#3 VS『ステラヴァッシュ』

 四枚の『翅』を蕾のごとく閉じ、『ライズラック』は重く垂れこめた霧の中、頭を下げて荒野の上を舐めるようにはしる。
 レーダーにかかる反応は、ウォーハイドラもそれ以外も夥しい数に上っていた。電磁波の影響も色濃く、敵であるのか味方であるのか、近くに寄らなければ判別できない。
 外部マイクを通してヘッドフォンから耳に入る音も、渾然として判別がつかなくなりつつあった。音が多すぎるのだ。まるで一つの音楽のように、塊として耳の中に入ってくる。
 スモークを焚いたような薄暗い視界の中で、時折走る閃光だけがはっきりと目に入るが、それも彼我の距離は分からなかった。
 戦闘が始まって、すでに十数分が経過している。敵に被害を与えたという通信も、味方機に被害が出たという連絡も、同じように疎らに耳に届き始めていた。
「……!」
 不意に、待ち受けるように張り巡らされた有刺鉄線が目に飛び込んでくる。
 エイビィは息を詰め、操作盤に指を走らせた。
 瞬間、『ライズラック』の腕を覆うように取り付けられた筒状のパーツが展開するとともに火薬が炸裂し、一本の鉄杭が鉄線へ向けてまっすぐに射出される。
 建築用の鉄杭――いわゆるパイルは、ウォーハイドラの武器として確かな地位を得ている。炸薬によって射出されるパイルは一発それ限りではあるが、その代わりに威力は強力だ。紙切れのように鉄線を吹き散らし、完全に沈黙させる。
 エイビィは安堵の息を吐いて、首をゆるゆると振った。高圧電流を纏った有刺鉄線は、操縦棺に護られたハイドラライダーまでには届かないものの、チューブによって液体を全身に張り巡らされたウォーハイドラの駆動系に対しては甚大なダメージとなる。間一髪、というところだ。
「これで、……まだ、序の口ってところか……」
 『ライズラック』に鉄線を越えさせながら、エイビィは外部カメラを望遠に切り替える。当然、白い霧に阻まれて視線は通らないが、それでもその向こうで蠢く無数の影をぼんやりと視認することはできた。
 背後から、より大型のウォーハイドラたちが地面を踏み鳴らして現れ、あるいは電磁鉄線をキャラピラで踏みつぶしながら、『ライズラック』を追い越していった。敵も味方も、魑魅魍魎の群れだ。
 リソスフェア要塞は、遺跡要塞と呼ばれる、はるか昔から残像領域に存在する遺構の一つである。
 《月の谷》へ通じるこの要塞が、他の三つの遺跡とともに西方辺境の軍閥によって再起動されて久しいが、企業連合がここを陥れるための口実を整えたのはつい先日だ。
 ハイドラ大隊による、大規模な砦攻め。
 エイビィと『ライズラック』は、まさにその真っただ中にいた。
「……」
 『ライズラック』の『翅』を開く。パイルを放った後に再び折り畳まれた射出パーツは、腕に付けたままだ。多くの射出パーツは、パイルを使用時までに破壊されないように装甲を厚く作られているため、中のパイルを使用する前も後も、ウォーハイドラにとっては盾のような役割を果たす。
 『ライズラック』を上昇させながら、エイビィは機体の各部の状況を確認すると、暗澹たるため息をつく。
 機動力を確保するため、設計上極限まで削られた『ライズラック』の装甲は、今やほとんど破壊されていた。それも、奇妙な力で捻じれたように、だ。
 『ライズラック』を歯牙にかけたのは、ライフルや重プラズマ砲などではなく、霊障だった。
 混沌とした戦場の音楽の中、ノイズ交じりの歌声が耳に届いている。
 エイビィは眉根を寄せて、ヘッドフォンに手を当てる。
 聞いたこともないような商品や施設の宣伝。
 言葉を為さない異質な歌声。
 破綻した話を繰り返すラジオのパーソナリティー。
