#1 レッド・アイ

「……あっ」
 べしゃっ、という、小さな水音。
 フライパンの上に落ちた黄身が無残に崩れ、じゅうじゅうと音を立てながら見る間に白身と混ざっていくのを、僕は憮然とした顔でしばらく見つめていた。
 完全に固まってしまう前に我に返り、慌ててフライ返しで卵をかき混ぜ始める。目玉焼きになるはずだったそれは、火加減が悪いのか何なのか、もうところどころパリパリに焦げ始めていた。
僕はフライパンを持ち上げて火から離しながら、小さくため息をこぼす。……なかなか、うまくはいかないものだ。
 フライパンに油を敷いて火にかけ、卵を割って焼くだけ。目玉焼きというのは簡単な料理だと思っていたのだけれど、慣れないとそんな料理さえ自分で作ることはできない。
 この『目玉焼きに失敗したから作り始めたスクランブルドエッグ』というやつも、混ぜるだけなのだからさらに簡単であろうと思いきや、意外とこうして焦がしてしまったり、ぱさぱさになってしまったりして、店で出てくるような食感や味にはそうそうならない。
 もうそろそろフライパンから皿にあげてもいい焼き加減になっているのだが、まだ塩コショウを振っていないことに気が付いてしまった。そのうえ、見回してみてもすぐ手が届くところに塩コショウの瓶がない。
 自分のあまりの段取りの悪さに眩暈がしはじめたところで、僕はコンロの火を止めた。
 食器棚から大皿を出して、味のついていない卵の塊を移す。
 それから、ダイニングキッチンの向こう、テーブルが置かれたリビングのさらにその先、閉め切られた扉に目を向ける。
今日はまだ、起きてくる気配さえない。そういえば昨夜はずいぶん飲んでいたし、また『昼』ごろまで寝ているつもりなのかも知れない。あるいは、何も考えずにまだまだ夢の中にいるのか。
 スクランブルドエッグもどきに間に合わせるように塩コショウを振ってから、トースターから焼けたパンを二枚回収する――これは、さすがに焦がしていない――スクランブルドエッグの横にパンを添えるように載せると、僕はキッチンから出て、テーブルの椅子を引いた。
 冷蔵庫から牛乳の入った瓶を取り出してグラスに注げば、栄養も何も考えられたものではないけれども、ひとまずは食べられる朝食の完成だ。
 同居人は僕が料理の練習と失敗を繰り返していることを面白がって馬鹿にしてくるけれど、僕は料理の練習をすることは特段苦痛ではなかったし、練習していればそのうち上手くなるのではないか、という希望を持っていた。
 ……レシピ本もなかなか手に入らない状態で、改善方法も分かっていないが、それはいずれ得られるものだと仮定して、とりあえずはまず火や刃物の扱いに慣れることからだ。味のないスクランブルドエッグだとか、上手く切れずにぐちゃぐちゃに潰れたトマトだとかを食べる羽目になるのはまあ、必要経費として。
 と言っても、僕だってむやみに馬鹿にされるのは趣味ではないので、彼がまだ起き出してこないのは幸いだ。見られる前に食べきってしまうのがいいだろう――
 と。
 カトラリーケースの中のフォークを手に取ったところで、勢いよくドアが開いた。
 中から出てきたのは、目つきが悪い男だ。
 くすんだ金髪に、青い目。顔色がよくないのはおそらく、二日酔いのせいだろう。何度止めても次の日に尾を引くまで飲むので、最近は飲ませるままにしている。
「ああ、ウィリアム、おはよ……」
 僕が朝の挨拶を言い切る前に、ウィリアムはドアを開け放ったまま(彼の自室は目を覆いたくなるほどしっちゃかめっちゃかに散らかっている)ばたばたとリビングを横切って、玄関の方に向かって走っていった。そっちには、トイレもある。
「ウィリアム! 頼むから、せめてドアは閉めて……ああっもう……」
 再び途中で言葉を切って、僕はウィリアムの向かった先から顔を背けて、耳を塞いだ。
 それでもなんとなく、ウィリアムが吐瀉物をぶちまける音が聞こえた気がして、ため息をつく。朝食前だっていうのに。


「え?」
「だから――ウォーハイドラだよ。ウォーハイドラ」
 しばらくして、トイレから戻ってきたウィリアムは、相変わらず顔色がよくなかった。
 最近はもう飲ませるままにしているとはいえ、一応義務的に彼の習慣的な深酒を窘めたのだが、吐いたのは二日酔いのせいではない、と強硬に主張してきたのだ。何でも、悪夢を見たせいで著しく体調を崩したのだという。
 その悪夢だって、飲み過ぎのせいじゃないのか、と僕が問いかけたところ、彼から飛び出してきたのが今の言葉だ。
「ウォーハイドラ」
 鸚鵡返しにつぶやいて、僕は目を瞬かせる。――その言葉を聞いたのはずいぶん久しぶりだ。
 しかしこうして口に出してみると、それが何なのかを明確に思い浮かべることができる。
