鵤万アラタ 七週目

 ……鵤万アラタは、塩をスコップですくっている。
 勇者たちに踏み荒らされた屋敷は、惨憺たる有様になっていた。
 屋敷の外観はそれなりに保たれてはいるものの、いくつか窓は割られ、扉は破られ、絨毯は塩まみれだ。骨董品めいた調度もいくつか破壊されていた。
 アラタの祖父たる鵤万イサリは、国内でも名の通った偉大な術師だった。
 屋敷や周囲のものに対して己の霊力を分け与え、あるいは屋敷の地下に通る霊脈を利用して繋ぎ、さまざまの防備を施した。――ということが分かったのはこの屋敷ごと異世界に飛ばされ来た後のことだが。
 屋敷の外――前庭に設置されている水路や銅像は、確かに勇者に対して大きな力を発揮した。が、屋敷の中のものとなると、これは逆効果になったようだ。ドアも窓も調度も、恐らく祖父が何らかの術式を施していたせいで勇者たちに破壊されたに違いない。
 アラタはすくい上げた塩を布袋に注いで、大きくため息をついた。
 こうして、刻限を過ぎて塩と化した勇者の残骸を片付けることはできるが、屋敷の復元というとことである。
 生き物に対する治癒の術式は、身体の能力を高めて傷の癒えるのを促す、という理屈で構成されている。屋敷の中のものは、生きているわけではないから、壊れた破片を癒着させたり再構成したりするには、もっと高度の式が必要だ。霊脈から供給される霊力はふんだんにあっても、アラタの頭がついていかない。一度組み上げてしまえば多少応用は効くだろうが、何日寝ないで考えればいいのやら、見当もつかなかった。
 塩の塊を袋に詰め込んだあとは、絨毯の隙間に残った細かな粒を箒で掃いて集めていく。そもそもにして、この塩を片付けるだけでも一苦労だ。屋敷はふたりで掃除するには広すぎるし、集めた塩は逐一、外に運び出さなければいけない。
「……うーん」
 不意に脱力感を覚えて、アラタは壁にもたれかかった。
 勇者が攻めてくる。
 屋敷を護らなければならない。
 ルカに尻を叩かれ、自分なりに気を張ってきたつもりだった。うまくやれている、とも思えてきた。ルカを気遣う余裕もできた。
 その矢先にこれだ。
 次の週にも勇者は攻めてくるはずだが、それを防げるかも不安だ。それを、恐ろしいというよりは、億劫に感じてしまう。
「……ちゃんと、帰る方法も探さないとなあ……」
 そう考えるのは、きっと逃げではないはずだ。勇者を倒していても、勇者を倒して畑から作物を回収しても、マーケットでユニットを売りさばいても、元の世界に帰れる方法が分かるわけではない。なら、魔王としての仕事以外に、もうひとつすることが増える。
「旦那様、お疲れですか」
「――い、いや! 大丈夫!」
 長い廊下の向こうからメイドが大股で歩いてくるのを見つけて、アラタは慌てて壁から背を離して姿勢を正した。それから、怪訝な顔をする。ルカの手にはスコップと袋ではなく、巻物ロールが握られていた。
「それは……?」
 鵤万家の屋敷には、大きな書斎がある。
 祖父が遺した術式と霊力に関する書籍は膨大な数にのぼり、その中には祖父自身が書き記したものもあった。ただし、アラタはまだ足を踏み入れたことはない。屋敷の裏手の迷路と同様、迂闊に足を踏み入れたら出てこれないことがあるという噂があった。
 ルカの手にあるものも、恐らくそこから持ち出されたものだろう。しかし、どうして彼女がそれを持っているのか。術式を学んだことがないというのが、彼女の言ではなかったか。
「恐らく、先々代の書かれた術式です。使えるものかは分かりませんが、修繕や修復と書かれたものを持って参りました」
「あ……成る程」
 命を持たないものの修復は難易度の高い術で、求められる知識や霊力も多いが、その分需要も高い術式だ。この屋敷は霊力を利用しやすい土地に建っているのだから、イサリが自分なりの術式を遺していてもおかしくはない。
「全然思いつかなかった。ありがとう、ルカ」
「とんでもございません」
 慇懃に頭を下げるルカに、アラタは慌てて駆け寄った。
 巻物を受け取って開いてみると、確かにそこには『修復』や『修理』『修繕』の文字が躍っている。なんとかアラタにも理解できるレベルで書かれており、問題なく使えそうだ。
(……あれ?)
