#2 黒い不死鳥

 『ライズラック』の丸い操縦棺から、『翅』がゆっくりと引き抜かれる。
 Se=Bassの腕は揺れひとつない繊細さで、蕾のように固く閉じられた『翅』を格納庫の床へゆっくりと下ろした。操縦棺の九つのソケットに接続されているパーツはすでになく、すべてが『キャットフィッシュ』の配管と配線だらけの床に整然と並べられている。
 マグカップをデスクの上に置いて、エイビィはバインダーのページを捲った。質の悪い紙には、粒子ブレードや妨害装置などの兵器から、頭部やレーダー、腕などの基本的なパーツなどの名称とスペックが事細かに記載されている。
 ウォーハイドラに接続するパーツを組み換え、戦場に対して最適化したセッティングに仕立て上げることを、アセンブルと呼ぶ。
 ハイドラのパーツは安価であり、なおかつ組み替えもごく安易に行えるため、出撃ごとに全く異なるセッティングにするハイドラライダーも多い。
 残像領域の各所で製作されたウォーハイドラのパーツは、ひとところに集められてマーケットに出品される。
 毎週出回るパーツの数は膨大で、その種類も多岐に渡る。品質もジャンク品すれすれのものから金に飽かした上質品まで様々だが、共通して言えることは、これらの大量のパーツは、週をまたげば最後、二度とマーケットでお目にかかることはない、ということだ。
 ……そのため、ハイドラライダーは毎週のようにカタログと睨めっこしながら、マーケットの品を買い求めることになる。
「ああ、脚は付け直さなくっていいのよ。まだ取り寄せ中だから」
 バインダーを下ろし、エイビィはSe=Bassへ声をかける。
 メンテナンスの終わった脚部を操縦棺に差し込み直すところだった機械の腕は、間接に備え付けられたランプを青く明滅させて、元の位置に戻すべくスライドしていった。
「またかえるの?」
 パーツをすべて引き抜かれた操縦棺の蓋が開き、ハルがひょっこりと顔を出す。
 『キャットフィッシュ』において、彼女の役割はメカニック、ということになっている。ただし、『ライズラック』のセッティングに関して、彼女が手を動かすことはほとんどない。ばかりか、Se=Bassに対するアセンブルの指示もエイビィが行っている。
 ハルの役割は、アセンブルした後にあった。つまり、今はまだ暇にしている。
「また変えるわ。いいのを見つけたから」
「それ、この前も言ってた。『ライズラック』もそれでいいんだ」
 ハルは言いながら、機械棺の中に引っ込んだ。
 エイビィはSe=Bassに作業を止めさせると、頭部さえ外された『ライズラック』の操縦棺を覗き込んだ。
 薄暗いシートの中で、ハルはシートの端に座って、光を失ったコンパネを撫ぜたり、操縦桿を軽く動かしたりしていた。エイビィは止めることはせず、開いた操縦棺の蓋に頬杖をついて首を傾げる。
「『ライズラック』はお休み中。ひっぱたかれたって起きやしないわ」
「たたかないけど」
「それに、ライセンスがなきゃ動かせない。教えたでしょ?」
「そうだけど………」
 ずるずるとシートに沈み込み、ハルは拗ねたような声を出した。
 エイビィは顔を上げて、時計を確認する。
「ハル、そろそろ出かけるわよ。今日はお昼も外で食べるから」
「……るすばんする。Se=Bassのごはんをたべる」
「パーツを受け取りに行くの。確認せずに接続する?」
「…………行く」
 しぶしぶ、といった調子でハルがシートから起き上がるのを見てから、エイビィ操縦棺を離れた。
 バインダーを差し出すと、何も言わずともSe=Bassの腕が下りてきて、それを受け取った。


 不死鳥の尾羽は長い――
 マヴロス・フィニクス社は、残像領域に存在する複合企業コングロマリットの一つである。
 もともと、小さな医療関係の会社であったこの会社は、買収・独立・分離・吸収を無数に繰り返し、今や部門同士で企業間戦争を引き起こすほどに肥大化した。
 参入分野もまた、多岐にわたる。赤ん坊用の食品からウォーハイドラのパーツまで――しかも関連企業のそれぞれが、ウォーハイドラやDRぐらいは抱えているというほどだ。
