設えられている窓は他の部屋よりも小さく、部屋自体も手狭だった。
差し込む初夏の陽光が、古ぼけた机と椅子を照らしている。硬そうなベッドとクローゼットは、どこか懐かしい気持ちにさせられた。学園にいたころは自分も、ああいったベッドに寝ていたのだ。
鵤万家では、使用人にもそれぞれ部屋が与えられ、みな住み込みで生活している。
蟲が人から人へと渡り、食い荒らして行かないように。
結界をより狭く、強固に保つために。
そういった考え方から、ドアには、内側にも外側にも鍵穴がついていた。外側から鍵を閉めれば、内側からは開くことができなくなる。開ける時もまた、外側の鍵が優先だ。
アラタが使ったのは、屋敷のマスターキーだった。部屋に足を踏み入れると、緊張で身体が硬くなり、ぎくしゃくするのを感じる。部屋の主に見つかったら、ただでは済まない。
深呼吸をして、クローゼットへ向かう。幸い、気をつけていれば床は軋んだ音ひとつ立てなかった。
部屋の中は綺麗に片づけられていて、ほとんど私物もない。あるとすれば机の中か、このクローゼットかだ。
心臓の音が耳元で聞こえるのを感じながら、アラタは両開きの戸に手をかける。
瞬間、鍵の束が床に落ちる、けたたましい音がした。内側から鍵をかけるには、鍵を鍵穴に差したままにしておくこと。だが部屋の鍵は、外側からが優先だ。
「――!」
アラタは振り返らずに、慌ただしくクローゼットの戸を開く。
扉が乱暴に開けられ、床を踏み鳴らす音がどんどんと近づいてくる。
クローゼットにかけられている服は、そう多くはない。アラタは顔を突っ込むようにして中を探す。
「……やめろ!」
肩に手を置かれた時、アラタは既に目的のものを見つけていた。
振り返り、相手を見上げる。驚くほど険しい顔をしたメイドは、アラタの肩に手を置いたまま、右手の拳を振り上げた。
だが、その拳は振り下ろされることはなかった。見る見るうちに、ルカの顔に驚愕の色が広がっていく。
彼女の身体から紫紺の光が立ち上り、明々と輝いていた。
「あっ……!」
心許ない叫び声を上げて、ルカはアラタから離れ、一足飛びに後ろに下がった。それとともに、またたく間に光は消え失せる。
痛いほどの沈黙が、部屋の中に落ちた。
ルカは息を荒げ、ただうろうろと視線を彷徨わせている。
今まで、あれだけ一緒に戦ってきたのに、彼女が息を乱すところを見るのは初めてだ。これほど動揺しているところを見るのも。
アラタは黙ったまま、クローゼットの中から一着の服を取り出して、ルカに見せた。
白い神官服の胸元には、黒い蜻蛉の刺繍が施されている。
かつて誰かと魂を分かち合い、そしてその相手を喪った証。
大きく息を吐いて、ルカは姿勢を正した。
「……蟲に喰われかけて、助けられた人が、霊力だけをすっかり失くしてしまうことがあるって、授業で習ったんだ」
囁くような声でも、静かなこの部屋にはよく通った。アラタは息をついて、クローゼットに服を戻す。いつまでも触れていていいものではない。
ルカはいつものように背筋を伸ばし、こちらをじっと見つめていた。アラタは俯いて、胸元に手を当てる。
「でも、満たされていた水が喪われただけで、その基礎は残っている。だから、誰か別の人が霊力を供給すれば、術式を使うこともできる。双神術を使えば。ルカだって、『学園』で習ったんだろう? だから、新しい相棒を探しているんじゃないの?」
「旦那様、わたくしは……」
「俺は、嫌だ」
言葉を遮り、アラタはきっぱりと言った。
「俺は嫌だ。ルカの言うとおり、屋敷を護るために戦ってきたよ。それでよかったとも思ってる。でも、あの蟲たちと戦うのは嫌だ」
「……」
ルカは押し黙り、アラタを見返す。
先刻、ルカの身体から紫紺の光が走ったのは、アラタがルカに霊力を渡したからだ。ルカに触れた時に感じた、何か吸い込まれるような手ごたえは、彼女が霊力を喪っている印だった。
「ルカは、相棒を喪って、戦う力があって、だからもう一度、戦いたいのかも知れない。
……でも、俺は嫌だ。
嫌だから、この屋敷にいるんだ。俺にはできない。ルカの足を引っ張るだけだよ。元の世界に戻ったら、別の相棒を探せばいい」
「……」
「それに、隠しごとをしている人と、相棒にはなれない。……ルカは、俺を信頼していないんだろう?」
「…………それは、違います」
「違うって、何がさ!」
叫び声を上げ、ルカに詰め寄る。
ルカは背筋を伸ばして立ちすくんだまま、アラタを見下ろした。だが、先程の激昂や狼狽が嘘のように、彼女は落ち着いている。アラタは鼻白み、続く言葉を喪った。
「わたくしが望むのは、旦那様にこの屋敷を護っていただくこと。元の世界に帰っても、なお護れるように」
今まで何度も繰り返されてきた言葉に、ルカはひとつだけ言葉を付け足した。
一瞬、彼女が何を言っているのか分からなくなる。鵤万イサリが作り上げた結界が、屋敷が、堅牢極まりないことを、彼女もよく知っているはずだ。
「『元の世界に戻れば、屋敷の中だけは安全でいられるのに』とお思いですか?」
ルカはため息をついて、アラタの方へ一歩足を踏み出した。思わず一歩下がろうとして、踵がクローゼットに軽くぶつかる。
「――あなたは、嘘をついていらっしゃる」
息が詰まる。
それは今まで、アラタがずっとルカに対して感じてきたことだ。
その言葉を、どうして彼女が今、こちらへつきつけてくるのか。
「これは、ずっとあなたの物語です。わたくしのものではなく」
ルカの身体が作る影が、アラタにかかる。
脂汗を流しながら、アラタはメイドの鋭く底冷えのする、金色の瞳を見返した。
「あなたも、本当は分かっているはず。目を背けていても、いずれ向こうからやってくることを」
「な、なにが」
部屋に忍び込んだ時よりもずっと速く、心臓が脈打っている。何も、分からない。
「……何が……来るって…………?」
なのに、何故こんなに、恐ろしい気持ちになっているのだろう。
「…………」
「……ルカ…?」
ルカの目が、不意に伏せられた。一歩下がり、しずしずと頭を下げる。
「――昼食の準備をしてまいります。いつものお時間に、食堂までおいで下さい」
「…………」
「鍵は、旦那様の方でかけておいて下さいますよう。それでは」
去っていくルカを、アラタは呼び止めることができなかった。
ずるずるとその場に座り込み、深呼吸をする。汗が止まらない。屋敷の中は外よりもずっと涼しく、過ごしやすいはずなのに。
「何が……来るって言うんだ……?」
ぼんやりとした問いに、応えるものは誰もいなかった。