ガキの頃に犬を飼っていた。
たぶん、犬だったんだと思う。茶色い毛並みで、脚が短くて、四足で走り回る。その時は『犬』というものを他にまだ見たことがなかったから、今思い返すとって奴だ。
犬を食わせてやれるような金も食い物もうちにはなかったし、親に知られたら殴られるだろうと思って、家の外の、どこか路地裏でこっそり世話をしていた。
残飯とか、拾った缶詰の隅に残ってたペーストとか、ろくなものはやってなかった。それでも俺によくなついてて、腹を見せて転がるから撫でてやるとすごく喜んだ。
その腹の一部に毛が生えていない部分があって、バーコードみたいなのが入ってたから、どこからか逃げてきた薬の実験台とか、金持ち用に生産されたペットが棄てられたとか、そういうやつだったんだろう。人懐っこくて、噛んだりもしなかった。痩せっぽちで寒そうだったから、廃材とか錆びた鉄の板なんかを集めてカビの生えた毛布を押し込め、家みたいなものも作ってやった。我ながら、どうしてあんなに情熱を注いでいたんだか、今思うと不思議だ。
何かがあったわけじゃない。むしろ、何にもなかった。
いつも同じ場所にいて、繋いでさえいなかったから、ある日突然いなくなってもおかしいとは思わなかった。
誰かが持って行ったのかも知れない。自分の意志でどこかに行ったのかも知れない。浮浪者にでも食われてしまったのかも知れない。
考えられることはいくらでもあって、その時は泣いて後悔したけれど、犬を飼ってるなんて誰にも言ってなかったから相談もできなかったし、自分の力で探すこともできなかった。
だから、それっきりだ。
今では何であんなことをしていたのか分からない。馬鹿だったんだと、自分で切り捨てて納得していた。犬の面倒なんか見てる暇があったら、もっとやることがあったはずだ。実際それで買い物だか仕事だかを忘れて、殴られたり蹴られたりがあったような気がする。馬鹿なガキだったんだと。
何にせよ昔の話だ。最近まですっかり忘れていて、思い出すことさえしなかった。
――ところが、ここのところ、あの頃のことをよく夢に見たり、思い返したりするようになった。
原因は分かっている。あのダリル=デュルケイムの馬鹿野郎のせいだ。
もちろん、あの犬は(よく考えたら名前も付けてなかった)あいつのようにでかくはなかったし、顔も別に似ているわけじゃない。見てくれよりも、性格の話だ。
犬って生き物がみんなそうなのかは知らないけれど、たとえば、何かやらかした後にすぐ叱ってやらないと、何の件について怒られたか分からないところとか、力が有り余っていてむやみに駆け回るところとか、近くしか見えていなくて頭をぶつけたりするところとか……あの犬ももしかしたら特別馬鹿だったのかも知れない。大体は、悪いところが似ていた。だから、正直――いつも正直にあいつにも伝えてる――最初はいらいらした。子供の頃、自分が今よりもずっと忍耐強かったってことがよく分かった。
ただ、このダリルって男には悪くないところもいくつかあって、たとえば思い込みが激しいところがあるけど、とんでもなくいい奴だってことだ。他人のために本気で怒ったり泣いたりする奴を、俺は生まれてこのかた初めて見た。ふだん、あいつを馬鹿にしている俺が肝心なところでへまをした時だって、ざまあみろなんて顔はさっぱりしなかった。
俺はその時、あの犬の面倒を見ていたのは、ただ単に好きだったからだってことを思い出していた。
とにかく、ダリルはそういう奴だ。育ちがいいんだか性格なんだか、人を疑うことを全然知らず、素直で、けなされたら怒って、褒めたら喜ぶが、察しが悪くて迂遠なことを言っても全く分かってくれない。……つまり、頭はよくない。
それから、どこへ行っても俺の後をついてくる。どうしてこんなになつかれたのかは、俺にもよく分からない。犬と違って、親身に面倒を見てやった覚えはなかった。
ただ、そうなってくると、あの犬のようにどこかに行ってしまったり、死なせてしまったりするのは困るな、とか、そういうことを考え始める。情が湧いたというやつだ。