 どれも残像領域では珍しくはない、霊障の表出だ。
 そのすべてが霊障の仕業なのか、それとも電磁波の乱れなのかは分からなかったが、ここまで『ライズラック』を損傷せしめられたエイビィにとっては、すべてが忌々しい音の連なりだった。
 はるかな昔から幾度となく戦場となり、無数の血を流してきただろう遺跡要塞の周囲には、霊障が多く発生するホットスポット、霊場と呼ばれる領域がいくつも形成されていた。戦場にかかる電磁波の濃い時にはかれらは特に強力に力を発揮し、ウォーハイドラといえども引っかけられればこの始末である。
「――」
 『ライズラック』のカメラを切り替えて、エイビィは浅く息を吐き出した。
 張り巡らされた電磁鉄線は押し寄せるウォーハイドラたちによって潰され、貧弱なトーチカも相手になりはしない。
 向こうにとって頼みの綱であろう『テンペスト』も、装甲を固めたハイドラによってじわじわと削られつつある。
 『ライズラック』は前に出て引っ掻き回し、ある程度の役目は果たした。ゆっくり後ろからやってくる大型ハイドラに後を任せてももはや問題はない。が、ここで退くのは業腹だ。
(深追いだと分かってはいるけれど――もうひと働きぐらいはね)
 上昇した『ライズラック』の足元に、重プラズマ砲を充填しつつある『テンペスト』の姿がある。一撃で落とすことはできないが、装甲を削っておくことぐらいのことはするべきだろう。
 エイビィは操縦桿を握り、『ライズラック』にブレードを構えさせる。
 ――ノイズ交じりの歌声がすぐ耳元で聞こえたのはその時だった。


 その日、エイビィをまどろみの中から引き上げたのは、耳慣れたアラーム音ではなかった。
 ぱちりと目を開けたエイビィは、まだだるさの残る体を起こすと辺りをゆっくりと見回す。『キャットフィッシュ』の居住区画、エイビィの自室は相変わらず艦の中とは思えないような整えられた内装で、自分が地面の上にいると錯覚さえしそうなほどだ。
 霊場に二回も打ち据えられて、ほうほうのていで『ライズラック』を後退させてから、すでに一週間が経過している。
 結局のところ、リソスフェア要塞はハイドラ大隊によって攻略され、企業連合は《月の谷》への道を一歩踏み固めた。
 《月の谷》へ向かうまでに立ち塞がる遺跡要塞はあと三つ。次の要塞に手をかけるまで、企業連合は準備にじっくりと時間をかけるだろうが、いずれ侵攻戦はまたやってくるだろう。
 エイビィとは言えば、この一週間、『キャットフィッシュ』でほとんど何もせずにいる。
 例え撃墜されても、破損したパーツを組み替えればすぐに出撃できるのがウォーハイドラの強みであって、『ライズラック』もすでに仕事をできる状態にはなっていたが、肝心のエイビィにやる気がなかった。依頼の方も大規模攻砦戦の後で少なくなっており、会社――『シルバーレルム』も、ノルマをこなせなどうるさいことは言ってこない。
 落ち込んでいるわけではない、とエイビィは思っているが、二度も霊障の直撃を喰らったのは確実に効いていた。精神的なものなのか肉体的なものなのか、とにかく全身にひどい疲労感があって、一日中起き上がれない日もあったほどだ。
 以前、搭乗者のいないウォーハイドラ……『ゴースト』の霊障を喰らった時はそんなことはなかったのだが、あるいは一方的にやられ、反撃もできないまま撤退してきたことが影響しているのかも知れなかった。
 それでも、ここ数日は気分も体調も上向きになってきて、仕事をこなせそうな状態にまでは落ち着いている。今日は組み直した『ライズラック』の慣らし運転をする予定になっていた。
「――Se=Bassセバス、どうしたの?」
 艦を司る執事ボットの名前をぼんやりと呟いて、エイビィは髪を掻き回す。