 ウォーハイドラとは、九つの首――パーツを接続するためのソケットを持つ、戦場に応じてセッティングを変えることを強みとした機動兵器。ハイドラ・コントロール・システムによって統制され、ハイドラに乗って戦うもののことを、特にハイドラライダーと呼ぶ。
 ……どうしてそんなことを知っているのだったか。
「白い機体だった」
「それって、悪夢の話?」
「ああ……」
 乱暴に髪をかき回して、ウィリアムは険しい顔になる。
「軽逆の、小さい奴だ。飛行ユニットに、頭、速射砲、粒子スピア……それから腕と……ブースター? スズメバチみたいな頭で……」
 視線を彷徨わせながら彼が並べ立てているのは、恐らく夢の中で見た機体のアセンブルだ。
 ウォーハイドラは、HCSに接続するパーツの組み換えによって、無限ともいえる組み合わせがあり、それによって柔軟に性能を変える。軽逆関節はウォーハイドラ用の脚の中でも跳躍力と旋回、機動に優れた作りになっていて、恐らくは敵に狙いを定めさせないトリッキーな機体であることが想像できる。
「あなたの乗っていた機体かい?」
「いや、俺はいつも通り、自分のハイドラに乗っていた……はずだ。だが、ぼろぼろで、ミストエンジンも出力が鈍っていて、弾も切れていた」
「撃墜されたのか」
 確かに、それは酷い悪夢だ。吐くほどかは分からないが。
「いや!」
 だが、ウィリアムは不意に大声を上げたあとで、自分でも驚いたような顔になった。くすんだ金髪をなおもがしがしとかき回し、すっきりしない表情で呻く。
「……いや。途中までは俺が優勢だった。もうすぐで落とせそうなところまで行ったんだ。
 機動型の脆い機体だろ、ちょっと引っかけただけでぼろぼろになって、だが、もうすぐってところで……そう、そこで目が覚めたんだ。そうしたら、急に気持ちが悪くなってよ」
「やっぱり二日酔いじゃないか」
「違うっつってんだろ! くそ、もう少しのところで……」
「でも、あなたがハイドラライダーだったとは知らなかった。そんな話、今まで一回もしてなかっただろ?」
「……そう言やあ、そうだったかな」
 歯を剥いて唸っていたウィリアムは、不意にぼそぼそとした声で言うと目を逸らした。そのどこかばつの悪そうな横顔を見ながら、僕は首を傾げる。――僕たちの記憶には。
 僕たちの記憶には、欠けている部分がある。僕たちはいつの間にかこの場所にいて、いつからかこうして共同生活を送っているらしい。
 らしいというのは、それが一体いつからのことなのか、僕にもウィリアムにもまったく思い出せないからだ。なので、どうしてここにいるのかも、どうして同じ部屋で暮らしているのかも分からない。
 ただ、以前からの知り合いではないということは、互いのことをこうして全く知らないことからも明らか……とも、言い切れないのが難しいところだ。僕たちは、自分自身のことさえもいまいち覚えていない。
 そのことに気が付いた時、互いの記憶についてできる限り話し合ったのだが、その時には『ハイドラ』などという言葉は一言も出てこなかった。とは言え、ウィリアムがその時に僕にその素性を伏せていたようにも見えなかった――ということは、要するに。
「……あなた、記憶が戻ったのか?」
「完全じゃない」
 押し殺したような声で言って、ウィリアムは眉根を寄せる。
「ただ、確かに自分が乗っていたハイドラのことは思い出した。それに、ここに来る前のことをいくつか」
「それでも大した進歩じゃないか。今まで、名前以外のことはほとんど思い出せなかったんだから。ほかには何を?」
「そろそろ、店の様子を見に行った方がいいんじゃねえのか」
 ウィリアムは僕の言葉に応えず、あからさまに話を逸らした。僕は鼻白み、目を瞬かせる。こうしてあけすけに知らん顔をするのも、今まではなかったことだ。……それに、こう言ってはなんだが、彼は隠しごとや話したくないことを誤魔化すのについてはもう少し巧妙だったはずだ。動揺しているせいなのか、それとも別に理由があるのか、それは分からないが。
「……うん、そろそろいい時間だな。分かった、出よう」
 少し考えた後、僕はひとまずは退くことにした。
 彼から話を聞けるのは今このタイミングだけではないし、記憶のことは僕たちにとって最大の関心ごとなのだから、聞くのを忘れるということもない。ならもう少し、上手い話の引き出し方を考えてからでも話は遅くない。
「でもウィリアム、あなたがやる気を出してくれるのは助かるよ」
「あんな話、信じてねえよ」
「それでも僕たちは協力できるし、協力すべきだ。そうだろ?」
 彼の眉間に皺が寄っているのを認めつつ、首を竦めて、言葉を続ける。
「――何せ、この世界はもうすぐ滅びるらしいからね」
 ウィリアムは答えない。
 僕は苦笑して、踵を返した。