「ああ、久しぶり。
そうか、生きてたのか。それはよかった」
「――それ、別の人にも言われたわ。そんなに顔を出していなかった?」
問いに、カウンターを拭いていた壮年のバーテンは、ゆるく微笑んで手を止めた。その視線は、エイビィが後ろに連れている少女――ハルへ向けられている。目を合わせたハルが、ぎょっとして柱の影に逃げ込むまでがここのところのお約束だ。
「ふつうは子供を連れてくるような場所じゃないからね。そうだろ?」
「まあね。入店はお断りかしら」
「いや、最近はノンアルコールのカクテルも出してるんだ。どうぞ」
開店直後のバーには客もおらず、煙草の香りも酒のそれもまだ漂わせてはいない。
が、確かに、ほの暗い明かりに照らされた店内の空気は、ハルにはまだ早いかも知れなかった。エイビィはストールを外し、隠れっぱなしのハルを振り返って手招きをする。ハルは少し迷った後で、おずおずと柱の影から歩み出てきた。
「君が生きていて困るなんてことはないんだ。
ただ、馴染みの客が、それもハイドラライダーがだ、しばらく顔を出さなかったら、死んでると思う人間が大半さ」
滔々と語りながら、バーテンはナッツの乗った小皿をカウンターの上に置く。ハルをスツールの上に抱き上げて座らせ、エイビィはバーテンを見やった。眼鏡の奥の目が怪訝そうに瞬く。
「疲れた顔だな。何かあった?」
「ええ。どんなに親しい人間でも、しばらく顔を見なけりゃ死んだも同然。
ふつうはそう考えるものだと思ってたわ。ハイドラライダーは特にね」
「なに、死人にでも出くわしたの?」
「逆よ。死人だと思われているの」
カウンターに頬杖を突き、エイビィはハルの方へ目を向けた。
所在なさげにちょこんと腰かけたハルは、皿の上のナッツをじっと見つめている。
「食べていいわよ。――ロックバイツ、この子が飲めるもの、お願いね」
「いいよ。何が好きなんだ?」
「塩の入ったコーヒー」
ぶっきらぼうな口調で言ったのは、ナッツを口に放り込んだハルだった。
バーテンが再び目を瞬かせるのを見て、エイビィは首をすくめる。
「気にしなくていいのよ。ジュースやなんかで……」
「エチオピアン・モカだろ。渋い好みだな。淹れられるよ。でも、ミルクをたっぷり混ぜた方がいいな。眠れなくなるから」
「……あるの?」
「コーヒー通はそうやって飲むらしいよ。ミルクを入れたことはないけど、美味しいんじゃないかな」
エイビィの問いに笑いながら返し、バーテンは歯を見せて笑った。その歯は柔和な顔立ちに似合わず、岩を噛み砕けそうなほどに鋭い。
「エイビィ、君は何がいい? 久しぶりだから、好みが変わってるんじゃない?」
「……ギムレットをお願い」
「甘いやつね。かしこまりました」
言いながら、バーテンは店の奥の方へ向かって歩き出した。酒瓶のずらりと並ぶ棚の隅には、古びたコーヒーメーカーが置いてある。……少なくとも、コーヒーが出るのは間違いないようだ。しかも塩入りの。
ハルが珍しく上機嫌に足をぶらつかせているのを横目で見て、エイビィは首を竦めた。
薄暗い店内に、深いコーヒーの香りが漂っている。
「それは、厄介な奴に絡まれたね」
エイビィにつきまとうハイドラライダー――ダリル=デュルケイムの話をひととおり聞いたバーテンは、そう言って苦笑した。エイビィはしかめ面を作って、グラスに口をつける。
「厄介なんてもんじゃないわ。あそこまで来ると営業妨害よ。方々つきまとわれて疲れるったら」
「だから子供を連れてこんなとこまでやって来たの――」
ストレートで入れたモカに、温めた牛乳をたっぷりと、塩をほんのひとつまみ。
バーテンの入れた『コーヒー』を、ハルはどうやらお気に召したらしい。カップを吹いて冷ましながら、もたもたと飲み下している。皿の上に載っていたナッツは、……こちらも珍しく気に入ったようで……もうほとんど食べてしまっていた。エイビィはグラスを置いて、ナッツの追加を頼む。
「逃げ込める場所がそんなになくてね。と言っても、ここもすぐ嗅ぎ付けられるでしょうけど」
「君、なにせ目立つからね。隠れるのは難しいだろうな。今じゃこの子もついてくるし」
「……ありがとう」
大人のつまらない話は聞き流しているのだろう。差し出されたナッツ入りの皿を見て、ハルはバーテンに小さく頭を下げた。バーテンは眉を下げて相好を崩し、どういたしまして、と腕を広げる。
「いい子だ」
「あなたのそういう顔、初めて見たわね」
