エイビィはその日、アラームが鳴るよりも少し前に目を覚ました。
緊張はしていたかも知れない。それ以上に期待も。胸に手を当てても高鳴ってはいなかったけれど、覚醒したばかりでも目はしっかり冴えていて、自分がどこにいて、これから何をするべきかすぐに把握することができた。
掛布を退けてベッドから起き上がり、エイビィは下着のまま部屋を横切ると、壁に備え付けられた『窓枠』を軽く叩いた。飾り気を排した素気のないそれを二、三度も叩けば、仮眠を取る前と変わりない、青白い外界が『窓』の中へ映し出される。異常はなし。『キャットフィッシュ』はつつがなく残像領域を航行している。
小型艦『キャットフィッシュ』は、その名の通り水底――白い泥のような霧に覆われた地表ぎりぎりを、濃灰色の機体を蠢かせて這うように移動する。そのシステムはきわめて単純で、扁平な機体の前部に大きく備え付けられた『口』から霧を取り込み、排出孔から噴出する、というものだ。速度や高度がそれほど出ない代わりに、安定性と居住性に優れているとされている。
エイビィも、その評価に誤りはないと考えていた。滅多に揺れることはなく、音も極力抑えられている。残像領域ではおなじみのパイプにチューブ、配線に無骨な操作盤は、ことこの居住区画には無縁のものだ。本物の窓の代わりに窓枠に収めたモニタが収められていることを除けば、残像領域の『外』にあるアパルトメントの一室と勘違いできるほどだった。
床にはフローリング、壁には壁紙が張られ、部屋にはカーペットやソファが設えられている。
その奥に絡み合った配管があろうと、一時でも気分を切り替えられることをエイビィは選んだ。『窓』に美しい青空や草原を流しておくような、ばかげた趣味はないにしても。
それに、居住性に優れているというのは、『外』の部屋に愚直に似せている、というだけではない。
「――ああ、
軽く空気の漏れるような音を立てながら、トレイを持った機械の腕が天井からするすると降りてきた。トレイの上には、サンドウィッチとコーヒーが置かれている。
声をかけても返答はなく、細いアームはテーブルの上にトレイを置くと、来た時と同じように滑らかな動きで戻っていった。
それを待って、エイビィはトレイからサンドウィッチを手に取る。部屋の中には、焼きたてのパンとコーヒーの香りが緩やかに広がっていった。
会話機能はないものの、音声入力に対応しており、…あくまでそうプログラミングされているだけだろうが…感情があるのでは、と思うような動きをすることも時折あった。ただし、見計らったように食事が出てきたのは、予約の時間にエイビィが起きてきたからだ。
サンドウィッチを口にくわえて、エイビィは『窓』の方へ取って返す。
部屋の中は肌着で動き回っても支障がない程度の温度が保たれており、寒くも暑くもない。『窓』の外に映し出されている霧がかった世界は、ひんやりと冷えているようにも見えるが、実際のところどうかは分からない。局所的に機械の暴走や霊障によって気温に乱れが生じているケースもあるが、それもこの居住区画の中では無縁の話だ。
『窓枠』を軽く指先で叩くごとに、『窓』に映し出される映像は目まぐるしく切り替わった。『キャットフィッシュ』の外部カメラから入ってくる映像はどれもキスする相手の顔さえ見えないような霧に閉ざされていたが、まれに何の施設であったかも分からない廃墟の影や、どこから発せられたのか判別できない光の瞬きが見て取れる。ドローンかも知れなかったし、ウォーハイドラかも知れなかった。あるいは霊障か。
いずれにしてもそれらはわずかな変化で、不穏な予兆ですらなかった。ごくごく変わり映えのない、退屈にも感ぜられる静かな光景だ。予定のポイントから離れているにしろ、此処も戦場の片隅には違いないのだが。
ひととおり外の様子を確認した後、エイビィは『窓枠』を叩いて映像を消した。
暗くなった画面に、ぼんやりと白く、面長の男が映し出されるのを確認して、エイビィは息を止めた。表情のないその顔は、見慣れているようにも見え、知らないだれかのようにも思える。
「――仕事だわ、エイビィ」
自分に言い聞かせるようにそう囁くと、エイビィは画面からすぐに視線を外した。
『キャットフィッシュ』の格納庫は、居住区画と打って変わって、残像領域らしい内装になっている。
すなわち、配管やチューブが壁となく床となく縦横に走り周り、霧の排気の影響で湿気が凝り、空調がカバーしきれずに冬でも蒸すような熱気が感じられる。
居住区画からの短い通路を抜けてきたエイビィは、扉の中から一斉に押し寄せてきた空気に眉根を寄せた。
ウォーハイドラの備え置かれたこの場所は、エイビィにとってなじみの場所だが、お世辞にも長居をしたい場所とは言えない。
もちろん、例外がいることは知っている。例えば偏執的なメカニック、例えば戦場が恋しいハイドラライダー、例えば――
「ハル!