けれど、ダリルはパイロットとしては、その素質や能力は褒められたものじゃなかった。典型的な、戦場が見えていないタイプだ。もちろん、俺たちだって霧まみれの残像領域で見通しが立つってわけじゃあないんだけれど、要するにダリルは向こう見ずで、近視眼で、周りを見るということが全然できないやつだった。敵は深追いする、見なくてもいいものに気を取られる。で、それ以外の部分はそんなに悪くはない……つまり、欠点をカバーするほど優秀でもない。
そんなだから、汎用のDRなんかじゃなくって、むしろでかくて装甲の厚いウォーハイドラなんかに乗っけてやった方がいいんじゃないかと思っていたのだけれど、鈍臭いあいつのところには、なかなかライセンスが来なかった。
知っての通り、ウォーハイドラを動かすためにはライセンスが必要だ。ライセンスがなければHCSは起動せず、ウォーハイドラはうんともすんとも言わない。逆に言えば、ライセンスさえあれば、どんなスクラップでもウォーハイドラとなる可能性を秘めている。
ライセンスを取るための方法はいろいろある。うちのチームで言えば、どっかの大企業がやってるテストに金を払って参加して合格すれば取得できるという、比較的オーソドックスな方法だ。
人からライセンスを盗んでウォーハイドラに乗り始めたなら、そのライセンスが自分のものになるってこともある、ライセンスは盗んでみたけれど、ウォーハイドラは動かせませんでした、ってこともある。
ガラクタを繋げてばらしてこねくり回していたら、いつの間にか手元に来たってことも。ある日突然、郵送で届けられるとかも。
――まあ、そういうのはまっとうな方法じゃないし、期待するようなことでもない。
そういうわけで、ダリルは普通にテストを受けて、普通にテストに落ち続けていた。
励ますとかなだめすかすってのはどうも苦手だ。だから、俺は発破をかけるつもりで、まだ取れねえのか、などと馬鹿にしていた。
これが、よくなかったのかも知れない。ダリルは最初のうちこそ怒ってやる気を出していたんだけれど、だんだん諦めがついてきてしまったのか、慣れてしまったのか、大してこたえた様子も見せなくなって、取れないなあ、とへらへら笑うようになっていた。
まずいと思った。そんなことだとそのうち死ぬぞと言ってやろうかとも、思った。けれど、心配しているということを知られるのも癪だった。かと言って、上手い言い方も見つからない。
次の出撃からダリルをはじめとするDR部隊を外したのは、そうやって梯子を外していたら、やる気をもう一度出すんじゃないかと考えた、というのもある。
もちろん、それだけじゃない。ここのところ企業間戦争はどこも激戦化の一途を辿り、DRは弾除けにもならないし、相手を調子づかせるだけだと、だから、DRを出すのは整備費の無駄だと、そういう具合だ。
でも、俺はもしかしたら、犬のことをまた考えていたかも知れない。危ない場所にわざわざ連れ出すことはないだろうとか、そういうことを。
そのどれを伝えても、ダリルはどうしてもついて来ようとするだろうから、何も言わなかった。ただ、次の出撃からDRが外されただけだ。それが俺の進言だって話もされていない。
だから、俺を見送るダリルは単純に心配そうな顔をしていたし、残念そうだった。
ガレージのシャッターが開けられて、中にうっすらと霧が入り込み始めている。俺は駆け寄ってきたダリルを見返して、にやりと笑って見せた。
「俺がいなくなってもよ」
我ながら、馬鹿みたいに不吉なことを言っているな、と思った。
ダリルはそれだけで泣きそうな顔になって、そんなことを言うなよと迫ってきそうになったので、俺はそれを手で押しとどめる。
「話は最後まで聞け。
いいか、ダリル。お前が今日留守番なのはな、お前が役立たずだからだ」
ダリルが呻き声を上げて項垂れた。俺は息を吐いて、拳を作ってダリルの胸元を叩く。
「だから、お前はさっさとライセンスを取れよ。今のままじゃ、てんでダメなんだからよ」
「……分かってるよ、ビル」
