#12 その名を呼べ

  ……話を終えた男の顔は、すっかり青白くなっていた。
 語り始める前こそこちらを嘲るような笑みを浮かべていたが、それも今は見る影もなく、まったく表情を喪っている。
 その顔は、自分の夫になるはずだった男によく似ていた。
 いや、似ているのではない。それは間違いなくオーガストの顔なのだ。
 それを理解した時、チャーリー=キャボットは喉元に吐き気がこみ上げるのを感じて、口元を押さえた。部屋の中にはひんやりとした空気が漂い、寒気さえ覚えるほどなのに、頬を脂汗が伝っている。
 ――オーガスト=アルドリッチとウィリアム=ブラッドバーンは戦場で身体の一部を失い、無事だった部分がそれぞれマヴロス・フィニクスの病院に運ばれて接合された。
 そこまでは、ハルが持ってきた二枚のライセンスを見た時、チャーリーにも想像できていたことだった。だからこそ、この男がオーガストであると信じていた。
 一方で、それだけでは説明できないことがあったのも事実だ。
 なぜ、名前を変え振る舞いを変えて身分を隠し、別人となっていたのか。
 なぜ、それにも関わらず、チャーリーやダリルから見つけやすいハイドラライダーとして行動していたのか。
 なぜ、自分が生きていることを――あるいは、ウィリアムが死んでいることを――伝えてくれなかったのか。
 ダリルの言うように、記憶喪失であるという可能性も考えた。二年間、記憶を喪ったまま行動していた人間が、記憶を取り戻せと言われても抵抗があるのでは、と。それならばいっそ、触れないでいることが彼のためになるのでは、とさえ。
 それでもこうして聞き出さずにいられなかったのは、自分の中で決着をつけたかったからだ。死んでいたはずの男が、オーガストが、生きているかも知れないと思った。その疑念にどうしても答えを見出したかった。だからこうして確かめずにはいられなかった。
 その答えに、手が届いたはずだった。見つけ出したはずだった。取り戻しかけていたはずだった。そして、埋められなかった推測の空白を、彼が埋めてくれるはずだった。
 だが、それは完全な思い違いだった。
 この男は、オーガストではない。それどころか、ウィリアムでもない。
「……残像領域には、生きた人間の人格を素体に転写する再起動技術がある。
 その技術を利用して、記憶を不完全ながら人造人間に移し替えることも行われてきた」
 用意された原稿を読み上げるように、男はなおも淡々と言葉を紡ぐ。
 その抑揚がない声音は、普段のしなを作ったようなそれと違って、より耳慣れた、懐かしい響きがあった。それが、途方もなくおぞましく感じられる。嫌悪感のあまりに、言葉が言葉として受け取れず、耳から耳へすり抜けていくようにさえ思われた。だが、頭はじわじわと、その意味を理解しようとしている。
 これ以上は聞きたくない。聞いてはならない。だが、耳を塞ぐこともできない。
「もしかしたら、そうした技術を使えば、もっと別の可能性があったかも知れない。
 けれど、ウジェニーはそういう選択肢はとらなかったし、その時は思いもよらなかった。そもそも、遺産の技術をもってしても、脳の中で混ざり合ってしまったふたりの記憶と人格を、果たして分離できたのかどうか」
 男はそこまで言って、かぶりを振った。
 ――エイビィ、と名乗っていた男。
 つまりは、アルドリッチのA、ブラッドバーンのB。
 自分は、そこに何か思惑を感じ取ろうとしていた。だが、男の言葉を信じるならば、それはただウジェニーという女が即興でつけた、仮の名前に過ぎない。
「だから結果はこれだけ。あの女はオーガストとウィリアムの人格を破棄し、新しいもので上書きすることを選んだ。
 体を生かして、ふたりを殺した。それがすべて」
 ……そして、その名前を使っているこの男は。
「そんなことが、あるわけがない!」
 チャーリーはとっさに腰に手をやって、ホルスターから銃を引き抜いた。銃口を男へ向け、安全装置を外す。腕が震えているのが、自分でよく分かった。
「人間の脳は、機械とは違う。そんな風に、上書きや書き換えが容易にできるわけがない……していいものじゃない!」
