ルカ=イスティーヌ 八週目

 ルカ=イスティーヌは大股に歩く。
 鵤万家の屋敷はふたりで住むにはいささか広い。
 鵤万アラタは屋敷の主であり、ルカはその召使い。となれば、屋敷の面倒を看るのはルカの仕事ということになるが、先の『勇者』の襲撃によって一度陥落したこの魔王城。手の行き届いていない箇所も中にはあった。
 そもそも、屋敷の修復に主人を駆りだしたこと自体、ルカにとっては不本意である。主人たるアラタの役目は屋敷を護ることであると、と言っていたのは、ルカ自身なので。
 しかし、扉や窓や調度の壊れた屋敷にそのまま住まわせておくこと、修理のために別のものを屋敷へと呼び込むことは、より気の進まない案だった。
 窓や扉はともかく、調度設備に関しては、亡くなった鵤万イサリ翁の霊力が多分に残っている。新調したり下手に外部のものが手を加えると、霊力の流れが阻害されて、あらぬことが起こる可能性もあった。元のままにしていても同様である。すると、霊力も知識もあるアラタに任せるのが一番適切だった、ということになる。
 だが、修復の術式を書いた巻物ロールを渡したのは、失敗だった。時間のかかるのを承知で、どこかにあるかも知れない鵤万イサリの記した修復の巻物を書斎から探すべきであった。
(気の短いのがいけない)
 古びた巻物ロールを掘り起こすより、忘れかけた知識を引っ張りだしてきた方がずっと早いと、そう思ってしまったのだ。術式を組み立てるのは得意とは言えなかったが、修復のそれはよく使っていた。よく、ものを壊した。そのせいで、教わった中では一番得意になってしまった。
 今ではもう、使えないが。
 屋敷の正門から門扉までの石畳と庭園は、勇者たちが足繁く通う戦場となっているが、裏口から出た先にある生垣の迷路と木々は、比較的踏み荒らされずに済んでいる。
 屋敷の迷路はイサリ翁が手塩にかけた名作中の名作で、中は完全な迷宮と化している。使用人が出て来られなくなったという笑えない噂もある。
 イサリ翁が屋敷の中のものに籠めた霊力や術式は、ひとつの意志を持っている。
 この屋敷を維持し、己の手の届く範囲を護るということにかの偉大な術師は腐心していた。とすると、出て来られなくなった使用人というのは、何か害意のある存在だったのかも知れない。
 とはいえ、ルカが来るよりもずっと前のことであるから、確かめようもない。
 ……それに、今はこの中は迷宮ではなくなっている。
 周囲を見回し、アラタの姿が見えないことを確認してから、ルカは迷路の入口に足を踏み入れた。
 入口を入ってすぐ目の前には、右に曲がる曲がり角がある。
 その曲がり角が、生垣の中に完全に入ると同時に、幻のように消え失せた。
 代わりに、霧に包まれた湖畔が目の前に急速に広がっていく。
 生垣の壁もなくなり、初夏の風がひんやりと冷たくなり、整えられた芝生は伸び放題に荒れ果てた。
 霧にけぶった湖は波立たず、水平線さえ見えない。
 ルカは背後を振り返り、鵤万の屋敷が影形さえ見えないことを確認すると、息を吐いて湖のそばへと向かった。
「彼は、いい勘をしているね」
 湖の淵では、豪奢な金髪を腰の下まで伸ばした男が、楽しそうに指を振っている。
「あたしが迂闊だっただけだ」
 ルカは眉根を顰めて吐き捨てた。
 湖面に目を落としていた男は、ゆっくりとこちらを振り返った。なまっちろい顔、青い瞳が細められ、口元が弧を描く。ルカは、舌打ちした。会いに来るのではなかったかも知れない。癇に障る男だ。
「成長していると思うよ。逞しくもなった。君が最初に望んだとおりに」
「…あんたに言われると、自分でやってることが正しいかどうか確信が持てなくなるよ」
「そうかな。素晴らしいと思うよ。彼を待ち受けている運命は、もっとずっと過酷だ。前代の『魔王』がそうであったように」
 厭味を意に介した様子もなく、男は笑う。あくまで、楽しげだ。ルカは眉間に皺を寄せたまま、腕を組んだ。
 男の名前は『霧の王』と言った。
 かつては魔王の一人であったというこの男は、今や世界に魔王を呼び込むできそこないの神の人柱となり、勝手気ままに振る舞っている。
 ルカとアラタを屋敷ごと、その地下の霊脈ごと召喚してのけたのは、この男の手業であった。本来は精霊と呼ばれるような類の存在らしいが、ルカにも詳しいことは分からない。ルカたちの世界には、そのようなものはいないので。
「それにしても、どうしたんだい? 時が満ちるまでは、会いに来ないと思っていた」
「……あたしがそう言ったか?」
「言ってはいないけど。彼に会いにくいかい?」
「まさか、今朝だって飯を作ってやった。気にしてるのは向こうの方さ。こっちの顔を窺って、鬱陶しいったら」
 霧の王から目を逸らし、ルカは湖面に目を向ける。霧の中ぼんやりと光る湖面には、鵤万の屋敷が映っていた。ただし、そこに映っているのはアラタではなく、置いてきたはずの使用人たちの姿だ。みな一様に、絵に描かれたように動きを止めている。
「それに、あの坊主が勘がいいなんてことあるかい。前の……何て言ったか、女子は、もっとずっと早く気が付いたんだろう?」
「赤城ヤシマ。
 君たちの世界の成り立ちはよく分からないけれど、器に満たされた水の少ない子の方が、ずっと感じやすくできているんだろう? 今の君もそうだ」
「そんなものは……訓練次第でどうにでもなる。そこが弱いのなら、鍛えないといけないさ」
 ルカの眉間に刻まれた皺はいよいよ深くなっている。『霧の王』は鷹揚に頷いて、腕を軽く振った。湖面の色が変わり、アラタを映し出す。彼は、使用人たちのように止まってはおらず、辺りを窺いながら、屋敷の廊下を歩いている。
「あと七週あるよ、ルカ=イスティーヌ」
「あと七週しかない、『霧の鏡の神』
 この坊主にはどうしたってあと七週で、腹を括ってもらわなければならない」
 湖面の中、アラタの唇が動いた。囁くように。きょろきょろと辺りを見回し、扉を見上げる。
 ルカは眉間に皺を寄せ、踵を返した。
「戻るのかい?」
「まだ早い――!」
 ルカは『霧の王』の問いに鋭く叫んで応え、走り出す。
 アラタが入ろうとしていたのは、ルカの部屋だった。