#10EX2 子供たちと

 《キャットフィッシュ、応答せよ。こちらリーンクラフトミリアサービス、ベルベット・ミリアピードの……“ニーユ=ニヒト・アルプトラ”》
 通信越しに聞こえてきたのは、知らない男の声だった。
 『ベルベット・ミリアピード』のハイドラライダー、ニーユ=ニヒト・アルプトラから僚機の打診があってから、数日が経過している。
 先の戦闘で彼の僚機である『ゼービシェフ』が撃墜され、搭乗者である少女が死亡したのが、そもそもこの話の発端だ。
 かの少女が死んだと聞いた時、彼女とほとんど私的な会話をしたことがないエイビィがまずもって思い浮かべたのは、ニーユ=ニヒトの気弱そうな顔だった。あるいは、自分の機体を大破せしめ、落ち込みながらも打ち合わせに臨んでいた姿か。いずれにせよ、精神的な打撃を受けていることは間違いなく、立ち直るのに時間はかかると言うのがエイビィの見方だった。
 だが、ニーユ=ニヒトはすぐに次の僚機としてエイビィを選び、要請をしてきた。さらには、次の戦場についてのミーティングも合わせて。
 エイビィが僚機を組んでこなかったのは、自分の行動に制限が生まれることを倦んでのことだ。ニーユ=ニヒトはそういった意味では、エイビィに対してそうした要求をしてきそうな男ではあった。ただ、精神的に不安定と見ていた男が、僚機を――それも幼い少女を――失って、すぐに次の相棒を選定したのが何故かには興味があった。何を考えているのかを聞いてみたいと思っていた。そのために、短期間でも僚機となるのは億劫ではない、とも。
 果たして、『ベルベット・ミリアピード』は約束の時間に『キャットフィッシュ』までやって来た。
 しかし、聞こえてきたのは別の男の声だ。ニーユ=ニヒトではない。
「――『ベルベット・ミリアピード』、こちら、『キャットフィッシュ』、時間通りね」
《連絡していたとおりだ。相変わらずのデカブツで悪いが、どっかに接地してもらえないか》
 いや、正確ではない。確かにニーユ=ニヒトはこのような声をしていたと思う。
 だが、声の出し方が違う、息の継ぎ方が違う。何より不機嫌さを押し殺したようなその声音は、知っている男のものとは決定的に異なっている。つまりは、声が同じだけの別人だ。その口調は、ニーユ=ニヒトを装う気さえない。
 『窓枠』に手を置き、エイビィは向かってくるハイドラの識別が確かに『ベルベット・ミリアピード』のものであることを確認して、眉根を寄せた。
 約束の時間に、彼の機体で現れたのであれば、確かにそれはニーユ=ニヒトのはずだ。例え、この期に及んで彼がライセンスと機体を誰かに奪われるようなへまをしたとしても、『ベルベット・ミリアピード』が……それに搭載されているAIが、奪略者を許すわけもない。
(ニーユ=ニヒトではない。でも、関係者であるには違いない?)
 エイビィは眠気の残る頭を押さえて、逡巡する。中身が違うのであれば約束違反だ。追い返しても構わないと言えば、そうだが。
「甘えるのが得意ね、ニーユ=ニヒト」
 マイクに入らない程度の声で小さくつぶやき、エイビィは頬を緩めた。前回の打ち合わせに続いて、今回も。想定外の面倒事には違いないが、『ベルベット・ミリアピード』が連れてきたものならば、顔を見る程度のことはしてやってもいいだろう。
「了解したわ。……Se=Bassセバス、『キャットフィッシュ』を下ろしてちょうだい。
 ミリアピードは案内に従って」
《分かった。悪いな》
 相変わらず、ニーユ=ニヒトを真似るでもない不躾な口調で言って、通信が切れる。
 画面の中、巨体をくねらせながらこちらへ近づいてくる『ベルベット・ミリアピード』を一瞥し、エイビィは首を竦めて踵を返した。


 『キャットフィッシュ』に現れたのは、やはりニーユ=ニヒト・アルプトラではなかった。
 顔は同じ。体格も同じ。パイロットスーツもニーユ=ニヒトの着用していたものと同じデザイン。しかし、その表情と振る舞いが決定的に異なっている。
 僚機が死んで、人が変わった――ようには、見えなかった。そもそも、本物のニーユ=ニヒトよりもずいぶん青みがかった髪をしたその男は、呼吸をしていなかった。恐らく、人間ではない。