「子供が好きでね。そのストーカーくんに感謝しないとな」
「ちょっと、よしてよ」
「とは言え、難儀だね。その――何だっけ? 行方不明の友人を連れてこなきゃ、ことは収まらなそうだ」
「ウィリアム=ブラッドバーンね……」
覚えた頭痛をごまかすように、エイビィはグラスを煽った。
焼け焦げた操縦棺、消えた死体、口をつぐむ病院。
乏しい根拠を無理矢理繋ぎ合わせて、生きているとも知れない友人を必死に探しているあの男は、亡霊に取りつかれて正気ではないように感ぜられた。いや、あそこまでいけば、亡者そのものといった方がいいだろう。
残像領域には亡霊が溢れている。体を持った亡霊がいたところで、おかしなことはない。
「でも、病院の対応なんかは確かにおかしい部分がある。聞いた限りじゃ、生きている可能性は捨てきれないだろ。
もしかしたら、死んでた方がましだったってケースかも知れないけれどさ」
「……あたしの方でもちょっと調べてはみたけれど、生きているとは思えないわ。よほど都合のいいことが起こらない限りはね。よくて臓器市場に横流しよ」
「それでも、足取りが掴めたら喜ぶんじゃないの?
ほら、こう言うやつもいるじゃないか、『死んでいても、かの心臓はだれかの中で生き続けている』――」
「やめて」
エイビィは鋭く言って、グラスをカウンターの上に置いた。
思ったよりも剣呑な声を出していたらしい。バーテンが驚いたように身を引いたのを見て、ため息をつく。
「あなたも直接話をしたら分かるわ、ロックバイツ。
話が通じるような男じゃないのよ。まともに取り合うだけ無駄なんだから」
「分かった、分かった」
両手を上げて、バーテンは苦笑した。
「君がうんざりしていることは痛いぐらい伝わって来たよ、エイビィ。
でもさ、だからと言ってどうするんだ? 逃げ回ってここで愚痴を言うだけ? らしくないな」
「……」
頭を押さえて、エイビィはバーテンから目を逸らす。
「あちらの会社に抗議でもしてやろうかと思ったけれど、ハイドラライダー同士の個人的な諍いなんてありふれた面倒ごと、解決してくれるはずもないし。自力で解決しようにも、チャンスを逃してしまったから。
……そうね。確かに、らしくないかもね」
「チャンスをね。そりゃ業腹だ。でも、実際どうなんだい」
「実際って?」
言葉の意味を取りかねて、エイビィはバーテンを見上げる。バーテンはあの鮫のように鋭い歯を見せて笑って見せ、
「君、本当にウィリアム=ブラッドバーンじゃないんだよな?」
もったいぶった口調で言った。
わずかに色の入った眼鏡が、薄暗く気取った照明を反射し、その表情が見えなくなる。エイビィは思わず息を呑んだ。
「……そんなわけないでしょう。お酒がまずくなるようなことを言わないで」
少しの空白ののち、噛んで含めるように言い放つと、エイビィは眉根を寄せてバーテンの顔を下から覗き込んだ。その目がからかうような笑みに細められているのを確認して、口をとがらせて見せる。
バーテンは身を起こして笑い、空になったグラスに手をかけた。
「なら、輪郭をなぞって期待させるのはやめた方がいいんじゃない。
ただでさえ君は秘密が多いんだ。僕だって君が昔何してたかなんて聞いたことはないし、フォローはできない。言えないんだろ? で、次は何がいい?」
「あたしにもコーヒーをちょうだい。昔話を気軽に話すような仲だったかしら、あたしたち」
「でも、はぐらかすのが癖になってるんじゃないのかい?」
「かもね」
「ほら、そうやって」
「やめてよマスター。……節度を守って」
手を振って、エイビィはうんざりとした口調で言う。バーテンは首をすくめた。
「失礼。この辺にしておこうか。まずは毛布を出そう」
「毛布?」
おうむ返しに問うたエイビィは、そこで初めて隣に座っていたハルがテーブルに突っ伏しているのに気が付く。マグカップも皿も、もうすっかり空になっていた。
「これぐらいの子は、ちょっとでもコーヒーを飲むと眠れなくなるもんだけどな。そんなに早起きだった?」
「……どうだったかしら。この子、このところハイドラにつきっきりだったから」
「『ハイドラと話せる少女』ね。無理をさせすぎなんじゃないか」
「一体、そういう噂って誰が広めるのかしらね」
受け取った毛布を広げてハルにかけ、エイビィは渋面を作った。バーテンは歯を見せてへらへらと笑う。
「誰ともなく、どこからともなくさ。君、自分が目立つって自覚はしているんだろう?
