鵤万アラタ 十四週目

 鵤万アラタは、紅茶から立ち上る湯気を見つめている。
 ここのところ、ルカはよく紅茶を淹れるようになった。コーヒー派のアラタに対する嫌がらせではなく、茶葉がよく採れるようになったからだ。
 マーケットで、オートマタ、と呼ばれる機械が付属している商品をいくつか買い求めた。勇者たちに対する備えを取り揃えるため、生産に向いたものを選別したはずだったのだが、どうも兵士を製造するのが得意なタイプと、茶畑を耕すのが得意なタイプに分かれていたらしい。今までほとんど手入れされていなかった鵤万家の茶畑から、良質な茶葉が消費しきれないぐらい収穫されて来るようになった。
 大まかには売り払って金にしているが、残った分はこうして飲むしかない。それに、コーヒー豆がこちらの世界で手に入らないということはないのだが、供給の問題なのか、比較的高価だ。茶葉は買わなくても手に入る。
「ずっと、気になってたことがあるんだけどさ」
「何でございましょう」
 食堂の長大なテーブルの端、ルカは座るアラタの背後に立って控えている。
 いつも通りにどこか空々しい口調のこのメイドは、アラタの自室で紅茶を一緒に飲むことはあれど、食事を共にしたことはなかった。
「茶葉って、こんなすぐにでき上がるものなの?」
「さあ。ですが、この世界では不思議ではないと言うことでしょう」
 この世界に来て、十四週が経過している。
 異世界から召喚された魔王、できそこないの神、そして狂った勇者たちで構成されるこの世界は、アラタたちが住んでいた国とは違って、ちょうど夏が始まる少し前の気候を保っている。
 暑くなることも涼しくなることもなければ、鳴き始めた蝉が鳴きやむこともない。
 世界の成り立ちや理が異なる世界がいずこかにあると、物語に書かれているのを見たことはあったけれど、実際過ごしてみると落ち着かないものだった。
 それでも、慣れてきた方だ。日差しが照っていても風は涼しくて過ごしやすいし、マーケットでは米も味噌も売っていて、秋津の料理が恋しくなるということはない。勇者たちの襲撃も、最初の頃からは考えられないほどいなしやすくなった。
 思い思いの声を上げ、城を陥れようと踏破してくる勇者たち。
「……ルカ、もうひとつ聞いていいかな」
「何でしょう」
「ルカが、俺をこの世界に連れてきたんだよね」
「…。何故、そう思われますか」
「最初にこの世界のルールを俺に教えてくれたのは、ルカだったな、と思って」
 あの時、ルカは『この世界の人間から聞き出した』と言っていた。
 何の疑問もなく受け入れていたが、少なくともアラタがルカを伴って周囲を歩き回った限りでは、あれほど短時間で他の魔王や現地のものに話を聞いてくることはできないはずだった。
「それに、この魔王城には、俺たちを呼び寄せた神様がいない」
「……神のいない城ならば、他にもあったはずですが」
「いないんじゃなくて、俺の前には姿を現していないだけじゃないか、と思ったんだ。
 それで、思い当たる場所を探してみた」
「――」
「迷路の中に、あんな湖があるんなんて思わなかった」
 紅茶から立ち上る湯気がいつの間にか消えているのに気がついて、アラタは嘆息する。
 実際、アラタはその中で『神』とあったわけではない。だが、湖に映っていたものを見た時、アラタはここがどういう場所であるか、すぐに理解した。
「俺はさ、やっぱりコーヒーの方が好きかも」
「……気に入られたかと思っていましたが」
「気に入りはしたけどさ。比べたらの話だよ。それに、この屋敷は、鵤万イサリから受け継いだ屋敷じゃない」
 座ったまま振り返り、アラタは椅子の背もたれに肘を乗せた。ルカは背筋を伸ばして、ただアラタの話を聞いている。
 湖の中に映っていたのは、鵤万家の屋敷だった。時を止めたように動かない、使用人たちの姿もあった。
「似ているけど、別のもの。理屈は分からないけど、屋敷は元のまま、元の世界にある。
 だから、屋敷を護る必要なんかなかった、とは言わないけれど、知らなかったにしても、ルカは気づいていたはずだ。自分の持つ霊力の総量が小さければ小さいほど、霊覚自体は敏感になるんだから」
「……何故、帰るつもりに?」
「戻るしかないのは分かってるんだ。それに、あの『魔王様』にさ」
 わずかに、焦げ付いたようなにおいが香ったような気がして、アラタは顔を俯かせた。
「あの不死の勇者たちは、繰り返し繰り返し蘇り、それでも生きていると言われた時に、ふと」
 手にかけた勇者たちは塩に変わり、再び形を成して何度も何度もこちらへ立ち向かってくる。
 血もなく、悲鳴を上げることもない勇者たちは、アラタにとって未だ生き物には思えなかったけれど、あれを生きているというものもいるのだ。
 だからと言って咎め立てするようなことは、かの魔王はしなかったが。
「俺は勇者たちを倒す方がずっとましだと思ったけれど、全然そんなことはなくて、だとすると、知らないうちに殺していたなんて」
「…だから、今度はこっちから逃げて、マシな方に行く、と?」
「それは、違う」
 アラタは慌てて顔を上げた。メイドは、不機嫌そうな表情のままだ。
「あの『魔王様』は生きていると言っていたけれど、俺はまだそうは思えていない。でも、俺たちの世界の兄上たちも同じで、あれをまだ生きていると言う人はいるかも知れない。俺たちの世界にいないだけで。
 ……でももし、兄上たちがまだ生きていると、蟲に乗っ取られてもまだ生きていると言われた時に、俺はすごく厭な気持ちがすると思ったんだ」
 兄の部屋で見た字を思い出す。筆圧の強い、右上がりの字。
 兄の身体を乗っ取った蟲は、きっと兄と同じ字を書くだろう。
 だが、それは、兄ではないのだ。
「俺が帰りたいと思うのは、……そういう兄上が、父が、母がいることで、俺よりもずっと、悲しむ人がいると思うからだ」
「……」
「あと一週、ちゃんと勇者とも戦うよ。どっちも、俺の役目だから」
「……、承知しました」
 ルカが静かに頭を下げる。
 アラタは大きく息を吐き、食堂の天井を見上げ、
「――おめでとう、ちゃんとお坊ちゃんは決心してくれたんだね」
 背後から唐突にかかった明るい声に、ひっくり返りそうになるのをなんとか堪えた。椅子の背にしがみつき、慌てて振りかえる。
「な――」
 長テーブルの対面には、金髪の男が座っていた。