パイロットスーツのジッパーを引き上げながらエイビィは声を張り上げ、格納庫に足を踏み入れた。
天井は高く、おおむね三階建てほどの高さがある。人間ではない、それよりも大きいものが支障なく動き回れるよう、『キャットフィッシュ』の中では最も大きな空間を占めていた。
足元や天井に照明は灯ってはいるが充分ではなく、どこか薄暗い。艦の外のように霧がかってはいなかったが、広大なスペースにはぬるく湿った空気があり、しかも空調によってゆるやかに風が流れていた。
エイビィは、その格納庫を大股に突っ切っていく。目指すのは、入ってきた扉とは反対側、壁際に備え付けられた『
『キャットフィッシュ』にはつごう三つの『棚』があったが、現在ウォーハイドラが収まっているのは一つだけだ。エイビィの乗機である『ライズラック』は、薄暗い格納庫の中で白く光っているようにも見える。ウォーハイドラの中でもとりわけ小型の『ライズラック』は、『棚』のスペースを使い切ってはおらず、行儀よく横たわっている。
エイビィはその横をすり抜けて、隣の『棚』へと向かっていった。
ウォーハイドラを収めていない『棚』は、大型のウォーハイドラを格納するような大きさではないとはいえ、かなり広大に感じられる。格納庫よりも天井が低く、照明も消されているため、いっそう暗い。床からはみ出た配線に足を引っかけないよう注意しながら、エイビィは慣れた足取りで『棚』の奥へと入っていく。
空っぽの『棚』、壁際のさらに隅っこに、小さく毛布が丸まっているのが見える。その横には、食べ残されたサンドウィッチと、空のマグカップが置いてあった。
「ハル!」
エイビィはため息をついて、毛布のすぐそばまで来てからようよう立ち止まり、毛布へ向かって声をかけた。
毛羽だった古い布がもぞもぞと動き、薄闇の中に薄い金髪が煌めくのが見える。
「……」
少女である。ぼさぼさの金髪をかき分けて顔を出し、彼女は毛布を肩から掛けたままゆっくりと立ち上がった。大きな青い目が、エイビィの顔を捉える。
「……なに」
「なに、じゃないわよ、ハル。あたしのコーヒーに塩を入れさせるのはやめてって、何度も言ったでしょう」
「あれがいちばんおいしい淹れ方だって、パパに教わったの」
「あなたの好みはいいけれど、あたしには押し付けないでちょうだい。だいいちパパって……」
悪びれない少女に言葉を募る途中で、エイビィは口を噤んだ。ゆるゆると首を振る「とにかく、やめてちょうだい」
少女――ハルは、頷きも首を振りもしなかった。辺りを見回し、『ライズラック』の方を見やると、毛布を引きずりながらそちらへ歩いていく。
エイビィは再びため息をついた。
「
どこへともなく声をかけると、パイプの隙間を縫うようにして壁の中からアームが現れ、食べ残しの載ったトレーを収納する。それを後目に、エイビィは少女の隣に並んだ。
「あのね、
「人のつごうでふり回すのは、よくない」
「彼の機能のうちよ。そうやって気を遣う方が失礼だわ」
「……」
む、と小さく唸り、ハルは考えるように顔を俯かせた。
『ライズラック』の横まで来ると、命じるまでもなくタラップが床の下からせり上げてくる。エイビィは腕に表示された時間を確認し、ハルを説得しきる時間がないことを理解して、息をついた。
「それで、『ライズラック』の調子は?」
「……『ライズラック』、そわそわしている。でも、調子はいいって」
「そう、あたしと同じね」
短く返して、エイビィは口を開けた操縦棺へ体を滑り込ませた。
「エイビィ」
「なあに」
ハルはタラップの上で立ち止まり、毛布の端を強く握っている。
その目には、冷たい殺意が宿っていた。
「しなないでね、――わたしがころすまで」
エイビィは笑って、操縦棺を閉じた。