でも、聞いていたより仲がよさそうだ」
「これでも落ち着いたのよ。…前はもう少し、ひどかった」
「彼女の話はできるんだろう? オフレコで聞かせてくれよ」
腕を広げるバーテンに、エイビィは半眼を向ける。バーテンの顔に、悪びれるような色はない。
「……、いいわ。オフレコでね。あれは――」
少し悩んだ後、エイビィはため息交じりに話しだす。
ハルの小さな寝息が、横で聞こえていた。
計器の値は、先程から問題なく安定していた。
霧の濃度も電磁波も、今のところそれほど濃くはない。レーダーに敵影らしき反応はなく、荒野と廃墟のほかには『ライズラック』ともう一機、同道の中型ウォーハイドラがいるだけだ。外の音も――静かそのもの。ただ、ハイドラが散らばる廃材ごと地面を踏みしめる足音がするのみだ。指定のポイントまであと少しと言ったところだが、今のところは何の異常もなかった。
《――本当に、こんな場所に何かあると思ってるのかねえ?》
通信越しでも相手が欠伸を嚙み殺しているのが分かったが、仕事中だ、とたしなめる気にはエイビィもなれなかった。操縦席に深く沈み込みながら、『シルバーレルム』からの依頼についてあらためて思い返す。
エイビィたちが向かっているのは、残像領域の中にあって空白地帯となるような場所だ。プラントや街があるわけでもなく、遺跡が発見されたわけでもない。廃墟と言っても破壊しつくされたコンクリートの瓦礫が立ち並んでいるだけで、ジャンク屋さえ目を付けることはない。ただ時折、行軍するハイドラが通り過ぎるだけだ。
「行方不明機が出ているのは事実なんだから、調査だけでもってことでしょ」
《ケッ、間抜けがジャンク屋にでも取り囲まれたんだろ》
「残骸でも持ち帰れば、あとは会社が適当に報告書を作ってくれるわよ。フラビオ、あなた、ちゃんとデータ確認してる?」
《へいへい、真面目だね。“
「そういうんじゃないけど――」
揶揄するようなフラビオの声に、エイビィはむくれて見せる。今回の仕事に対していまいちやる気が出ないのはエイビィも同じだ。ただ、やる気がないからやらなくていい、とは思っていないだけで。フラビオの考え方はまるきり逆で、エイビィがいなかったら現地にこうして向かっていたかどうかさえ怪しい。だからこそ、『シルバーレルム』も即席のバディを組ませたのだろう。
エイビィたちに振られた仕事は、この空白地帯を通過することなく消えたMIA機の捜索だった。
撃墜されて命を落とすハイドラライダーがなくなることがないのと同じように、霧の中で消息を断つウォーハイドラも少なくはない。
撃墜を確認できないレベルで破壊されたケースもあれば、残像領域の不可思議な霧に囚われいなくなることもある。
後者の場合、再び現れた友軍機が正気を失って敵になっている、ということさえ、ままある事態だ。残像領域では奇妙な事象こそ有り触れており、絶えることはなかった。
通常、そういった行方不明者に対して捜索依頼が出されることはほとんどない。搭乗者死亡と大差がないと考えられているからだ。見つけたところで、搭乗者が生きているか、生きていたとしてまともな精神状態にあるかが怪しいのであれば、ハイドライダーを管理する側も原因を究明しようという気さえなくなるのだろう。