「ウジェニーのやったことは、生きた人間の記憶を人造人間に移し替えることと全く同じ。
 ただ、その移し替えの対象がすでに記憶を持った人間で、移し替えたのが人工的に作られた人格だったというだけのこと」
 男の言っていることには、恐らく嘘偽りも、間違いもないのだろう。事実をただ述べている。だが、それを受け入れられるかどうかは、まったく別の話だった。
 銃口は、照準を合わせるどころではないほど揺れていた。拳銃で、人間を撃ったことはなかった。男はそれが分かっているのかどうか、だらりと手を下げたまま、身じろぎもしない。
「そんなもので……そんな作り物で、オーガストが消されたっていうの……」
「『作り物』でも『生きた人間』でも、情報という意味では同じ俎上に載せられている」
 男は、不意に笑みを浮かべる。見知らぬ笑い方。オーガストのものではない表情だ。
「あたしやウジェニーを責めるのなら筋違いよ。
 ふたりとも、本来であれば助からない傷だった。何事もなく死んでいくはずで――そして、その通りになった。ふたりとも、死ぬべくして死んだ」
「ふざけないで!」
 この男に、オーガストと何一つ似ている部分がないのは分かっていた。
 オーガストほど気弱でもなければ善良でもなく、その性格は真逆と言っていいほどだった。乗っている機体さえ共通項はなく、ただ、ハイドラライダーであるというだけだ。
 それでも、その顔が、声が、あまりにも似ていたから、期待を捨てきれなかった。そして、それは間違っていなかった。
 しかし、この男はオーガストではない。オーガストの身体を使っている他人に過ぎない。この男が名乗る名前すら、チャーリーには受け入れられなかった。その名自体が、オーガストを人間ではなく、単なるパーツとして扱っている。
「死んだ人間の身体を勝手に使われて、死んだ人間の顔で喋られて! 知らないふりをしていろって言うの!」
「なら、あたしを撃つ?」
 男は胸に手を当て、眉根を寄せてせせら笑った。
「そうしたいならそうすればいい。あなたの愛しい男の身体に、風穴が開くだけよ」
「これ以上! その顔で喋らないで!」
 何も考えられなかった。
 当たろうが当たるまいが関係ない。引鉄を引く、と思った。
「よせ! チャーリー!」
 だが、指先に力を籠める前に、鋭い制止の声が走った。
 チャーリーは反射的に銃を引き戻す。男もまた驚いたように目を見開き、背後を振り返った。
 声を上げたのは、先程から黙りこくったまま座り込み、俯いていたダリル=デュルケイムだった。顔を上げ、こちらを見上げている。
「……そこまですることはない、チャーリー。エイビィの言う通りだ。この上、オーガストの身体を傷つけることはない」
「どうして……」
 どうして落ち着いていられるのか。どうしてまだこの期に及んでこの男をエイビィなどという名前で呼べるのか。
 疑問が喉につっかえて、言葉をなさなかった。チャーリーは眉根を寄せて、ダリルを睨み付ける。
 ダリルはこちらをまっすぐに見つめ返していたが、不意に視線を下げた。
「それに、その子の前で人殺しをすることないだろ」
 言葉に、チャーリーははっとなって足元を見やった。ハルはただ、チャーリーの傍に立って男の方を見つめている。ずっとそうして、何かを考えている。
 チャーリーは沈黙したまま、ホルスターに銃を戻し、伝っていた涙を拭った。
「エイビィ、あんた、本当にビルじゃないんだなあ……」
「あなたに会った時から、それはずっと言っていたでしょう?」
 先程まで喚いていたのが嘘のように、疲れた声でつぶやくダリルに対して、男もまたため息混じりに問い返した。毒気を抜かれた顔でかぶりを振る。
「……そもそも、あなたはどうしてあたしをウィリアムだと思ったんだか。オーガストと違って、顔が同じってわけでもないのに」
「それは、俺もずっと不思議だったよ。あんたとビルには似ているところなんてさっぱりなかった。
 最初に会った時だって、歩き方が似てるとかなんとか言ったけど、結局はただ、そんな気がしただけなんだ」
 立ち上がり、ダリルは後ろ手にパイロットスーツについた埃を払った。不意に、その顔に笑みが浮かぶ。