 エイビィの所属するPMCも関連企業の一つだが、自分と同じエンブレムを付けた部隊と戦った経験は一度や二度ではなかった。
 だが、身内同士で相食み続けたところで、マヴロス・フィニクスすべてが消滅することはない。
 どこかが弱れば、どこかが強くなる。完全に協力し合うことはなく、いつも腹を探り合ってはいるが、共倒れになることもない。
 どこを潰してもすべてが死に至ることはない。頭のない黒い不死鳥。
 倫理もなく、主義もない。
 エイビィはそれを唾棄すべきだとも思うし、好ましいとも考えている。
「なんだお前、まだ生きていたのか!」
 ライフルを携えた警備員に社員証を見せ、鉄条網と高い塀に囲まれた敷地を歩いてしばし。
 古びたテントの入口をくぐったエイビィを出迎えたのは、忌々しげな怒鳴り声だった。いつもの挨拶だ。
 声の主は機械油に薄汚れた老人で、両足が膝から下、アンティーク調の機械義肢になっている。彼はテントいっぱいに詰め込まれたジャンク品の間をすり抜けながら、大股にこちらに歩いてきた。
「おかげさまでね、園長。あなたはちょっと痩せた?」
「パーツならできているが、車がちょうど全部出ちまっててな。四半時もすれば戻ってくるんだが――」
 早口にまくし立てる『園長』の目が、ふとエイビィの背後に向けられる。ジャンク品の陰に隠れていたハルが、びくついて完全に体を引っ込めた。
「会うのは初めてだったかしら?」
「まさかお前がガキを引き取るとはな。道理でこのところ霧が薄いはずだ」
「別に、気がおかしくなったわけじゃないわよ」
「ああ、お前は自分に利のあることしかせん奴だよ」
 『園長』は鼻を鳴らして、禿げかけた頭の上に載ったゴーグルをかけると、こちらから顔を背ける。
 エイビィはその言葉を肯定も否定もしないまま、背後のハルを振り返った。挨拶でもさせようかと思ったが、彼女は隠れたきり出てくる様子もない。
 ため息をついて、エイビィは『園長』に向き直る。
「一時間後には取りに来るわ。車を予約しておいてもらえるかしら?」
「あの腕はいい出来だ。出撃する時には連絡を入れろ」
「……呼ぶのは、思いっきり霧の濃い時にするわ」
 エイビィが顔を引きつらせるのをゴーグル越しに見やって、『園長』は満足げな顔になった。いそいそと紺色の前掛けから帳面を引っ張り出し何事かを書きつけると、ページを破り取ってテントの奥へ戻っていく。
「社食に寄るなら気を付けろ。ライセンスを盗まれた奴がいるからな」
「まさか。鉄条網の中よ?」
「さあな、業者を吊るし上げてもなんも出てこんのだと。
 お前、そのアマラだかカマラだかと仲良くな」
「なにそれ?」
「知らんのか? 狼に育てられた娘の名前だよ」
 『園長』は振り返らないまま、さっさと行けとでもいうように軽く手を払った。エイビィは首をすくめて踵を返し、テントを出る。ハルが少し遅れて、ついてくる気配があった。
 MP社の私有地にかかる霧は、『園長』の言った通り今日はかなり薄く、立ち並ぶビルの最上階まで視認することができた。すれ違う人間の顔が見えない、ということもない。
「エイビィ」
「『ライズラック』は、ライセンスだけじゃ動かせないわよ」
 駆け足でついてくるハルに、エイビィはにべもなく答える。
「じゃあ、どうしてぬすむの」
 ハルの声は、明らかに納得がいっていない様子だった。エイビィはため息をついて、ハルを振り返る。
「……高く売れるのよ。
 ハイドラを動かせなくていいから、とにかく欲しいって連中もいるの。あたしには分からないわ」
 盗んだライセンスを使ってハイドラに乗っているものがいるということを、エイビィは伏せた。話をややこしくするだけだ。ハルは押し黙り、それ以上問いかけてはこなかった。
 敷地内を『園長』のテントからさらに数分歩くと、周りよりもやや背の低い建造物が姿を現す。
 外を拒むように窓さえほとんどないほかのビルと違い、窓が大きく取られ、中の様子が覗けるようになっていた。