「それで、あなたは誰? あたしにアポを取っていたのは、ニーユ=ニヒトのはずだけれど」
 問いに、男は初めて思い出したように細く息を吐き出しながら、机に端末を置く。その画面から抜け出してくるように、立体的な映像が現れ出る。
 見覚えのない少女だった。頬杖を突き、こちらを見上げてくる。
「……。……エルア=ローア・アルプトラ。あれの兄貴とでも思っといてくれればいい」
『あなたの連れてるちっちゃい子がクソほどぷにぷにしてたあのクソスライムよ! どう? すごいでしょ!』
 名乗る男の声が、相変わらずニーユ=ニヒトに似ながら非なるものであるのと違って、少女の声には聞き覚えがあった。『ベルベット・ミリアピード』……に、搭載されているAIだ。ベルベット。
 エイビィは目を瞬かせる。彼女の言う『クソスライム』をハルが弄んでいた時、『ベルベット・ミリアピード』はその場にはいなかったが、AIである彼女に対してそれを訝しく思うのは愚かだろう。機械の目というものは、人間が知覚していない場所にも常に向けられている。この『キャットフィッシュ』のすべてが、執事ボットであるSe=Bassによって制御されているのと同じようにだ。
「ああ――スー、だったかしら? そうやって人の姿にもなれるのね。そういえば、ニーユ=ニヒトの腕にも、スライムが使われているのだったかしら」
『そうよ! それとほぼ似たようなものだわ。な・か・よ・し、ってやつね、うふふ!』
 上機嫌な少女と対照的に、ニーユ=ニヒトではない男――エルア=ローア――あるいは、スーの表情は苦々しい。この場にいることそのものに対する不満というよりは、彼女との仲がそれほどよくないのが見て取れる。
「……やっぱお前連れてくるんじゃなかったよ! おとなしく引っ込んでろ!」
『嫌ね! あんたよりあたしの方が一万倍ぐらいずっと、この人のこと知ってなきゃいけないんだから、こうやって話するのは当然なのだわ! ねえエイビィさん、そうよね?』
「ええ、そうね。『ベルベット・ミリアピード』はあたしの――『ライズラック』の僚機になるのだもの、あなたにはあたしを知ってもらう必要がある」
『そうあとね、こいつブラコンなの! これでもう分かったでしょう? だってエイビィさんかっこいいですものね!』
 頷くエイビィに対して、畳みかけるようにベルベットは言葉を繋ぐ。ずいぶん元気だ。見た目はハルとそれほど差があるようには見えないのだが(AIに年齢の話をするのが適当ではないというのが分かっていても)、振る舞いがまったく違う。
「……それで、ニーユ=ニヒトはどうしたの?」
 とにかくこれで、この場に来たのがいったい何者なのかはとりあえず分かった。次は、来るはずだったニーユ=ニヒトのことだ。
「『ライズラック』の僚機は『ベルベット・ミリアピード』――あたしと組むのは、その搭乗者であるニーユ=ニヒトのはずよ。彼はどうしたの?……やっぱり、まだ立ち直れていないのかしら」
「ああ、ニーユなら元気だよ、思ってたよりは……」
 こともなげに言って、エルア=ローアはかぶりを振る。その横で、ベルベットは元気そのものと言った調子で、胸を張ったままでいる。
『ええ元気よ。俗に言う無理をしているタイプの元気ね! 具体的に言うと』
「言わなくて結構。お前なあ、人の情報を勝手にボロボロ話すなよ」
『これは必要な情報じゃないかしら! ねえ、』
 少女がこちらに目を向けるのに合わせて、エイビィは手を挙げた。ニーユ=ニヒトもはっきりしない口調で喋るが、ふたりはさらに核心から離れるように関係のない話を展開させていく。こちらの問いに答える気は、まるでないのだろう。
 とにかく、ニーユ=ニヒトは来ない。それは確か。
 そして、『ライズラック』の僚機は『ベルベット・ミリアピード』だ。次のミッションまで時間もない。話を進めるしかないだろう。ニーユ=ニヒトには、最悪後で伝えるなりなんなりしてもらえればいい。
「――悪いけれど、あなたたちのお喋りを聞くために約束を取ってもらったわけではないの。次のミッションの話をしに来たんじゃないのなら、帰ってもらっていいのよ」