「でも、そうだな。あんたの身体の一部にビルが使われているんだったら、そういう気がしてもおかしくなかったのかも知れない」
「…………」
 ダリルの表情とは対照的に男の表情が強張っていくのを、チャーリーは見逃さなかった。
 が、それにダリルは気がついていないのか、大きくため息をついて言葉を続ける。
「俺だって、ビルが死んでいるんじゃないかって思うことは、今まで何度もあったんだ。何度も諦めてきた。だから、死んでいるんだったら、それでよかったんだ。そう思うしかない。
 それに、あんたの身体にビルが使われていて、ビルがその中で生きているんだったら、まだいくらか――」
「やめて!」
 ダリルの言葉を遮り、男が叫び声を上げた。
 今までとは違って、その声は大きく動揺し、震えている。
「ウィリアムは生きてなんかいないわ。死んでいるのよ。……確実に!」
「……何だって?」
 訝しげな顔でダリルが問い返す。だが、続く言葉が出る前に、アラームの音が重なった。
「呼び出しよ。……次は戦場で会いましょう」
「おい、話はまだ――」
 ダリルが手を伸ばすのを乱雑に払いのけ、男は逃げるように部屋を出ていった。


 立ち上る煙。
 荒野に、ハイドラの残骸が転がっている。
 それが『ライズラック』ではないことを確認して、ダリルは『ステラヴァッシュ』の操縦棺の中で安堵の息を吐いた。
 遠目に火線が飛び交っているのが見える。コンピュータ・グラフィクスによって多少補正されているとはいえ、あまりにも鮮明な映像だ。それほどに、霧の薄い戦場だった。常に霧に覆われている残像領域において、年に数度あるかないかというほどの。
 深い霧は、格闘機にとっては盾でもあり、武器でもある。相手に悟らせずに近づくことを容易とし、射撃武器に的を定めさせない。霧の薄い時はその逆。『ライズラック』のような機体にとっては、攻めづらく守りづらい戦場となる。
「あそこにいる」
 カメラの映像を覗き込み、ハルが小さく声を上げた。操縦棺の中、彼女はダリルの脚の間に腰かけて、辺りを見回していた。ダリルからはその金色の後ろ頭しか見えず、どんな顔をしているかは分からない。
 『ライズラック』はその背に大きく『翅』を広げ、戦場を飛び回っていた。霧を目くらましとして使えない中、攻めあぐねているように見えるが、それ以前に動きに精彩を欠いている。
「……どうするの?」
 問いかける言葉に合わせて、ハルの大きな目がこちらを捉える。
「分からない」
 きっぱりと答えると、少女は呆気にとられたような顔になった。
「でも、放ってはおけないだろ?」
 パイロットスーツの胸元からライセンスを引っ張り出して握り締め、ダリルは上空の『ライズラック』へ目を向ける。
 ――オーガスト=アルドリッチ、ウィリアム=ブラッドバーン。
 ハルが『キャットフィッシュ』で見つけてきた、ライセンスのうちの一枚だ。オーガストのそれはチャーリーのもとに置いてきたが、ビルのライセンスは、こうしてダリルの手の中にある。
「チャーリーだって、本当はそう思っているはずだ」
 まだ立ち尽くし、俯いたままかも知れない彼女のことを思い出しながら、ダリルは操縦桿を引いた。
 飛び交う銃弾、あるいは舐めるような炎を装甲で弾きながら、『ステラヴァッシュ』は戦場の中を悠々と横切っていく。
 この薄い霧の中、『ステラヴァッシュ』はいつにもましていい的だが、『ライズラック』とは違ってこちらは装甲が段違いに分厚い。それでも振動が操縦棺に伝わるたびに、ハルは緊張した面持ちで姿勢を正した。
 その背に、大丈夫だと声をかけるかどうかを迷いながら、ダリルは周囲に目を向ける。
 機動性と装甲、そのどちらもをなまなかにしか持ち合わせていない機体から、順を追うように撃墜されていた。ただし、いつも通り、その被害の質は互いの陣営で全く異なっている。部隊のほとんどが人間入りのハイドラで構成された『こちら側』と、AIによる粗製ハイドラを中心とした『あちら側』。
 ……実際、身の振り方は何も決められていなかった。