 社員食堂、と呼ばれるものはビルの中にもあるが、機密保持のためにセキュリティーランクの低い人間や施設に関係のない人間をビルの入り口で弾くシステムになっている。研究員でもないエイビィが入れる施設はこの敷地の中では三つしかない。所属する会社、『園長』のテント、それからこの社員食堂だ。
 ガラス戸を開けると、来客を知らせるように、鈴を模した機械音が店内に鳴り響く。
「好きなものを注文すればすぐ出てくるから。選んでちょうだい」
 トレーをハルに渡し、エイビィは店内を見回した。昼時をやや過ぎているせいか、席はほとんど埋まっていない。席取りに苦労することはなさそうだ。
「……」
 ハルはと言えばトレーを抱え込んで、困ったような顔でメニューを見上げている。Se=Bassの作ったサンドウィッチすら食べきれない彼女にとって、人間が作った人間用のメニューを選ぶことは至難の業だ。
(……ま、偏食を直すにはいい機会よね)
 エイビィは独りごち、自分もメニューを選ぼうと視線を上げる。
「おい、あんた!」
 と――
 不意に背後から声をかけられ、エイビィは目を瞬かせた。
 何事か、と振り返る間もない。肩に手が置かれ、無理矢理振り向かせられる。
「ちょっと……?!」
「あんた、俺の顔に見覚えはないか!? あるだろ、なあ!」
「はあ?」
 勢い込んで話しかけてくる男を、エイビィはまじまじと見つめ返した。
 その顔に、見覚えはなかった。


 男は、ダリル=デュルケイムと名乗った。
「すまない。本当によく似ていて……」
「……に、したって、いきなり強引すぎるんじゃないかしら?」
 サラダの鶏肉にフォークを突き刺しながら、エイビィは呆れ声を出す。
 声をかけてきた男をなだめすかして話を聞いてみれば、こうだった。
 彼は数年前に行方知れずになった知り合いを探しており、エイビィの後ろ姿がその知り合いによく似ていたため、感極まっていきなり迫ってしまった。覚えもないのに申し訳ない、と。
「どんな大怪我を負っていても、俺のところに連絡ぐらいは入れるはずだ。
 ――だから、もしかしたら記憶を失ってるんじゃないか、と」
 黒い不死鳥のエンブレムが付いた作業着に身を包んだダリルは、長身のエイビィ以上に上背があり、巨漢と言っていい。そのダリルが身を縮こまらせて恐縮しているさまは、滑稽にも見える。
 言っていることはと言えば、かなり都合がよかった。つまり、ダリルは記憶を失っているかも知れないその知り合いを探して、似た人間を見つけては、確信犯的に強引に声をかけて回っている、ということだ。
 強いショックでもって記憶を失って人間が、同じように大きな衝撃によって記憶を取り戻すなどという話は、少なくともエイビィは、安っぽいドラマの世界でしか聞いたことがない。
「死んでいるって考えた方が自然だと思うんだけど、それって」
 気のない声を出して、エイビィは隣に座っているハルに視線を向けた。ハルは結局サンドウィッチを頼んで、半分残している。こちらの話には興味を向けることはなく、足をぶらつかせながら窓の外を見つめている。
 エイビィはため息をついて、ダリルに視線を戻した。ダリルは鳶色の目を伏せて、眉根を寄せている。
「……俺も、正直そう思うことはある。だが、あいつが病院から消えた以上、諦めきれなくて……」
「消えた?」
 微妙な表現だ。エイビィは目を瞬かせる。
「ああ……!」
 ダリルは勢い込んで頷き、こちらへ身を乗り出した。恐らく、それが彼の縋るべき手がかりであり、正当性なのだろう。エイビィはわずかにのけぞって、相手を見返す。
「三年前、撃墜された操縦棺の中には死体がなかった。
 あれはたぶんヒートソードだ。中は焼けていたが、死体がなくなるほどじゃない」
 エイビィの脳裏を、先日交戦したウォーハイドラの姿がよぎった。熱で焼き潰れ、ハイドラライダーを喪ってなお動いていた、錆付いたゴースト。
 ――お前は死んだはずだ。
 あのとき振り払ったはずの、ノイズがかった声が耳元で聞こえたような気がして、エイビィは眉をひそめた。
「……どこかで聞いたような話ね」
「本当か?」
