ぬけるような青空。
初夏のまだ涼しい爽やかな風が、石畳の上にわずか残った塩の柱をさらさらと押し流して行く。火照った身体と汗もまた冷やされて、気持ちがいい。
「……っ、そもそも、さあ……」
石畳から外れた芝生の上に大の字になり、ぜえぜえと息をつきながら、鵤万アラタはなんとか声を上げる。
「今、初夏だった、っけ…………?」
「春先だったかと存じますね」
眉根を寄せた不機嫌そうな顔のメイド――ルカ=イスティーヌは、主人の問いになんということはないように答えると、かかとを揃えてまっすぐ立ち、前庭をぐるりと睥睨した。アラタよりも前に出て水着の集団と戦っていた彼女はしかし、全く息を乱していない。
(体力がある、って言うより……)
明らかに、戦い慣れている。
威圧的で物怖じしないと思っていたが、まさかそれが明確な暴力に裏打ちされていたものだとは思わなかった。誰がそんなことを思うだろう。彼女はあくまでメイドなのだ。水着の集団と徒手空拳で殴り合うのは明らかにメイドに求められるスキルではない。
……いやどうだろう。
自分は彼女の雇用主ではあるが、彼女が雇われた経緯を知らない。新顔とはいえ、この屋敷においては先輩だ。
一体、何者なのか。
「庭の掃除は後回しにいたしましょう。
お水を用意しますので、旦那様はお部屋にお戻りください」
こちらの視線に気がついたのかどうか。
ルカはこちらを見やり、アラタに声をかける。慇懃だが、有無を言わせない口調。逆らったら、彼女は舌打ちをするだろうか。あるいは、それ以上のことを。
「……そうだね、そうしよう」
アラタはため息をついて、彼女に大人しく従うことにした。
世界は、滅びかけている。
人の霊力を喰う蟲は前触れもなく現れると爆発的に殖え、世界中に巣を作った。餌となる人間は世界のどこにでもおり、当時は霊力と命と心が不可分であることがほとんど知られていなかった。
今や人間はずいぶんと少なくなり、術師の編んだ結界がなければ迂闊に外を出歩くことすらできなくなっている。住める場所も大きく減った。大陸の西半分は蟲の巣となり、多くの難民を生んでいる。
アラタたちの住む
秋津の神はふたりでひとりの双生神。それを祀る神官たちも、また二人組が尊ばれる。心を通わせ、霊力を共有することで強力な術式を使う双神術は、蟲に対する対抗策として注目され、双神官を育成するニブリ学園都市には多くの人が集まることになった。
もしかしたら、最初からなにか仕組まれたことだったのかも知れない。ニブリ学園都市が蟲の大群に急襲されたのは半年前のことだ。
学園は壊滅的な被害を受け、生徒や教師にも被害が出た。死んだ知り合いは一人や二人ではない。
霊力を喰われた人間は心を喪い、元の顔のまま、記憶を持ったまま、蟲の操り人形となる。それはつまり、心を通わせようと、理解しようと努めてきた友人を自分の手で葬らなければならないということだ。
卒業後に相棒になる予定だった生徒を自分の手にかけた女子もいた。彼女はとにかく勉強熱心で、学園でも有名人だったから、あの戦いの中、知った顔にとどめを刺すばかりだったろう。
学園の結界はその安全もろとも打ち砕かれ、今や蟲との戦いの最前線、主戦場となっている。戦いを経て残ったものもいれば、去ったものもいて、アラタは後者だ。両親と兄が旅先で蟲に喰われ、急に家を継ぐことになったからというのもあったが、何より無理だ、と思ったのが大きい。
無理だ。あそこに立って戦い続けるのは、自分には不可能だ。命を賭けるのも、知り合いの顔をしたものを殺すのも。
そう思ったからこそ、アラタは訃報に飛びつくようにして学園から逃げ帰って来た。
屋敷の中は、打って変って平和だった。亡くなった祖父が屋敷に結界を編んだのは蟲が世界に現れるよりもずっと前のことだというが、学園のものよりもよほど強固で、秋津が蟲の巣だらけになった今もなお、外敵を寄せ付けることはなかった。
それは、祖父の術師としての実力もあるだろうが、結界自体がごく狭い範囲しか覆っていないためもあるだろう。
手の届く範囲だけを護る、小さな箱庭。
「…………の、はずだったんだけどなあ」
少しの休憩ののち、門扉を出て屋敷の外周をぐるりと一周してみたアラタは、大きくため息をついた。