『ライズラック』は俯せのまま、『キャットフィッシュ』の腹から中空に放り出された。
深い霧の中、背中で白い『翅』が展開し、『ライズラック』は地面に叩きつけられる数秒前にホバリングすると、機体の姿勢を安定させる。
エイビィは操縦桿を固定したまま、コンパネに指を走らせ、レーダーと視覚情報をいくつかの画面に分けて映し出した。『キャットフィッシュ』の中で見たのと同じように、『ライズラック』の外部カメラも霧に鎖されてはいるけれど、降下してきたおかげで手近にあるものはよく見える。同じように出撃してきたウォーハイドラたちの機影であるとか、気の早い砲火の光であるとかだ。大型の多脚だろうか、アスファルトを踏み鳴らす地響きのような足音も、既に耳に届いている。
残像領域の霧はいつも重く、深い。伸ばした腕の先さえ見えない霧の中においては、常に少しでも多く、早く状況を把握することが求められる。
エイビィは唇を舐めて、『ライズラック』を旋回させながら、外部カメラの様子を目で追った。視覚情報を表示するパネルは一つではないが、それでも死角ができることは避けられず、それを頭に入れておく必要がある。
ウォーハイドラの中には、この死角をコンピュータ・グラフィクスや数秒前の動画を用いて埋めるモニターを採用している機体もあったが、エイビィは気休めに過ぎないと考えていたし、何よりそうした全天周囲モニタの、霧の中に操縦棺だけで放り出されるような感覚に馴染めなかった。
『ライズラック』は『翅』を蠢かせながら、低空を緩やかに移動する。
ひびの入ったアスファルトの間から、不自然な色をした雑草が生え、枯れている。その上には元が何だったのかも分からないスクラップが転がり、それらをすべて霧が覆い隠す。
レーダー上の反応とカメラの情報を頭の中で結びつけながら、エイビィは『ライズラック』を傾くビルの廃墟の影へ移動させた。ヘッドフォンから聞こえてくる音よりも、自分の呼気の音の方が大きい。
操縦桿を引く。
『ライズラック』の動きは疾い。行く、と決めればその地点まで、ほとんど一足飛びに移動する。
加速に伴ってかかるGと浮遊感に息を詰めながら、エイビィはめまぐるしく表示の変わる画面上の情報に目を走らせた。
ヘッドフォンから聞こえてくる音は、なお多彩さを増している。それらを、目で見たものと照らし合わせながら、レーダー上の味方機らしき反応にはマークを加えて、頭の中にマップを構築していく。ウォーハイドラの脚が瓦礫を砕きながら進む音、履帯の回る音、金属のぶつかる音――
そうした音の中に時折、妙にノイズがかり、軋むような音の混ざることがある。
古びて傷つき、音飛びのあるレコードを再生したようなその音を、ゴーストと呼ぶものがあった。幽霊の出す音だ。
残像領域において、どこに所属しているのかも分からない全くの不明機と交戦した経験のあるハイドラライダーは少なくない。
激戦の末に操縦棺を暴いてみれば、その中身は全くからっぽで、シートの上に夥しい血の跡だけが残っている。何度確かめてみても、ドローンでも遠隔操縦でもない。
そういったウォーハイドラは、確実に実態を伴っているのにも関わらず、ノイズがかった音を出すという。
噂だ。
噂だが、今日も残像領域の戦場では、霧に紛れて乱れた音が聞こえてくる。
(――中型、通常の二足? 距離は遠いけど)
レーダーの索敵範囲ぎりぎりを漂うように動く光点に、エイビィは首を傾げながら識別マークを付け加えた。
「『ライズラック』は予定のポイントに到着したわ。これから戦闘行動を開始する」
通信を一つ入れて、エイビィは深呼吸する。
ウォーハイドラ、と一口に言っても、その名が指すのはHCSによって構成された機械、という程度に過ぎない。