「あなたのお知り合いとは関係ないわ。それで、その人が病院に運ばれたのを突き止めた?」
「ああ、まさにこの敷地内にある病院だ。途中までは名前の照会もできた。
 だが数日経ってから、そんな患者はいない。データのミスだと言われて、それっきりだ」
「……」
 エイビィは押し黙る。確かにそれは、奇妙な話だ。
 何らかの理由で患者の存在を秘匿する必要があったとしても、死んだということにしてしまえばいいだけだ。一度収容した患者をいなかったことにするなど、まるで疑ってくれと言わんばかりだ。…ダリルは、どうもそのことに思い至ってはいないようだが。
「大変だとは思うし、変な話だとも思うけれど、やっぱりあたしには関係のない話ね」
 話を打ち切ることにして、エイビィはサラダの最後の一口を口に運んだ。
 ダリルは寸前で餌を取り上げられた犬のような顔になって、がっくりと項垂れる。いちいち、オーバーな男ではある。
「あたし、そんなに似ている? その彼に」
「いや……」
 問いに、ダリルは言葉を濁した。
「だが俺は、顔も変わっているんじゃないかと思っている。操縦棺は焼けていたし……似ていたのは、歩き方だ」
「歩き方ねえ……」
 わずかな望みに賭けてあてどなく探し回ってきたからなのか、それとももともとそういう性格なのか、ダリルの話は自分に都合のいい部分と、一応の理屈を組み立てている部分が混淆しているように思われる。
 そうでもなければ、この残像領域で、撃墜されたハイドラから消えた男を探し続けることなどできないのかも知れない。
 もちろん、男が収容されたという病院の対応はすっきりしないが、それだけだ。それだけを頼みにして見知らぬ人間に声をかけ続けるのは、正気の沙汰ではないようにも思う。
 なんにせよ、これ以上ダリルの話に付き合う気にはなれなかった。時計を見れば、『園長』との約束の時間まで間がなくなってきている。そろそろ頃合いだろう。
「……あたしたち、そろそろ行くわ。お友達が見つかるように祈ってる」
「ああ、話を聞いてくれてありがとう……
 と、そうだ。ちょっと待ってくれ」
 ダリルは思い出したように言って、作業着のポケットをまさぐりだした。
「名刺を渡しておく。俺もハイドラライダーなんだ。何かあったら……ええと」
 見つからないのか、ポケットの内布をひっくり返す勢いで探しているが、次第にその顔が強張ってくる。
「あら、いいのよ名刺ぐらい。また機会があったらで」
 立ち上がり、テーブルの上に自分の名刺を滑らせながら、エイビィは目を瞬かせた。ダリルは青い顔で首を横に振る。
「違うんだ。名刺入れには、ライセンスが一緒に入っていて――」
「どこかに忘れてきたんじゃ……」
 言いかけて、エイビィは途中で口を噤んだ。テントで『園長』が言っていたことを思い出していた。『社食に行くなら気を付けろ』……
「――もしかして、ライセンス泥棒?」
「嘘だろ?! ようやくこの前取得したばっかりなんだぜ!」
 それがどうした、という言葉をエイビィは呑み込み、自分のライセンスが無事であることを確認してから、食堂の中をぐるりと見渡した。相変わらず人はまばらで、逃げるものや、怪しいものは見当たらない。既に立ち去った後かも知れなかった。
「さっき、男の子が」
 と。
 退屈そうに足を遊ばせていたハルが、ぼそりと声を漏らす。
「ハル。見たの?」
「その人のポケットに手を入れてた」
「なっ……! 何で言ってくれなかったんだ?!」
 ダリルの問いに、ハルは両手で耳を塞いで顔を背けた。エイビィは嘆息する。
「ハル、男の子ってあなたより年上? 下?」
「……ちょっと上」
「だ、そうよ。犯人の顔さえ分かれば、あとは通報してここを封鎖してもらえば――」
 けたたましいサイレンが、エイビィの声を遮った。前後して、大きな地響きがテーブルを揺らす。
 それがウォーハイドラの『足音』であることを察して、エイビィは顔色を変えた。
「大型の……多脚式ウォーハイドラ? こんなに近く……」
「…………まさか、」
 ダリルの顔はすでに真っ青になっている。すでにそこにないことが分かっているのにも関わらず、手は相変わらず作業着のポケットを探っていた。
