#2 乾いた部屋で

 ぺらいちの紙に触れて、湿気ってないななどとまず思うのは、記憶がちゃんと戻ってきている証拠だろう。
 俺がもともと暮らしていた残像領域では、常に深い霧が満ちていて晴れることはなく、何もかもすぐに劣化して、紙は特に、除湿されていない場所で放っておくとすぐにふやけていた。ここでは紙はしっかり乾いていて、指で触れてもインクがにじんで移ることはない。
 俺はベッドに仰向けに寝転がって、薄暗い部屋の中、一枚の紙を見上げている。オーガストが扉も開けずに差し込んできたから一体なんだと思っていたのだが、何のことはない、店の収支計算のメモだった。
 走り書きされた売り上げは悪くない。仕入れた分を補填して余りあるぐらい儲かっている。
 だから何だ、という気持ちを、俺はどうも抑えられない。
 前からやる気はなかったが、ここのところはさらにそれに拍車がかかっている。金は嫌いではないが、その稼ぎ方に好みがあったっておかしくはない。ハイドラに乗って戦争をしていたのが、よくわからん客どもにものを売りつけたりへつらったりしてちまちま金を巻き上げているのだから、違和感を覚えもする。
 それに、思い通りにならないことも多い。
 俺は紙を放り投げて起き上がり、扉の方を睨み付けた。
「……おい、オーガスト!」
 返事はない。
 俺は舌打ちした。すっかりゴミ溜めと化し、足の踏み場もない部屋を横切ってドアを開ける。
 思った通り、オーガストはこちらに背を向けてテーブルの前で唸っていた。頭を押さえてテーブルに肘をつきながら、紙に何か書き散らしている。たぶん、もう次の仕入れのことを考え始めているのだろう。
「オーガスト」
 その背にずかずかと近づきながら、俺は重ねて名を呼んだが、オーガストが振り返る様子はなかった。意図的に無視しているんじゃないかと疑いたくなるところだが、この男の耳が妙に遠いのは短い付き合いの間でもうよく知っている。集中しているのもあるのだろう。面倒くさい話だ。
「おい、オーギー
 肩に手を置いたところで、オーガストはようやく顔を上げたこちらを振り返った。
「……ウィリアム? ええと、すまない。何だい?」
 夢から覚めたような顔で問いかけてくるオーガストに、俺は唇を歪めてみせる。
「勝手に決めてんじゃねえよ。店のことなら俺にも話を通せ」
 オーガストは目を瞬かせた。口を開いて、次に言うことは予測できる。
「あなたはやる気がないものだと……」
「やらねえとは言ってねえだろうがよ。
 つーかお前、仕入れの内容勝手に変えやがっただろ。一言ぐらいは俺に言ってくださってもよかったんだぜ」
「それはすまなかった。具合が悪そうにしていたから、あらためて時間を取らせるのはむしろ悪いかと思って」
 悪びれる様子もなく首を竦めて、こちらに紙を差し出した。俺はそれを受け取って目を通し、渋面を作る。
「……犬は」
「あなた、本当に犬が好きだね」
 ふと苦笑して、オーガストは首を傾げてみせる。が、俺がつられて笑いもしないのを見て取って、あからさまにため息をつき、
「犬はね、確かに悪くない案だ。あなたのこだわりもよく分かってる。
 でも――いや、これは、この前さんざん話したことだろう? あなたも分かってくれた。考えてはみるが、ほかに必要なものも多いのだから、後回しになるって」
「…………」
 オーガストのあくまで穏やかそうなまなざしを見返して、俺はますます眉根を寄せる。
 確かに前に言い合った時、丸め込まれたのは俺の方だった。このオーガストという男は、気弱な風に見せて恐ろしいほど頑固で、おまけに俺よりも口が立つ。
 でなきゃ、俺はやる気がないなりにもっと好き勝手やっていただろう。それを防いでいるのがこの野郎だ。相性が悪いのを感じている。
「ああ、でも、今回の仕入れに関して僕が気が付けていないこともあるかも知れない」
 黙り込む俺をオーガストは少しの間見上げていたが、ふとテーブルを振り返って、紙の束に手を伸ばした。
「リストは二つもらってきている。あなたにもできれば目を通しておいて欲しいかな。……でも、体調は大丈夫?」
「問題ねえよ」
 嘘だった。
 先日戻した時から続いている眩暈に吐き気は、寝ようが起きていようがお構いなしに襲ってきている。
 それを誤魔化すために薬ではなく酒を入れているのがまずいということはさすがに俺にも分かっているが、酒を飲まないとやっていられないというのもまた事実で、結果として原因不明の体調不良なんだか二日酔いなんだか判別がつかない状態のまま、俺はこうしてここに立っていた。
