壁の中からするすると機械の腕が現れ、床の上に朝食の載ったトレーを音もなく置いていった。
『キャットフィッシュ』の格納庫の中は相変わらず排気の関係上湿気が籠って蒸しており、じっとしていても汗が噴き出してくる。年中冷え切った水の粒が漂う残像領域の外気とは、また違った過ごしにくさがあった。
それでもハルは、『キャットフィッシュ』の中ではこの格納庫がいちばん気に入っていたし、硬い床の上で寝ることにも慣れていた。エイビィもはじめはちゃんと居住区で寝るようにと口うるさく言っていたが、今はもう風呂の時間以外はハルを放っておきっぱなしだ。
頭からかぶった毛布の中でもぞもぞと動き、ハルはガラス皿に入ったフルーツサラダに手を伸ばす。ハルが『生の食べ物』を見たのは『キャットフィッシュ』で出される食事がはじめてだった。こちらには、まだ慣れることがない。
残像領域でもペーストやエネルギーバーではないまともな食べ物にここまでこだわる人間は、それほど多くはないだろう。ハルもここへ来る前は、ゼリーやペーストぐらいしか食べたことがなかった。
もっとも、これらのフルーツもどのように栽培されたのか培養されたのか、分かったものではない。ただ味は、すっぱかったり甘かったりと、人工物で作られたもったりとしたペーストよりは、確実に刺激的だった。
皿を半分ほど空けたところで、ハルは食べるのに疲れて一息つく。コーヒーには、いつも通り塩が入れられていた。エイビィは文句を言うが、何と言おうがこれがいちばんおいしい飲み方なのだとハルは信仰している。
(……エイビィ)
コーヒーを冷ましながら一口飲み下し、トレーに残った食べ物を見下ろして、ハルはふとひとりごちる。
いつもであればたまに様子を見にやって来て、ちゃんと食べろだのなんだのと面倒を見に来るはずのエイビィは、ここのところしばらく、ハルに声をかけに来ることがなかった。そもそも、ハルの前に姿を現すことがほとんどない。
調子が悪いという。この前、ハルを置いて出かけてからだ。
こういう時何があったのか、エイビィはハルに何か言うことはない。
エイビィが調子を崩すことは、これまでにも何度かあった。そうした間は、エイビィの方が食事を摂っているか怪しい状態で、そのくせにハルを置いてどこかへ足繁く出かけたりする。
もっとも、今回はそういったことはなく、ただ格納庫へ『ライズラック』の様子を見にやってきては、時折その操縦棺の中に入ったりして、アセンブルもせずにぼんやりとしていた。ついでにハルの方へやって来るということもなく、ハルが声をかけても生返事ばかり。ついには、ハルも放っておくことにしてしまった。
ハルはマグカップを持ったまま、隣の『棚』に横たわる『ライズラック』の方を見る。Se=Bassの出したリフトが上がっていて、エイビィが操縦棺の中にいることは分かった。だが、どれだけ前からそこにいるのかは分からない。眠っているのか、起きているのかも。
もともと、仕事に合わせてエイビィはいつ起きるのかいつ寝るのかが分からないところがあったが、こうした時は特にそうだ。生きているのかさえ定かではない。
(もしかして、このまま死んでしまうんじゃないだろうか)
そう考える時、ハルはふたつ感じることがある。
――このまま死んでしまえばいいのに。
あるいは、このまま死んでもらっては困る、と。
どちらの感情も、その根は同じだ。
エイビィは、ハルの大切なものを奪った。父も、きょうだいも、友達も、家も、全てだ。
あの『家』の前にいた場所のことを、ハルは何も覚えていない。だから、父は機械、きょうだいは機械、友達は機械で、家はあの広大な遺跡だった。機械以外の生きている存在を、ハルは自分以外には見たことがなかった。
今思えば、音声機能がほとんど壊れて久しかったのだろう。父の声は、ハルの声とは違ってノイズがかってひしゃげ、時折ぷつぷつと途切れていた。それを気にしていたのか、父もあまり話すことはなかったけれど、ハルに様々なことを教えてくれた。美味しいコーヒーの作り方、古く温かい音楽、機械の扱い方。