 エイビィは舌打ちして、ダリルの肩を掴む。
「外に出て確認しましょう。あなたのハイドラかも知れないならなおさらよ」
「わ……分かった」
 ダリルが頷くのを待たずに、エイビィは足早に食堂を出た。


「あんな大型ウォーハイドラどこに格納していたのよ!」
「地下だ! あー、まだ試験運転ぐらいしかしていないのに!」
 ダリルの悲鳴めいた声を聞きながら、エイビィはビルの間を駆けていく。
 鉄条網の中に姿を現したウォーハイドラは、巨大だった。おおむねビルの五、六階程度の体高があり、つまり大雑把に言って二十メートル程度。これは、ハイドラの中でも最大級に分類されるサイズだ。円筒型の操縦棺を囲むように昆虫めいた脚部が五本ついており、それぞれがばらばらに動いている。
 多脚重量型の宿命として、その動きは鈍重だったが、あいにくビルには避けるということができない。ハイドラが動くたびに、足のぶち当たったビルの外壁が崩れ、鉄骨がむき出しにされていた。
「……慣れてない動きね。やっぱり、中に乗っているのは子供?」
「地下ハンガーは子供が入れるような場所じゃないんだが……くそ、俺の『ステラヴァッシュ』が……」
「泣き言を言っていないで何とかする方法を考えましょう。放っておいてもここのハイドラ隊がどうにかするでしょうけど……」
 エイビィは言葉を飲み込み、多脚ハイドラ……『ステラヴァッシュ』の巨躯を見上げる。
 ライセンスを盗んだ子供が、あのウォーハイドラに乗っているかも知れないと知っているのは、今はエイビィたちだけだ。手っ取り早く操縦棺を撃ち抜かれてしまう可能性もある。
「あんたのハイドラは?」
 ダリルが、思ったよりもしっかりした口調で問うてくる。外に出て多少は落ち着いたのかも知れない。エイビィは首を振る。
「……今はメンテ中よ。艦に戻るまでも時間がかかるわ」
「なら、こっちだ! ついてきてくれ!」
 こちらの返事も聞かぬまま、ダリルが方向を変える。エイビィは一瞬迷って、後を追った。
 ハイドラによる噴霧の影響か、周囲の霧はなお濃くなり始めていたが、ダリルの足取りに迷いはない。ビルの通用口に駆け込み、非常階段を下りていく。
「どうするつもり? 予備のハイドラがある?」
「着けば分かる!」
 階段は長かった。ダリルがいくつかの認証を通り、エイビィはその後ろをついていく。
 周囲を揺らす地響きは、種類が変わり始めていた。ハイドラの足音から、爆発音に。
「ここだ」
 薄暗い階段の突き当り、ダリルはパネルを探し当てた。音を立てて、扉がゆっくりと開き、通路に光が差し込んでくる。
「これって……」
 目に入ったものを見て、エイビィは眉根を寄せた。


 ウォーハイドラの根幹を成すのは、操縦棺を中心としたハイドラ・コントロール・システム。戦闘ごとのセッティングを容易に最適化できるHCSは、ハイドラの兵器としての地位を頂点にまで押し上げた。
 DRはウォーハイドラの前身となる、HCSの使われていない機動兵器である。今では旧型となり、劣化ハイドラとも呼ばれているDRは、かつては支配的な立場にあった。そもそも『ウォーハイドラ』の名からして、DRのパイロットから取られたという話もある。
 現在でも、ライセンスを持っていないパイロットがDRに乗ることは多く、性能という意味ではハイドラに大きく劣るものの、決して忘れ去られた存在、というわけではない。
「――とはいえ、今さらこれに乗ることになるとはね……」
 機動DR『ウィンドベル』のコックピットの中、操縦席に沈み込みながら、エイビィは画面の表示を確認する。
 装備は汎用機らしく、ブレード一本きり。通常、こうしたDRは装備や性能の貧弱さを部隊編成でカバーするのだが、それも今は望めない。あの大型ハイドラを相手取るには、何とも心もとなかった。
《DRなら認証もなく乗れるし、操縦する感覚もMPのハイドラに近い。問題なく扱えるだろ?》
「まあね……」
 ダリルからのあっけらかんとした通信に、エイビィは大きくため息をつく。
