#14 境界線のAとB

「俺がいなくなってもよ」
 ……あの時、ダリルが泣きそうな顔をしていたのは、あいつが馬鹿の甘ちゃんだからだと思っていた。ハイドラライダーなんだから、誰がいつ死んだっておかしくないのだから、それぐらいの言葉は当然として受け止めるものだと。
 でも、もしかすると、あいつの方がずっと真剣に、俺や近しい人間の死について考えていたのかも知れなかった。向き合って、考えていたからこそ、俺のあんな軽い言葉に泣きっ面で怒って見せたのだ。俺の方が、ずっと覚悟が決まっていなかった。
 待ってくれていると思っていた。
 いや、ダリルは、きっと待ってくれていた。
 帰って来なかったのは俺だ。


 静かだった。
 気が付くと、いつものあの忌々しい店の床の上で、俺は這いつくばっていた。
 呻き声を上げて、わずかに身を起こし、俺はうつぶせのまま店の中を見回す。店の中には、客も、護衛たちも、犬どももいない。ただ、店の片隅で、オーガストが壁にもたれて座り込んでいた。
「……くそっ!」
 俺はその、眠るように目を伏せたオーガストを少しの間ぼんやり眺めていたが、次第に何が起こったのかを思い出し、毒づきながら身を起こした。
 静かだった。いくら目を凝らしても、あの時見えていた青い空が視界に重なることはもはやない。オーガストも、『エイビィ』も俺の中にはいない。
 どれほど気を失っていたのか、何が起こったのか、とにかく向こうで最後に感じたのは衝撃と激痛だ。
 それが『エイビィ』の感じたものであることと、恐らく奴の乗っていたウォーハイドラが狙撃なり砲撃なりを受けたのだということは想像できた。そして、それによって今、俺たちがこっちに戻ってきたということも。つまり、もしかしたら、あの『エイビィ』は向こうで死んでいるかも知れないということだ。
 ……オーガストは、そうなることを俺より前に知っていた。
「オーギー、てめえッ……」
 壁に寄りかかったオーガストは、自分でぶちまけた吐瀉物もそのままに、じっと座っている。だが、眠っているわけではない。俺の声に反応してか、目をゆっくりと開いてこちらを見た。
「やあ、ウィリアム……あなたにそういう呼ばれ方をするのは、ずいぶん久しぶりな気がするよ」
 気の抜けた笑みを浮かべたオーガストの口ぶりは、この状況を分かっているのか怪しくなるほど呑気だった。かすれた声で言い切った後に、口元に手をやって何度か咳き込む。
 その左手の薬指に、ついさっきまでつけていた指輪がないのを認めて、俺は顔を歪めた。
「……何をした」
「何も。何かができるような状態じゃなかった。あなたも知っている通り」
 オーガストはそこまで言うと、今度はゆっくりと深呼吸して、再び目を伏せる。俺はよろけながらも立ち上がって、オーガストをねめつけた。
 店の中は、やはり静かだった。頭の中に別の人間がいる、あのぐちゃぐちゃとした感じももはやはない。繋がっていないのだということが、感覚的に理解できた。いくら声を張り上げても、もう届くことはない。
 いや、俺の声が、この手が向こうに届いたことは、ただの一度もなかったのだ。
 そのまま、すべてが閉ざされてしまった。
「心配しなくても、ダリル=デュルケイムは無事だ」
「……何を言ってる」
「『ヴォワイヤン』が背後から〈彼〉のウォーハイドラを攻撃した。たぶん、あそこで撃墜されただろう。だから、〈彼〉と戦っていた『ステラヴァッシュ』は健在のはずだ」
 オーガストに詰め寄りかけていた俺は、その言葉を聞いて思わず足を止める。
 ……ダリルが『エイビィ』と戦っていたことは、『エイビィ』の頭を通して俺も分かっていた。だが、そんな、あいつの命が危ういような状態だとは思っていなかった。
 俺は一体、何をしていたのか。
「お前は、何がしたかったんだ」
 内心の自問とは裏腹に、俺はオーガストにそう問いかけていた。
 オーガストは薄く目を開き、ため息をついた。老人のような、疲れ果てたため息だった。
「僕の望みはあなたと同じだよ、ウィリアム。できることならちゃんとした形で、残像領域に帰りたかった」
「嘘をつけ、お前は……」
「嘘じゃないさ。僕の頭を覗いたんだ、それはあなたも分かっているはずだ。
 でも、僕たちは帰れない。帰ったところで、まともな状態ではきっとあり得ない。
 だから、少しでもましな形にしたかった」
 どこまでも他人事のような言いように苛立たせられる。
 この若造のことは、そもそも初めから気に食わなかった。こいつだって、向こうへ残してきた人間がいるはずなのに、どうして自分のことを棚上げにして、ましな選択などとしたり顔で言えるのか。
「――といっても、僕は何もしてない。ただ見て、聞いていただけだ」
 再び息をついて、オーガストはかぶりを振る。