きょうだいたちには会話機能はついていなかったが、いつも一緒に遊んでいて、かれらの言いたいことは何でも分かった。遺跡の中はハルにとってはとても広い遊び場で、駆け回って疲れては、好きなところで寝ていると、父が慌てて毛布をかけに来てくれたものだった。
――エイビィは、それをすべて壊した。今では、ハルはあの遺跡に帰ることもできない。
父たちがなにか悪いことをしていたのを、ハルは知っている。
遺跡の中に生えた『蔦』たちのことについてだけは、父は詳しいことを教えてくれなかったし、あれらが何を考えているのかはハルも分からなかった。ただ、ハルは蔦たちが、ハルから隠すように、捕まえたハイドラの操縦棺からこぼれた赤いものを片付るのを見たことがある。いけないものを見た、と思った。だからそのことについて、父に聞いてみたことはなかった。
あれが人間の死体だったのだ、ということを、今ではハルは理解できる。
父たちは何かの理由があって人間を殺していて、そのためにエイビィがやってきて、あの遺跡を壊したのだということも。
けれど、だからエイビィを許そうと思ったことは一度もない。エイビィも、そうしたことをハルに言ったことは一度もない。
許さないとハルが言った時、エイビィはむしろ、そうするのが当然だというように笑っていた。だが同時に、ハルがこの残像領域で、自分なしには生きていけないことをハルに通告した。ハルがあの遺跡では、父やきょうだいたちなしには生きて行かれなかったのと同じように。
(はやく、ひとりで生きられるようになれればいい)
そうすれば、エイビィのことで気を煩わせることもない。かれをさっさと殺して、どこかでひとりでやっていける。人間とかかわることもなく、機械とだけ触れ合いながら一緒に暮らしていける。ハルは、そう信じている。
そのためには、ハイドラライダーになるしかない、と思っていた。……正直なところ、ハルはそれ以外の生き方をいまいちよく知らなかった。
だが、この前『ライズラック』に乗った時、ハルはエイビィの後ろで、まともに座っていることすらままならなかった。
エイビィを腹の中に収めている『ライズラック』を、ハルはあらためて見やる。
あれから、ハルは気まずくなって、『ライズラック』のそばへ近づいていなかった。なんとなく、『ライズラック』に裏切られたような気がしていた。ただ単に、自分の体がついて行っていないだけなのは、頭のどこかで分かっていたが、誰かのせいにしなければ、やっていられなかった。
このままハイドラに乗ることができなかったらどうしよう、とも思う。
あるいは、その前にエイビィがここで死んでしまったらどうしよう、とも。
何も知らないまま、あそこできょうだいたちと死んでしまえればよかったのではないか、とさえ。
「……あっ」
エイビィが『ライズラック』の操縦棺の中から出てきたのを見て、ハルは思わず声を上げ、硬直する。髪を下ろし、パイロットスーツも着ていない。遠目で表情はよくわからなかったが、まだ調子の悪い時の顔をしているような気がした。リフトに乗るのを見て、ハルは慌てて目を逸らす。
「ハル」
声がかかるのに、ハルは思わず肩をびくつかせた。声をかけてくるなどと思わなかった。
エイビィはリフトから降り、まっすぐにこちらへ向かって歩いてくる。ハルはカップを持ったまま、エイビィが来るのをじっと待ち受ける。
「一時間後にマーケットに行くわ。準備をしておいて」
ただ、かれはハルの目の前までわざわざやって来ることはなかった。声を張り上げなくても届くような距離へ来ると、それだけ言って、こちらの返事を聞くこともなく居住区の方へと戻っていく。ハルは何も言えないまま、エイビィの背を見つめ、カップを持つ手に力を込めた。
こういう時のエイビィは、有無を言わせないというよりは、ただただ億劫そうな空気を漂わせていた。何を考えているのか、まるで読み解けないような顔だ。