『あらあら、ごめんなさい! あたしお喋りなの。普段クソ野郎とばかりだから、どうしてもテンション上がっちゃうのだわ、許してほしいのよ!』
 謝りながらも、ベルベットは悪びれず、ただ楽しげだった。
 少女そのものだ。


「腕前と積極性に覚えがある者を募り、禁忌の集中する主攻正面を強襲突破、以って新体制によるハイドラ大隊殲滅を頓挫させイオノスフェア攻略を円滑ならしめる……ねえ、くっだらねえ」
『あたしはこういうの好きよ! 正当に暴れる理由、最高に最高じゃない! 誰が死んだって誰も文句を言わないのだわ、だってどいつもこいつも死にに来てるんだから!』
 禁忌。
 大仰な名を持つ機体が、残像領域の戦場に現れ始めてしばらく経つ。
 有象無象のハイドラライダーが寄せ集まり、思い思いに行動するハイドラ大隊。統一された意志のない武力の集まりに対して張り上げられた声が、エルア=ローアがくだらないと吐き捨てた一つの通信だ。
 リー・インという男がいる。あるいは、狂ったような男インセイリーと呼びならわされるハイドラライダー。
 その稚気に満ちた薄笑いを、瞼の裏に思い出す。
「……彼らがしようとしているのは、この残像領域を取り巻いている仕組みに対する挑戦よ」
 ハイドラ大隊に対して入れ代わり立ち代わり投げかけられる通信に、巷間に流れる情報をまとめると、どうやらこの世界は滅びの危機にあるらしい。
 冗談のような話だが、あながち馬鹿げた話とも言い切れない。実際、最後の遺跡要塞であるイオノスフェアに陣取った霜の巨人は、残像領域を凍らせつつある。それは、残像領域を襲う滅びを食い止めるための行動、であるらしい。だが、ハイドラ大隊は霜の巨人を倒すべく、先へ進んでいる。
「ハイドラ大隊は、ある指向性を持って突き進んでいる。取るに足らない傭兵部隊が、この残像領域の行く末さえ決める存在になるなんて、誰が想像していたのかしら?」
 ベルベットの楽しげな顔を一瞥し、エイビィは苦笑する。
 もともと、エイビィがハイドラ大隊に参加していたのは、『シルバーレルム』からの要請だった。最初は企業連盟と歩調を合わせるために、やがては企業連盟の力を削ぐために。そこに介在する意志について、エイビィはそれほど気にしていたわけではなかったが、そうではない連中がいたということだろう。
「ふふ、それでは足らないのでしょうね。ハイドラ大隊がこうして砦を攻めることさえ、どこかからの要請に過ぎない。自分たちで何かをしてやろうという意志そのものが、ああした宣言をさせたのでしょう」
 気のない顔をしていたエルア=ローアが、一転して苦虫を噛み潰したような顔になった。エイビィは肩を竦めて見せる。
「自己顕示欲、権力欲? 気に入らないってことを全身で示したいだけかも。要はお祭り騒ぎだわ。くだらないと言えばくだらないのでしょう。
 でも、くだらないと吐き捨てるだけの男よりはマシだわ。そうじゃなくって?」
『アハハ! ごもっともだわ、やっぱりあたし、あなたを推して良かったって今最高に思ってるわよ! だって少なくとも、あたしはあなたと気が合うわって思ってるもの!』
 笑う少女の横で、ニーユ=ニヒトと同じ顔の男は不機嫌な顔で沈黙したままだ。リーンクラフトミリアサービスで、小さなスライムとして現れた彼は、もう少し遣り手に見えたものだったが。ただ、前とは事情が違うということかも知れない。ベルベットは彼を指してブラコンと言っていたが、ニーユ=ニヒトの今の状態が、余裕を奪っている可能性もある。
「――それで、あなたはどうしてここへ来たの? 何をしに来たのかしら。まさか、弟の僚機になる男の顔を見に来ただけじゃあないでしょう?」
「バカにすんなよ」
 問いに、エルア=ローアは顔を歪める。
「そのくっだらねえ意思表示、何を思ったか知らねえけどあいつがやるって言ったんだ……」
「それは私も聞いているわ。だからこそ、この場には彼が来ると思っていた」
 呼吸をしていないはずのエルア=ローアの唇から、息継ぎの音が漏れた。あるいは、何か続けて言おうとしたことを飲み込んだか。少しの間の後、男は言葉を続ける。
「言ったろうさ。打ち合わせに参加できるような状態じゃないから情報の中継してほしいってよ。それだよ」
