鵤万アラタ 十一週目

 おもちゃの兵隊たちはピンと背筋を伸ばし、部屋の隅に綺麗に整列していた。
 窓からは傾きかけた陽の光が差し込み、兵隊たちの顔を照らしている。勇者たちが侵攻してくる時には勇敢に石畳の上を駆け回っている彼らだが、今はピクリとも動かず、眩しそうな顔ひとつしていない。
 アラタはこそこそと後ろ手に扉を閉めると、ルカの部屋に忍び込んだ時と同じように内側から鍵を差し込んで鍵を閉めた。前とは違って、部屋に入ったところで誰も咎めるものはいないのだが、どこか少し後ろめたいものがあった。ルカではなく、誰かに対して。
 兄――鵤万ウカラの部屋は、綺麗に整頓されている。
 本棚には本がきっちりと並べられ、机の上には使い込まれたランプや、インク瓶、万年筆。部屋の主を喪った後も、埃などはたまっていない。兄が死んでからは屋敷のものたちが、この世界に来てからはその中の一人であるルカが。相変わらず手入れをして、部屋を元のままに保っているのだ。
 気候の変わらないこの世界では、時間が経っているのかいないのかいまいち分からなくなることがあるが、数えるのを間違えていなければこの世界に来てから十一週。つまり両親と兄が死んでから、まだ3か月足らず。
 それが故人への思いに折り合いをつける時間として短いのか長いのかは分からない。ただ、少なくともまだこの部屋は、見知らぬ兄の部屋として生々しく体裁を保っていた。
(最初に入った時――)
 それが気にならなかったのは、横にルカがいたからだ。
 祖父が術式を籠めた物品や家具がないのか探すため、アラタたちは今も時々屋敷の中を歩き回っている。その一環で兄の部屋に入ったのは、この世界に来てそれほど間もない時だった。『魔王』として世界に慣れるということに集中していたのもあって、気にする余裕がなかったのもある。ルカも、表面上は故人の部屋を暴くのに何の遠慮もしていないように見えた。
 アラタは眉根を寄せて、恐る恐る部屋の中に足を進めた。前に一度、ルカと一緒に一通りひっくり返してみたこともあって、探せる場所はそう多くはない。例えば、机の引き出しの中。紙ばかり入っていたから、前回はさらっと見ただけだった。
 紙束を、机の上に出す。多くは個人的な手紙で、これはさすがに読むのは躊躇われる……何枚かのメモ書きは、手紙の下書きのようなものと、一見して術式の一部とわかる走り書きだ。どれも筆圧の強い、右上がりの字。これが兄の字なのだろう。
(古い術式)
 兄のそれは、恐らく祖父から学んだものだ。
 アラタと違って学園には通わなかった兄は、屋敷に置かれた鵤万イサリの術式しか、手本にするものがなかったはずである。だからこそ、彼はルカを雇って、新しい術式を学ぼうとしたのだ。教えることはほとんどなかった、と、ルカは言っていたけれど。
 兄は、真面目で勤勉な人間だったのだろう。自分と正反対とまではいかないが、話してみたら気は合わなかったかも知れない。きっと、自分の方が縮こまる。
 もっとも、そんな想像は無意味なことだ。兄はもう死んでいる。アラタと一度も話すことなく。
「ん?」
 紙束の中に質の違うものを見つけて、アラタは目を瞬かせた。薄く皺の寄った、あまりよくない紙。新聞記事の切り抜きだ。見出しと、本文が数文だけ書かれた、小さな記事。死亡記事だ。アラタたちの国ではありふれた、時に新聞にさえ載らないことがある、蟲に殺された人間の記事。知らない人間の名前が書かれている――
「……………」
 アラタは紙束を引き出しの中に戻すと、乱暴に閉めた。
 鍵を開いて引き抜き、廊下に飛び出す。扉を閉めることも忘れていた。
 長い廊下を走って、走り、玄関を走り抜けて前庭に出る。
 初夏の風が頬を叩き、日差しが正面から照り付けても、アラタは瞬きすらしなかった。前庭を数歩よろめきながら歩き、後ろを振り返って、その場にへたり込む。
「旦那様?」
 怪訝な声が耳に届く。玄関を通りがかったルカが、開け放たれた扉の中から、胡乱な顔でこちらを見ていた。大股に、アラタの方へ向かって歩いてくる。
「どうされましたか? 勇者の襲撃までは、まだ時間があるかと思いましたが」
 手を差し伸べることはせず、アラタのそばに佇んで、メイドは平静な声で問いかけてくる。だが、アラタがルカを見上げると、その表情は苦渋に満ちたものに変わった。
「……ひとつ、教えてやる」
 低い声で言葉が紡がれる。アラタは身を竦めて、ルカを見つめ返す。
「ルカ――」
「元の世界に帰る方法を探す必要はない。あとひと月で刻限が来る。
 そうすれば、あとは勝手に元の世界に返される」
「嫌だ……」
「あとひと月だ。あとひと月――」
「嫌だ! 帰りたくない!」
 絶叫し、アラタは頭を抱えた。いずれ来るもの。逃れられないもの。目を逸らしていたもの。ありふれた記事だ。蟲に殺され喰われた人間は、二通りの末路がある。死体になるか、死体が見つからないか。
「俺は、逃げてきたんだ。逃げて――なのに……」
「お前を逃がすために、屋敷に呼び寄せたわけじゃない。この屋敷には学士が必要だった」
「だから、このまま戻ったら、俺は、兄上を殺さなきゃいけないんじゃないか……!」
 死体が見つからなければ、それは蟲に体を乗っ取られ、死骸のまま動いているということだ。生前の記憶を持ったまま心を喪い、蟲の操り人形になって。
「違う」
 ルカの手がアラタの肩に置かれる。指先が食い込むのに呻き声を上げ、アラタは顔を上げた。
「違うって――」
「兄だけじゃない。三人だ。三人とも、死体が出なかった」
「――――」
 アラタが絶句する間にルカは立ち上がり、踵を返した。
「あとひと月だ、旦那様
「……ルカ」
「泣き言は聞きたくない。自分で気が付いたのなら、ゆっくり覚悟を決めろ」
 言い放つと、ルカは大股に屋敷の中へ戻っていった。扉が閉まり、締め出された格好になるが、追いかける気にはなれなかった。
 丸まって、呻き声を上げる。涙が出ているような気がしたけれど、なぜなのかは分からなかった。三人とも、知らない人間も同然なのに。
(部屋を探ったりしなければよかった)
 兄の癖のある字が、頭の中にまだ残っていた。