エイビィから、父やきょうだいたちから感じていたような優しさを感じたことはないし、ハルもかれにそんなことは求めていなかった。けれども、エイビィは外では一応ハルには優しくして見せたし、いつもならば『キャットフィッシュ』の中ででも、そうした振る舞いをしている。
だが、今回のような時、かれはぜんぜん、ハルに頓着しないような顔をしていた。それが、恐ろしいような気もするし、いつもよりもいけ好かないことがなくてよいと思うこともある。
ハルは小さくなっていくエイビィの姿から顔を背け、飲みさしのコーヒーカップを床に置いた。
(わたしが殺すから)
今。そう言ったら、エイビィがどんな顔をするのだろうかと思う。エイビィを殺すのはわたしだから、それまで死ぬなと。いつものように、笑ってみせることはないような気がしていた。それがなぜか、分からない。エイビィが調子の悪い理由も、ハルには分からないままだ。
「……マーケット」
ぼそりとつぶやくと、ハルは大股にエイビィの後をついていく。もし、エイビィが戻ってくる前に調子を戻していたら、きっとハルがシャワーを浴びていないことに小言を言うだろう。調子が戻っていて欲しい、とハルはどこかで願っている。
ハルが去った後、Se=Bassの機械の腕が下りてきて、置いて行かれたコーヒーカップをするすると拾い上げ、トレーとともに片付けて行った。
霧深い日だった。
残像領域において、マーケットと呼ばれる場所は複数存在するらしい。どこも同じ機能を持っていて、週替わりでパーツが売りに出されているのはどこも変わらず、購入できる品の質や種類も同じだが、実際に陳列されているパーツの数や規模はそれぞれ全く異なっている。
ハルたちがやって来たのは、その中でも特に人の集まる、大きなマーケットのようだった。通りにはテントが立ち並び、その下にはハイドラのパーツが見本として置かれている。立ち止まる人間が多いため、自然と人の流れも滞りがちになっていた。
「……ハル、はぐれないように手を繋いでいて」
人混みの中、エイビィがこちらへ手を差し出すのから、ハルは反射的に身を引く。エイビィはため息をついて、強くは言わずにハルから視線を背けた。ハルは背を向けたエイビィの服の裾をおずおずと掴む。
――エイビィの調子は、それほど良くなっているようには見えなかった。
こうしてマーケットにやって来たのは気分を変えるためか、仕事への義務感からかは分からない。けれど、この人混みは決してかれにいいように作用はしていない。ただ硬い顔で、頭に入っているのかどうか、並べられているパーツを見回している。
ハルの方もなんとなく落ち着かない。いつもならばパーツの方から、自分がどういった性能なのか教えてくれるほどなのだけれど、そうした声も今はよくは聞こえなかった。ただざわざわと、思い思いに話す人々の声が妙に大きく聞こえてくる割に、中身は何も聞き取れず、耳どころか頭まで痛くなってくる。
もともと、人の多いところは得意ではなかった。エイビィもそれは分かっていて、こうした場所へ来る時はハルに留守番を任せることもあった。
ハルは人混みをかき分けて進んでいくエイビィの背中を見上げて、裾を握る手に力を込める。今日、ここにハルを連れてきたことに何か考えがあるのかどうか。もしかしたら、何も考えられていないのかも知れない。こちらを振り返って気にすることもない。
(……)
だんだん腹が立ってくるのを感じて、ハルはエイビィの服の裾を握り締めた。
それでも、エイビィは振り返ることがない。生地が伸びるとかなんとか、いつもなら言ってきてもいいはずなのに。
(…………)
そもそも、エイビィの気分に振り回されるのが癪だった。
確かに出かける前は心配する気持ちもあったけれど、こうして人混みの中をうろうろさせられるのだって疲れるのだ。
(………………)
エイビィは一言もしゃべらず、ハルに何をして欲しいとも言わないままだ。
それで、こちらに何かを察してもらおうと思っているのだろうか。それはいかにも図々しい話ではないだろうか? かれはだいたい、ハルの家族の仇なのに。
