鵤万アラタ 六週目

 鵤万アラタは、紐に絡まっている。
「やばい」
 顔をひきつらせて、石畳の上に転がったまま、手足をひょこひょこと動かしてみるが、解ける気配は全くない。どうやってこうなってしまったのか、手首を動かしてみても指先が紐に触る気配すらなかった。
 いかんともしがたい。
 前庭では屋敷が噴いた炎が『勇者』たちを薙ぎ払い、プリンセスドールが宙を舞い、鍋が激しく揺れこぼれ、おもちゃの兵隊たちがおもちゃの長銃を斉射して月を孔だらけにしており、いつにもまして混沌とした様相を呈している。
 時折、砕かれた『勇者』の欠片――塩の塊――が弾け、雨となって降り注いで、地面に転がるアラタの口の中はどんどん塩辛くなっていた。
 アラタに絡まっている紐も、また『勇者』の一種であるようだ。アラタが動こうとしなくても微妙に軋み、屋敷の方へ向かって進もうとしているのだが、アラタを運ぶほどの力はないらしく、もぞもぞと紐の端が石畳を掻くだけでいる。
「えーっと……」
「畢竟、ほどけぬ結び目というものは」
 そうこうしているうちに、頭上にふっと影が差した。
 眉をしかめ、さも不機嫌そうな顔をした長身の――メイド――ルカだ。降り注ぐ陽光を背に受けて、顔に影が落ちかかっている。
 服にかかった塩を振り払って、彼女はもつれる紐に手をかけた。
「引き裂いてしまうのがよろしい。宝物ではないのだから」
 ぶちぶちと纏まった紐の引きちぎれる音を、アラタは信じられない心地で聞いた。
 引きちぎられた紐が塩となり、ざらざらと背中に落ちかかる。急に両腕が自由になったのを感じて、アラタは慌てて石畳に手を突いた。初夏の日差しを受けた石畳は、しかしまだ温まり切っておらず、ひんやりと冷たい。
「さて、もうひと踏ん張りです、旦那様。さっさとお立ち下さい」
 ルカはそう言いながら、すでに油断なく周囲に視線を巡らせている。
 アラタは慌てて立ち上がり、ルカの背後に隠れるようにして同じように前庭を見回した。前庭のつきあたり、門扉の前では塩が凝り、新たな『勇者』の姿をかたちづくり始めている。すなわち、先程アラタに絡まっていたのと同じ紐。
「返事」
「だ、大丈夫! 頑張る!」
 どすの利いた声に裏返った声で答えると、アラタは息をついて『勇者』たちを見据えた。


 女性が着る白い制服の胸元には、黒い蜻蛉とんぼが刺繍されていた。
 この地方の春は少し肌寒く、時折吹く冷たい風から身を守るように、彼女は制服の上に薄い上着を羽織っている。ただ、その上着も明るい色をしているから、蜻蛉は黒く広げられたしみのように、白い布の上で少し不気味に見えた。
 秋津国では蜻蛉は象徴的な役割を果たす昆虫である。繁殖期に連なって飛ぶ蜻蛉の姿は、この国を造った双子の神にも、それを奉じる双神官にも喩えられる。
 その蜻蛉が黒く一匹だけ胸元に縫い付けられているのは、彼女がすなわち片割れを喪った神官であるからだ。
 彼女のような人は片翅と呼ばれ、黒い刺繍は人を寄せ付けない未亡人の証であるようにも思われる。
 だが、彼女の表情には生気があり、薄い化粧をしているものの精悍と言ってよい顔立ちをしていて、その眼差しは挑戦的だった。上着を脱ぎ去って躊躇なく放り、小首を傾げてにやりと笑ってみせる。長く豊かな黒髪が、さらさらと制服の上を流れていた。
「そう緊張するんじゃない」
 彼女の言葉に、こちらは頷くのが精一杯だ。こうした組み手が得意だったためしはないし、しかも彼女は教官である。硬くならない方が無理だった。
 こちらが声さえ出せないのを見てとって、女性は困ったように笑うと、ひとつ息を吐いた。
「ま、緊張してもしなくても、一緒か。
 でも、大事なのは経験だ」
 軽く腕を回すと、彼女は半身になってこちらへ拳を突き出した。
「起こったことを簡単に忘れ去れたりはしないのだから、血肉にでもするしかない。分かるか?」
 首を横に振る。彼女の語る言葉や振る舞いはおおむね肉体的で、暴力的で、それは彼女のたゆまぬ鍛錬と、深く、時に昏い体験に基づいているのだろうけれど、それを共有していない自分には、言葉だけでは伝わりにくい。学びにくい教師であると、教えにくい生徒であると、互いにそろそろ気づき始めていた。
「なら、無理にでも身体に覚え込ませていけ」
 痛めつけられるのは好きではなかったし、やり返すのも怖かった。
 それが学ばなければならないことだと、学んでおかなければならなかったのだと知った今も、気持ちは変わっていない。