 広大な格納庫の隅に置かれたDRを見た時は、再びダリルの正気を疑ったものだが、確かに機体の動き自体は安定していた。もちろん、『ライズラック』には及ぶべくもないが、汎用DRにそれを求めるのは酷だろう。
「泣き言を言っても仕方がないわね。ビルをなぎ倒されでもしたら困るもの……」
 『ステラヴァッシュ』の周囲には、すでに戦闘ヘリや走行車両が押し寄せていた。霧の中には、数は多くないが、重プラズマ砲アクエリアスを積んだ機動破壊兵器――『テンペスト』の姿もある。もっとも、見た限りではウォーハイドラの姿はない。
「警備部に連絡は?」
《ああ、子供が乗っているかもってのも伝えたが、指揮系統がどうもまだはっきりしていないらしい》
「……こういう時、うちの会社は連携が弱いのよね」
 エイビィは眉根を寄せる。
 マヴロス・フィニクスは多数の企業からなる複合企業。同じ私有地の中にこうしてビルを構えていても、関わりのない分野同士であれば横のつながりはほぼない。それでも緊急時のマニュアル程度はあるはずだが、敷地の中からいきなりウォーハイドラが出現するのはイレギュラーだ。対応も後手になっているのだろう。
 一方で、『ステラヴァッシュ』を動かしているのがダリルのライセンスを盗んだ少年だとすれば、行動が迅速すぎる。
 そもそも、地下格納庫に入るには何度も生体認証を通らなければならないのだ。以前からダリルがあの機体のハイドラライダーだと知っていて狙いをつけていたにしても、子供ひとりで辿り着ける場所ではない。誰かが手引きしているのは確実だろう。あるいは、こちらの対応が遅れることまで分かっていて、この騒ぎか。
(何のために?)
 取り囲まれ、ミサイルやライフルの攻撃を受けてなお、『ステラヴァッシュ』は健在だった。よほど装甲を厚くしてあるのか、大したダメージになってはいない。
 ただ、目立った動きもない。時折思い出したように脚を動かすが、狙いをつけている風ではなく、踏みつぶされた装甲車などもいないようだった。
《『ステラヴァッシュ』にも連絡は入れてみたが、こっちは応答自体がない。
 乗ってるのが子供なら、Gで気絶している可能性もあるな》
「……予定通り、操縦棺に取りつくわ」
《行けるのか?》
「頭を押さえるのは得意なの。
 ダリル、あなたはハイドラ部隊が持ち場を離れないように連絡してもらえる?」
《何? しかし……》
「頼むわよ」
 ダリルの答えを待たず、エイビィは『ウィンドベル』を走らせる。
 なまじその操縦性が似ているだけに、水の抵抗の中を泳いでいるようにも感じられ、何ともじれったい。それでも、手足があるだけ装甲車よりはましだ。ビルの間を駆けながら、エイビィはいつものように慣れた手つきで『ステラヴァッシュ』の周囲の機影に識別マークを付けていく。
「……これだけ大きいと、見失いようがなくていいわね」
 『ステラヴァッシュ』の足元に入って上を見上げると、その操縦棺は霧の向こうに隠れて見えなくなっていた。脚部には相変わらず射撃が集中し、派手に爆炎を上げているが、『ステラヴァッシュ』は気に留めた様子もない。悠然と佇み、時折気ままに脚を動かしている。
 エイビィは深呼吸をすると、『ウィンドベル』の通信回線をオープンにした。
「こちら、『シルバーレルム』のハイドラライダー、エイビィ。
 これから大型ハイドラの操縦棺に取りつくわ。各機は攻撃を中止して下がってちょうだい」
 説得するつもりはない。一方的に言い放って、返ってくる声を丸ごと無視すると、エイビィは改めて『ステラヴァッシュ』の操縦棺を見上げる。
 『ウィンドベル』の体高は5メートルから6メートル、『ステラヴァッシュ』は脚部だけで16メートルから17メートル。周囲からの攻撃は今の通信で多少数が減ったものの、まだ散発的に行われている。
「フレンドリー・ファイアだけは勘弁してよね……」
 誰ともなしに呟いて、エイビィは『ウィンドベル』を『ステラヴァッシュ』の脚に取りつかせると、ブレードを振り上げた。


 登攀は、思ったよりもすんなりこなすことができた。