「……………………もういい。」
ハルはエイビィの裾から手を放した。エイビィがようやくこちらを振り返るのに肩をびくつかせるが、口に出してしまったものは仕方がない。ハルは立ち止まり、エイビィを睨み付けた。
「もういい。ひとりで回る!」
「ハル?」
訝しげな声に応えず、エイビィに背を向けて走り出す。
エイビィが追ってきているかは分からなかった。人の流れに逆らい、人の間をすり抜けて走るのは、ハルにはそれほど難しい話ではないが、エイビィはそうではないだろう。
ただ、ハル、と叫ぶ声が聞こえたが、それを振り切って、ハルはマーケットを走っていった。
どこをどう走ったのか思い出せない。
少しでも人混みから逃れエイビィから離れようと、道を曲がり、小道を抜け、人の横をすり抜けて。
息の上がって走れなくなるころには、周囲に人気はほとんどなくなっていた。
石造りの壁にもたれかかって息を荒げ、ハルはようやく辺りを見回す。
霧はますます深くなっていて、手を伸ばすと手首から先が白く霞むほどだった。まとわりついてくるようなひんやりとした空気に身を竦めて、ハルは目を瞬かせ、息を整える。
マーケット、と呼ばれる範囲からは、恐らくまだ出てはいないはずだ。マーケットに出入りできるのはハイドラライダーのライセンスを持った人間か、その付き添いの人間だけ。入るためにも出るためにも、検問を通る必要がある。
けれど、どうやってパーツを並べてある場所に戻ったものかは見当がつかなかった。
ハルがひとりで回ると言った以上、エイビィも――もし探しているとしたら――マーケットのメインストリートから出ることはないはずだ。このまま戻れなかったら、エイビィと合流することもできないまま、侵入者として外に出されてしまうかも知れない。
そうしたら、果たしてこの霧深い残像領域で、またエイビィと会うことはできるだろうか。あの状態のエイビィがそこまでして、ハルを探すだろうか。
「……うう」
低く呻いて、ハルは壁から背を離した。当てどなく歩き出そうとするが、どう歩いて行っていいのかも分からない。立ち止まっているのとそう変わりない速度で、恐る恐る歩を進めてみるけれど、すぐに止まってしまった。
悪いのはエイビィだ、と思う。
だが、そうは思っていても、かれがすぐここまでやって来るわけではなかった。
「ううーっ……」
唸り声を上げ、拳を握り締める。
涙がこぼれるのを情けないと思っていて、それを冷静に嗤う自分がどこかにいるような気がしているけれど、押しとどめるのに作用はしなかった。
どうすればいいのかも分からない。立ち尽くして涙を拭い、顔を俯かせる。
「――あなた、こんなところでどうしたの?」
どれほどの時間そうしていただろうか。
かかった声に顔を上げる。霧の向こうにぼんやりと、誰かの影が浮かんでいる。その影が、ゆっくりとこちらに近づいてくるのを見て、ハルは思わず体を硬直させた。
「あなたって、エイビィのところの子よね。……私の顔、覚えているかしら?」
目を瞬かせる。ハルより明るい金髪の、なんとなくきつそうな顔立ちをした女性だ。どこかで見た覚えがあるけれど、どこで見たのかは思い出せなかった。もともと、人間の顔を覚えるのは得意な方ではない。
「エイビィとはぐれたの?」
ハルは躊躇いがちに頷く。エイビィはハイドラライダーの間ではそれなりに顔が知れていて、ハルもその後ろにくっついているから、セットで覚えているというものも多い。相手を信用していいかどうかは分からなかった。
「とりあえずマーケットまで戻りましょう。案内するから、ついてきて」
女性が踵を返す。一瞬、ハルはついていくかどうか迷ったが、その背がすぐにも霧に紛れていくのを見て、慌てて後を追った。
「チャーリーよ、チャーリー=キャボット」
彼女がそう名乗ったのは、ハルをマーケットの中にあるカフェに連れ込んで、温かい紅茶がふたつ運ばれてきた後のことだった。
メニューを選んだのは彼女だ。ハルに何を頼むか聞きさえしなかった。
「『ヴォワイヤン』の……」