 確かにエイビィの言った通り、ウジェニー=エッジワース博士のことを恨むのは筋違いなのかも知れない。だが、エッジワースがいる陣営でこれ以上戦う気がするか、となると話は別だし、『ライズラック』とこれ以上ことを構えるのも何か違う気がしていた。
 その『何か違う』が一体何なのか、上手く言葉にできずに、これからのことを決め切れずにいる。
 きっと、チャーリーはもっとひどいだろう。あるいは、エイビィの話より、その言葉よりも、ダリルの言ったことの方が彼女を痛めつけたのかも知れない。だが、その推測を、ダリルは伝えずにはいられなかった。
「あいつの中で、ビルやオーガストが『生きてる』って状態なのか、俺には分からない。
 でも、少なくともあいつはチャーリーのことは覚えていた。『シェファーフント』のことも」
 今まで、エイビィの言動に違和感を感じたことが、少なくとも二度はあった。
 一度目は、彼がチャーリーの乗機である『ヴォワイヤン』の名前と性能を知っているようなそぶりを見せた時、二度目は、『シェファーフント』の名を叫んだ時。
 どうしてビルの乗っていたハイドラの名を知っていたのか、と問うた時、エイビィは『調べればすぐに分かることだ』と言った。
 それは事実だ。だが、そもそもチャーリーと顔を合わせたあの日あの時、エイビィはどこか様子がおかしくはなかったか。記憶と人格を上書きし、エイビィとして安定しているのならば、たかだかシミュレーターでビルのハイドラに乗ったのちに、ハルに気取られるほど体調を崩したのはなぜか。
 人間の記憶は機械的に消せるものではない、とチャーリーは言った。
 あるいは、そうなのかも知れない。エイビィの中にはいまだ、ビルとオーガストの記憶が消し切れず残っているのかも知れない。
 ダリルは、チャーリーのかたく強張った顔を思い出す。
 ――死んでいると言われた方がまだましだ、と彼女は叫んだ。
 ダリルも、それがいいことにはとても思えなかった。ビルが、オーガストが、人格を上書きされて死んだのではなかったら。まだエイビィの、あの中に記憶や人格が残っているのだとしたら。それに対して自分たちに何かができるのか、と問われたら。
「でも俺は、エイビィにそれを確かめずにはいられない。
 もしビルが、あいつの中にまだ残っているのなら、苦しみ続けていて、助けることができないなら、俺は……」
 言葉を切って、ダリルはかぶりを振った。それから、こちらに背を向ける少女に目を向け、
「ハルちゃん、君はどうしたいんだ?」
 思い出したように問いかける。
 エイビィがどういう男だろうが、ビルとオーガストの記憶があろうがなかろうが、本来ハルには関わりがないことだ。
 ダリルたちに協力したのは、あくまでエイビィが変調した原因を知るためだった。彼女はまだ、それを知りたいと思っているのだろうか。
「……わたしがエイビィをころすまで、死なれたらこまるから」
 消え入るような声で言って、ハルは小さい背をさらに縮こめた。どう返していいか分からず、ダリルは外部カメラの映像に目を向ける。
 ハルについて、また、ハルとエイビィの関係について、ダリルはそれほど深く調べたわけではなかった。最初の『ライズラック』との一騎打ちの際、彼女が音だけでDRやヘリの数を言い当てたのを見て、少しだけ情報をさらった程度だ。
 機械とともに育ち、機械と話す少女。『キャットフィッシュ』のメカニック。エイビィに家族たる遺跡のドローンを破壊され、エイビィを憎んでいる子供。
 『ライズラック』は、いまだ健在だった。こちらが積極的な戦闘行動をとっていないのに気付いているのかどうか、向かってくる様子もない。
(――エイビィを殺す、か)
 カメラの中、白い機体の動き回るのを目で追いながら、これほど霧が薄ければ、近づかれる前に『ライズラック』を墜とすことができるか、とダリルは自問する。
 正直なところ、自信はなかった。一対一ではなく、部隊同士の戦いでさえ、ダリルはエイビィに後れを取り続けているのだ。有利な状況とは言え、彼我の差を覆すイメージはできなかった。
「――ンッ?」
 不意に、『ライズラック』が動きを変える。