 ブレードを『ステラヴァッシュ』の脚に突き刺して機体の姿勢を安定させ、腕を引っかけて引き上げると、ブレードを脚から引き抜いて再び突き刺す。その繰り返しだ。エネルギーや熱放出の問題はあるものの、機械は人間と違って疲れることもなく、ほとんど単純作業に近い。『ステラヴァッシュ』の脚は多くの部品によって組み上げられているため、脚や腕をかける凹凸はいくらでも存在した。
 ただし……登り始めるまではもしや、と甘い期待をかけていたのだが……脚にどれだけブレードを突き刺したところで、『ステラヴァッシュ』はその姿勢を崩すことはなかった。射撃だろうが白兵だろうが、ダメージになっていないのは変わらない。
 その代わり、こちらを振り落とすような動きをすることもない。ダリルの言っていたように中で気絶しているのか、それとも拘束されているのか、操縦法など分からないのか。何にせよ、操縦棺の中にいるものが、まともに操縦できる状態ではないのは確かだ。
 心配していた下からの射撃もない。登っている間に、混乱していた指揮系統は多少整ったようだ。霧の向こうから断続的に響いていた銃声や爆音も、もう聞こえなくなっている。
 エイビィは『ウィンドベル』のカメラを動かし、周囲へぐるりと目を巡らせる。外部マイクからは、『ステラヴァッシュ』が身動ぎする音だけが聞こえてくる。操縦棺までは、あともう少しだ。
「ダリル、ハイドラ部隊は動かないでくれている?」
《ああ、足元に集まっていた連中と違って、こっちはすんなり話が通った。だが、なぜだ?》
 訝し気な口調で、ダリルが通信を返してくる。エイビィは息をついた。DRのコックピットの中は、絶え間なく稼働させ続けた影響か、かなり温度が高くなっていた。
「それは……」
 爆音を耳にして、エイビィは口を噤んだ。しかも、『ステラヴァッシュ』の足下ではない。
《――今のは、敷地の外か?》
「ええ、始まったわね。あっちはハイドラ隊に任せて、あたしはこっちを済ませてしまうわ」
 ブレードを構え、脚と似たような要領で『ステラヴァッシュ』の操縦棺を登っていく。こちらはさほど時間はかからなかった。ある程度のところまで来たら機体を固定し、『ウィンドベル』のコックピットを開けると、外へ滑り出る。あとは、ダリルから聞き出していた通りに、『ステラヴァッシュ』の操縦棺を外から開けるだけでいい。
 果たしてそこにいたのは、手足を縛られて呻く少年だった。


「大型ハイドラが出て、ビルにしか被害がなければね、普通は陽動を警戒するものよ」
 ダリルのライセンスを回収し、少年を警備部に引き渡し、エイビィの仕事はそれで終わりだ。外から襲撃をかけてきた部隊は、外周を警備していたハイドラ部隊がつつがなく殲滅した。
 ハイドラライダーに憧れる少年を焚きつけてダリルのライセンスを盗ませたのは、社内に潜んでいた他社の内通者だった。いわゆる産業スパイだが、残像領域においては破壊工作員と変わらない。
「うちの連携が弱いのを見てこういう作戦にしたんでしょうけど、ちょっと杜撰だったわね」
「成る程……」
 戻ってきたライセンスに頬ずりしていたダリルは、分かったような分かっていないような顔で頷く。エイビィは嘆息して、腕の中で居眠りしているハルを撫でた。食堂で留守番している間に、眠ってしまったらしい。暢気なものではある。
「あなたも、自分のライセンスはしっかり持っていなきゃだめよ。死人が出なかったからいいものの」
「……それについては、あんたのお陰だ。礼を言う」
「仕事よ。お礼を言われることはないわ」
「なあ、あんた、やっぱり……」
 ダリルは何かを言いかけ、途中で言葉を切った。首をぶんぶんと横に振る。
「何でもない。今日のところは出直して来る。始末書も書かなきゃいけないしな」
「あら、そう――今日のところは?」
 問いに答えず、ダリルはさっさと歩いていってしまう。あるいは、今日の意趣返しだったのかも知れない。いずれにせよ、止める間はなかった。
 ただ見送って、エイビィは訝し気な顔でハルを撫でる。
 テーブルの上には、ハルの残したサンドウィッチが、まだ残っていた。