 見慣れた部屋の中で、聞いたことのない通知音が繰り返し繰り返し流れている。恐らくSe=Bassセバスに元から設定されていたものなのだろうが、それが何を意味するものなのかがエイビィには分からない。緊急性のないものであるのは確かだったが、それだけだ。
 ベッドから降りて、エイビィはあくびをかみ殺しながら部屋を横切った。
 『窓』の中の画面には、指示をしていないのにも関わらず、すでに外の様子が映し出されている。
 その上には薄く帯がかかり、『VISITOR』の文字が躍っていた。
「来客?」
 やはり、覚えがない。エイビィは手を払ってSe=Bassセバスに音を止めさせると、画面の中に目を凝らす。相変わらずの白い視界の中、近くを通る建造物が緩やかに流れていく。
 その中に、不意に見覚えのある円筒型のフォルムが映ったのを見て、エイビィは眉根を寄せた。そこから伸びた五本の脚も、やはり見覚えがある。それは霧に紛れて消えたり現れたりを繰り返しながら、低空飛行をする『キャットフィッシュ』の後をぴったりとついてくる。その体高はおよそ20メートル程度――ハイドラとしては、ほぼ最大級の大きさ。
「……『ステラヴァッシュ』」
 その名前を呟いて、エイビィは眉をしかめた。脳裏にそのハイドラライダー、ダリル=デュルケイムの暢気な顔が浮かんでいる。
 確かにあの時名刺を渡しはしたが、まさか航行する『キャットフィッシュ』までやってくるとは思わなかった。
《こちら、『ステラヴァッシュ』、ダリル=デュルケイムだ。『キャットフィッシュ』に搭乗許可を願う!》
 通信回線越しに聞こえるかしましい声に、エイビィは思わず頭を押さえる。時刻を確認すると、起床予定時間よりも二時間も前だった。もともと慣らし運転のつもりであったし、ここで停泊しても問題はないものの、叩き起こされてぼんやりした頭では、ただ腹立たしいとしか考えられない。
「……Se=Bassセバス、『キャットフィッシュ』を着陸させて。
 あの男、この艦にあんなデカブツ乗せられると思ってるのかしらね」
 エイビィは言いながら、『窓』に背を向ける。
 『キャットフィッシュ』は霧の中で緩やかに減速し、廃墟の群れの中に降下していった。


 スズメバチに似た『ライズラック』の頭部を、ハルが手を伸ばして撫でている。
「あれは何をしているんだ?」
 『ステラヴァッシュ』から降りてきたダリルは、黒い不死鳥のエンブレムが付いた青いパイロットスーツに身を包んでいた。怪訝な顔で、格納庫の『棚』に横たわるライズラックへ目を向けている。
 彼の巨大な相棒は、小型艦である『キャットフィッシュ』には当然ながら積載できず、艦の横で留守番をしていた。先日の騒ぎからひと月も経っていないのにも関わらず、残像領域のど真ん中でこうして乗機と離れているというのは不用心にも思えるが、今日は特に霧が濃い。見つかる心配はないということかも知れない。
「あなたは何をしに来たの?」
 眠気の残る目をこするのを堪えて、エイビィはダリルをねめつける。事前に連絡もよこさず、眠りを妨げた来訪者に対する態度などこんなものだ。
 が、ダリルは気後れする様子もなかった。笑みを浮かべ、鷹揚に頷いて、
「ああ、もっとあんたに話を聞いてもらいたいと思ってな」
「話って……」
 エイビィは言葉を切る。
 このダリルという男は、数年前に残像領域で行方知れずになったという友人を探していた。焼けた操縦棺の中からマヴロス・フィニクスの病院に搬送され、そこで消息を絶ったハイドラライダー。
 先日、エイビィはダリルに呼び止められ、その男ではないか、と問われたのだった。
「あなた、『冠羽』付きのハイドラライダーでしょう。こんなところまで私用でハイドラを持ってきてもいいわけ?」