 見通しの良い戦場においてさえ、『ライズラック』は己の基本的な戦い方に忠実だった。もしかしたら、搭乗者であるエイビィに、常にないことに対応する余裕がないためかも知れない。すなわち、敵の目を最も引き付ける位置に陣取り、無駄撃ちを強いながら、相手の懐に潜り込んで牙を剥く。
 だが、その牙が振り下ろされる先は――
「待て、エイビィッ――!」
 とっさに叫び声を上げ、ダリルは『ステラヴァッシュ』を前進させる。
 動きは鈍重に見えても、その巨体の歩幅は大きい。『ライズラック』とその標的の間に強引に機体を捻じ込ませ、攻撃を受ける。
 電磁ブレードが『ステラヴァッシュ』の装甲を大きく削り、耳障りな金属音が操縦棺にまで届いた。歯が神経から浮き上がるような感覚を堪えるように顔をしかめて、ダリルは操縦桿を握りしめる。背後にかばった航空機が戦場から離脱していくのを確かめ、『ライズラック』へ向き直り、
「何をしているんだ、あんたは……!」
《邪魔を……するな、ダリル! そいつは、そいつらは……ッ!》
 ……通信機の向こうから聞こえる声は、確かにエイビィのものだった。
 しかし、その言葉遣いは、その声音は、明らかに違う人間のものだ。確かにその中にいる
「ビル……!」
 その名を呼んだ瞬間、言葉にならない叫び声がダリルの耳を劈いた。
 『ライズラック』が電磁ブレードを引き、素早く飛びずさった。すぐさま『翅』を広げると、『ステラヴァッシュ』の頭上をあっさりと飛び越え、航空機を追っていく。
 ダリルは慌ててカメラをそちらへ差し向け、速射砲の照準を『ライズラック』へ合わせたが、引鉄を引くことはできなかった。それ以外には、『ライズラック』を『ステラヴァッシュ』で止めるすべはない。
「……くそっ!」
 そう毒づけたのは、『ライズラック』の姿が薄くけぶる霧の向こうへ見えなくなってからだ。
 エイビィの様子は、明らかに尋常ではなかった。その原因があの航空機にあったのは明らかだ。だが、理由が分からない。武装をしていない、怪我人を収容していただけの、……
「ダリル、エイビィは……」
「ああ、ハルちゃん、大丈夫だ。分かってる。いや、今分かった」
 ダリルは自分の胸元に手を当てて、大きく息を吐いた。操縦桿を握り直し、操縦棺を転回させる。
「あいつは、エッジワースのところだ。……急ごう。こうなったら、とことんまで追いかけてやる」
 呻くように言って、ダリルは『ステラヴァッシュ』に『ライズラック』の後を追わせた。


 ――記憶の中で、男がこちらを見つめている。
 ひどく、残念そうな顔をしていた。鳶色の目をした、大柄な男だ。体格の割にはひどく子供っぽく、その顔を見るといつも、昔飼っていた犬を連想した。
 その男がダリル=デュルケイムであることを、もうよく分かっている。
 所属していたチームにいた、若く人懐っこいDR乗り。どういう言葉を交わしたか、どういう態度で接していたか、どう思っていたのか、ありありと思い出せる。
 ……自分の記憶ではない、ということが、まだ辛うじて認識できた。
 だが、あくまで頭で考えて判別していることに過ぎない。体感としては確かに、それは自分の過去の記憶、経験したはずの出来事だった。腰から上を失って、死んだはずのウィリアム=ブラッドバーン。
 マヴロス・フィニクスの食堂で初めてダリルに声をかけられた時、確かにその顔には見覚えがなかった。
 話を聞いている間も、彼がウィリアムの関係者であることは分からなかったし、知った後も自分の中の記憶が刺激されることはなかった。そのことに、安堵してさえいた。安定していると思っていた。
 だが今や、ウィリアムの記憶は鮮やかに蘇り、この二年間のそれとほとんど区別がつかなくなっている。オーガストのものも、また同様に。
 すべて、覚えていた。肌を貫いた装甲坂の感触を、頭から流れる血の生温さを、混沌とした戦場を渡した指輪に共に刻んだ文字を触れた肌の柔らかさを殴られた顔の痛みを初めて飲んだ質の悪い酒の味をカーテンを替えた部屋の眺めを隠れて飼っていた犬の匂いを愛おしげに微笑む彼女の顔を幼い頃に霧の中で迷子になって泣いていたことをハイドラのライセンスを得た時のことを解かれてゆく指先を口を尖らせる彼を操縦棺の中で薄れていく意識と痺れた体を!