「あっ」
 視界の端を小さな影が通り抜けたのを見てとって、アラタは小さく声を上げた。
 振り返ると蜻蛉が翅を広げ、抜けるような青い空に飛び上がっていくところだった。
 涼やかな初夏の風は、蜻蛉が出てくる時期にはまだ早いように思われたのだが、いるところにはいるものだ。アラタはぼんやりと、蜻蛉が消えた後の空を見上げていた。
「オラァ!」
 と。
 背後から聞こえた咆哮に、アラタは身を竦ませる。
 ルカが拳を突き出した先で月がぞぶりと崩れ、塩の柱と化していた。門扉の近くからも、『勇者』たちが復活してくる様子はない。
 ため息。ルカは構えを解き、手に残る塩を払った。
 その姿に、思い出すものを感じてアラタは目を瞬かせる。
 黒い蜻蛉。白い制服。不敵な笑み。
 それから、拳を突き出すその構え。
「……終わり、のようでございますね」
 ぞんざいな口調で、必要以上に慇懃な言葉遣いで、ルカは独りごちるように呟いた。彼女は庭をぐるりと見渡すと、最後にアラタの方を見やり、ふと怪訝な顔をする。独り言めいていたとはいえ、相槌を打つのを忘れていた。
「どうかなさいましたか」
「ああ、いや……何でもない。お疲れ様」
「どうか、なさいましたか」
「…………いや、その」
 視線が痛い。先日、ルカのしていることをこっそり覗き見ていたのが尾を引いているようだ。
(こっちだって、うやむやにされたことはあるんだけど……)
 ルカに触れられた時に一瞬感じた、何かが吸い取られるような感覚。あれについて、きちんと確認していない。
 だが、正直に言えばアラタは、その件については確かめるのが少し怖かった。思い当たるのが、とてもいやな――悪い――ことだからだ。
「……また、思い出したことがあって」
 突きささる視線に負けて、アラタは迷いながら口を開いた。
「わたくしの戦い方ですか」
 ルカはこちらへ一歩、歩み寄って、軽く拳を握って見せる。払い切れなかった塩が、指の間からパラパラと零れ落ちた。アラタは首を竦める。
「学園で二番目に偉い先生が、同じ構えをしていた。
 たぶん、ルカに教えた人が、その先生に習ったんじゃないかな」
 ルカの説明に則るとそういうことになる。
 もっともアラタはその説明にも納得し切っているわけではなかったが、そこについても、掘り下げるのはやめにしていた。単純に、波風を立てた時の彼女が怖いというのもあるが、彼女を傷つけるのも避けたかった。
 アラタがルカの手を振り払った時――彼女は驚いただけでそういう顔はしなかったが、内心は分からないのだ。
「左様でございますね。分かりませんが」
 ルカも、アラタの言葉を否定はしなかった。アラタは両手を挙げて、息を吐く。
「それだけだよ。庭を片付けよう」
「かしこまりました。旦那様は、どうぞ屋敷でお休みください」
「……」
 頷きかけて、アラタは動きを止める。深く頭を下げていたルカはこちらを見て、不機嫌そうに鼻の頭にしわを作った。『まだ何かあるのか、クソガキ』とばかりに。少し前なら、口に出していたかも知れない。
「ねえ、ルカ。……今日は、俺も手伝っていいかな」
 アラタの申し出に、ルカは目を瞬かせた。前に似たようなことを言って拒否されて、それ以降はそういう話をしてはいない。
「前にも申し上げましたが、旦那様は屋敷の主なのですから、雑務はわたくしにお任せください」
「手伝いたいんだ。ほら、早く片付けて、コーヒーが飲みたい」
「……失礼いたしました。もうひとつ、袋を持って参りましょう」
 ルカは再び頭を下げて、足早に歩き出した。アラタは今度はすぐに頷き、彼女の後を追った。
 小さな違和感や疑問が小骨のように残ってはいたけれど、アラタはそれを、押し殺すことにした。