鵤万アラタ 五週目

 落ちかけた陽が紅く輝いている。
 動かなくなった屍を抱き寄せて、少女はただ涙を流していた。
 辺りはすっかり暗くなり、そこここに広がる血の跡を黒く染めている。黒々とした血に混じり合い落ちかかるのは、屍から流れ出る透明な血液だ。
 蟲に喰われたものの血は、色を失う。その証。
 少女はどちらの血も丁寧に拭ってやり、屍を地に横たえた。俯いた彼女の表情は見えなかったけれど、きっとまだ泣いているだろう。
 屍は、少女の魂の片割れだった。心の奥底さえ通じ合い、分け合う相棒だった。
 それを彼女は、自らの手にかけたのだ。
 ……叫び出さないのが不思議なぐらいだった。
「どうして……」
 少女が虚ろな声を漏らす。
「どうして…………」
 嗚咽さえなかった。
「………………どうして」
 少女の細い指先が、屍の頬を撫でる。ただただ、撫で続けている。続く言葉はもうなかった。
 こんなことが今、至るところで起こっている。
 並ぶ屍はみな、知り合いの顔ばかりだ。
 こんなことのために、自分たちは今までずっとここで学んできたのか。
 問いたいのは、こちらも同じだ。
 ……どうして、こんなことになったのか、分からない。


 ……鵤万アラタは、今日はうつぶせに倒れている。
 記憶が一瞬飛んでいたようだ。なにか夢を見ていたような気はするが、気分は良くない。視界がぐらぐらと揺れて、吐き気がした。そういえば、顎にいいのをもらったような覚えがある。
 視線を巡らせると相変わらずの前庭で、塩の柱をメイドが手際よく片付け始めているところだった。どうやら倒れている主人を無視して、さっさと後始末を始めたようだ。治療ぐらいはしてくれても罰は当たらないと思うのだが、完全に放置である。
 アラタはため息をついて座り込むと、胡坐をかいて目を伏せた。程なくして、身体を紅い光が包み込む。
 身体の機能強化の延長線上にある治癒の術式は、難易度は高くはないがあまり使用は推奨されない。強化よりもずっと体力を消耗するし、しっかり検証されたことではないが、寿命が縮むという話もある。使用するべきなのは、治癒しないままだと活動に支障が出る時だ。例えば、今とか。
「旦那様、お目覚めですか」
 塩を収めた袋を地面に置いて、ルカがようやく気付いたように声を上げた。彼女の声は無感動で、心配する色はない。アラタは薄眼を開くと、じろりとルカを見上げる。
「そうだね。薄情なメイドが起こしてくれなかったからね」
「頭を動かすとまずいかと思いましたので」
「……」
 悪びれない。しかも、言い訳に筋が通っている。思わず黙り込んで、アラタはルカから視線を逸らした。ルカもまた、話は終わりだとばかりに袋をずるずると引っ張って、門扉の外へと運搬していく。
(袋……)
 そういえばあの学園で、死体はみな布袋に入れられ、弔われていた。
 不死身の勇者たちはいくらでも蘇ってくるし、あの塩が死体とは言えないかも知れないけれど、なんとなく、布袋に収められて葬られていった友人たちを思い出して、アラタは眉根を寄せる。
 ずるずると石畳と重い袋の擦れる音が、ここまで聞こえてきた。初夏の日差しは温かく、時折涼風が通り抜けるだけで、ひどく静かだ。今日はたまたまなのか、いつもはけたたましい蝉の鳴き声がすっかり消えている。死んでしまったのだろうか、と考えると、ふと背筋が冷えた。
 ――ルカは、アラタを護り、アラタにこの家を護るように言い、アラタを戦わせている。
 彼女はアラタがもし死んだら、悲しむだろうか。それともいつものように無感動だろうか。逆に、怒ってアラタのことを罵るかも知れない。
 自分はルカのことは何も知らないし、ルカがアラタを主人と仰いでいるのはアラタが雇用主というだけにすぎない。役立たずだった、と総括されて終わるだけなのではないか。
 だんだん、悲しくなってきたのを感じて、アラタは身を丸めた。
「――旦那様?」
 ルカが、空になった布袋を抱えて戻ってきた。座り込んだままのアラタを見て、怪訝な顔をする。
「どうなさったんですか。治療に問題でも?」
 スカートを翻してアラタの傍らに座り込んだルカは、アラタの手をやや強引につかんだ。手袋に包まれた指先が、脈を測るようにアラタの手首に添えられる。
「――!」
 瞬間、何かが吸い取られるような感覚を覚えて、アラタは思わずルカの手を払いのけた。
「あっ」
 自分でしたことにぎょっとして、アラタは思わず小さな声を上げる。驚いたのはルカも同じだったらしい。目を見開いて、こちらを見返してくる。
「ご……ごめん! びっくりして……!」
 慌てて弁明し、アラタはルカの方へ身を乗り出す。
 だが、今度はルカの方が身を引いた。ごく自然な動きで立ち上がり、アラタから離れる。アラタは声を失って、茫然とルカを見上げる。
「……」
 ルカの目は、しばらく自分の掌に注がれていた。
 やがて、ゆっくりと拳を握りしめて、目を伏せる。
「……ごめん」
「いいえ」
 重ねて謝るアラタに、ルカは首を横に振って見せると、だらりと両腕を下ろした。アラタは恐る恐るルカの表情を窺ったが、変わりがあるようには見えなかった。傷ついているとも、怒っているとも取れない。
「ルカ……」
「旦那様は、お部屋でお待ちください。――塩を片付けたら、コーヒーを淹れましょう」
 布袋を拾い上げ、ルカはこちらに背を向けてさっさと行ってしまう。
 アラタはそれを、見送ることしかできなかった。