ふてくされたような顔になって、ダリルは身を引いた。
「でもさ、お前だって気を付けてくれよ。ハイドラって言ったってさ、ビルのはそんなに装甲が厚い機体ってわけじゃないんだから」
「俺はお前とは違うんだ。ちゃんとうまく立ち回るさ」
こういうことを言ってもダリルは怒らないから、ついつい、俺はそんな物言いをする。ダリルは考えるような顔をして、また、分かった、とだけ返してきた。俺は笑ってダリルの肩を叩き、『シェファーフント』の方へ踵を返す。
操縦棺に身を滑り込ませる前に、俺はダリルの方をちらりと振り返った。よくは覚えていないけれど、たぶん俺が家に帰る時、俺のことを見送る犬は、あんな目をしていたのだと思う。
あの犬がいなくなったことを、俺はどうしようもないことだと割り切ったけれど、多分、どこかで自分には何かできたのかも知れないと思っていて、それをダリルでやり直そうとしているのかも知れない。
たいそうばかげた話で、さすがに本気で怒られるだろうから、言ったことはない。でも、それなりに上手くはやれていると思う。前と違って、どこかに隠して飼っているわけでもないのだから。
「ビル! 気をつけろよ!」
ダリルがガレージの脇に避けながら、臆面もなく声を張り上げる。心配しすぎだと怒鳴り返してやろうとも思ったが、俺は軽く手を振るだけに留めた。
『ヴォワイヤン』から送られてくるレーダー図は、いつも通り正確だった。
僕は『アンテロープ』が瓦礫やハイドラの破片に脚を取られないように注意しながら、霧と電磁波の中をかき分けて進んでいく。『アンテロープ』は名前通り四足の、比較的姿勢が安定している機体だが、それでも時折大きく機体が揺れた。地面が荒れている。
状況はよくなかった。いくら『ヴォワイヤン』の索敵能力が優れていても、この混沌とした戦況そのものを変えることはできはしない。
戦闘が始まって、すでに数時間が経過している。初めは何の変哲もない遭遇戦であったはずだったが、いつの間にやら三つ巴どころか四つ巴、あるいはもっと込み入った乱戦に突入していた。
もはや、誰が敵で誰が味方なのか、レーダーの情報がなければすぐに分からなくなりそうだった。いや、情報があっても、目まぐるしく移り変わっていく状況やバランスによって敵味方が激しく入れ替わっていくのに追いつけないでいる。
とにかく、ひどい戦場だ。片足どころか両足を突っ込んでしまってしまっているが、これ以上は深入りせずに、撤退を考えた方がいいところまで来ていた。
ここでの敗北は、僕たちの陣営にとっては確かに好ましくはない。とは言え、そもそもよくないことはずっと続いていて、今さら敗走したところで大差がないのだ。もはや、どうやって勝つかを必死に考えるよりは、どううまく負けて被害を抑え、少しでもマシに戦いを終わらせるか、という事態に陥っていた。というよりも、この戦闘において、何をもってして勝利とするのかさえ、もう不透明になっている。
ただ、うちの会社がそれを果たして理解しているかどうかは分からない。僕たちの部隊は何とかまだまともな戦闘行動を取れているけれど、そろそろ限界が近かった。だが、撤退命令はまだ出ていない。部隊長にはもう何度も撤退を進言しているけれど、隊長の反応は芳しくなかった。会社の上層に近い人だから、立場上退くに退けないと言ったところだろう。だから僕たちも、今しばらくは戦い続けるしかない。
「『ヴォワイヤン』、大丈夫か?」
《ちゃんと隠れているわ、『アンテロープ』》
通信機を通して返ってくるチャーリーの声も、そろそろ緊張感よりも疲弊が上回り始めていた。僕もきっと、似たような声をしているはずだ。さっきから、頭と耳がずきずきと痛む。
耳のいいのは、ハイドラライダーとしての僕の強みだった。
外部スピーカーを通して聞こえてくる足音、履帯の回る音、プロペラ音、車輪の音――とにかく音を聞き分けて、頭の中でそれが何のハイドラが、どれぐらいの距離にいるのかを把握する。