それが今回、わざわざ捜索依頼がなされたのは、戦場になることのほとんどない空白地帯が、行方不明者発生のホットスポットとなっていたためだ。
「ここに要塞でも埋まってるんじゃないか、って考えてるのかもね」
《本気なら二機では行かせねえよ》
「まあね。見つかったらラッキー、程度でしょう」
《部隊が丸ごといなくなったわけじゃねえんだ。霊障の気配もねえし、ハゲタカにやられたで決まりだと思うがね》
断定的な口調で言うフラビオの言葉には、一応の説得力がある。
ハゲタカ――ジャンク屋たちは、何も打ち捨てられた機材や撃墜されたハイドラのパーツを拾い集めるスカベンジャーに徹していると言うわけではない。ふらふらと編隊からはぐれた迂闊なハイドラを見つけては集団で囲んで襲い、ハイドラライダーの命ごとパーツを奪っていく連中もいる。
特にこうした空白地帯では、戦場までの退屈な道筋に耐えかね、周囲に気を配ることを怠ったハイドラライダーは格好の標的となる。フラビオの言う通り、ここでの不明機はみな単独行動ないしバディでの行動であったことが確認されている。ジャンク屋である可能性はあるだろう。
「隠れる廃墟が少ないのが気になるけれど、その辺りはどうとでもなるものね……」
《だらだら推理ごっこしてたって仕方ねえよ。さっさとバミューダの謎を解いて帰ろうぜ。
報酬だって高いわけじゃねえんだ。時間を使うのは性に合わねえ》
フラビオは鼻を鳴らして、ハイドラの歩速を上げた。この男の気の短いのはいつものことだ。加速的に小さくなっていくフラビオ機の背を見ながら、エイビィは目を細める。
「油断しないでね」
《誰に言ってんだ。お前はさっさとその背中のやつをテストしな。あのじじい、後からうるせえんだから》
エイビィは言われて、『ライズラック』の背中にアセンブルした新しいパーツのことを思い出す。
今は固い蕾のように畳まれた四枚の『翅』は、マヴロス・フィニクスの敷地内でハイドラのパーツを製作している老人に渡されたものだった。試作品であるから、暇な時にでも広げてみろ――とは、受け渡しの時に言われたことだが。
「安定するか分からないって言われてるの。帰りの時でいい――」
エイビィは途中で言葉を切った。レーダーの中、ほとんど何もないはずの荒野に不意に反応が現れたからだ。
カメラには、何も映っていない。――様子がおかしい。
「フラビオ!」
《あ? なん……っ》
気怠げな声を飲み込んだフラビオの声が、聞くに耐えない罵声に変わる。
先行していたフラビオ機の左腕が爆炎とともにちぎれ飛ぶのが、はっきりと視認できた。
《何だあ! 何も見えねえぞ!》
「どこから?!」
《下――くそッ!》
今度は脚の周りで爆発。フラビオ機が咄嗟に回避行動を取ろうとしたのは経験がなせる技だろうが、敵の姿が見えないでは避けきれない。装甲の厚い箇所だったか、まるごと脚が吹き飛ぶことはなかった。それでも、荒野を駆けるフラビオ機の動きは覚束なくなっている。
エイビィは『ライズラック』を間断なく機動させながら、我が目を疑う。レーダーには再び、フラビオ機しか映らなくなっていた。霧と煙の漂う荒野にいくら目を凝らしても、何かが見えてくることはない。
(地下――いえ?)
