「分かんないな」
「分かりませんか」
目を隠すように切りそろえられた赤い前髪の奥に、射殺すような鋭い視線が隠れていることを、アラタはよく知っていた。
少女の手には、既に使い古された革の手帳と、やはり使い込まれた万年筆が握られている。新学期が始まって、二月も経っていない。
ニブリ学園都市は大雑把に分けて、一般の人間が住む居住区、生徒や教師が暮らし、教え学ぶ学園区、港を中心に商店や企業の建ち並ぶ商業区の四つの地区がある。
今、ふたりがいる場所は学園区のほぼ中央だ。校舎と校舎を繋ぐ道は煉瓦で舗装されており、真ん中はちょっとした広場になっていて、テーブルと椅子が並んでいた。昼には近くのカフェや飲食店から食べ物を持ち寄った生徒で賑わう場所だが、今は人の姿はまばらである。
声をかけてきたのは、相手の方からだった。燃えるような赤毛で鋭い目を隠したこの女生徒は、入学以来のちょっとした有名人だ。手帳を片手に学園中を駆け回り、二月でほとんどの生徒の顔と名前を一致させた。
双神官とはふたりでひとつ。霊力を分かち、心を文字通り繋ぐ双神術を使うパートナーの選定は、夫婦を選ぶよりも慎重にしなければならない、と言われる。
そのため、より多くの選択肢を得る――より多くの人間を在学中に知っておく、というのは、学園の是とするところではある。実際、上級生や下級生の顔と名前を一致させるテスト、というものもこのニブリ学園には存在している。
しかし、その中でも彼女はやや精力的に過ぎる、というのが、学園でのもっぱらの評判である。
双神官になるためにはパートナー選びも重要ではあるが、それ以前に術式や、体術の授業もある。そちらが疎かになっていないか――と、揶揄するものも少なくない。
アラタは、と言えば、彼女が何かを疎かにしているようには見えなかった。ただ、分からないこともあった。
「分からないなあ。何でそこまでやる気があるのか」
「私からすると……いえ」
言葉を途中で飲み込み、彼女は首を振る。アラタは苦笑いして、椅子に沈み込んだ。
「俺にやる気がない?」
「……私の見たところは」
「うん……」
自分で言っておきながら切り返しが思いつかず、アラタは言葉を濁して俯く。
もともと、学園には行けと言われたから行った、以上の意味はない。行けと言われた理由も分からないのだ。想像してみたことはあるが、それを親に聞けたことはなかった。
「確かに、私は姉のような才能はありませんから、鵤万先輩が分からないとおっしゃるのも無理はないかも知れません」
「そ、そこまでは言ってないけど……」
もごもごと口を動かす。
彼女の言う『才能』とは、恐らく霊力の総量のことだ。生まれた時から総量は決まっていて、そこには個人差がある。学園のような霊地であれば、霊脈から力を借りて術式を扱うことはできるし、また、このニブリで教えられている双神術は、互いの霊力を繋ぐことでその総量を合算することができる特殊な術式だ。ニブリにおいて、霊力量の個人差が取り沙汰されることはそれほどない。
だが、彼女の霊力量は、それらを考えても少なかった。アラタの半分にも満たない。
彼女の姉は、この学園の卒業生で、優秀な学士であったということをちらりと聞いたことがある。彼女がそこを引け目に感じるのは自然な話かも知れなかった。
「その、君の言う『才能』がなくても、頑張っている人はほかにもいるだろう? 霊力を喪っても、戦い続けている人もいる。俺が分からないのは――」
「分からないのは?」
「怖くないのかなって」
彼女が胡乱な顔になったのが、前髪で顔が隠れていてもよく分かった。アラタは、視線をうろうろと彷徨わせる。言っていいのか、悪いのか、図りかねていた。
「……お姉さん、亡くなってしまったじゃないか」
結局それだけを口にして、アラタは再び顔を俯かせた。
卒業後、パートナーとともに双神官となった彼女の姉は、戦いの中で命を落としたという。もう何年も前の話だ。
「私は、姉を尊敬しています。今も」
「……怖くない?」
「はい。ちっとも――というのは嘘ですけど、自分でできることを、向いていることをしたいというよりは、これを自分の手でやりたい、という気持ちの方が強いんです」
「そうかあ――」
ぼんやりとアラタがつぶやいたところで、鐘の音があたりに響いた。予鈴の音だ。長く話し込み過ぎたようだった。
「ありがとう、話せてよかったよ。赤城ヤシマ」
「ええ、ありがとうございます。鵤万アラタ先輩。それではまた」
事務的な笑みを浮かべて、少女は一礼し、去っていた。
――彼女と面と向かって話したのは、これが最後だったように思う。
鵤万アラタは、自室の天井を見上げている。
やる気だけはある、とされていた赤毛の下級生は、学園が襲撃された際にも駆け回っていたようだった。手にかけたのは、恐らく彼女にとって知った顔ばかりだったはずだ。
姉を尊敬している、と言っていた彼女は、どんな気持ちで戦っていたのだろうか。
ベッドの中で丸まり、アラタは後輩のことを思い出す。
あの時、姉を尊敬している、といった彼女が、少しだけ羨ましかった。だが、目の前にその姉が現れても、こうやって自分のように悩まずに、彼女は戦うことができるのだろうか。アラタは、見知らぬ兄のことを想像するだけで、こんなに腹の底が冷え冷えとするのに。
「――旦那様」
ドアを乱暴に叩く音に、アラタはのろのろと起き上がった。
元の世界に戻りたくない、と言っても、相変わらず勇者は攻めてくる。元に戻りたくなくても、屋敷をめちゃくちゃにされるわけにはいかない。
……あと、三週。