鵤万アラタ 二週目

 鵤万いかるま家の庭園は、中央にだだっ広い植え込みの迷路が設置されているため、とても見通しが悪い。
 亡くなった祖父の唯一にして最大の道楽だったそうで、未だに誰が手を入れなくてもいつの間にか枝葉が綺麗に整えられ、その上日によって迷路の順路が変わる。入ったが最後出てこれなかった使用人がいるとう噂もあるので、危なくてアラタも立ち入れたことはない。
 とはいえ迷路の周りには創意なく……祖父は迷路以外の庭園造りには興味がなかった……たくさん木が植えられているから、木陰の恩恵は受けられる。初夏の生ぬるい空気の中を、時折涼しい風がさっと通り抜けて気持ちがいい。
 特に背の高い、アラタが生まれるずっと前からそこに立っているという大樹の下は柔らかい芝生で、屋敷から毛布を持ち出し、敷いて寝ころべば最高のベッドになる。
 そういうわけで鵤万アラタは、昼間から優雅に寝息を立てていた。誰も咎めない。誰も見に来ない。木漏れ日が風に揺れ、木々のざわめきが子守唄になる。何とも孤独で素晴らしい午睡だ……
「起きろ、クソガキ」
 不意に頭の上に濃い影が差したのを感じて、アラタはまどろみながら薄目を開けた。
 目の前に靴底。
「うぉあったぁ!?」
 奇声を上げて転がるアラタが数秒前までいた場所を、厚底のブーツが踏みにじった。
「チッ……お目覚めください、旦那様」
「目覚めてるよ!? っていうか一回『クソガキ』って言ったよね! クソガキって! 舌打ちもした!」
「気のせいでございます」
 メイドは悪びれず答えると、一歩下がって姿勢を正した。
 ルカ=イスティーヌは鵤万家のメイドである。厚底のブーツと、肩を膨らませたランタンスリーブは、ただでさえ長身の彼女をさらに大きく見せている。
 その彼女が背筋を伸ばしてきっぱりと言い張ると、それはもう途方もない威圧感があって、アラタはもう反論できなかった。小さく呻いて、立ち上がる。
「……で、何さ。何か用があって来たんじゃないの」
 大きく息をついてから、精一杯主人としての威厳を保とうと胸を張って問いかける。ルカは眉根を寄せて(なんでそんな目つきでこっちを睨むのか!)片手を上げると、屋敷の方を指し示した。
 屋敷は燃えていた。
「ええええ~~~!?」
「それと、いつの間にか使用人たちの姿がどこにもなく」
「ええ~~待って! ちょっとちょっとちょっと、みんな逃げちゃったの!? なんで!?」
「ピーピー甲高い声で喚くなガキ、説明するから待ってろ」
「……はい」
 アラタは縮こまった。
「では、こちらに」
 メイドは颯爽と身を翻し、迷路を迂回して屋敷の方へ歩き始める。アラタは慌てて、小走りで彼女の後に続いた。
 その間にも、屋敷は景気よく炎を上げて燃え続けている。何代も受け継いできた鵤万家の屋敷も、終わる時は呆気ないものだな、などとひとごとのように考えてしまう。生まれた家だが育った家ではないから、あまり思い入れがなかった。
 受け継いでから一ヶ月も経っていないし、受け継ぐことになったのも兄と母と父が一度に死んだからだ。その誰にも、アラタは大して愛情を抱いていなかった。顔を見たこともほとんどないのだ。
 だだっ広い屋敷に大勢の使用人、彼らと自分を死ぬまで養うだけの莫大な財産があることを知るに至って、これは悠々自適に暮らして鵤万家は自分で絶えるなという予測が立った。
 ルカは使用人の中では一番新米で、一番無礼で、一番アラタとよく話す。
 そのルカよりもアラタの方が屋敷に来た――正確には戻ってきた――のが遅く、アラタは未だに彼らと上手く打ち解けられずにいた。父母の話も兄の話もうかつに振れない雰囲気が彼らの中でできあがっているらしく、腫れもののように扱われている。
 だいいち、アラタは歯磨きも着替えも部屋の掃除も料理も自分でできるのだ。それが彼らの仕事だと考えれば任せた方がよいのだろう、と思って任せているが、どうしてもこう、落ち着かない、据わりが悪いと考えている空気を……気取られていたのかも。
 だからみんないなくなってしまったのだろうか。燃えてるのに。彼らの方がずっと、屋敷に対して思い入れはあるはずなのに。
「旦那様、あちらをご覧ください」
 悶々と考えるアラタの方を振り返り、ルカが手を挙げて屋敷の前庭を指し示した。だだっ広い赤茶色の鮮やかな石畳を、見覚えのないものが歩いてくるのが見える。
「……………何、アレ」
「水着の女ですね。ご覧になったことがありませんか」
「いやあるけど! いやいや、あんな布の面積が少ないのは見たことないけど!