地上に頭を出して射撃を行い、即座に地下に潜ったのであれば、あるいはこちらの索敵に引っかからずに済むかもしれない。
だが、視界に何も映らないのが気にかかった。見えるのは相変わらず、コンクリートと廃材だけだ。ハイドラが隠れられるようなサイズではない。
何にしても、敵の正体が分からないまま突っ込むのは危険だった。フラビオ機があのタイミングで先行していなかったら、狙われていたのは『ライズラック』の方なのだ。回避できていた自信はない。
「フラビオ、一度退くわよ!」
《馬鹿野郎! 虚仮にされたままノコノコ帰れるかよ!》
「何言ってるの! あなた、脚に来てるでしょう!」
《背中を向けて死ぬ趣味はねえって言ってんだよ! クソッタレ!》
怒号を上げて、フラビオは未だ無事の腕で榴弾砲を構えた。ふらついた足取りで駆け回りながら、レーダーの反応があった方へ銃口を向ける。
――爆発が起こり、荒野に炎が噴き上がった。
エイビィは顔をしかめる。乱暴だが、的外れな行動でもない。もし地下に空間があり、ハイドラが隠れているならば、これで炙り出せるはずだ。
「……え?」
が、レーダーに視線を向けたエイビィは、思わず呆けた声を上げた。
画面の中に反応は――あった。
だが、その数が多すぎる。十や二十ではきかない無数の光点が、フラビオとエイビィを取り囲むように現れ出ていた。
「――!」
声にならない悲鳴を上げて、エイビィは咄嗟に『ライズラック』の背中に着けた『翅』を広げる。フラビオを気にしている余裕はない。周囲に目を向けることもないまま、エイビィは『ライズラック』を上昇させる。
――霧けぶる荒野に、無数の火線が走るのが見えた。
エイビィ爆風に煽られる『ライズラック』の姿勢を御しながら、煙の中に飲まれるフラビオ機を硬い表情で見つめる。
焼け焦げてぐらりと傾ぐウォーハイドラのその周囲には、煙と霧の中に蠢く蔦のようなものの姿があった。
機械のパーツを組み上げて形作られたその蔦は、それぞれが『ライズラック』の腕ほどの太さがあり、蚯蚓のように動くことが見て取れる。丸い先端には、砲口のような孔があった。フラビオ機を打ち据えた火線は、おそらくここから放たれたものだろう。
それが――荒野にできた無数のひび割れのようにフラビオ機を取り囲み、そして今、地面を這いずりながら、次の獲物を探している。硬いものが地面を擦る音が、ヘッドフォン越しに耳に届いていた。
「……フラビオ」
呼びかけても、反応はない。ハイドラライダーを厚く守っているはずの操縦棺が、ズタズタに引き裂かれているのが見えた。あまつさえ、蔦の何本かがフラビオ機に絡みつき、地下に引きずり込もうとしている。『行方不明機』ができるからくりは、こういうことだろう。
エイビィは操縦桿をかたく握りなおす。撤退し、戦力を整えて出直すべきだ、が、果たして逃げられるのかどうか。蔦が首をもたげ、こちらに先端を向け始めていた。
「……背中を向けて死ぬつもりはないね」
苦笑して、エイビィは『ライズラック』に速射砲を構えさせ、足下へと向ける。――弔い合戦をする義理はなかったが、意図せずそういうことになりそうだ。
霧の荒野を、銃声が劈いた。
溶けた氷がワインクーラーの中で崩れ、店内に澄んだ音を響かせても、眠るハルが目を覚ます様子はなかった。
エイビィは冷めたコーヒーを飲んで一息つくと、毛布越しにハルの背を撫でる。バーテンはカウンターの向こうでいつの間にか腰かけており、自分もコーヒーをすすっていた。
「――この店、こんなに閑古鳥が鳴いていたかしら?」
「実は、今日はもう閉めてあるんだ。スイッチ一つで、入口の表示が切り替えられてね」
便利でしょ、と笑うバーテンを半眼で見やり、エイビィはカウンターの上へカップを置いた。
「そんなにこの子のことが気になる?」
「君のこともね。ほら、話はまだ途中だ。彼女も出て来ていないし、そもそも絶体絶命の場面を切り抜けてもいない。
もう一杯、僕のおごりでコーヒーはどう?」
「そうね。でも、あとはもう、そんなに面白い話じゃないわ……ブランデーを少し入れてもらえる?」
「はいはい。面白くないのかい?」
