#10EX4 青空を泳ぐ

 吐き出した息がわずかに白く残って消えるのに気づいて、エイビィは身を乗り出してモニタを覗き込んだままふと眉根を寄せた。
 操縦桿をきつく握った手は汗ばんでいるほどで、寒さを感じる余裕も隙もなかったが、それでもこれほど近づけば、如実にその影響は受ける。装甲を通し、操縦棺の中までもが、冷たく凍てつき始めていた。
 霧以上に、激しく吹き荒れる吹雪が視界を塞いでいる。対策が功を奏したのか、それともいつも通りに運動量が多いおかげか、外部カメラが凍り付いて完全に役立たずになることはなかったが、それでも塞がれているよりは多少マシ、程度のものに過ぎない。
 それでも、荒れ狂う雪の嵐の向こう側には、巨大な影が蠢いているのが見て取れた。
 霜の巨人――フィンブルヴェト・コントロール・システムは、『禁忌』と呼ばれる存在が世界を破壊しつくした後に芽吹く、『生命と全ての種』の発芽を押しとどめ、この世界の滅びと再生を停止させる存在であるらしい。
 本来繰り返されてきた世界の理を押しとどめ、この世界を残像領域として固定した環境装置。
「……ほんと、話が大きくて嫌になっちゃうわね」
《えっ――何ですか、エイビィさん?》
「何でもないわ。あなたは自分の仕事に集中して」
 通信越しのニーユ=ニヒトの息は、すでに上がっていた。
 そもそもが慣れない機体、しかも、本人がまったく勝手が分からないと言っていた格闘機での出撃である。無理からぬことだった。重ブースターを積み上げた『ゼービシェフ』の機動力は、小型の高速機である『ライズラック』でさえも上回る。ふだん『ベルベット=ミリアピード』のような重い機体に乗っている彼には、少し動き回るだけでもいつもと違う負荷が山ほどかっているはずだ。
 その中で、ニーユ=ニヒトは確かによくやっている。
 慣れない格闘機に乗り込み、装甲ではなく機動性を頼みに敵陣に切り込むことをやってのけているのだから、役割は果たせていると言っていいだろう。しかも、霜の巨人を相手取り、周囲を奇妙な狼の群れが取り囲むこの戦場においてだ。
(もっとも、本来であれば、こんなことをする必要はないのだけれど)
 操作盤に指を走らせて、エイビィはため息を噛み殺した。
 『ライズラック』によって走査された戦場の情報は、ほかのハイドラへと――ニーユ=ニヒトの『ゼービシェフ』も例外ではなく――絶え間なく送信されている。
 戦場をより素早く把握し、早々に片を付けるためにレーダーをアセンブルするのは、ここのところはほとんど常態化していることだが、今の『ライズラック』にはそれ以外の仕事も課せられていた。
「振り回してくれるわよね……」
 『ゼービシェフ』が再び攻撃に転じ、走り出してゆくのを確認してから、エイビィは口の中だけでひそやかにつぶやく。もっとも、その言葉の相手はニーユ=ニヒトというよりは、彼の兄であるところのエルア=ローアではあるが。
 搭乗する機体の型が完全に変わってしまっているニーユ=ニヒトよりははるかにましではあるものの、この『ライズラック』がほかの機体を護るべく調整されているのだ。シンプルな捨て身の攻撃役に振り切った『ゼービシェフ』とは対照的に、『ライズラック』にはそれを補助するための機能が余分に搭載されている。考えることは多い。
(護ると言っても、限度はあるけれど……)
 霧の中、霜の巨人を斬りつける『ゼービシェフ』の装甲が軋みを上げ、弾け飛ぶのが分かる。
 装甲だけではなく、機体そのものに大きな負荷がかかっているはずだった。命を削って振り絞り、己を砕きながら突き進むようなその戦い方は、かつての『ゼービシェフ』のハイドラライダーのそれをたがいなくなぞっている。
 ミストエンジンからエネルギーを限度以上に引きずり出す限界駆動、装甲を犠牲にしながら白兵攻撃の威力を向上させるシフトシステム。
 ハイドラを極限まで酷使しながら、消費エネルギーのとりわけ大きい電磁アックスを何本もぶん回すのが、『ゼービシェフ』の戦闘スタイルだった。速攻型、と言えば聞こえはいいが、この機体の本来のアセンブルは度を越して破壊的だ。ニーユ=ニヒトが乗り込むのに合わせて多少の変更は加えたものの、その尖った構成自体は保持されている。計算では、カタログスペックで担保されていた機動性が、そろそろ負荷のかけ過ぎによって削れてくる頃のはずだった。思ったよりも、戦闘に時間がかかっている。さらには。
「ああ、鬱陶しいったら!」
 横合いから飛び込んできた青白い狼の顎門に刃を捻じ込んで無理矢理に引き裂くと、『ライズラック』はその場を大きく飛びずさる。エイビィは『ゼービシェフ』が同じように霜の巨人から距離を置かざるを得なくなっているのを確認しながら、レーダー上に表示される無数の光点を見やった。