 が、読み進めるうちに、アラタはふと眉根をひそめる。
 書かれていることに間違いはない。誤字や脱字もない。整然としている。無駄がなく、応用しやすい丁寧な術式だ。細い文字が歪んだりずれることなく、綺麗に並んでいる。
 しかし、祖父が書いたものにしてはこれは新しい。巻物自体は旧いものだが、インクも筆跡も新しいもののように見える。書斎にしまわれほとんど目に触れなかったせいか、祖父の術式が巻物の劣化を防いでいるのか、あるいは――
「――ルカ、書斎に入ったの? あそこは危ないって話だったのに」
「何事もありませんでした。ただ、勇者どもはあそこには入れなかったようですが」
「じゃ、ただの噂だったのか……でもこの術式、おじい様が書いたものじゃないかも知れない」
「左様でございますか?」
 アラタは頷いて、術式の一ヶ所を指してみせる。
「ほら、ここの部分、間違ってる」
「そんなはずは……」
 ルカが眉根を寄せて、身を屈めると巻物を覗き込んできた。
 それで十分だった。わざとらしく改めて目で術式を追い、アラタはあ、と声を上げて見せる。
「……ごめん。見間違いだった。ちゃんと使えると思う」
「……」
 ルカは押し黙った。失言に気が付いたのだろう。アラタはルカの方を見上げる。
「この式を書いたのは、俺よりもずっと知識や経験のある人だ。それは間違いない。でも、おじい様じゃない」
 術式を使えない、とルカは言っていたが、それが嘘であるのはいよいよ間違いない。この巻物は、恐らく彼女が書いたものであるからだ。
 たとえそうでなくとも、彼女はここに書かれていることをアラタよりも正確に理解している。
 なのに、何故、隠すのか。
 ルカは戦う時でさえ、術式を少しも使ったことがなかった。屋敷を護れと言い、アラタに戦わせ、自分の身すら危険にさらして、どうして……
「…………」
 こちらの視線を真っ向から見返し、ルカは唇を引き結んだ。沈黙したまま、アラタの言葉には応えないままでいる。
(あっ)
 アラタはひやりとして、慌てて自分から目を逸らした。
 自分は、ルカを傷つけたくない、とついこの前思っていたばかりではなかったか。
 ……だが、彼女は隠していることが多すぎる。それもまた事実だ。
「ルカ……」
「わたくしは……旦那様のメイドでございます」
 ルカはため息をつくように言い、姿勢を正した。
「この屋敷と旦那様のお世話をし、旦那様にお屋敷を護っていただく。
 わたくしはそのこと以外に、考えていることはありません」
「……ルカ」
 それは、分かっている。
 けれど、聞きたいのはそんなことではない。
「わたくしは術式は、使えません。それは本当です」
「そんな……」
 そんなわけがない、というのを、アラタは堪えた。
 ばれている嘘を、どうしてなお突き通そうとするのか。
 そういうことにして欲しい、ということなのか。屋敷を護ることを、下から命じてきたように。
 アラタは、無言でルカを見上げる。ルカは目を伏せ、再びため息をついた。
「けれど、式を書き、理解をすることはできる。それだけのこと」
「――」
「確かめたいことは、それだけでしょうか」
「……分かった、それだけだよ。俺は窓と扉を先に修理してくるから、ルカは塩を運んで欲しい」
「かしこまりました」
 ルカが頭を下げるのを確認しないまま、アラタは踵を返す。
 足早に廊下の角を曲がったところで、耐えきれずに駆け出した。
(そんな……)
 ――術式を知っている――術式を使えない――
 彼女に触れた時、吸い取られるような、引っ張られるような感覚がした。身体ではなく、もっと内なる力のようなものを。
 ……そういうもののことを、アラタはよく知っていた。