鵤万アラタ 四週目

 ……鵤万アラタは、今日も仰向けに倒れている。
 蝉が元気に泣き喚き、茶畑に気持ちの良い風が吹く、相変わらずの初夏の風景。
 ぐるりと視線を巡らせると、前庭には塩の柱がいくつも立っていた。『勇者』たちの残骸である。
 彼ら――彼女らは、先程ルカが最後の一人を殴り飛ばしたところで、前回のように跡形を残して姿を消していた。今回も屋敷に立ち入らせることなく撃退できたのはいい。しかし。
「け、結界……」
「破られてはいませんが、意味はそれほどなかったようですね」
 息も絶え絶えなアラタに対して、ルカは相変わらず息ひとつ乱していない。服についた塩をばさばさと乱暴に払って、彼女は門の方を見やった。
 アラタは大きく深呼吸して、空を見上げる。抜けるような青空を時折、透明な膜の揺らめきが遮る。アラタが編み上げた結界は、形が整ってはいないものの、確かに健在のようだった。
「そうだねえ……結界って、肉を持たないものを弾くという性格が強いから……
 蟲に乗っ取られた人間は……霊力や心の形が変質するんで、それでフィルタリングはできるんだけど、あの勇者たちはまた種類が違うみたいだし。アレで全部防ぎきるのは難しい……」
「専門的なお話をありがとうございます」
「ただ、身体があっても力は殺がれるはずだから、意味がないってことはない……はず」
 起き上がり、アラタは息を吐く。口の中が少し塩辛かった。
「ただ、もうちょっと楽をしたいところだよ……毎回これじゃ、大変だ」
「お茶を淹れますよ。屋敷に戻りましょう」
「……それって、この前摘んだお茶?」
 ルカは答えずに口の端を笑みに歪ませると、さっと踵を返して足早に去って行った。


『魔王』『できそこないの神々』『勇者』
 この世界にいるものは、おおむねその三つに区分されるという。
 アラタはどうもその中では、『魔王』ということになっているようだ。どうもまがまがしい名前だが、他の世界から呼び出された存在、程度の意味に考えればいいとのこと。
 魔王であるからには魔王を呼び出した『できそこないの神』の一柱がいるはずだが、それはまったく姿を見せていない。ふつうは神が魔王に説明をしてくれるらしいのだが、それもない。他と違う、ということに、何やら不安を煽られる。
 ルカの淹れてくれた紅茶は美味しかった。
 ゆっくり冷ましながら飲んで、窓の外を見る。窓の外には見慣れた庭園と、見慣れない茶畑が広がっている。
 勇者が歩いた後の畑からは、妙なものが取れた。護符に、火薬、たてぶえに、穴のあいた長靴。彼ら彼女らの落し物というわけでもないらしく、それらはルカが土の中から掘り起こしてくる。いつ手伝わされるのかとはじめは戦々恐々していたのだが、そう言った気配はない。
 ルカが自分に求めるのは二つだ。屋敷を護ること。そして、屋敷の主らしく振舞うこと。
 今のところ、自分はどちらも満足にこなせていない。屋敷の護りはほとんどルカや仕掛けに頼っていたし、この屋敷はやはり自分には広すぎる。以前は何人もいた使用人がすっかり消えてしまったのだから、なおさらだ。
 アラタが今いる、自室としてあてがわれた部屋ですら、以前『学園』で暮らしていた寮の部屋の五倍以上の広さがあって、まったく落ち着かない。天井も高い。赤を基調とした柔らかな絨毯、高級そうな調度品、天蓋つきのベッドという具合である。手をかけた窓枠ですらたいそう高級に見えた。
 ルカは今、この屋敷をひとりで管理している。
 彼女は比較的新顔のメイドであったため、まだ教えられていない仕事がいくつもあったのではないか、と思われるのだが、彼女が屋敷の仕事をこなす上で不満そうな顔をしたり悪態をついたりするさまは見たことがなかった。
 おおむね、アラタよりも屋敷に優しい。先程も、前庭の掃除をしてくると言ってさっさと部屋から出て行ってしまった。
「……あ」
 前庭に目を向けると、ルカがちょうど箒を持って出て行くところだった。彼女はまっすぐ、姿勢よく、大股に歩く。自分とは正反対だ。
 ルカは塩の柱をちり取りですくい、手際良く大きな布の袋に入れていく。ひとりぶん、ふたりぶんではきかないから、片付けるのには時間がかかるだろう。手伝った方がいいだろうか、と思うが、嫌がられる気もした。この前お茶を自分で淹れると申し出た時も、そんな情けないことを言わないで欲しいと言われたのだ。
 もっとも、使用人たちはアラタの着替えさえ手伝っていたのだから、以前よりもずっと、自分のことは自分でやる生活に戻れたと言えるだろう。
 ぼんやりとルカが塩の柱を片付ける様を見つめながら、アラタは先程の『勇者』たちとの戦いを思い出す。
 こちらは自分のことで精いっぱいだったが、ルカは自分の周りの敵をいなしながら、きちんとアラタのことを手助けしていた。身のこなしだけで見ると、『学園』で一応戦い方を習ったアラタよりもずっと上手である。霊力を用い、強化や補助の術式が使えれば、本職の神官とも互角に渡り合えるだろう、とさえ思えた。
(……それに、あの動き)
 しっかりと見ている余裕はなかったが、どこか既視感を覚える体捌きだった。
 自分が戦っている人間を見た経験は、そう多くない。見ていたとしたら『学園』の、生徒か教師ということになる。
 ただ、彼女の顔にアラタは見覚えがなかった。『学園』で会ったことがあるのなら、覚えているはずだ。
 ニブリ学園はふたりでひとりの双神官を育てる機関であり、自分にとって最も適した相棒を見つけるために全力を注ぐことが求められる。同級生や教師どころか、別の学年の人間の顔を覚えて名前を書く筆記試験さえあるのだ。アラタは座学の成績はそれなりだったし、忘れないという自信もあった。
 それに、『学園』の生徒なら、術式が使える。
 彼女が嘘をついている可能性もある。けれど、『勇者』たちが襲ってきているあの状況で、術式が使えることを隠したまま戦うものだろうか。
 アラタは拳を握り、意識を集中させた。
 程なくして身体が熱を帯び、全身から赤い光が立ち上る。
 術式というのは、こっそり使える類のものではない。霊体の殻の中に収められた霊力を外に出す必要があるし、そうするとこうして魂の『色』が、強い光を放つのだ。
 だから、彼女は霊力の使い方を知らないと考えるのが自然である。
 アラタは息をつきながら、霊力を自分の目と耳に集中させた。身体の機能強化は、術式の中では最も基本的な技術だ。
(ちょっと行儀はよくないけど……)
 詳しく観察してみれば、彼女が何者か少しでも分かるかも知れない。
 窓に張り付き、じっと耳を澄ますと、風や葉の音に混ざり、ルカの息遣いが耳に滑り込んできた。どきりとして、アラタは唇を引き結ぶ。
 ルカは布袋いっぱいに塩を詰め終わり、それを担いで門の外へと運ぶところだった。勇者が中で復活したら面倒だから、ということだが。
 石畳を踏みしめて、さすがにゆっくりとルカは歩いていく。初夏の温かい風の中、この運搬は疲れると思うのだが、彼女は表情を崩す様子はなかった。何かをつぶやく様子も、ない。収穫はなさそうだと思いながらも、アラタはさらに拳を握りしめる。
 と。
「――あっ」
 ルカが急に視線を巡らし、まっすぐこちらを見上げた。
 ……術式は、こっそり使える類のものではない。ルカは窓の中が赤く輝いているのがはっきりと見えたはずだ。