「実のところ、絶体絶命ってわけでもなかったのよ。彼は運が悪かった。……いえ、あたしの運がよかったのかしらね」
「そういう言い方、嫌いなんじゃなかった?」
揶揄するような言葉遣いがわざとらしい。エイビィは眠っているハルに目を向ける。様子は変わらず、寝息を立てるままだ。――そうでもなければ、彼女の横でこんな話はできはしない。独りごち、エイビィは言葉を選ぶ。
「そうとしか、言いようのないこともあるってことよ」
バーテンが相槌を打ちながら、慣れた手つきで温めたカップにコーヒーを注いでいく。少し足すだけのはずのブランデーの量が多いように見えるのは、サービスのつもりか、それともこちらの口をうっかり滑らせるためか。
エイビィはカウンターに頬杖をついて、再び口を開いた。
上空から、蔦の群れを相手取るのはそう難しいことではなかった。
撃てばどれかには当たる状態で、見上げるような形で蔦の先から射撃が行われても、上を取っていれば回避するのは容易いことだ。押し付けられるように受領してきたパーツに救われた格好だ。
レーダーでは、地上の反応は『ライズラック』以外には確認できなくなっていた。恐らく、まだ動ける蔦は先刻のように地下に隠れて逃げたのだろう。が、前とは違って、蔦の潜った『先』が見えている。土に隠されていた鋼の肌が、今や霧の中でもはっきりと視認することができた。
「……まさか、本当に遺跡とはね」
開いたままになっていた通信回線をようよう切って、エイビィはぽつりとつぶやく。
ハイドラを引きずり込もうとしたところを見ると、中にはハイドラが入れる程度の空間が存在しているはずだった。もっとも、中で潰してスクラップにするつもりだった可能性もあるが。少なくとも、この鉄の蔦たちの動力源は地面の下に存在するはずだ。
(でもなぜ、わざわざ攻撃を仕掛けてきた?)
焼け付き、切れた蔦が絡みついたフラビオ機をあらためて見やる。
フラビオもエイビィも、ここに何かあるとは考えていなかった。攻撃がなければ地下のことなど思いもよらず、このまま通り過ぎていたはずだ。
今までロストしたハイドラたちにとってもここはただの通り道に過ぎず、機械の蔦が自分たちのすぐ下で蠢いているなどとは思いもよらないまま餌食になったと想像できた。
ならば、この蔦たちの目的は遺跡の隠蔽ではない。ハイドラを地下に引き込んでいるのは、何か別の意図があってのことのはずだ。
「……『推理ごっこをしていても仕方がない』?」
苦笑する。
文句をいつも垂れ流し、やる気のない男ではあったが、エイビィはフラビオという男が嫌いではなかった。腕は確かだったし、憎まれ口にも愛嬌めいたものを感じていた。その男の言葉を思い出すと、おかしいとも悲しいとも言えない気分になる。
「そうね。……確かめてみましょうか」
それを振り払うようにかぶりを振って、エイビィは囁いた。
いったん退く、という考えはなくなっている。遺跡があるとなれば、『シルバーレルム』どころかマヴロス・フィニクスの『冠羽』が部隊を編成し、直々に調査を行うだろう。その前に、自分の目で何があるのか確かめたい気持ちがあった。
エイビィは『ライズラック』の背の『翅』をゆっくりと動かし、高度を下げていく。地上に降りれば、またぞろ蔦が襲ってくるだろうが、来ると分かっていれば恐れることはない。むしろ、気が楽なほどだった。
乾いた唇を舐め、エイビィは操縦桿を握り直した。
生い茂る鉄の蔦をかき分けて、暗闇の中を歩く。
外気は湿度を持って暖かく、操縦棺の中もだんだんと蒸していた。
顎を伝う汗を拭って、エイビィは外部カメラの映像にかかる黒い影を、忌々しく睨みつける。先程、蔦を千切った拍子に頭からオイルか何かをかぶって、外の様子が鮮明には見えなくなっていた。レーダーもうまく動いていない。
が、少なくとも、オイル越しの汚れた視界の中で、動くものはもはや見当たらなかった。
用心深く進む『ライズラック』の脚が踏み潰すのは、小型の自立機械の残骸だ。
それが、小型のウォーハイドラが何とか通れるような狭い通路の中を、いっぱいに埋め尽くしている。あれだけ地上で活発に活動していた蔦たちは、通路の中で牙を?くことはなく、代わりに『ライズラック』の前に立ちはだかったのは、この小さなドローンたちだった。あるいは、遺跡の中ではハイドラを撃ち抜くような強力な射撃はできないように設定されているのかも知れない。蔦たちは、ただ本物のそれのように天井から垂れ下がっているだけだ。