祖父――鵤万イサリ渾身の結界は、跡形もなく消え去っていた。そもそも、結界がなくなったのだから中の屋敷の防御が発動したわけで、考えるまでもなく当然のことだ。
だが、別にあの水着の集団に破られたわけではないらしい。それが、もうひとつ頭の痛いことだった。
アラタは門扉に手をついて、背後を振り返る。
そこに広がっているのは、一面の紅茶畑だ。鵤万の屋敷の敷地の外に、そんなものはなかった。昨日まで、いや、ついさっきまで。屋敷とその敷地だけ、根こそぎ別の場所に移動してきたとしか思えなかった。
「あり得ないよなあ……でも、あり得っちゃってんだよなあ……」
どんよりとつぶやいて、アラタは頭を抱えた。どう考えても自分の手に余る事態だ。そもそも、さっきの水着の集団にしたって、あんなものが存在するなどアラタは見たことも聞いたこともなかった。倒し切ったら塩に変わる、浮かれた集団。
「バチが当たったとか……」
戦いを拒否して、学園から逃げ出してきた罰。
だが、誰にも咎められることはなかったとはいえ、後ろめたいとぐらいアラタだって思っていた。これはちょっと、度が過ぎているというか、起こる現象としてねじが外れすぎてはいないだろうか? 第一それなら、ルカだけが何故一緒についてきたのか。
「ううううん」
「何を呻いているのですか、旦那様」
ガサガサと茶畑をかき分けて、そのルカが竹笊を小脇に持って戻ってきた。笊には幾分か茶葉が載せられている。
もしかして、飲む気なのか。
「あのさ、それって、勝手に採っちゃっていい類のものなわけ……?」
「ひととおり見て回りましたが、恐らく大丈夫でしょう。それと、少し話も聞けました」
「話!? 誰かいたの!?」
アラタは目を見開いて、慌ててルカに駆け寄った。
屋敷の上から辺りを見ても、見渡す限りの畑ばかりで、人の気配などはまるでなかった。この世界にふたりぼっち、などという悪夢的な自体も想像していたのだが。
「はい。すぐにどこかへ行ってしまったので、ここには連れて来れませんでしたが。
何でもあの水着の集団は、勇者と呼ばれるいきものだとか」
「勇者? 完全に浮かれポンチだったけど……」
「言葉が汚い」
「はい」
アラタは縮こまった。
ルカは咳払いをして、笊の中の茶葉へ目を落とす。
「詳しいことはあとで説明するとして、急務なのは結界です。上手く編み直せそうですか?」
ルカの問いに、アラタは頷いて見せる。
「うん、あの屋敷の防御が立ち上がったってことは、屋敷の地下の霊脈は維持されてるはずだし。屋敷の周りも見てきたから、大丈夫。
……あ、ただ、俺一人じゃ、構成する時に霊力が足らないかも。ルカって、術式は使えたっけ?」
「いえ、まったく」
「だよねえ」
嘆息する。素人に霊力の使い方を教えるのは時間がかかる。いつまた水着の集団が襲ってくるか分からない以上、悠長にはしていられない。
「まあいいや、いったんざっと編んじゃってから、霊脈を使って補填する形でいこう。
『勇者』ってのに、どれぐらい有効かは分かんないけど……」
「襲ってきたら、また叩けばよろしい。蟲よりはましでしょう」
「それはそうだけど……」
アラタたちの世界に蔓延る蟲は、人の心を喰い、空っぽになった肉体を一時的な巣として使う。
だから蟲はいつも目に見える時、誰かの子の、あるいは親の、友人の、恋人の顔をしている。
それを考えれば、勇者だか何だか知らないが、見知らぬ水着の集団の方がずっとマシだろう。殺されたとしても、死体を辱められることはない。
「……死ぬのはいやだけどね」
「それはわたくしもです」
長身のメイドは頷きながらそう言うと、門扉に手をかけた。
「塩の柱を掃除しておきます。
また復活しないとも限らないので、せめて旦那様が編む結界の外に撒いてしまいましょう」
「分かった。それじゃ、こっちはなんとかやっておくよ」
「頼もしい限りです」
全く心のこもっていない口調で言って、ルカはさっさと門扉の中へ戻っていった。
アラタは大きく息を吐くと、数歩門から離れて、ぐるりと屋敷の方を振り返る。
「さてと……」
鵤万イサリは偉大な術師。自分はその孫。
だからやれる、と戦いの前にルカは言った。
アラタには到底信じられなかったが、ともあれ結界は編み直さなければいけない。
よし、と一声気合を入れて、アラタは拳を握った。
――広大な畑の真ん中に、赤い光が立ち上る。