 マヴロス・フィニクス社は、残像領域に存在する複合企業の一つだ。
 野放図に膨張を繰り返す、頭を持たない黒い不死鳥――その中で、大きな力を持つ企業もいくつか存在する。末端の『尾羽』に対して、それらは『冠羽』と呼びならわされていた。
 ダリルが籍を置いているのは『冠羽』の敷地を守る警備会社だ。ウォーハイドラの機体とライセンスは個人に与えられるものであり、ダリルの『ステラヴァッシュ』も本来はダリルの所有物ではあるはずだが、『冠羽』を護るべきハイドラが――しかも、これほどの大型機が断りもせずに残像領域をうろつくのはいい話ではない。
「あっちも俺の事情は承知の上で雇ってる。今さら外出ぐらいでどうこう言われないさ。
 それに、あんたはいちおう同じMPの人間だしな」
「ああ、そう……」
「あんたのこと、調べさせてもらった」
 本題、とばかりに声音を変え、ダリルは腕を組んだ。
「調べるって、何を?」
「あんたと『ライズラック』が今の会社――『シルバーレルム』にやってきたのは、今から二年前だ。そうだな」
「……そうね」
 尋問のような口調に、エイビィは眉根を寄せる。
「だが、それ以前のデータがない」
「残像領域では、まともなデータを持ってる人間の方が少ないでしょう」
「『シルバーレルム』だって、社員の前歴ぐらいは洗うだろ。
 それに、あんたは手練れのハイドラライダー。いくら人間の命が安いからって、その活動の痕跡はどこかに残っているはずだ」
 口早に言って、ダリルはずいと間合いを詰めてくる。
「だが、データベースにあるあんたの経歴は真っ白だった」
「あなた……」
 エイビィは顔を顰めて、ダリルを見つめ返した。
 ダリルが所属しているのは、『冠羽』付きの警備会社。同じMP傘下の企業であり、なおかつ競合こそしていないものの、『シルバーレルム』とはほとんど関連のない企業である。
 『シルバーレルム』は社員のプロフィールを大っぴらにはしていない。口では軽々しく言っているが、まともな手段でアクセスしたのではないはずだ。
「ほかのログも当たってみたが、エイビィという男の二年よりも前の記録はどこにもない。
 あんたは二年前、唐突に残像領域に現れた。
 でも、残像領域の外からやってきたわけでもない」
「……舐めてたわね、あなたのこと」
 深々とため息をつき、エイビィは頭を押さえる。
 執念深く、常軌を逸していなければ、生きているかも分からない人間を何年もの間探し続けることなどできない。
 前に話を聞いた際、エイビィは確かにダリルに対してそう感じたが、多少話しただけの相手をここまで調べてくるとは思わなかった。
「言っておくけど、あたしはあなたのお友達じゃないし、記憶喪失でもないわよ。
 ログがないことについてだって、あなたに教えることは何もないわ」
「む……」
 ダリルは鼻白み、目を泳がせる。
 『シルバーレルム』のデータベースに当たったのであれば、彼が突き止めたのはデータがないということまでだ。その先は直接問いただそうとしたのだろうが、むろん、ダリルに自分のことをべらべら話すつもりはない。
「あたしのこと、その彼に似ていないって言ってたじゃないの」
「あの後、考えが変わったんだ。
 ビルも、ああいうことに頭の回る奴だった。それに、DRの扱いも上手かったし」
「それだけでつきまとわれたら、こっちとしてはたまったものじゃないわよ」
「なら、あんたが身の証を立ててくれればいい。俺の納得できるように」
 きっぱりと言って、ダリルは腕を組む。てこでも動かないといった風だ。この男を『キャットフィッシュ』に招き入れたことを、エイビィは後悔し始めていた。
「……エイビィ、『ライズラック』が――」