その中に、ハイドラの残骸らしきものが巻き込まれているのを、エイビィはこれまでに何度か確認している。そのすべてが解体されて原型を喪っており、特にミストエンジンは丸ごと持ち去られているようだった。何のためにか、ハイドラのパーツを奪う必要があった、ということだろう。――あるいは『ライズラック』と『エイビィ』も、この中に加わっていたかも知れない。
ドローンの残骸を踏みしめながら、『ライズラック』はゆっくりと通路を進んでいく。
エイビィはその足音に耳を澄ませながら、雲霞のごとく押し寄せ、今や燃された羽虫のように落ちたドローンたちのことを考える。
かれらの武装は対人を想定したものになっており、どの攻撃もウォーハイドラの装甲を貫くには至らなかった。かれらを統御しているシステム――恐らく、この遺跡のどこかに存在している――も、それは理解していたはずだ。無為であることを理解しながら、『ライズラック』へこうしてドローンを差し向けてきた。それは、ハイドラを捕らえて解体するのとは全く別の意図が感じられる。
(あるいは、異常をきたしているだけかも知れないけれど)
地下深く、人知れず維持されてきた遺跡の中は、地上と同じ霧で満たされていた。人間も、機械も、この霧の中で正気のままで居続けることはできはしない。
と。
「……声?」
つぶやくと、エイビィは『ライズラック』に足を止めさせ、ヘッドフォンに手を当てた。
声が、確かに聞こえてくる。通信ではない、外部スピーカーが拾っている音だ。ほんのかすかだが、ノイズがかってはいない……子供の泣き声。
エイビィは息を呑んで、『ライズラック」を再び歩き出させる。声は、歩を進めれば進めるほど、少しずつ近づいてくる。
程なくして視界が開け、目の前に広い空間が現れる。
……そこで見たものは、霧の中、壊れた機械を抱えて泣きわめく、金髪の少女の姿だった。
「おしまい?」
「ええ、おしまいよ」
エイビィはコーヒーカップを置いて、手を広げて見せた。
「あとはその子を回収して、報告書を書いただけ。今はもう、遺跡はマヴロス・フィニクスの管理下よ。
もっとも、あたしが入った時点で、機能はほとんど停止していたみたいだけれど」
バーテンはすっきりしないという顔で首をひねる。
「この子は、遺跡の中で生まれたのかい?」
「さあね。少なくとも、機械に育てられたのは確かだわ。この子には人間の親の記憶はないようだから。
あたしはつまり、この子から家族を奪ったというわけ、すべてね」
バーテンがカウンターの上に出したグラスにブランデーを注ぐのをちらりと見て、エイビィは目を伏せた。
「後悔してる?」
「まさか。あそこで、何人ハイドラライダーが死んだと思っているのよ」
「……で、彼女は君を憎んでいる」
「あたしを。実際に手を下したのはあたしのハイドラなのだけど。どうもそちらは気に入っていて。何でなんだか」
「機械を動かすのは人間だからね。
…でも、その遺跡の機械たちは、まるで自分の意思でもってその子を守っていたようにも感じられる」
グラスに注いだブランデーを一息に飲み下して、バーテンはふむ、と顎を撫でた。
「こういうのはどうだろう。かれらはこの子を育て、思いやっていた。だが、人の手に手渡さなければ、いずれ不具合が出ると計算していた。――だが、手放すのは耐えられなかった」
「だから、無駄にドローンを差し向けてきた?」
「つまり、自殺だよ。その子を守って、自分たちの感情を満足させ、そしてその子のいない世界を生きたくないという欲望さえ満たした」
「面白いけれど、荒唐無稽すぎるわね」
エイビィはバーテンの話を切って捨てて、額を押さえる。……やはりあのコーヒーには、ブランデーが入り過ぎていたのではないだろうか?
「機械は機能を果たすだけよ。だから、あの蔦も動かなかったのだろうしね」
「だから、この子は君を見ている、かい?」
「……そういうことかしら。いえ、どうだか」
言葉を濁し、エイビィは首を振った。