ティーカップの中でゆらゆら揺れる琥珀色の紅茶から目を逸らし、ハルは対面に座るチャーリーを見上げる。平べったい頭部を持った索敵機の姿を、ハルは明確に思い浮かべることができた。そのパイロットのことを、エイビィがチャーリーと呼んでいたことも。言われてみれば、こんな顔をしていたような気もする。
「そう。あの時は大変だったわね。吐いたりしなかった?」
「……だいじょうぶ」
「よかった、あなたが乗るような機体じゃないでしょうにね。あの機体」
どういう意味だ、と問う代わりに、ハルはチャーリーを睨み付ける。睨み付けたまま、カップを取って口に運んだ。
「ん……」
まずかったら吐き出してやろう、と思っていた。が、ほのかに香る花の香りに、ハルは声を漏らす。チャーリーはこちらの内心を知ってか知らずか、ゆるく微笑んで自分のカップを持って見せた。
「落ち着く香りよ。……ねえ、ハル。あなたって、どれぐらい彼と一緒にいるの?」
「どれぐらいって……」
ハルは眉根を寄せる。
ちゃんと数えていたわけではないが、まだ一年、経つか経たないか程度だろう。どうしてそんなことを気にするのか。
「私、人の顔って忘れたことがないの。顔だけじゃないけどね」
チャーリーは言いながら、カップに口をつける。ハルがその意味を取れないうちに、こちらへわずかに身を乗り出し、顔を覗き込んでくる。
「彼について、私はいくつか考えていることがある。あなたって、彼の……」
ハルはチャーリーから視線を逸らし、店の外へ目を向ける。
窓の外は相変わらず深い霧に覆われている。影のように多くの人が行き交い、雨が降っているわけでも、風が吹いているわけでもない。
だが、動く機械の気配がした。武装したハイドラの。しかも、一機や二機ではない。
「――どうしたの?」
話を切って、チャーリーが問いかけてくる。その間にも、肌の粟立つような強い気配がこちらに近づいてくるのを感じる。どう言っていいものか迷いながら、ハルは口を開いた。
「ハイドラが」
「……行きましょう」
チャーリーは、こちらの短い言葉だけで、あるいは表情だけで何かを察したのかも知れない。紅茶をティーカップに半ば残したまま椅子を立った。
「どっちから?」
マーケットは相変わらず霧深く、人混みも解消されてはいなかった。ハルは眉根を寄せながら、気配の方向を指差す。
チャーリーは頷いて、ハルの手を引きながら、器用に人混みの間をすり抜けて行った。だが、どうしても逃げ切れるような速さにはならない。気配は既に音になり、こちらに近づいてきている。
――霧を割くように空に火線が走るのを、ハルは息を飲んで見上げた。
繋いだ手に滲んでいる汗が、自分のものなのかチャーリーのものなのか分からない。マーケットには相変わらずひんやりとした深い霧が漂っていたけれど、この人いきれではそれもすぐに温められ汗ばむような熱気に変わっていた。
爆発が起こり、霧の中にきな臭い煙が混じっても、それほど騒ぎが起きることがないのは、ハイドラライダーやその仲介人たちが集まるマーケットならではだろう。ただ、さすがにこの霧もあって、避難は順調には進んでいない。煙に咳き込みながら、ハルは空を仰ぐ。薄暗い白い空が閃光に照らし出されて瞬き、目を灼いた。
マーケットで戦闘行動を起こす馬鹿がいるかよ、と誰かが毒づく。まったくかれの言う通りなのだろうだけれど、言ってみたところでもう戦いが始まってしまっているには違いなかった。一秒先には、こちらにハイドラの銃弾が飛んできて、ここにいる人間が吹き飛ばされてしまう可能性もある。
怖くはなかった。ハルはチャーリーに手を引かれながら、その背を見上げる。こういう時、怖いと思った時はなかった。きょうだいたちが『ライズラック』――エイビィに潰されていった時さえ、怒りや悲しみを感じても、恐怖を覚えたことはなかった。エイビィの、あの何を考えているか分からない表情の方が、よほど――
(エイビィ)
そう。エイビィだ。