 と。
 足早に近づいてきたハルが、そこまで言って言葉を切り、その場に立ち尽くす。『棚』から出てきてはじめて、ダリルのいることに気が付いたらしい。目を瞬かせて、ダリルとエイビィを見比べる。
「彼のことは気にしないで。ハル、『ライズラック』がどうしたの?」
「早く外に出たいって。もう調子は大丈夫だからって言ってる」
 一週間前、『ライズラック』が撃墜された時には、怒り狂ってエイビィを格納庫から締め出そうとする勢いだったハルだが、ここ一日二日でこちらもだいぶ落ち着いていた。ダリルのことを気にしながらも、小さな声でそう告げてくる。ここのところ動かしてもらえないままだった『ライズラック』のフラストレーションを代弁しようとしてか、恨めしげな視線にも思えたが。
 エイビィはハルに向かって頷いてみせると、訝しげな顔でいるダリルに向き直った。
「こちらにも予定ってものがあるわ、ダリル。これ以上居座るつもりなら、無理にでも出て行ってもらうけれど」
「今日は仕事は入っていないはずだろ?」
「……あなた、ほとんどストーカーね」
 なぜそんなことを知っているのか、と問い詰める気にもなれない。エイビィは腰に手を当て、再び嘆息した。
「アセンブル後の慣らし運転よ。確かに会社からの仕事は入れていないけれど、暇ってわけじゃないわ」
「慣らし運転……」
「ええ、分かったら、さっさと行ってちょうだい」
「――分かった! なら、俺と勝負をするのはどうだ?」
「はあ……?」
 ダリルはにやりと笑って、ひとつ指を立てて見せる。
「あんたの『ライズラック』と、俺の『ステラヴァッシュ』で。模擬戦だよ。
 そっちが勝ったら、俺はあんたにつきまとわない。俺が勝ったら、あんたは俺に自分の経歴を教える。どうだ?」
「問題外ね。こちらにひとつもメリットがないわ」
 エイビィは切って捨てて、ダリルを睨んだ。ダリルは首を傾げて見せ、
「メリットならあるさ。俺はこのまま戻ったらあんたのことをいくらでも嗅ぎまわるぜ。思い出してもらうまでな」
 きっぱりと言う。エイビィは眩暈のするのを感じて、思わず眉間を押さえた。
 ダリルの言いようは全くまともではない。少し話しただけの相手を、過去の経歴がないからというだけのことで記憶喪失の友人であると思い込み、付きまとおうというのだ。こちらが申し出を引き受け、勝ったところで、この執念深い男が約束を守る保証もない。
 はっきり言ってまともに取り合いたくはなったが、むやみに詮索されるのは避けたかった。すでにダリルは、『シルバーレルム』のデータベースに入り込んでいるのだ。次にどこを調べ始めるか分からない。
「……分かったわよ。ただし、壊したパーツ代はそっちに持ってもらうわ」
「ああ! 任せておけ。それじゃ、後でな」
 満面の笑みを浮かべて、ダリルが足早に格納庫を去っていく。
 エイビィはそれを見送ってから、もう一度、大きなため息をついた。厄介な男に目をつけられたものだ。
「たたかうの?」
「気が進まないけどね。少しアセンブルを調整しないとならないわ」
 ハルの問いに、エイビィは疲れた口調で答え、『ライズラック』の方へ目を向けた。以前、『ステラヴァッシュ』と相対した時、向こうの装甲の状態は把握していたが、前と完全に同じアセンブルでいるということはそうそうないだろう。ハイドラというのはそういうものだ。
「『ライズラック』をきずつけるのは」
「ええ、修理代は向こう持ちって言ったって、何度も撃墜されるつもりはないからね」
「エイビィ」
「大丈夫よ。単なる模擬戦だし、すぐに終わるわ。
 あなたはここで留守番していてちょうだい。Se=Bassセバスと『キャットフィッシュ』は任せたから」
「そうじゃなくて」