ハイドラコントロールシステム。九つのソケットを持つ操縦棺に、パーツを接続することで駆動するハイドラは、まさに現代のヒュドラと言えるだろう。HCSの中心となる操縦棺でさえ、機体の役割や目的によって、その形態は大きく異なっている。
互いに似ても似つかない、同じハイドラの名を冠する鉄の怪物どもが、残像領域には溢れている。『ライズラック』もその一体だ。
『ライズラック』の背中の『翅』、四枚の飛行ユニットは、飛行するというよりは跳躍を補助するというべき設計になっており、機体の姿勢制御にも大きな役割を担う。
高度からの降下の際には『翅』を大きく広げ、前方に向かって跳ぶ際には後ろへ向かって蕾のように畳まれる。その動きは、蜂というには素早く直線的になる。
「……エンゲージ!」
霧にけぶる視界の向こう、戦闘ヘリの姿を捉えるろ、エイビィは高らかに声を上げた。向こうも『ライズラック』のことを認識しているのだろう、旋回しながら、機銃の砲口をこちらへ差し向ける。
『ライズラック』は減速しないまま『翅』を動かし、大きく右へ飛んだ。腰に接続された速射砲を構えつつ、ヘリへ向かって大回りに移動しながら距離を詰める。『ライズラック』の駆け抜けた後を銃弾が次々と抉り、霧の中に火花を散らした。
「いいわね、いいカモだわ」
口の中で呟きながら、エイビィは銃口をヘリへと向けた。霧はあるが、照準を合わせるのに障りがあるほどではない。
瓦礫の間を駆け抜けながら、『ライズラック』はヘリに向けて速射砲を――
横合いから放たれた銃弾によってヘリが撃ち抜かれたのは、エイビィが操縦桿のボタンを押そうとした、まさにその時だった。
「――なに!?」
間髪入れず、『ライズラック』をかすめるようにして銃弾が通り過ぎていく。味方ではない。
エイビィは舌打ちして、速射砲を収め、『翅』を広げさせた。慌ててレーダーの表示を見て、渋面を作る。
先程までかなり遠くにいた光点――ゴーストの識別を付けたそれが、いつの間にか距離を詰めていた。ヘッドフォンから、ノイズがかった音が耳に届く。
「――」
エイビィが息を呑んだのは、先程よりも近くなったその音に、聞き覚えがあったからだ。
歩き方に癖があるように、喋り方に癖があるように、ハイドラの操縦にもまた、搭乗している人間の癖がある。あるいは、機械を通してさらに増幅されて表出する。霧の中、音を頼りとするハイドラライダーにとって、それは相手を判別する大きな手がかりとなる。
エイビィの脳裏に、ひとりの男の顔が思い出された。死んだはず、と思うことがナンセンスだ。残像領域に鳴り響くノイズは、まさに死人であることの証明なのだから。
知り合い、とは言えない。言葉を交わしたことはなく、ただ戦場を共にしたことがあるだけだ。
「……何が未練で現れたんだか」
呟きは疑問ではなく、悪態だった。ゴーストは、明確に『ライズラック』を追ってきている。
(近い)
残像領域を覆う霧はただの霧ではないが、それでも音の伝わり方は通常の霧と同じだ。遠くの音はなお遠く聞こえ、近くの音はなお近く聞こえる。エイビィはほとんど耳元で聞こえる軋むような音に眉をしかめた。
霧の向こう側に相手の姿見え始めている。スクラップよりはマシ、というような外観だ。頭はほとんど潰れ、機体は錆付いていて、弾痕の周りは特に腐食が進んでいる。
動いているのが不思議、というより、動かせたとしても操縦棺から外の様子は把握できないのでは、というような状態だ。
その操縦棺も、ヒートソードか何かによって大きく抉れ、中に人がいるとは思えなかった。
だが、ボロボロの腕と癒着したライフルの銃口は、間違いなく『ライズラック』を捉えようとしている。
(幽霊はセンサーに頼らない?)