かれも、まだこのマーケットのどこかにいるはずだ。ハルに愛想を尽かせて帰ってしまっていない限りは――あり得ないとは思っていたけれど、いっそそうであればいいのにとも思った。ここから立ち去っていれば、戦闘に巻き込まれている可能性もない。
だが、エイビィはまだこの戦場のどこかにいる。ハイドラに押し潰されて、『ライズラック』に乗らないまま死んでしまっている可能性だってある。
そうなったら、自分はどうすればいいのだろう。エイビィを自分で殺せないまま、父やきょうだいたちの仇を取れないまま、同じようにここで死んでいくだけか。
そう思うと、気が遠くなる。
恐ろしいのではない。ただ、ひどい焦燥感だけがあった。
「――」
気が付くと、その場に立ちすくんでいた。
汗ばんだ指がずるりと滑って、チャーリーの手が離れる。チャーリーがこちらを振り返り、人混みも構わずに屈み込んだ。死にたいのか、と誰かが怒鳴った。ハルもそう思う。けれど、動けなかった。
「エイビィが」
ハルの言葉から、チャーリーが何をどう読み取ったのかは分からない。無言のまま、ハルの方へ手を伸ばし、硬直したハルを抱き上げる。
「エイビィが……!」
「彼なら自分で何とかするわ。今は自分たちのことを考えるしかないのよ」
チャーリーの抑えられ、落ち着いた声音は、そうかも知れないと思わせる強さがあった。少なくとも、ハルの口を噤ませる程度には。チャーリーはそれ以上何も言わず、ハルを抱えたまま人の波の中を早足に歩いていった。ハルもまた黙りこくったまま、チャーリーにしがみつく。
開放された検問を抜け、色分けされたように広がる不毛の荒野を歩いてしばし。『ヴォワイヤン』は、廃墟の影に巧妙に隠されていた。その平べったい頭部を見上げて、ハルはチャーリーの腕の中で身を硬くする。
「大丈夫、この機体はあんまり動き回らないから」
何気ない口調で言って、チャーリーはほどけるように操縦棺を開いた『ヴォワイヤン』へ、足早に歩いて行った。
『ヴォワイヤン』の操縦棺の中は、『ライズラック』のそれとはかなり趣が異なっていた。シートの形状はゆったりとしており、操縦桿の類もない。操縦盤の代わりにキーボードが置かれている。画面が大きくとられていて数が多く、違う企業のハイドラであることを差し引いても、まったく役割の違う機体であることは感じ取れた。
虫の羽音めいた音を立てながら、『ヴォワイヤン』の画面に光が灯る。ぼんやりと明るくなった操縦棺の中、ハルは画面を避けるようにひっそりと貼られた写真を見つけて、目を瞬かせた。
「破滅的ね」
ハルを膝の上に座らせたチャーリーは、手元に浮かんだウィンドウを見てそうつぶやいた。ハルの訝しげな顔に気が付いたのだろう、微笑んで続ける。
「マーケットに手を出した連中のことよ。多勢に無勢だわ」
チャーリーがキーボードに指を走らせるとともに、ハルを浮遊感が襲う。『ヴォワイヤン』には『ライズラック』が以前アセンブルしていたような『翅』のようなものはついていなかったが、恐らく飛行ユニットが積まれているのだろう。
次いで正面の大きな画面に表示されたのは、霧に覆われていない鮮明な外部の映像だ。もちろん、いきなり霧が晴れたわけではない。『ヴォワイヤン』の機能だろう。コンピュータ・グラフィクスだ。
遠くに飛び交うハイドラと、炎の上がるマーケットの様子が鮮明に視認できる。ただし、ハイドラの姿までは正確には映せないようだった。ぼやけ、黒い影になっている。
視覚映像の向かって左に、以前『ライズラック』に送られてきたのと同じ配置図が表示された。この濃霧をものともしない、強力な索敵能力。
「さ、煙の中を走らされたぶんはお返ししないとね。
みんな、マーケットに当てないように気を付けてくれればいいんだけれど」
キーボードを叩くとともに、レーダーに表示された光点にマークが追加された。
最初十数個しかなかった光点は、瞬く間にマーケットを取り囲むように二十、三十と増えていく。マーケットまで、自分のハイドラを操縦してやって来るハイドラライダーは少なくない。マーケットに手を出せば、最終的にこういうことになるのは当然だ。