 確かに聞いた。だが、それはリー・インの主導する作戦の打ち合わせのことであって、直接のミーティングを指すものではなかったはずだ。
「次の作戦に合わせて、ベルベット・ミリアピードの軽量化をする。あいつは軽量機に乗るのに向いてないから、代わりに俺が出る」
 男の挑むような眼差しを、ニーユ=ニヒトを模したその顔を、エイビィはぼんやりと見つめ返す。
 驚きはなかった。前回は『ベルベット・ミリアピード』ではなく、別の機体に。そして複座式で別の人間と共に。今回は機体だけは出して、自分は待機。
 何か面倒なことが起こる予感はしていたが、面倒事と言い切れもしない。ただ予想外なだけだ、そして、話が急なだけ。
「そうじゃなくてもあんな弱り切った人間を戦場に出せるかよ。俺のやり方が気になるっていうんなら、前のデータなら出す」
『あとでニーユからも連絡は行くと思うけれどね! あたしは急ぎで知りたかったし伝えたかった。そうなると行く方が早い場合ってあるじゃない、このクソはただの運転手だと思ってもらって良くってよ! あと口の代わりね!』
「どのみち今回あんたを選んだのは俺たちだ。最低限その分の仕事はしてもらうし、俺たちだってそうする」
『そう、それが所有物たるあたしの役目よ。でもあたしはもう十分、貴方でよかったと思ってるけれど……もうご一緒したデータもあるから、今更合わせに行く必要がなくて楽なのよ。それってとても合理的でしょう?』
 頭痛を感じて、エイビィは額を押さえた。それは、乗り込んできて好き勝手に話す二人に対してのものではないし、リーンクラフトミリアサービスで沈んでいるだろうニーユ=ニヒトのことを思ってのものでもない。
 エルア=ローアとベルベットは、こちらの返答を待つまでもなく、話を続けていた。
 つまりは、『ベルベット・ミリアピード』の次の動きについて、視覚データまで提示して説明してくる。確かにそれがニーユ=ニヒトとミリアピードのいつもの動きではないということ、次の作戦における、求められる役割に沿うものであることは、辛うじて頭の中に入ってきた。
「あたしを僚機に選定したのはあなたたちだったの。……道理で随分すぐに決めて来たと思ったわ」
 言い合いに説明に無駄口を重ねながら話を続けていく二人を遮り、エイビィは言葉を押し出す。ベルベットを憎々しげに睨んでいたエルア=ローアは、再び挑戦的な目をこちらへ向けた。
「ゼービシェフはライズラックと戦果を食い合う立場だった。逆に言えばあんただって、戦場で暴れまわるのに十分なサポートを受けられるようになるんだぜ? 悪いことなんかどこにもないだろう」
 その皮肉気な口調に、エイビィは眉根を寄せる。
 『ゼービシェフ』のハイドラライダー。ミオという少女について、知っていることは多くない。
 その、命を削るようながむしゃらな戦い方だけが、記憶に残っている。
「……そうね、ミリアピードと組むのは、お守りのためではない。こちらに益があると踏んだから。本来ならね」
 ため息を噛み殺す。ニーユ=ニヒトと彼女とが、いったいどういう関係だったのか。ニーユ=ニヒトは何故、『ゼービシェフ』のあのような戦い方を許容していたのか。このふたりがニーユ=ニヒトに断りを入れず僚機を選んだのなら、彼はエイビィがミオの代わりの新たなバディとなることを認めるのか。
「今のニーユ=ニヒトが僚機に足るのかは、あたしには分からないわ。
 だからこそ、彼に会いたかったのだけれど、まさか保護者にしゃしゃり出てこられるとは思わなかった」
『あらあら! 保護者が来るのはご不満かしら? あたしはついでにイケメンの貴方が見れて最高の気分ですけれど!』
 ベルベットが高らかに言って笑う。
 ……実際のところ、不満以前の問題ではあるのだが、それをこの二人に言ったところで仕方がないのは分かっていた。すでに、『ライズラック』と『ベルベット・ミリアピード』は僚機として戦場に登録されている。
『いいじゃないそういうのでも。それにあなた、ミオよりよっぽどヒヤヒヤしなくて済みそうですもの。違うかしら?』
「あなたたちは、ミオという子を悼まないのね」
 そんなことを聞いてどうするのか、と口に出してから思った。