『ヴォワイヤン』から送られてくるレーダー図と合わせることで、目で見ているのとそう変わらないような立体的な地図を頭の中に構築することもできた。ただし、長時間酷使していればこの始末だ。ふだんは聞き心地の良いチャーリーの声さえ、神経を突き刺して引っ掻き回してくる。
《オーガスト、『アンテロープ』こそ大丈夫? だいぶ削られている》
「何とか。撤退まではもたせるよ」
《……信じているからね。あなたと、あなたの耳を》
「分かっている。君も気を付けて」
映像通信が繋がっていないのにも関わらずチャーリーに頷いてみせて、僕は通信を一度切ると、大きく息を吐いた。
ああは言ったものの、正直なところ自信はなかった。
死ぬつもりというわけではない。この混戦の中で絶対に生きて帰れるという保証ができる人間なんて、きっと誰もいないだろう。
恐らくチャーリーも、それは分かっているはずだ。僕もこうして、自分なりに戦場を把握しようと努めているが、さすがにチャーリーには及ばない。会ったばかりの頃は張り合ってみようとしたりもしたのだけれど、今は僕がすっかり白旗を上げた格好だった。
なので、僕は自分のことをいつも頼りなく思ってて、チャーリーの前で思わずそう口にしてしまうこともあった。彼女は笑みを浮かべて、僕をたしなめてみせる。あなたが思うよりもずっと、私はあなたに頼っている、と。そう彼女にあえて言わせているような気がして、僕はまた自分が情けなくなるのだけれど。
操縦桿から手を放し、拳を握りしめる。たっぷり汗をかいた左手のグローブの下には、二人で買ったばかりの婚約指輪がはめられていて、力を籠めるとその存在が頼もしく感じ取れる。チャーリーも同じ場所に、指輪を付けてくれているはずだった。
僕は、彼女があえて僕に大丈夫かと聞いてきた意味を考える。
無理をするな、とはチャーリーは言わなかったが、彼女も不安なのかも知れなかった。『アンテロープ』は前に出る機体で、ハイドラの中でも特別重装甲の部類に入るが、長時間攻撃の雨にさらされて、それもかなり目減りしている。……こういう時、命よりも先に修繕費のことを気にしてしまうのは、ハイドラライダーの悪い癖なのだが。でもとにかく、これ以上彼女を心配させないようにしなければなるまい。
操縦桿を握り直すが早いか、『アンテロープ』を衝撃が襲った。
僕は歯を食いしばって、攻撃手のいる方角へ向けて数発、弾を撃ち込んだ。射撃が止み、『ヴォワイヤン』のレーダー図からも機体の反応が消える。つい数分前までは推定友軍として同じ敵に向かって当たっていた機体のような気がしたけれど、それは今深く考えても仕方のないことだ。
生きて帰れたら、何も考えずに、シャワーも浴びずにそのままベッドに横になりたい、と思った。今までにないぐらい、ぐっすり眠れる気がした。
もう何時間、戦い続けているのか分からなかった。一機、また一機、と、霧の中で反応が減っていく。味方機も、敵機も、そのどちらか分からない機体も、分け隔てがない。
僕たちの部隊も、『ヴォワイヤン』に『アンテロープ』、それから何機かが残るだけになっていた。なのに、戦闘は終息する様子がまるでない。外部カメラの様子を見ても、霧に覆われて何も見えなかったが、この周辺にどれほどのハイドラライダーの死体が積み上げられていることか。
ついに隊長機の反応が消えたのを確認し、僕は大きく息を吐いて、かぶりを振った。
部隊の頭が潰された時は、配属の年次で次の指揮官が決まる。僕は下から数えた方が早いが、もう上はみんな死んでいた。通信を開く。
「限界だ。撤退しよう。『アンテロープ』が殿を務める。各員、注意して――」
《『アンテロープ』!》
僕の言葉を遮って、チャーリーが鋭く声を発した。僕も、こちらへ近づく機体をレーダー上に捉えていた。その駆動音も、まだ何とか聞き分けることができる。
中型の、二脚のウォーハイドラだ。
ダメージを受けているのか動きが覚束ないが、それでも『アンテロープ』よりは足の速い機体だ。これ以上、無駄に戦闘を行いたくはなかったが、このまま無視して離脱するのも難しい。
「各員、先に撤退してくれ! 『アンテロープ』もすぐに後を追う!」