 そもそも、混ざり合い、ぶつかり合って崩壊しかかったオーガストとウィリアムに対してウジェニーが施したのは、記憶の上書きではない。
 彼女が行ったことは、あくまで手ずから制作したバイオノイド用の人格のインストールであって、狙った場所に覆いかぶせるように書き込んだわけではなかった。
 しかもその『人格』は、ハイドラを操る機能だけを載せられただけの、極めて機械的な、あるいは人間のように振る舞わせるにはおよそ不十分なものであって、情動のようなものは初めから内蔵されていない。それが脳の中に入り込み、意図せずたまたまそこに入っていた記憶の一部を焼き潰した。潰し切れていなかったことは、今の自分のこの状況が証明している。
 ……『ライズラック』の操縦棺を開き、外気が流れ込んできても、胃がひっくり返るようなひどい吐き気はましにはなることはなかった。
 コンクリートの上に転がるようにして落ち、よろめきながら敷地の中を歩いていく。
 遠くで爆発音が、機関銃のベルトが回る金属音が、それを覆うけたたましい銃声が、ハイドラの大地を踏みしめる音がした。耳がそれらの音を聞き取り、処理して、立体的な情報を頭の中に構築する。今まで何度もやって来ていたことだというのに、今日に限ってその無意識の行いにさえ記憶が刺激された。オーガスト、と、いとおしげに呼ぶ声がした気がする。チャーリーの、声だ。自分の婚約者の声。
 病院の前には人気はなかった。救急の患者を搬入し終えたのか、車輌が出ていくところが見える。
 息苦しさに喘ぎながら、自動ドアをくぐって待合室へ足を踏み入れる。運び込まれた無数の屍と怪我人のうちのたった二人。繋ぎ合わせられたふたり。そこへ焼き付けられた三人目は、呼吸の仕方さえ分からない、赤ん坊未満のなにかだった。
 壁に手をつき、もたれかかるようにして廊下を歩いていく……自分のいなくなった後、ダリルがライセンスをようやっと取れたことを安心していた……誰もいない、椅子の並べられた待合室を通り抜けて、きざはしになんとか足をかける。
 人工人格に己というものを与え、他の二人の記憶を押し込め、一人の人間として仕立て上げたのはウジェニーだ。
 それは、残像領域から発掘される遺産のごときテクノロジーによってはなされなかった。そのような手間をかけるような女なのだと吐き捨てているのは、オーガスト……いや。その記憶に基づいて湧き上がった感情だ。ただそれを、自分のものではないと切り分ける必要があった。
 きっかけは分かっている。『シェファーフント』に乗せられてからだ。ハイドラに紐付く記憶が、その周縁の記憶を呼び起こした。呼び起こして……あとは、もう、手がつけられない。
 それでも、『ライズラック』に乗っている時だけは、何とかなっていた。自分の、自分だけのハイドラに乗って、ハイドラライダーとしての機能を果たしている時だけは、二人のことを抑えられていた。だが、それも限界に近い。
 長い廊下を進みながら、最初の記憶を思い出す。
 もはや、二人の記憶よりもはるかにおぼろげで、思い出すのに苦労するようになっていた。
 自分の中にはすでに見知らぬ誰かがいて、思うままに動き、思うままに考え、思うままに感じようとしている。そして一方で、それに対する激しい嫌悪感と拒否感を覚えている。
 甘ったるい匂いがした。
「……ウジェニー!」
 扉を震える手で開けた時、記憶の中の香りは吹き散らされ、血生臭さに上書きされる。
 女は髪をまとめ、メディカルキャップの中に押し込めていた。普段ならうるさいほどにつけているアクセサリーも今はなく、キャップと同色の手術着を身に纏っている。
「……アハ、どうして、ここに?」
 マスクを下げ、引き攣った笑みを浮かべた女は、ごく慎重に言葉を選んだようだった。目が泳いでいる。
「そんなことはどうでもいい。……何をしているの」
「すごく調子が悪そうだよ。顔色も悪い。そんなになっているのに、ハイドラから降りて大丈夫なの? 診察しよう。たぶん、いつもの薬が必要……」
