを表示させる。映し出された機体の構成は、思った通り『ライズラック』とは全く異なるものになっていた。『ステラヴァッシュ』とも『ヴォワイヤン』のものとも違う。知らないアセンブルだ。
《――ルールの確認をする必要はあるか?》
 聞こえてきた声に、エイビィは顔を上げる。
 いつの間にか、正面には『ステラヴァッシュ』の巨体があった。
 仮想空間における対戦シミュレーションの場合、戦う前に機体の動きの確認や調整のための待機時間が設けられている。それが終了したということだろう。……彼我のサイズ差も、大きく変わっている。『ライズラック』よりも大きく、恐らくは遅い機体だ……エイビィはきつく奥歯を噛みしめ、すぐに緩めた。
「必要ないでしょう。……今回は、パーツが壊れる心配もないんだし」
 いつか聞いた言葉を繰り返すようなダリルの声に、ため息交じりに答えてエイビィは操縦桿を握り込んだ。
 ダリルとチャーリーがどういうつもりなのか、このアセンブルが何なのか。
 想像できるものはあったが、対戦が始まった以上はこちら側から中止を言い出すのは業腹だった。それに、何となればこちらの方が話が早い。
(――確かめたいのなら、確かめてみればいいんだわ)
 締め付けるような頭痛には、もはや慣れてしまっている。
 エイビィは『ステラヴァッシュ』が動き出すのに合わせて機体を右へ滑るように走らせた。
 やはり、『ライズラック』よりは加速が弱い。ブースターはなく、加速を助けるのは補助輪だけだ。火器も射撃がメインになっており、エイビィにとっては扱いづらいアセンブルだった。その分装甲は厚いものの、ある程度攻撃を受けながらの戦いに慣れているかと言えば話は別だ。
 滑るように地を這う機体を、『ステラヴァッシュ』の射撃が引っ掛ける。『箱』の内部の揺れによって再現される衝撃と、装甲の削られる表示を確認しながら、エイビィは舌打ちした。動きに支障はまだないレベルだが、何発も食らえば分からない。
 ハイドラは榴弾砲を引き抜き、黒々とそびえたつ影へと差し向ける。
 狙いを定める必要はほとんどなかった。『ステラヴァッシュ』の脚の付け根辺りで爆発が起こるのをカメラに捉えながら、エイビィは再び装甲で相手からの射撃を受ける。
 エイビィは舌打ちした。何とかして近づきたいところではあるが、仮想空間にはすぐさま入れる遮蔽物はほとんどない。どうしても、撃ち合いながら向かっていく羽目になる。『ライズラック』であれば、射撃を回避しながら頭を取って近づくこともできるが、どうしてもこの機体では回避が遅れた。
(情けないこと!)
 榴弾砲を機関砲にスイッチする。
 できるだけ弾をばら撒きながら、二脚のハイドラは荒野を滑るように駆けて行った。
 『ステラヴァッシュ』の弾幕は厚い。ばら撒かれる弾のすべてがこちらに当たるわけではないが、じりじりと装甲は削られていく。弾幕の差も装甲の差も、分かり切ったことだった。
《どうした、エイビィ!》
「いけしゃあしゃあと言ってんじゃないわよ!」
 言い返しはするものの、明確な打開策があるわけでもない。――それこそ、この機体の本来の持ち主であれば、もう少し戦いようはあるのだろうが。
(……冗談)
 こみ上げた吐き気に、エイビィは顎を引いた。
 耳障りな音を立てて、機関銃の残弾がゼロを示す。粒子ブレードへと武器をスイッチし、忌々しい気持ちで『ステラヴァッシュ』の巨体を睨みつけた。『ライズラック』で相対していた時とは違って、ややこじんまりとして見えるが、それでも巨大には違いない……
「……あ。」
 炎が散り、『ステラヴァッシュ』の火炎放射がハイドラの装甲を灼いた。近づかせる間を与えないまま、決着をつけるつもりなのだろう。