 ハルはそこで言葉を切り、しばらく視線をうろつかせていたが、やがて拳を握ってこちらを見上げ、
「『ライズラック』……おちこんでいるから。もうまけないで」
「……ええ、分かってる」
 格納庫の壁へ目を向ける。その向こうには、主人を待つ『ステラヴァッシュ』が鎮座しているはずだった。
「『ライズラック』はもう負けない。
 それに……そうね。確かに、これ以上調べられるのはごめんだわ」
「しらべるって?」
「何でもない」
 エイビィは軽く返して、横たわる『ライズラック』の方へ歩いて行った。


 『ライズラック』が『翅』を開き、深い霧漂う荒野の上へと緩やかに降り立った。
 ほんの数十メートル先には、『ステラヴァッシュ』の偉容がある。廃材の転がる地面をしっかりと踏みしめるその五脚の上には、ダリルの乗る操縦棺が鎮座しているはずだったが、今は霧に覆われてよく見えなかった。この巨大ハイドラと『ライズラック』では、ゾウと人間の子供、あるいはそれ以上に体高の差がある。
 もっとも、汎用型のDRに乗り込んでこの機体と相対する羽目になった前回よりはよほど気が楽だ。
 正規のハイドラライダーであるダリルが乗り込んでいる状態ならば、武器も使わず足踏みをしているだけ、ということはないだろうが、今回はこの巨体を地道に登る必要もない。
「……放っておいてごめんなさいね」
 操縦棺の中、操作盤を軽く撫ぜて、エイビィは小さくつぶやく。
 『キャットフィッシュ』からここまで、まだ軽く動かしてきただけだが、機体の調子はすこぶるよかった。本調子でないのはハイドラライダーだけだ。何とか、『ライズラック』についていかなければならないだろう。
《ルールを決める必要はあるか?》
「どちらかが動けなくなるまででいいでしょ。修理代はそっち持ちなんだしね」
 ダリルの通信につっけんどんに返しつつ、エイビィは画面の中のひときわ大きな反応へマークを加える。長引かせるつもりもなければ、必要以上に話をするつもりもない。……ダリルの口ぶりには余裕があった。エイビィから向こうの操縦棺が見えないように、ダリルからは『ライズラック』が視認できていないはずだが、果たしてその態度には根拠があるのかどうか。
 エイビィはダリルとの通信を切って、一度深呼吸をした。
 レーダーの中には『ステラヴァッシュ』以外にもう一つ光点が表示されている。『キャットフィッシュ』は戦闘に巻き込まれないように、やや離れて廃墟群の中に停止していた。
「ハル、『ステラヴァッシュ』はどう?」
《……分からない。まだこどもなんだと思うけど》
 その『キャットフィッシュ』に呼びかけると、やや間を置いてハルがぼそぼそと返してくる。エイビィは眉根を寄せた。
 確かにダリルは、ライセンスを取得してまだ日が浅いと言っていた。だが、ハイドラに「こども」と呼べるような状態が存在し得るのか、エイビィには分からない。ハルの感性によれば、と言ったところだろう。
《ただ、なにか》
「なにか?」
《へんなかんじが》
 『ステラヴァッシュ』が一歩こちらへ足を進める。
 エイビィは『ライズラック』を上昇させながら、大きく後ろに飛びずさった。
 『ステラヴァッシュ』の脚部の関節がわずかにきらめいたかと思うと、そこから勢いよく炎が噴き出し、『ライズラック』に追いすがるように地面を舐めていく。
「火炎放射っ?」
《まだまだ品はあるぞ!》
 耳元でがなり立てるようなダリルの声に辟易しつつ、エイビィは『ライズラック』を立ち並ぶ廃墟の影へ移動させた。ほとんど頭上から――恐らく操縦棺にほど近い位置にアセンブルされている――速射砲が降り注ぎ、盾にしたビルの壁面にぶち当たる。
「ハル、変な感じって?」