 その声は、幾度も咳き込み、息継ぎを繰り返しているのにも関わらず、先程よりもずっと聞こえづらくなっている。
「ウィリアム、さっきも言ったけれど、あなたと店を経営するのは、僕は悪くなかったと思ってる。
 ここがどこなのかは想像の範囲を出ないし、僕たちという存在が何なのかもそうだけれど、死人がいる場所にしてはずいぶんと居心地がよかった……」
「オーガスト……お前」
 聞き取りづらくなった声を聞くために奴に近づいた俺は、不意に顔を上げたオーガストの目を覗き込んで、思わず息を飲んだ。
「……でも、やっぱりもう終わりみたいだ」
 オーガストの目が白く染まっていた。
 目だけではない。顔も、髪も、見る見るうちに白く染まっていく。よく見れば、オーガストの身体の末端から、ぼろぼろと白い粉のようなものが零れ、床に落ちていた。
 慌てて自分の手を覗き込むが、オーガストのようにはなっていない。だが、どうしてこいつだけが。
 俺は拳を握りしめ、手の感触が確かにあることを確かめて、オーガストの前に屈み込んだ。
「何だ、これは。どういうことだ、おい」
「――残像領域では、人間の思念が霧の中に残り、形を成すことがある。
 霊場の相手には、僕も苦労させられたな。『エイビィ』も、ひどく霊障を恐れていたようだった」
 オーガストが言葉を発するたびに、その輪郭がぼろぼろと崩れ落ちていく。
 喋るな、ととっさに喉元まで出かけたが、もはやオーガストが大人しくしていようがどうしようもない、巻き戻しも利かない状態であることは明らかだった。
「どうやって人間の想いというものが固定化されて、残像になるのか、僕には分からない。
 ただ、もしそこに想いの強弱というものがあって、強いものが残りやすいというのなら、あなたの想いはよほど強く残っていたんだろう。でも僕は、」
 オーガストの左腕の肘から先がぼろりと落ちて、床に粉がぶちまけられる。俺はオーガストの顔を覗き込んだが、オーガストの目はもう焦点が合っていなかった。
「ウィリアム、僕はあなたに『僕たちは死者だ』と言ったけれど、そういう意味では僕はまともな死者でさえなかった。
 生きることを放棄して、自分の頭の中で眠っていただけだ。生きることに必死になって、足掻こうとしたあなたの方が、痛みに耐えながら生きていた〈彼〉の方が、よほど生きた人間らしい……」
「やめろ」
 この期に及んで、そんな言葉は聞きたくなかった。
 この男は、俺を憎んだっていいはずだった。この男が言った帰りたいと言う望みの前に立ちはだかり続けたのはこの俺だ。
「結局僕は、あなたの言う通りに心が弱かったんだろう」
 だが、オーガストは言葉を止めることはなかった、首をもたげ、俺の姿を探すように視線をさまよわせるが、その動きすら崩壊を進めていく。
「〈彼〉が、どうなったのかは分からないが、少なくとも僕たちは切り離された。自分の体から離れたのだから、僕はこうしてようやく死ぬ」
「お前は……!」
 分からなかった。
 頭の中を覗こうが、記憶を共有しようが、この男が何を考えているのか分からない。分かるはずがなかった。こんな男のことが。
 確かに、この男は俺のことを殺したくないと考えながら、『エイビィ』のことも生かそうとしていた。初めから自分のことは埒外に思えた。その理由も、知っている。知っているが、納得できるかどうかはまったくの別だ。
「お前は何でそんなことが言える。どうしてそんな風に死んでいける。
 俺は違う、俺は……そんなバカげたことは受け入れられない。俺はダリルと生きたかったんだ!」
 こいつに対してそれを言うことが、どれほど図々しいか分かっていた。今この言葉が、どれほどむなしいものであるかも。それでも、言わずにはいられなかった。
「それはそうだろうさ、僕たちは違う人間だ。ずっとそうだった」
 オーガストが息をつく。
 その息でさえ、少なくない量の粉が吹き飛ばされて、オーガストの輪郭を崩していく。もはや、どうやって喋っているのか分からないほどだ。
「僕だってあなたのようには考えられなかったよ、ウィリアム。
 あなたは同じだと言ったけれど、ハイドラに乗るのと面と向かって人を殺そうと思うのでは全然違う。まして相手のことをこんなに知っていたら。
 ――だから、よかった」
 頭のほとんどがなくなった状態で、オーガストはぎこちなく笑ってみせた。
「ウィリアム、この世界もまた、他の世界と繋がっている。もしかしたら、あなたはいつか残像領域へ戻れるかも知れない。
 だからもし、チャーリーと会うことがあったら、どうかよろしくと」
「ふざけるな……」
 オーガストがそうだね、と言いかけたところで、今度こそその体は崩れ去る。
 俺は拳を握りしめて、ただそれを見ていた。