「……『霧の王』」
 と、呻くように言ったのは、ルカである。
 腰まで伸びた金髪は、梳かしていないのかぼさぼさに乱れている。穏やか、というよりは、どこかしまりのない笑みを浮かべて、男は椅子にもたれかかっていた。
「あなたは――」
「そう、僕が神様。『霧の鏡の神』 君たちをこの世界に呼んだ」
「……どうして」
「『どうしてルカ=イスティーヌに手を貸したか?』『どうして今さら現れたか?』」
「……後者です」
 男は鷹揚に頷くと、椅子から立ち上がった。思わせぶりにこちらに視線をくれながら、初夏の日差しの差し込む窓辺へと歩いていく。
「いきなり来たらびっくりすると思ったらからさ。さすがにちょっと、間を与えた方がいいと思って」
「――」
 いきなり来たじゃないか、という言葉を、アラタは飲み込んだ。
 男の言葉の意味するものが、窓の外にあると気が付いたからだ。
「……勇者の来る時間です。旦那様。しかし――」
 ルカが言いながら、窓の外を覗き込み、言葉を途中で切る。男は、満足げな頬笑みを崩さないままだ。
「ルカ――大丈夫。何がいるのか、分かっている」
「……」
「一緒に、戦ってくれるよね」
「……ええ、それが、わたくしの役目ですので」
 アラタは頷いて、紅茶を残したまま屋敷の外へ向かった。

 外には、兄たちの顔をした勇者がいるはずだった。