それだけ言って僕は通信を切り、『アンテロープ』を音の方へ向けた。格闘機なら、近づかれる前に撃墜しないとまずい。
「……」
だが、そうして、霧の向こうから現れた機体に照準を合わせて、僕は思わず手を止めていた。
現れたハイドラは、頭がすでに吹き飛ばされていた。
操縦棺もひどく傷つけられており、中のハイドラライダーも恐らく無傷とはいかないだろう。それでも、ふらつきながら、機体はこちらへ向かってきている。
こちらは、放っておいても撤退するのだ。そんなにまでして戦いたいのか、という言葉が喉元まで出かけて、止まる。それはあくまでこっちの勝手な考えだ。それに、頭部もなくなり、味方も墜ちているのなら、戦場をまったく把握できていない可能性が高かった。
いずれにせよ、迎え撃つしかない。幸い、あれほど機動力が削がれているのなら、銃弾を外すことはないだろう。僕は操縦桿を握りしめ、スイッチを――
《――――――ッ!》
瞬間、スピーカーを通して、獣のような雄叫びが耳を劈く。
耳はもう限界だった。吐き気と頭痛に襲われながらも、なんとか僕は操縦桿のスイッチを押したが、大幅に照準がずれている。霧の向こう、相手の速射砲が、入れ替わりにこちらに銃口を向けた。
『アンテロープ』の装甲が削られきり、その下の操縦棺が抉られる。その声が目の前にいるハイドラの搭乗者のものであることに気が付き、通信回線をオープンにしていたことを後悔する頃には、弾け飛んだ装甲坂が操縦棺の中を跳ね回り、終着点として僕の腰の下辺りに突き刺さっていた。首や頭に当たらなかったのは幸いだったのかも知れない。でも、最終的には大差はない。即死か即死じゃないだけだ。
僕は悲鳴を上げたかも知れない。上げられなかったかも。相手のハイドラがとどめを刺そうとこちらへなおも向かってくるのが見えた。僕は何とか操縦桿を握り直して、相手の機体を見た。破られた装甲の間から、霧の向こうに、ぼろぼろになった操縦棺が見えた。
チャーリーの声が聞こえたような気がしたけれど、何を言っていたのか。もう何も耳に入らなかった。わずかな振動さえ激痛を呼び起こし、僕は苦鳴を上げながら、ただ目の前の相手を睨み付ける。
『アンテロープ』が虎の子のヒートソードを振りかぶり、相手の操縦棺を抉った。
その時僕は――見えるはずがないのに――相手の操縦棺に乗っていた、頭から血を流す目つきの悪い金髪の男が、その体が、赤熱した刃に貫かれ、燃え上がるのが分かった。
だというのにハイドラの構えた速射砲の銃口は、まっすぐにこちらを向いているのだ。
ウジェニー=エッジワース博士はその日、機嫌がよくなかった。
社内横断の予算会議で、自分が主導していた計画が縮小され、代わりにダミーコンピュータを使ったAI部隊が大きく推進されることに決まってから、まだ二十四時間と経過していない。
研究室に引っ込み、しばらく物に当たったり喚き散らしたりしてから、不貞寝――仮眠を三時間だけ取った。提出案の修正を試み、あちらの企画との比較検討をはかること二時間、やはり自分の計画の方が優れていると確信し、それでも会議で打ち負けた悔しさに身悶えること一時間。
まだ、心の整理が全くつけられていなかった。あれほど情熱を注いでいた試作品も今は目に入れることすらできず、仕事などもってのほかで、しばらく休暇を取ってバカンスにでも行こうと固く決意していた。
だと言うのにそれから八時間が経過した今、ウジェニーは血と臓物と排泄物の織り成す悪臭のど真ん中で、生きた人間と、死体と、死体の一部を選別する仕事にあたっている。
「……」
ウジェニーは目をすがめて、椅子の取っ払われた病院の待合室を眺め回した。端的に言って地獄絵図だ。
事の発端は、敷地の近辺で発生したハイドラ同士の戦闘だった。
最初はちょっとした小競り合いであったのが、あれよあれよと言う間に泥沼化し、何時間にも渡る凄惨な殺し合いへ姿を変えた。戦闘が終息したのもつい先ほどのことだという。
で、この有様だ。