『翅』を広げる。ゴーストの体高は『ライズラック』の3倍程度。機体のサイズ差がそのまま戦力差になることはないが、それも戦い方次第だ。頭を押さえられるつもりはなかった。
『ライズラック』が地を蹴るのに合わせて、ゴーストの銃口が跳ね上がった。エイビィは息を詰めて『翅』を動かし、まっすぐに迫ってきた火線を身を捩るようにして避ける。そのまま、ビルの影へと飛び込んだ。正確な射撃。
(霧が動かしているのなら、センサーなんて関係ないか)
独りごち、エイビィは汗を拭った。恐らく潰せない相手ではないが、作戦目的とは全く関係がない機体だ。関わるだけ無駄である。
(燃料も勿体ないしね……)
この場所自体、主戦場からやや離れている。作戦に参加する意志がないと見られるのは好ましくなかった。
続く射撃はない。ゴーストも残弾を気にするのかも知れない。
何にせよ、今のうちに逃げるのがいいだろう。向こうの機体は、おそらく飛行が可能なタイプではないのだし。
《……》
ノイズの中に人間の息遣いが混じったのは、エイビィが腹を決めたその時だった。
レコードを再生した時のような、ぷつぷつと途切れる声。
ゴーストだ。
《……………は……だ》
エイビィには、ささやくようなその声が死んだ男のものかどうか思い出すことはできなかった。
だが、間違いなく何かを言おうとしている。それも、こちらの知っている言葉で。
思わず手を止めて、エイビィはヘッドフォンに手を当てる。
聞こえにくいのは、ノイズがかっているからだけではなかった。声に混じって、不自然に息の漏れる音がする。喉に穴の開いた人間の出す声だ。
《………えは、……だはずだ……おまえ……》
声は、どうやら同じ言葉を繰り返していた。エイビィは訝しげに眉を寄せ、コンパネを操作し、音量を上げる。そして。
《…………お前は、死んだはずだ》
「アハッ―――」
相手の言わんとしていることを察した時、エイビィは思わず失笑した。
『ライズラック』がビルの影から飛び出し、ブレードをゴーストへ向かって突き上げるのに、一呼吸もかからない。
ゴーストは避ける動作をとるが、明らかに遅い。
「死人にそんなこと言われちゃあね!」
エイビィが叫ぶと同時に、ゴーストの腕がライフルもろとも切り飛ばされる。切断面から火花が散ることはなかった。すでに朽ちた機体なのだ。
《お前は死んだはずだ》
ゴーストの残った腕が振り上げられる。何も持っていないうえに、動きも鈍い。
避けられる、と思った。
だが瞬間、衝撃が走り、『ライズラック』が地面に叩きつけられる。エイビィは息を詰め、『ライズラック』の『翅』を閉じた。『翅』を守るためだ。
「霊障……!」
忌々しげに叫んで、エイビィは『ライズラック』の体を起こした。正面に展開した画面が、計器のアラートを告げてくる。動きに支障がないことを確認して、すぐにエイビィはすぐさま表示を消した。
弾薬も尽き、刃も折れたウォーハイドラが、尋常ならざる力を発揮して生還することがある。
あるいは見えない手。
あるいは衝撃波。
あるいは壊乱の渦。
そしてあるいは、相手の動きを阻害する透明なゼリー。
現れ出る力は様々だが、霊障と呼ばれるこの現象は、残像領域では珍しいものではない。
失念していたのは、この霊障と呼ばれる現象が、機体と搭乗者が揃って初めて起こるものだという感覚があったからだ。
あの声を聞いてなお、朽ちかけたウォーハイドラに生身の人間が乗っていることはないと、エイビィは確信している。
だが、あのウォーハイドラが残像領域の、あるいはHCSによる"不可思議な力"によって動かされているのだとしたら、霊障を起こさない方が不自然とさえ言えるだろう。迂闊だった。
