ルカ=イスティーヌ 十三週目

 ルカ=イスティーヌがニブリ学園を「できのよい生徒」として卒業できたのは、在学中に見つけた相棒の力に因るところが大きい。
「あなたがルカ=イスティーヌ?
 こんにちは、私、――っていうの! どうぞよろしくね!」
 こちらに手を差し出して笑う少女の顔と名前を、もうルカはよく覚えていない。
 霊力の大半を喪った際に、記憶や感情の一部も喰い散らかされた、というのが、医者から聞いた話であった。
 やりとりした手紙、手帳、かつての学生証、メモ、学内報、いくらでも相棒の名前や似顔絵を後から調べることはできたけれど、いくら見ても、再び覚えようとしても、それらが死んだ相棒の顔であったり、名前であったりとは、自分の中で納得させることができなかった。
 覚え直すことはできても、蝕まれた記憶の中にその名や顔を当てはめることができない。酷い苦痛だった。
 彼女との記憶自体は、いくつも残っている。
 例えばこうだ。図書室にある分厚い物語を持ってきて、興奮した調子で言う。
「この物語ってすごく素敵なの、若くして死んだ恋人どうしが、生まれ変わって何度も何度もめぐり合うのよ。記憶を失くしていても、互いの顔を見た途端に電撃が走ったように、この人だ――って分かるの。それって、とってもすごい! そう思わない?」
 ……物語の結末を他人に明かすことを斟酌しないタイプではあった。
 兎角明るく、押しが強く、時に無神経で、最初のうちは鬱陶しいと思うことが多かった。相棒を組んでからも、もしかしたらそうだっかも知れない。
 そういうこちらの感情は伝わっていたはずだが、彼女は気にしていないようだった。素振りだけではなく、実際にそうだった。心を繋ぎ、霊力を繋ぎ、共に闘う、魂を分け合った相棒。彼女はそう言った意味で裏表なく、透徹しており、潜っても潜っても澄んだまま底の見えない、青い洞窟の湧水を思い起こさせた。温かくはない、だが、心地がよい。
 彼女に関する膨大な記憶の一部でも、欠けるのは堪えられないと思っていたはずだった。
 だが、似顔絵を見てもその名を見ても、喪われたものはもう戻ってこなかった。どこかひとごとのように、自分がかつて抱いていた感情をただなぞっているだけだ。
 例えば、もし死んだのが自分の方で、生き残ったのが彼女の方であったらどうだったろうと、ルカは時折考える。
 答えの出ないはずの想像は、いつでも同じ答えに行きつく。
 きっと、忘れたりはしなかっただろう、忘れても思い出してくれただろう。彼女が好きだった物語のように。
 こうも考える。もし、先に蟲に乗っ取られたのがルカの方であったら、乗っ取られた相棒に相対したのが彼女であったら、どうだったろう。
 これも、答えは同じ。きっと彼女は、ルカのことを考えて、迷わずきちんととどめを刺してくれただろう。
 自分は違った。


 まとわりつく靄を振り払うように進む。
 湖面は自ら光を放ち、その表面に像を結んでいた。時間の止まった鵤万家の屋敷は先日見た時と変わらず、日差しも今の屋敷に降り注ぐ初夏の光よりは幾分柔らかく見える。
 辺りに『霧の王』の姿はなかった。
 広げた掌に目を落とし、ルカはひとつため息をつく。
 鵤万アラタは己の身の振り方をはっきりとさせないまま襲ってくる勇者との戦いだけは続けている。
 元の世界に戻った時に待ち受けているものを知った時、屋敷を護ることさえ放棄するのではないかと危惧することもあったが、幸いそうはならなかった。
(自分にできなかったことを、あのガキにやらせようとしている)
 拳を握っても、身体にどう力を込めても、アラタに触れられた時に現れた紫紺の光は失せたままだ。
 霊力さえあればまた戦える。アラタが怯えてどうしようもないならば、パスだけ繋がせて自分が戦う、ということを考えなかったわけではない。だが――
「……あと二週」
 ルカ=イスティーヌは拳を握りしめたまま、押し出すように呟いた。