 じゃなくて! なんかたくさんいるし剣を構えてる! 何アレ、蟲?!」
「不明ですが、私有地に無断で侵入してますね」
「どっ、ど、どうしよう。火を放ったのもあいつらかなぁ……」
「いえ――」
 ルカはちらりと屋敷の方を振り返った。アラタもそこでようやく気がつく。
 屋敷は燃えている。確かに燃えているが、燃えているのは表面だけだ。屋敷の壁面に炎が走っているが、窓や扉や屋根が燃えているわけではない。周りの木にも燃え移ったりする様子はない。
「術式……?」
 屋敷の裏手にある植え込みによる巨大な迷路は、屋敷の直下にある霊脈を使って日々その姿を変えている。鵤万イサリは偉大な術師。そう聞いてはいたが、まさか屋敷にまでこんなものを施していたとは思わなかった。なんという途方もない精密さ、広大さ。呆気にとられて、アラタは状況を一瞬忘れる。
 と、唐突に、ひゅぼ、と音を立てて、炎が石畳の上を走った。
 打ち上げ花火の炸裂するような音と主に、水着の軍団の一角が炎に蹴散らされ、冗談のように上空に打ち上がる。
「うわぁぁぁあ――――っ! ちょっとちょっとちょっと!」
「スプレンディッド。まさに要塞ではありませんか」
「いやいやいやいや!」
 母国語で屋敷の攻撃性を称えるルカを見て、アラタは全力で首を横に振った。
「ちょっと待って殺意高すぎじゃない!? どうすんのアレなんか別にほらそういう系のお祭りとかだったら……!」
 再び、アラタは我が目を疑った。
 打ち上げられた水着の女性たちが空中でどろりと崩れ、集束し、石畳を巻き戻るように遡ってゆく。
 それは前庭の突き当り、黒い鋼で作られた巨大な門の前まで舞い戻ると、不定形に凝り、再び女性の姿を形作ろうと、グニャグニャと動き出した。
 理解と情緒の限界を超えたのを感じて、アラタはぐらりとよろめいた。
 ぐっと、肩を引き寄せられる。ルカが肩を回し、アラタの身体を支えていた。視線はただ一点、未だこちらに歩んでくる水着の集団を見つめている。あの睨みつけるようなまなざしで。
「――しっかりとお立ちなさい、旦那様。
 あなたは鵤万家のご当主、鵤万イサリの孫、何より探求の学徒ではございませんか」
「卒業できずに帰って来たけど……」
「それはあなたが未熟というだけ。あなたの評価を下げることではありません」
 強く肩を叩かれて、アラタはよろめきながらも踏みとどまり、その場に立ちなおした。ルカはアラタに横目を向けて笑って見せる。メイドとしてはあまりにも凶暴な笑み。……いつもと同じようで、少し違う。
「……ルカ?」
 恐る恐る、問いかける。無愛想で、暴力的で、不機嫌で、だのに妙に気やすいメイドが、少しボタンをかけ違えて、全く知らない人間のように見えた。
 ルカは手袋をきつくはめ直すと、深く一礼して見せる。
「ひとりここに残ろうと、わたくしは旦那様のメイドにございます。
 どうぞ旦那様は、心おきなくこの屋敷をお守り下さい。わたくしが、旦那さまをお守りいたします」
「え、え、えと、……」
 迫りくる水着の集団に目を向けて、アラタはしどろもどろに声を漏らす。どうして彼女は、こんなにも有無を言わせない口調で下から命じてくるのだろう? 誰もいないこの屋敷を、守らなければいけない? 逃げてはならない?
(……逃げる。これ以上どこに?)
 息を吐く。急速に、落ち着きが戻ってくるのを感じて、アラタは周囲を見回した。
 屋敷は相変わらず炎を吐き出してはいるが、その動きは鈍く、くまなくは水着の女たちを倒しきれない。その手から漏れたものたちが、剣を手にこちらへ向かってくる。だが、彼女たちもそう素早くはない。恐らく倒せるだろう。たぶん。こっちも怪我はするかも知れない。怪我ってどのぐらいの怪我だろう? あの剣だってまさかおもちゃではないだろうから、当たり所が悪かったら死ぬかも知れないな……
「……る、ルカ、やっぱりちょっと、俺怖いような……」
「いいから」
 ルカは嘆息して、アラタの両肩を掴んだ。力のこもった指先が、ぎりぎりと食いこんで来る。その痛みに、観念するしかないことをアラタは理解した。
「分かった、分かったルカ、その」
「…………いいから、はやく、行って来い!」
 有無を言わさず、思い切り前庭に押し出される。
 炎が走り、水着の集団が押し寄せる悪夢のような石畳の上に立ち、アラタは鼻の奥が痛くなるのを感じた。