《教えてもらう! あんたについて、あんたが知ってること、全部!》
 ダリルの言葉に、エイビィは言い返すことはなかった。
 操縦桿を、大きく引き倒す。ハイドラは身を低くして炎を逃れ、まっすぐに『ステラヴァッシュ』へと向かっていった。
《――んぐっ!?》
 黒い脚へ向かって、ハイドラが勢いよくぶつかった。なんということのない体当たりだが、『ステラヴァッシュ』にこれを避けるような機動性はない。今まで揺らぎもしなかった機体が大きくよろけ、ダリルが呻き声をあげる。
「全く、寝惚けてたわね!」
 吐き捨てて、エイビィは身を乗り出した。
 単純な話だ。この機体は『ライズラック』よりも大きく、重いのだ。
 それでも上背は『ステラヴァッシュ』の半分程度に過ぎないが、それだけあれば近づくのに大した機動を弄する必要はなく、こうした格闘戦を仕掛けることもできる。何故、そんなことに気が付かなかったのか。
《だが、もう!》
 ダリルが吠え、『ステラヴァッシュ』から炎が吹き上がる。それはさらにハイドラの機体を焼け付かせ、『箱』の中の計器が一斉にアラートを吐き出すが、構わない。
 ハイドラが電磁ブレードを振り上げ、姿勢を崩した『ステラヴァッシュ』の機体を斬りつけた。装甲に弾かれ、大したダメージは与えられないが、織り込み済みだ。炎を振り払いながら、榴弾砲を斬りつけた場所へ向かって突きつける。
「……ええ、これで終わりよ――『シェファーフント』!」
 ヘッドフォン越しに、ダリルが大きく動揺する気配。
 エイビィは吐き気を堪えながら、榴弾砲の引き金を引いた。


 ブラックアウトした画面がこちらの勝利を告げるのを確認し、エイビィは『箱』を出た。同時に、横の『箱』から転がるようにダリルが飛び出してくるのを見て、眩暈を覚える。……できれば話もせずに立ち去りたかったが、どうやらそうもいかないようだ。
「――エイビィ!」
 こちらの肩に掴みかからんばかりに詰め寄ってくるダリルから顔を背けて、エイビィは目を伏せた。
「約束は守ってもらうわ。もうつきまとわないで」
「っ、どうして、ビルのハイドラの名前を知っていたんだ……」
「ウィリアム=ブラッドバーンはかつて存在したハイドラチームの一員。乗機は中二脚の射撃タイプのハイドラ『シェファーフント』。二年前に撃墜されて以後行方不明」
 並べ立てられた言葉に弾かれたように、ダリルは大きく身を引いた。エイビィはダリルと視線を合わせないまま、シミュレーションルームをぐるりと見渡す。少し離れた場所に、チャーリーが立っている。どういう表情をしているか、ここからは見えなかった。
「あなたに紐づいてる情報を少し調べればすべて分かることよ。まさか、チャーリーまで抱き込んで、彼のアセンブルを使わせるとはね。
 ……でも、これで分かったでしょう。あたしはあなたのお友達じゃない。話はこれで終わり。……それじゃ、失礼するわ」
 言い放ち、エイビィはダリルに背を向けた。ダリルからかかる声はなかった。チャーリーからも。
 頭痛は強くなる一方だった。エイビィは足早に、シミュレーションルームから立ち去った。


 腿に指を乗せて悲鳴を噛み殺す。腰から下が痺れたように感覚がなく、他人の体に触れているようだった。悪寒と頭痛と吐き気に目を回しながら、壁にもたれかかる。誰かに見られていない自信はなかった。それでも取り繕うのは限界だった。自分がどこにいるのかも分からなくなっている。震えた指で端末を取り出し、決められた手順でコールをする。ずるずると座り込んで、端末を顔に寄せた。
「ウジェニー……先生、助けて……」
 目をつぶり、祈るような気持ちで言葉を紡ぐ。
 相手が出るまで、そう時間はかからなかった。