《お前は……死んだはずだぞ!》
雑音に塗れているのは変わらないものの、ゴーストの声は先ほどよりもずっと鮮明に聞こえるようになっている。
とは言え、同じ言葉を繰り返しているに過ぎない。エイビィは頭痛を覚えていた。死んだはずであるの相手がそこにいるなら、殺し直さねばならない。ゴーストの動きもまたそう言っている。
《死んだはず……》
ゴーストが再び手をこちらに向かって突き出した。こちらが『翅』を開く前にケリを付けようというつもりだろう。エイビィは舌打ちして、『ライズラック』を大きく後ろに下がらせる。
面倒なのは、相手の射程が把握できないことだ。大雑把な回避にならざるを得ず、反撃もやりづらい。
《お前は、死んだはずだ》
死んでいるのはそっちだと、怒鳴り返す間はなかった。不可視の波が濃霧をかき乱し、急激な変化に計器類が一斉にアラートを上げる。
残像領域を覆う霧に砂埃が混ざるのをカメラで視認し、エイビィは舌打ちする。ゴーストがセンサーに頼らずこちらを捕捉しているならば、視界が悪くなればなるほどこちらの分が悪い。しかも。
《お前は……》
言葉とともに霧と埃の向こうから押し寄せた衝撃を、『ライズラック』は避けることができなかった。ゴーストの姿が視認できない状態では、予備動作を確認するも何もあったものではない。姿勢を制御し、倒れないようにするのが精いっぱいだ。
《……死んだはずだ!》
足を止めた『ライズラック』の頭上から、打ち据えるように衝撃が襲った。
『ライズラック』は再び地に縫い止められ、操縦棺の中がランプで赤く染まる。
「ングッ……」
目が眩み、体中が軋みを上げるのを堪えながら、エイビィはなんとか操縦桿を握り直した。
衝撃によるものではない吐き気と違和感が、体中を支配しようとしていた。霊障による攻撃を受けた際、精神的なショックを受けてカウンセリングの世話になるハイドラライダーもいるという話だが、その類でもない。
ただ、ゴーストが、同じ言葉を繰り返している。
死んだはず、死んだはず、死んだはず。
……そんなわけはない、ばかなことを言っていると思っても、毒のように言葉が染み込んでいった。それが、堪えがたく、体中を掻き毟りたいような気分に陥らせる。
死んだはず。
もしそうならば、ここでばらばらにされるのが正しいのだろうか。
「……あたしは」
《エイビィ?》
思考を遮るように――
ヘッドフォンから聞こえた声は、ゴーストのものではなかった。舌ったらずな、少女の声。
エイビィは反射的に操縦桿を動かし、『ライズラック』をその場から飛びのかせた。それと同時に、衝撃波が先ほどまでいた場所を破壊していった。
「――ハル?」
《なにかあった? みんながいるところから、はなれてる」
「ああ――」
ブレードから速射砲へ武器をスイッチし、『ライズラック』は旋回しながら高度を上げる。Gに押しつぶされ、手ひどく叩きつけられた体が悲鳴を上げるが、止まるわけにはいかなかった。動き回りながら、ゴーストの方へ弾をばら撒いていく。
『キャットフィッシュ』はこの濃霧でも、『ライズラック』の反応だけは見失わないように設定されている。主戦場から離れ、留まり続ける『ライズラック』を見て、妙に思ったのだろう。
《どうした?》
「大丈夫。すぐに戻るわ」
訝しげな少女の声に短く返して、エイビィは大きく息を吐いた。
『ライズラック』の飛跡に追いすがるように、霧が歪み吹き散らされていく。こちらがばら撒いた弾に手ごたえはなく、声も先ほどから途切れてはいないが、こちらが上空にいるおかげで、砂埃の方はましになっていた。霧の向こうに、壊れた人形のように腕を振るい続けるゴーストの姿が見える。