そこからは早かった。マーケットに近づくまでもなく、チャーリーに敵の識別を振られた光点が次々消えていく。
「味方側に、足の速い格闘機がいるわね。彼かは分からないけれど」
眉根を寄せて、チャーリーが物憂げにつぶやく。ハルは言われて、視覚映像に目を凝らしたが、もちろん、ハイドラの姿はみな影のようにぼやけて見えることはなかった。
「心配しなくても、戦闘はもう終わるわ。そっちの方がすぐ……どうしたの?」
言葉を止めて、チャーリーが訝しげな顔をする。ハルも恐らく、似たような顔をしていた。
操縦棺の中を見回し、レーダーの表示を確認する。『ヴォワイヤン』の近くには、ハイドラの姿はない。一瞬、気配を感じたような気がしたのだが、気のせいだったのか。
「……なんでもない。大丈夫、おわるまで待ってる……」
言ううちにも、レーダー上に敵影はほとんどなくなっている。エイビィがもし、死んでいたら。
「ハル、こっちに向かってくる機体がある。さっきの格闘機よ」
ほっとしたようなチャーリーの声に、ハルはぱっと顔を上げた。
身を乗り出して、レーダーと視覚映像を見比べる。確かに、こちらにまっすぐ飛んでくる機影が見えた。チャーリーがキーボードに指を走らせると、その影が鮮明さを増していく。
果たして、確かにそれは、『ライズラック』だった。だが、様子がおかしい。こちらに近づくスピードが速すぎる。
チャーリーが息を呑み、身を硬くするのが背中越しに感じ取れた。
レーダー上で敵の表示が消え、戦闘の終了を告げてくる。だが、『ライズラック』は依然、猛スピードでこちらへ突っ込んでくる。その手には、粒子スピアが握られていた。『ヴォワイヤン』に、『ライズラック』を避けるような運動性はない。
『ライズラック』が画面の中で粒子スピアを振りかぶった。視覚映像の中いっぱいに、スズメバチに似た『ライズラック』の顔が表示される。
「オーガスト! あなたやっぱり……!」
チャーリーが鋭く叫んだのは、ハルの知らない名前だった。
ハルは、遺跡の中で殺されたきょうだいたちのことを思った。そこに行けるのだろうか、と。
次の瞬間、けたたましい音を立てて、アラートが上がった。
レーダー上、『ヴォワイヤン』の背後に、敵を示す光点が一瞬表示され、すぐさま消える。
『ヴォワイヤン』に爆発の衝撃が伝わったが、それだけだ。『ライズラック』は粒子スピアを引き、こちらから緩やかに離れる。
「次元潜航……」
震える声でチャーリーが言葉を紡ぎ、ぐったりと脱力した。ハルは息を詰めたまま、『ライズラック』を見つめていた。
「ハル!」
『ライズラック』から降りたエイビィは、ハルを見てひどく安堵した顔になった。いつものエイビィだ、と思う。ハルはチャーリーから離れ、エイビィにおずおずと歩み寄った。
「無事でよかった。怪我はない?」
「うん……」
ハルは一方的に叫んでエイビィの前から逃げたことを今さら思い出して、目を逸らす。エイビィは眉尻を下げて、チャーリーの方へ目を向けた。
「あなたが助けてくれていたのね、ありがとう」
「お礼を言うのはこちらの方でしょ。……危ないところだった」
「あら、あなたのおかげよ。レーダー図がちらついたんで気が付けたんだもの。
……さて、ゆっくり話をしているって感じじゃないわね。あたしたちはさっさと帰ることにするわ」
霧の向こう、いまだ煙の立ち上るマーケットを振り返り、エイビィは肩を竦める。チャーリーは何か言いかけたように口を開いたが、すぐに閉じた。小さく頷く。
「私もそうする。――機会があればまた」
エイビィはそれに答えなかった。ハルに視線を向けて、手を差し伸べてくる。
ハルは逡巡した後、その手を掴んだ。『ライズラック』を見上げながら、ハルは『ヴォワイヤン』に貼ってあった写真のことを思い出す。そこに映っていた男性の顔は、どこかエイビィに似ていた。
……チャーリーには、恐らくまた会う必要がある。
ハルは黙りこくったまま、エイビィの手を握る手に力を込めた。