父は、思ったよりも優しげな顔をしていた。
鵤万アラタは、その顔が塩となって崩れ去るのを、歯を食いしばって見届ける。
屋敷の前庭は、いつも通りに混乱の様相を呈していた。
燃える屋敷から火線が走るたびに、『勇者』たちが紙のように引き千切れ、塩が周囲に撒き散らせる。
それでもなお歩みを止めない『勇者』たちを、おもちゃの兵隊やハルピュイアたち、人形たちが押しとどめ、破壊していった。アラタやルカも慣れたもので、残心するまでもなく、門扉の前に再生しつつある次の敵へ意識を向ける。
攻めてきたのは、アラタの家族を模した『勇者』たちだけではなかった。すっかり見慣れてしまった水着の女や、見覚えのない、頭部が彗星になっている人ならざるもの。それらを従えて、父や、母や、兄がこちらへ歩を進める。
この十五週、『勇者』たちは、雄弁に語り、姦しく主張し、何かを伝えようとするでもなく、魔王城を陥落させるべく、繰り返し繰り返しこちらへ向かってきた。
その中で、三人だけが何も語らず、呻き声さえ発しない。
振り払った手が、母の首にあっさり食い込む。地面に落ちる前に頭は塩の塊になり、風に吹かれるように門扉へと流れていった。
「はぁ、はぁっ……!」
吐き気を堪えて喘ぎ、アラタは次の『母』へ目を向ける。既に、何度『勇者』を屠ったのかあいまいになっていた。これが、誰かに責められるべきものなのか、責められないとして、やっていいことなのか、アラタにはもう分からない。
ただ、このまま敗けて帰るわけにはいかない。
「はぁ、はあっ……!」
「旦那様、一度下がりますか?」
ルカの放った蹴りは、過たず『兄』の胸元へ吸い込まれ、千々に体を砕いた。彼女の不機嫌そうな顔は、どこか白くなっている。
アラタは息を吐き、首を横に振った。
「……まだ、大丈夫。
それよりルカ、手を繋ぐつもりはある?」
「――」
胡乱な顔をするルカに、アラタは手を差し出して見せる。金色の瞳に、戸惑いの色が広がった。
「わたくしと組むつもりはない、とおっしゃっていたように思いましたが」
「あの時とは、事情が変わっただろ。……それに、ルカだって、この城を陥して帰るつもりはないはずだ」
『勇者』たちはまた再び、じわじわとこちらへ進軍しつつあった。
甲高い声を上げて、ハルピュイアが『勇者』たちの動きを阻害する。だが、戦線は緩やかに圧され、こちらへ近づいてきていた。
「ルカ」
「……あたしは、自分をコントロールできない。どうなっても知らないからな」
「大丈夫だよ。一緒に帰ろう」
返ってきたのは、舌打ちだった。
アラタはおっかなびっくり、乱暴に差し出されたルカの手を握った。
……立ち上るのは、赤い光と、紫紺の光。
鵤万アラタはそうして、裏庭の大樹の下で目を覚ました。
木漏れ日が風にゆらゆらと揺れ、顔に落ちかかってくる。
ずいぶん長いこと寝ていたのか、身を起こすとぶるりと体が震える。日は少し傾いて風は冷たく、蝉の声は聞こえない。
今が春先だったことをぼんやりと思い出しながら、アラタは立ち上がった。
亡くなった祖父自慢の植え込みの迷路は、今日も庭園の中央にその偉容をたたえている。誰が手を入れているわけでもなくとも変わらず枝葉は美しく整えられていて、祖父が組み上げた精緻で伝統的な術式によって、日によって順路が変わっている……
アラタは尻や背中に着いた草を払いながら、その外縁に沿うように歩いて行った。今頃は夕飯の支度が始まっている時間帯だろうか。見たところ、庭園には人の影はない。
植え込みの角を回ると、鵤万の屋敷が正面に見える。裏の勝手口には、屋敷のメイドたちが立って何か話し込んでいた。こちらの姿を認めて、頭を下げる。
アラタは軽く頭を下げ返すと、再び植え込みの角を曲がって、小走りに迷路の入口の前に立った。
「旦那様、そちらは――」
かかった声に振り返る。屋敷のメイドの一人――確か、
「分かってる。少し確かめたいことがあるだけだから、すぐに出てくるよ」
「ええ……?」
キナツは言葉にならない声を漏らすと、眼鏡の奥の茶色の目を瞬かせた。アラタは再び止める声がかかる前に、息を止めて、迷路の入口に入る。
――果たして、迷路は依然迷路だった。植え込みの壁が立ちはだかって、右と左、ふたつの進路を示している。ひんやりとした霧が漂ってくることも、視界が開け、湖のにおいがしてくることもない。
アラタは息を吐きだして、そのまま取って返した。アラタの死んだ両親よりもずっと年上だろうメイドは、言葉に詰まったまま、迷路の入口の前に立ち尽くしている。
「大丈夫、驚かせてごめん」
「いえ、とんでもございません。……あの、旦那様?」
「ん? 何?」
キナツはアラタを見上げて、躊躇いがちに口を開いた。
「背が、伸びられましたか?」
「え?」
今度は、胡乱な顔をするのはアラタの番だった。
「いえ、いえ、なんでもありません。いやねえ、毎日お会いしているのに、急に伸びたりしませんよね」
首を傾げて去っていくキナツの背中を見送り、アラタは自分の掌に視線を落とした。拳を握りしめ、顔を上げる。
「キナツさん、ルカがどこにいるか知らない?」
「ルカ? あの子がどうかしましたか?」
再び、キナツの訝しげな視線がこちらを向いた。アラタは微笑み、頷いて見せる。
「話したいことがあるんだ――いろいろ」