 頭痛は、さっきよりも酷くなっている。ニーユ=ニヒトがミオという少女を喪ったことで打撃を受けていることは、二人の言葉でももう明らかだ。そのニーユ=ニヒトの関係者である彼らが、悲しむ素振りさえ見せないのは違和感があった。もし自分がこの二人の立場でも、この場で悲しむことはない、とも思った。それでもだ。
「あたしに気を使っている? それとも……」
「……さあな」
『悼むのは少なくとも、あたしの仕事ではないもの。あたし生憎AIだから、そういうのって分からないのだわ』
 ふたりの答えは、満足のゆくものではなかった。
 が、そうしたことが分からないのは自分も同じだ。エイビィは嘆息する。
「まあ、いいわ……中身が違うのは想定外だけれど、休暇を取られるよりはマシね。
 僚機として登録された以上、ミリアピードと『ライズラック』は同じ戦場で出撃する。パートナーを継続するかどうかはそれからまた考えるわ」
『うふふ。あたしなしじゃいられなくさせてあげるわよ! また戦場で会いましょう、エイビィさん』
 あたしのサポートででろでろにさせてあげるわよ、などと、なおも言い募るベルベットの言葉を、エルア=ローアの指先が止める。あれだけ雄弁に語っていた少女の声は、端末の電源が消えるとふつりと途絶えた。
 静かになった『キャットフィッシュ』の中で、エルア=ローアは端末を拾い上げる。話は終わり、ということだろう。
「それじゃあ、次は戦場でね、ミリアピード」
「……じゃあな、エイビィ。よろしく頼む」
 言って、エルア=ローアは踵を返す。軽い足音は、彼が姿だけ人間を模したスライムであることを示している。その、形ばかりはたくましい背を見送って、エイビィは何度目かのため息をついた。


《エイビィさん。エイビィさん、いいかしら? “保護者”のお話、聞いてくださる?》
 『窓』に音声のみVOICE ONLYの表示。
 ベルベットの声は先程よりも淑やかに、『キャットフィッシュ』の中に響く。
 Se=Bassの置いた水を薬ごと飲み下したエイビィは、目を伏せたままそのひそやかな声音を聞いていた。内緒話をする子供の声。
《……あのひとはもちろん攻撃手にも回れるけれどね、本質は奉仕者なの。
 あたしはこれまで一緒に戦ってきたから――いえ、もっと前からそれが分かっているの》
 エイビィは、エルア=ローアの不機嫌そうな顔とは違う、ニーユ=ニヒトの弱々しい目を思い浮かべる。あるいは、死を望む人間がいると言っていた時の、あの薄暗い表情を。
《けれど全てに手を差し伸べられるほどの慈愛には満ちきれない哀れな子!
 なら誰か受け手を選定しに行くのは、あの子の所有物たるあたしの正当な責務》
 ベルベットは歌うように言葉を紡ぐ。
 なるほど、奉仕者という言葉とニーユ=ニヒトという人格は、確かに馴染みのあるようなものに感じられた。ただそれは、相手を見ないものではないだろうか。少なくともエイビィに関しては、あの男は慮るよりも振り回す方が多いでいる。
 その『奉仕』の対象に選ばれたのが自分であるなら、それは何ともうすら寒い話だ。
「あなたたちは、自分の幼さを隠そうともしないのね。永遠に子供のようだわ」
《アハハ!》
 ベルベットは高らかに笑った。
《だってあたしたち、“子どもたち”だものね。ニーユはともかく、あたしとあのクソは全くもってその通りだわ》
 その言葉の意味するところがエイビィには分からない。ただ、想像できることはあった。括弧つきの『子供たち』……ニーユは確か、研究所と言っていただろうか。
「子供に育てられたから、ニーユ=ニヒトもああなのかしら?」
《さあ? それはあいにく、あたしの知るところではないわ。けどね、光栄に思ってほしいくらいよ、『偽りの幸運』エイビィ! 貴方があたしに認められたことをね!》
 奉仕する相手を探す男と、その相手を選び出す少女。『子供たち』
「……割れた器に水を注ぎ続けることに耐えられる男ならばいいのだけれど」
 薬が効くにつれ、頭痛が治まっていくのを感じて、エイビィは瞼を開く。『窓』に目を向けると、すでに通信は切れていた。こちらの呟きが聞こえていたのかどうかも分からない。
 『ベルベット・ミリアピード』が大地を這い、震わせる音だけがただ耳に届いている。