 コンクリートと鉄筋の抉られる耳障りな音に顔を歪めながら、エイビィは『ライズラック』を影から影へ、上昇を続けながら移動させる。すでに頭上を取るのに申し分ない高度を確保できてはいたが、向こうの攻撃の厚さがまだ読めない。
《なにか、いやな》
「なるほど――ね!」
 エイビィは小さく叫び、『ライズラック』を急速に転回させた。銃弾に打ち砕かれた破片が機体に降りかかるが、それだけだ。エイビィは操縦桿を握り直して、画面に映る情報を忙しなく確認する。
 『ステラヴァッシュ』からの攻撃はほとんど間断なく行われていた。先日はほんの身じろぎする姿しか見せていなかった巨体から、いくつもの砲撃や火線が降り注いでいる。眠る小山のようだった前回とは打って変わって、小さな要塞のようだった。
(もっとも、本物の要塞よりはマシかしら)
 まだ歌声の残滓が耳に残っているような錯覚を覚え、エイビィは舌打ちした。
 『ライズラック』は小刻みに向きを変えながら、『ステラヴァッシュ』との距離を徐々に詰めていく。その間にも向こうからの攻撃は続いていたが、『ライズラック』にはかすりもしていない。そもそも、こちらが高度を上げたとはいえ、この霧の中でダリルは『ライズラック』の姿をほとんど視認できていないはずだ。レーダーであたりをつけ、それらしい場所へ射撃を繰り返しているに過ぎない。
 だが、数を撃てばいずれ当たる、と思っているわけではなさそうだ。単純に近づかれたくない、という印象を受ける。
 それも、こちらの近接武器を警戒しているというよりは――
(『変』で『嫌』な感じね)
 ハルの言っているものについて、想像できることはあった。
 何にせよ、『時間をかけるつもりがない』が、『時間をかけてはならない』に変わった程度だ。ダリルにこれ以上付き合うつもりはない。
 程なくして、『翅』を広げた『ライズラック』が『ステラヴァッシュ』を眼下に捉えた。
《むっ――》
 ダリルの呻く声を聞き届けて、エイビィは通信を切る。この濃霧の中でも、頭上からここまで近づけば、その黒い巨体を見失う心配はない。
 そして、ハイドラライダーが乗っている位置を、エイビィは知っていた。
「……さようなら、短い付き合いだったわね」
 『ライズラック』が『翅』を閉じ、腕を振りかぶりながら一直線に降下した。
 『ステラヴァッシュ』が回避行動を取る気配を見せたが、間に合っていない。勢いのまま扁平な操縦棺の上に降り立った『ライズラック』が腕を振り下ろし、そのまま格納されたパイルを――
「……っ!」
 ――――狙いのわずかに逸れたパイルは、『ステラヴァッシュ』の装甲に斜めに突き立ち、潜り込み切ることなく途中で停止した。
 金属同士のぶつかる硬質な手応えに歯を食いしばって、エイビィは通信回線を開く。
Se=Bassセバス! 『キャットフィッシュ』を移動させて! 頭は出さないでよ!」
《どうした? 一体……》
 真っ先に聞こえてきたダリルの声を無視し、エイビィは操縦桿を握り直した。黒い操縦棺の背を滑るように『翅』を閉じた『ライズラック』が駆け下り、『キャットフィッシュ』の潜む廃墟群へ向かって飛び込んでいく。
《待て! まだ勝負は――》
「聞こえないの!? 近づいてくる連中がいる!」
《なに?》
 履帯の回る音、プロペラのローター音、機械の脚が大地を踏みしめ、跳躍する音。
 まだ距離は離れているものの、外部スピーカーからヘッドフォンを通じて届けられるそれらの音は、確実にこちらへ接近していた。レーダーの索敵範囲の隅に、その反応が塊となって現れる。
《どういうんだ? 行軍中か?》
「さあね! 少なくとも、こっちには気づいて……」
 エイビィは途中で言葉を飲み込んだ。レーダー上の表示が分かれて、編隊を変え始めている。