「何を、しているかと、聞いている!」
 悲鳴を噛み殺し、身をビクつかせる女の腹や胸には、黒々と血が付着していた。その背に隠れた手術台に、横たわっているものがある。
 一歩足を踏み出すと、血の臭いがより強く鼻をついた。立ち塞がろうとする女の肩に手をかけて乱暴に追いやり、手術台を視界に収める。
「……それは、うまくいかなかったんだ」
 死体だった。
「『君』みたいに、そう、助けられるかと思ったんだけれど、うまくいかなかった。でも、仕方ないよね。君だってそう思うでしょう?」
 一目見て、死んでいることが見て取れた。左の肩口に首に両足に、真新しい手術痕がある。千切れたものを、繋ぎ直した跡。それぞれの肌の色は、微妙に違っているように見えた。
「だって、もうバラバラになっていたんだもの!」
「あなたは……!」
 かすれた声で叫び、相手へ手を伸ばそうとしたその寸前に、甘ったるい匂いが鼻をくすぐる。
 おぼろげな記憶の中、確かに嗅いだことのある香りと同じそれに、途端に足から力が抜けた。糸の切れたように、その場にへたり込む。
 それが、少し珍しいだけの、何の変哲もない香水の匂いであるということを、知っている。『治療』のために用いられていた小手先のツール。
「分かってる、分かってるよ。こういうやり方じゃあたぶん上手くはいかない。上手くいってるように見えても、いずれどこかで無理が出る。でも、最初から上手くいくなんて思ってない。
 君だってそう。酷い顔しているよ。まるで『君』じゃないみたいだ。君はオーガスト? それともビル?」
「やめて……」
 哀願し、瞼を閉じる。せせら笑うような声に、動悸がするのを感じた。もはや、指先さえも動かせなくなっていた。他人の体のように。
 いや、最初から自分の身体などではなかったのか。
「初めから分かっていたけど、君はちょっと不安定すぎる。
 ハイドラライダーとしてはさ、もちろんAIなんかよりはよっぽど優秀だけど。でもそれ以外は。体も心もちゃんとこうして手をかけて、水をあげて、面倒を見なくっちゃいけないし……それでも完全にコントロールができない。わたしの言うことも、ぜんぜん聞かなくなってしまった。
 今回だってそう、わたしには何にも言ってくれなかったよね?」
 責め立てるような女の声。硬い靴底が床を踏み鳴らす音。
「……知っているんだよ。分かるんだ。わたしのことを殺したいんでしょう? ずっと憎んでいたんでしょう?
 だからそう――もう、君のことはもういいって思ってるんだ。せっかくこうして戦争が起こっていて、こっちには生身の人間がたくさんいるからね。いくらでも身体は回収できる。次はもっとうまくやれるよ。その方がずっと時間がかからないし手軽なんだから。次を試せばいい。いくらでも、わたしは試すことを許されている。
 そうだよ。邪魔な奴だって、素材にしてしまえたら愛着が湧くかも知れない。
 あいつ、あの男、ダリル=デュルケイム! 彼が死んだら、次は彼で試すよ。それって君のためにもなるって、あの時は思ってたんだ。なのに――」
 その名を聞いた瞬間に、胸の内に激しく吹き荒れた怒りと焦燥が、誰のものかも判断することができなかった。ただ、何とか顔を上げて、女に目を向ける。
 手術台の前、こちらを振り返った女の手には、注射器が握られていた。
「悲しいと思ってるよ。勿体ないって思ってる。『君』は、君のことは、わたしが作ったんだ。『君』はわたしのものだもの……
 ……でも、だから! わたしが、最後まで面倒をみてあげる!」
 女は明らかに怯えていた。荒く息をつき、覚束ない動きでこちらの肩に手を伸ばす。注射器の針先から、透明な薬液が漏れ出ている。
 そのたどたどしい手つきを見上げながら、あの時、あのベッドの上で、『死んだはずだ』と叫んだのはいったい誰だったのかを考えていた。

「――!」

 その時。
 声が。