床を覆うように敷かれたシートの上に、人間や人間であったものが所狭しと並べられている。選別している間もなかったのだろう。一見して、運ばれてきたものたちは全く所属を問わなかった。おかげで人手が足らず、資格があるとはいえ本来は医師ではないウジェニーさえ招集されている。
怪我人を直すのは苦手ではない。死体を見るのも嫌いではない。
とは言え、仕事をする気がないところを引きずり出され、こうして刺すような臭いの中何時間も立ちっぱなしだと、これ以上ない不機嫌にもなろうというものだった。
「これは無理でしょ、これはさすがに弾こうよ、さすがにさあ」
胸から下だけの男の遺骸を足先でつつき、ウジェニーは苛々と息を吐き出す。
確かに、千切れた腕や脚がこの辺りで呻いている誰かのものである可能性は否定できない。できないが、これでは残りの部位が見つかっても、助けるのは無理だろう。しかも、傷口は完全に焼け付いていて、『上』が無事だとはとても思えない。
「博士、こっちに上半身がありますよ。まだ生きてます」
「……えっ、ほんとに?」
まさか、という顔で振り向いたウジェニーは、示された『上』を見て、すぐにかぶりを振った。
「違う違う、よく見て、それって全然違う人だから!」
「じゃあ、駄目ですか。どっちも廃棄行きですかね」
あっけらかんとした言葉に、ウジェニーは思わず唇を歪める。
死体に対して廃棄などという言葉を使うことに、この数時間ですっかり慣れてしまっていた。人道という言葉を鼻紙で包んで捨てる残像領域でも、医療の分野にはまだ辛うじてそれが残っている、と思っていたのだが。
「……いや、駄目じゃないな」
思った端から、勝手に口に出ていた。足元の下半身を改めて見れば、傷口はすっかり焼けているものの、そこから下は無事だった。いくらか削れば、綺麗な状態になるはずだ。
「うん、駄目じゃないよ。繋いじゃおう。そっち、まだ生きてるんでしょ? だったらそうした方がいい。抑制剤はあるはずだから」
それがどれほどの大手術になるのか、その間他の患者はどうするのか、何も考えていなかった。
ただ、より多くの人間を、優先順位をつけて効率よく救うという考え方が、その時なんとなく気に食わなくなっていた。
「さあ、早くしよう。うかうかしていたら、手遅れになってしまうからね」
ウジェニーは言い切ると、血だまりの中で踵を返した。
かすかな呻き声を聞きつけて、ウジェニーはおもむろに顔を上げる。
目に入ったベッドの柱には、二枚のライセンスが名札ケースに入れられて、まとめてかけられていた。
病室にはひんやりとした空気が漂い、あの待合室とは隔絶された静寂さと清潔さがある。肺いっぱいに空気を吸い込んだウジェニーは、自分の体から漂ってきた血と汗の残り香に顔をしかめた。
結局、あれからまた人間の山の中に舞い戻って、ヘトヘトになるまでひたすら手当を行う羽目になった。助けきれなかったものも、助けられたものも、手をつけた中では半々といったところだ。
それが、自分が実力不足であったとか、判断ミスをしたとか、ウジェニーはそういうことは考えないようにしている。とにかく、仕事はした。だから何人かは生きている。
立ち上がって痛む背中を不器用にさすり、ウジェニーはベッドに向かって歩いていく。
オーガスト=アルドリッチは、特に手間をかけた患者だった。例のあの上半身である。
切って繋ぐ経験は豊富なウジェニーだが、人間の上半身と下半身を繋ぐのはさすがにこれが初めてだった。手術がうまくいった自信はあったが、それでも経過が気になって、ここで待機していたのだ。
オーガストは、まだ目を覚ましたわけではないらしい。いまだ目を伏せたまま、意識がなくとも苦しいのか、きつく眉を寄せている。
茶髪を短く刈り込んだ、背の高い男だ。あの場にいた以上はどこかの企業に所属しているハイドラライダーなのだろうが、軍人にも見える。
あの時は、ちょうどいいぐらいにしか思わなかったが、たまたま近くに同じ体格の人間が転がっているような体躯ではない。よほど運のいい男なのだろう。