 イオノスフェア要塞の周囲に出現した巨大な狼の群れは、ハイドラ大隊を敵として認識し、霜の巨人を護るような動きを見せている。
 フィンブルヴェト・ウルフと呼称されたこの獣は、霜の巨人によって生み出されたのか、それとも呼応して現れたのかは不明だが、大隊と協調行動をとっていたいくつかの部隊を阻み、このイオノスフェアでの合流を困難にしていた。そもそも、狼に追い立てられて窮地に追い込まれ、壊滅している部隊も出ているという。
 『ライズラック』や『ゼービシェフ』、あるいは、このブロックで戦っているハイドラにとっては、もはや数の多いだけの雑魚に過ぎないが、確かにかれらはその奥に守る霜の巨人への攻撃を阻み、戦闘を遅延させていた。
 そして、『ゼービシェフ』は、本命ではない狼たちを振り払う時にすら、全力で攻撃せざるを得ない。
「……ニーユ=ニヒト!」
 『ライズラック』より先行して、再び狼の群れへ突っ込んだ『ゼービシェフ』の機影が、吹き荒れる吹雪と霧の中へ消えて行く。その外装甲はほとんど砕けるか剥離しており、意味をすでに失っていた。エイビィは舌打ちし、『ライズラック』に武器を構え直させると、『ゼービシェフ』を追いかける。
 この戦闘に合わせて、『ライズラック』にはいくつかの機能を搭載していた。それらの多くは、『ゼービシェフ』から敵の目を逸らすための補助的なシステムだ。
 だが、この長引く乱戦の中で、いつまでも半壊しているハイドラを護り切れるものではないし、暴れまわる『ゼービシェフ』が敵の目を惹かずにいるというのも無理な話だった。ここまでは『ゼービシェフ』も攻撃を避け、あるいはいなしてきたが、次は恐らく難しい。狼の群れを突破しても、その先には作戦目標である霜の巨人がいる。己へ向かって一直線に突き進んでくるハイドラを、霜の巨人が静観するままの道理はない。
 だからこそ、ここで『ライズラック』が置いて行かれるわけにはいかなかった。――が。
《――ッ!!》
 『ゼービシェフ』の姿を再び視界に捉える前に、通信越しに呻き声とも唸り声ともつかない、くぐもった音が耳に入る。
 エイビィが何かを言う前に、ニーユ=ニヒトは激しく咳き込み始めた。それに混じって、水の垂れ落ちるような音が聞こえるのに、エイビィは眉をしかめる。
(負傷した?)
 それは予定の外だ。
「……『ゼービシェフ』! ニーユ=ニヒトが負傷したのなら、撤退を――」
《『ゼービシェフ』――『ゼービシェフ』!!》
 こちらの声を遮るように、ニーユ=ニヒトが叫び声を上げた。
 通信が、果たして耳に入ったのかどうか。呼びかけるようなその声の合間に、なおも咳き込む音が、血の操縦棺の中に落ちる音がする。
 『ライズラック』の外部カメラに、霜の巨人の足下、ぼろぼろになって倒れた『ゼービシェフ』の姿が映った。この寒さの中、操縦棺にまで達するような損傷を受け、もはや動くべくもない……はずだ。本来ならば。
《海が望めないのなら――》
 だが、ニーユ=ニヒトの言葉に呼応するように、『ゼービシェフ』の腕に力が籠もる。
 ミストエンジンが息を吹き返し、液化された霧がハイドラの中に血液のごとく巡り始める。
《この霧の海を泳げ!!》
 ――轟音。
《ッう……あああああああ!!!!!!!!》
「……! 『ゼービシェフ』!」
 弾かれたように『ゼービシェフ』が立ち上がり、霜の巨人へ向かっていった。霧と雪の中を、凍り付いたこの世界を、自らの道を、己で切り開こうとするように。
「…………本当に、振り回してくれるわね」
 呟いて、エイビィは口の端を歪める。こちらの言葉はもう耳に入っていないだろう。ならば、『ライズラック』は『ゼービシェフ』に付き合って、あとは手早く戦闘を終わらせるだけだ。あの状態も、そう長く持つわけではない。
 モニタの中、『ゼービシェフ』に表示された“OVER LOAD”の文字を一瞥して、エイビィは『ゼービシェフ』の背を追いかけ始めた。


 煌めく氷の粒が降りしきるそのさまを、何に例えていいのか分からなかった。
 霜の巨人は炎の中に消え、あたりを覆っていた霧は凍り付き、細氷となって地へと墜ちていく。
 霧が晴れていく。視界が開けていく。それがどんな意味を持つことなのか、今はまだ分からない。
 恐らく、この戦場にいる人間の多くがそうしていたのと同じように、エイビィは操縦棺を開け、空を仰いでいた。
「――『霧の海』を?」
 知らず、呟きが漏れる。息はもう白く染まることはない。
「――でも、これは。これからあたしたちが泳ぐ海は」
 そして、それは未だかつて見たことのない。目に焼き付くような――