「……好戦的」
《数が多いな。二機ぐらいなら駄賃にできると踏んだのかも》
 ダリルの予測は恐らく正しい。数機を前に出しながら、周囲の機体がそれをカバーする動きだ。確実に、こちらを食いに来ている。
 リソスフェア攻砦戦以降、ハイドラライダーが相手取る『敵』の顔ぶれに変化があったという話は聞いていた。
 以前は、ハイドラが出張ってくることはほとんどなかった。中心となるのは戦闘ヘリに装甲車、旧式のDR、手強いとしてもせいぜいが『テンペスト』――油断すれば危ない相手、というのは、裏を返せば気を付けてさえいれば負けることはないという意味に他ならない。一機二機、迂闊な機体が落とされることはあったが、戦術的に部隊が敗北を喫したことはなかった。
 ハイドラ大隊の局地的敗北。それはまさに、先日の攻砦戦で初めて耳にしたことだ。
 当時未確認機であった『ドゥルガー』タイプと呼ばれる機体の働きが大きかったと聞いている。その上それ以降、そこに境界線があったとでもいうように、日銭稼ぎに行うような仕事にさえ最新のDRやハイドラが姿を現し始めた。
 耳に届く音の中には、履帯や車輪に混じって、まさに足音があった。ハイドラか、DRか。『ドゥルガー』であれば、荷が勝つ可能性がある。
(いや)
 『ライズラック』の姿勢を制御しながら、エイビィは視線を巡らせた。ダリルはまだ元の位置を動かず、停止したままでいる。
「ハル、あちらの顔ぶれは分かる?」
《……ヘリが五、戦車が三、『ウィンドベル』と『ポーン』が二、……それから、知らない子がいる。たぶんDR》
《分かるのか?》
 ハルの声がこちらを通じて聞こえたのだろう。驚いたようなダリルの声に、エイビィは口の端を歪める。
「ダリル、チャージまであとどれぐらい?」
《五分くれ……待て、気が付いていたのか?》
「なら、接触の方が早いわね。今ので確定よ。
 いい、あたしが時間を稼ぐわ。『キャットフィッシュ』はこのまま離れて」
《……分かった! 任せたぞ!》
「こちらのセリフよ。あたしに当てないでよね!」
 エイビィは言い放ち、『ライズラック』を廃墟の陰から飛び出させた。


《俺の勝ちってことでいいんじゃないか?》
 夕焼けに、霧が橙色に染まっている。
 スクラップと化したDRや戦闘ヘリから立ち上る煙もまた、霧に溶けて区別がつかなくなっていた。通信越しに聞くダリルの声はあっけらかんとして、名案を思い付いたと言わんばかりだ。
「馬鹿言わないで」
 『キャットフィッシュ』の格納庫で、濡れタオルを首筋に当てたまま、エイビィは疲れた声を出す。『棚』に戻った『ライズラック』は、霧の中をさんざん駆け回った後遺症でほとんどオーバーヒート状態。ハルはまたかんかんで、機体のそばから追い出されてしまった。慣らし運転のつもりが、とんだ耐久テストだ。
《そっちだけじゃ処理できなかっただろう?》
「お互い様でしょ。それとも、どれだけ装甲が持つか試してみたかった?」
《それは……》
 口ごもるダリルに、エイビィは大げさに嘆息して見せる。確かに、『ステラヴァッシュ』の積んでいた『嫌な』もの……領域殲滅兵器がなければ、もっと手こずってはいただろう。だが、勝負に関していえば話は別だ。
「水入りよ、水入り。杭を頭から生やしておいてよく言うわ」
《分かったよ。今日は出直す》
「また来るつもりなの?」
《金は払うさ。それじゃまた》
 行く先々に転々と転がる残骸を踏み潰しながら、『ステラヴァッシュ』が悠然と離れていく。エイビィは頭を抱えて、椅子に沈み込んだ。通信が切れ、格納庫の中は静寂を取り戻している。
「…………仕留めておけばよかったかしらね」
 ため息交じりのその呟きは、誰にも聞かれることはなかった。