(ように、じゃないわね)
同じ言葉を繰り返し、同じ動作を繰り返し、片腕もなく頭もない。操縦棺が空のハイドラなど、ただの抜け殻、人形だ。それでも『ライズラック』を見失わないのは不気味であったが。
「ハル」
通信回線を『キャットフィッシュ』のものからだけに絞り、エイビィはハルへ声をかけた。
外部マイクから集音されるノイズが消えることはなかったが、ゴーストの声はふつりと途切れる。
《なに?》
「もう一度、名前を呼んでもらえる?」
《え?》
「いいから、もう一回だけ。あたしの名前を呼んで」
聞き返してくるハルに繰り返し、エイビィは残弾を残したまま、再び武器をブレードへとスイッチする。
少しの沈黙があった。迷うような少女の息遣いが、ヘッドフォンの向こう側から聞こえ、
《……エイビィ》
「ありがとう」
ハルに短く返して、エイビィは『ライズラック』をゴーストの方へ突っ込ませた。『翅』を閉じ、まっすぐに相手へ突っ込んでいく。
隻腕の巨人は、なんの動揺もなく腕を振るった。だが、霊障が『ライズラック』を捉えることは、もうない。エイビィは、既にゴーストの霊障の効果範囲を把握していた。
衝撃波をかいくぐり、『ライズラック』はブレードを頭部を失ったゴーストの首のジョイントへ突き立てる。粒子ブレードが操縦棺ごと、ゴーストを縦に刺し貫いた。
瞬間、ノイズが大きく膨れ上がり、そしてすぐさま途切れる。
「…………」
機体が傾ぐのを感じ取って、エイビィはブレードを引き抜いた。『翅』を開き、『ライズラック』を後退させる。
ゴーストはそのまま、糸が切れたようにゆっくりと倒れていった。地響きとともに砂埃が舞い上がり、そのまま、ピクリとも動かなくなる。
「はあーっ……」
ようやく大きく息を吐いて、エイビィはシートに沈み込んだ。
気づけば、汗みずくになっていた。骨折はないようだが、相変わらず体のいたるところが痛い。『ライズラック』もところどころガタついている。だが、戦場に戻らないわけにはいかない。レーダーの光点を確認しながら、エイビィは『ライズラック』を上昇させた。
《エイビィ、何だったの?》
「なんでもない。今から戻るわ。……幽霊と、戦っていただけ」
旨味が残っていればいいけれど、などと考えながら、エイビィは通信回線をそっと開く。
ノイズは、もう聞こえなかった。
戦闘が終わった後にエイビィはゴーストの機体をあらためたが、やはり操縦棺は空だった。
シートには古く乾いた血がわずかにこびりついていただけ。死体さえない。
そもそも機体も、よく見ればずいぶんと古いもので、記憶にある男が乗っていたウォーハイドラかも怪しかった。
(……でも、あの時聞いたウォーハイドラの駆動音、確かに聞き覚えがあった)
タオルで髪を拭きながら、エイビィはぼんやりと考え込む。聞き間違えとは思わない。自分の感覚と記憶によって、今まで生き残ってきたからだ。
いずれにしても、よくあることで済ませられることといえば、そうだった。ただ、自分が初めてそれに遭遇しただけで。
死んだ男が、朽ちたウォーハイドラを無理矢理動かして、自分と同じ場所へ引きずり込もうとした。よくある怪談。そして、残像領域はそれが起こりうる場所なのだ。
「……エイビィ」
洗面台の鏡を見やって、映る自分の像に小さく呼びかける。鏡の中の男は、顔色が悪かった。見慣れている自分の顔。
空気の抜けるような音が耳に届いた。
エイビィは唇を歪める。
「
問いかけると、
鏡を振り返ると、そこには相変わらず青白い顔が映っている。その腰に、古い手術痕が残っているのが目に入る。……
エイビィは鏡から顔を背けた。