『――クソガキ!』

 と、ルカが毒づくのが聞こえたところで、慌ててアラタは術式を取りやめ、部屋の中にとって返した。


「――――ごめん!」
 こういう時は謝った方がいい。知らないふりをすると余計に事態が悪化する。
 テーブルの下で縮こまっていたアラタはルカが戻ってくるがはやいか、全力で頭を下げた。
 ルカは大きくため息をつき、アラタを呆れ顔で見る。
「旦那様……気になることがあれば、面と向かって聞いて下さればいいのです。わたくしは、あなたのメイドなんですよ」
「ごめんなさい……」
「そういう趣味があったというなら話は別ですが」
「それは違う!」
 慌てて否定するアラタを、じろりとルカは睨みつける。
「……では、何がお知りになりたいのですか」
「ええと、……ルカが戦っているところを見てて、見覚えがあるような気がしたんだ。顔を見たことはないけど……俺に『学園』にいたことを隠してるんじゃないかと思って……」
 問われ、アラタはしどろもどろになりながらも答えた。ルカは沈黙したまま、アラタを見つめ返している。
「ごめん、言いたくないならいいんだ」
 アラタは俯いて、首を横に振る。
 ルカは、大げさにため息をついて見せた。
「わたくしの体術は、メイドとして必要な護身術です。
 『学園』の教師であったというお方に教わったので、見覚えがあってもおかしくはありません」
「……」
 確かに、それならおかしくはない、のだろうか。
 しっくりこないものを感じて、アラタは顔を上げる。が、ルカはアラタの顔を見て、もう話は終わりだとばかりに顔を背けた。
「お部屋を回って、お掃除をして参ります。旦那様は、ごゆっくりなさってください」
 ルカの言葉は相変わらず有無を言わせない。話を打ち切り、さっさと歩いて行ってしまう。
 アラタはそのまっすぐ伸びた背筋を見ながら、ううん、と小さく唸った。