とは言え、腰から下が全くの別人にすげ替わったのだ。執刀した自分が、説明責任くらいは果たすべきだろう。
「……う」
再び、オーガストが小さく呻き声を上げた。ウジェニーは身を乗り出して、顔を覗き込む。
やがて、身動ぎをして、うっすらと目が開かれた。ウジェニーは喜色を浮かべ、ベッドの端に腰かけて、
「目が覚めた? 自分のお名前が言えますか?」
「――」
オーガストはぼんやりと視線を彷徨わせた。ウジェニーの言葉を噛み砕くように目を瞬かせ、唇を震わせる。
「……ウィリアム。ウィリアム……ブラッドバーン」
「え?」
思わず声を上げて、ウジェニーはベッドの柱へ目を向ける。
それは、『下半身』の名前だ。だが、ライセンスには名前や所属とともに、顔写真も載っていた。取り違えることなどない。
「……、あ」
ウジェニーが疑問を口にする前に、男は見る見るうちに目を見開いた。包帯まみれの手で顔を覆い、大きく震え出す。
「違う! 僕は……俺は――!」
「……ちょっと、ちょっと、大丈夫? 君……」
身を引きながら、ウジェニーは問いかける。だが、男の目にはもう、何も映っていなかった。顎を仰け反らせ、皮膚を突き破らんばかりに顔に爪を立てている。尋常ではない。
「やめろっ! お前は……ッ、お前は、死んだはずだぞ!」
血を吐くような絶叫。
ウジェニーは呆然と、喚く男を見つめていた。
臓器記憶という言葉がある。
乱暴に言ってしまえば、人間の記憶は脳のみに存在するものではなく、細胞ひとつひとつに点在して格納されているという考え方だ。
臓器移植を受けた人間が、術前と術後でまったく性格が変わったり、食べ物の嗜好や興味分野まで変化した、というケースから生まれた推測で、知り得ないドナーの情報を知っていた、などという話もある。
ただそれは、他人の臓器を使って生き延びた、という罪悪感からくる思い込みであったり、眠っている間に傍でなされていたドナーについての会話を自分のものだと取り違えてしまったりと、その多くが否定されている。
ウジェニーも、そんなものはないと考えていた。あるのは他人の体が繋がれたことによる、免疫の苛烈な拒絶反応だけだ。それを抑えてしまえば、誰の体と接合したところで、何の不具合も起こらない。そのはずだった。
だが、事実として、オーガストの中には、繋いだ下半身――ウィリアムの記憶がある。自分をウィリアムと取り違えるほど、明確に。
だがそれは果たして、臓器の、繋がれた体の記憶なのか。
(霊障)
残像領域で起こる『不可思議な現象』は、人間の思念や記憶と相性がいい。
戦場において死者の感情がこごり、霊場となって人間を殺すほどなのだ。一人の人間の体に他人の記憶や人格が宿っても、まったくおかしくはない。二人の体を繋いだのが原因かさえ分からなかった。
とにかく、オーガストの精神状態はよくなかった。そもそもオーガストと呼んでいいのかさえ定かではない。
脳こそオーガストのものだが、記憶はオーガストとウィリアムのものが混在し、どちらがどちらか境が曖昧になっている。
二重人格でさえないのだ。同時に、二人の人間の記憶と人格が表出している。上手く共存してください、などと言えるものではない。
このままでは、彼はもたないだろう。自分で自分の体を引き裂きかねない。
薬で眠らされた男を見つめ、ウジェニーは苦々しくため息をついた。せっかく助けた患者を、このまま死なせるわけにはいかない。だが、どうしたものか。
「あ」
白衣のポケットに突っ込んだ指先に、何か硬いものが触れる。
それが何かを理解した時、ウジェニーは思わず笑みをこぼした。
……やってみる価値はある。それなら、『彼』には新しい名前が必要だ。仮の名前でもいいから、とにかく新しい名前が。オーガストかウィリアムか、そのどちらかであろうとするなら、彼は壊れていくばかりであろうから。
「そうだね。そうしよう。それがいい! 君の名前は……」
歌うように言いながら、ウジェニーはポケットから黒いメモリチップを取り出した。
数時間前まではあれほど見たくなかった、あの試作品。バイオノイドのための人格データを。