 とは言え、この前みたいに吐き戻すほどではないし、オーガストに店を任せっきりにしているのも癪だ。
 俺はオーガストが差し出してきた紙束を乱暴に奪い取り、オーガストに背を向ける。俺の知らないところで話が進まないという保証さえ得られれば、こいつと顔を突き合わせている理由はなかった。
「部屋で読む。後でまた話す」
「ウィリアム」
 呼び止める声は、俺にはきちんと聞こえる。
 俺があからさまに億劫そうな顔で振り返ってやると、オーガストは笑ってもしかめ面でもない、真面目な顔をしていた。こっちの腹の裡をすくい上げて読み解こうとするような、いやらしい目つきだ。
「……記憶は、あれ以上は戻ったのか?」
「さあな」
 俺はそれだけ答えて、さっさと扉をくぐった。


 俺たちのような存在は、この世界では〈魔王〉と呼ばれている。
 定められた滅びを繰り返してきたこの世界は、いっときそのサイクルを止めて平和な時代を享受していたが、また再び滅びに向かって時計が進み始めたんだとか。
 それを止めるために、〈魔王〉はせっせと店を拡張し、客をもてなし、満足させる必要がある。
 頭の痛くなるような話だし、信じたくもないが、この世界がそういう客とか店とか商売とかいう世界観で回っているのは紛れも無い事実だ。
 〈魔王〉どもが迷宮の深層に店を構え、そこに〈勇者〉とかいう連中が我が物顔で押し寄せてくる。俺たちもまた、その枠組みの中にいて、商売を強いられている。強いられているわけじゃないが、商売をしないことには他にやることがない、という方が正しいか。まるで、悪い夢だった。
 映画で見たんだったか、それとも小説かなにかだったか、昏睡状態の怪我人だか病人かが、自分の記憶を基に頭の中に悪夢の迷宮を作り出し、そこに自ら迷い込んでしまうという話があったのを思い出す。ちょうどここも迷宮で、シチュエーションもぴったりだ。
 これが自分の脳が作り出した夢まぼろしなのではないかと、あの夢を見てから何度か考えた。
 そう思わされる要素はいくつかある。
 例えば、俺たちに向けて通信を取ってくる〈魔王〉どもが何人かいて、そいつらが口にする『ドゥルガー』という言葉であるとか。他に通信を送ってきたメルサリアという女であるとか。どちらも、俺が元いた世界で知っていた単語だ。
 いや、だがたぶん、たまたまの一致なんだろう。この世界にいる他の魔王どもも、向かってくる勇者たちも、まるで覚えがないから、全て俺の頭が作り出したものだと考えるのは少し無理がある。
 あのオーガストのことについてもそうだ。俺の頭の中の存在なら、もう少し俺の都合よく動いてくれたっていい。
 ただ、あの男のことは、俺はここに来る以前から知っている――
 知らず、オーガストから渡されていたリストを握り潰していたことに気がついて、俺は顔をしかめて紙を広げなおした。
 仕入れるべき商品について、俺は奴ほど熱心に考えちゃいないから、何が俺たちの店に必要なのかもリストを見てもいまいちピンとこない。儲けをもたらす商品の数々も、そうなるとただの文字の羅列だ。
 オーガストが真剣に店舗経営に取り組んでいるのは、恐らく奴の記憶がないからというのが大きいのだろう。俺への態度にしてもそうだ。もし記憶があったなら、俺に対してもう少し違う顔をするはずだった。
 吐き気がこみ上げてきたのを感じて、俺はベッドに仰向けに寝転がり、深呼吸をする。記憶を取り戻したきっかけ、あの夢のことに考えを巡らせるたびに、こうして具合が悪くなる。
 それは恐らく、俺の記憶とあの夢に齟齬があるためだ。
 霧の中に溶けるようなあの白い機体。小さな逆関節機。
 俺は、あんな機体と交戦していない。墜とされるなんてことは、もっと有り得ない。
 俺の機体を潰したのは、四脚の獣のような大型ハイドラだった。
 そして、それを操っていたハイドラライダーは。
 ベッドから起き上がり、俺はリストに再び目を落とす。それから床に放られていたペンを拾い上げて、適当にそれらしい商品の下に何本か線を引いてやった。
 何故、自分の機体を墜としたハイドラライダーの顔を知っているのか、それは分からない。直接顔を突き合わせたことは、恐らく最後までなかった。
 だが、俺は間違いなくその顔を覚えている。
 立ち上がり、俺は再びリビングへ足を向ける。扉の向こうでは相変わらず、オーガストが商品リストとにらめっこをして唸っているはずだった。その男になんと声をかけてリストを突っ返してやろうか考えながら、俺はノブに手をかける。
 オーガストという成り行きの共同経営者について俺が知っていることはそう多くはない。どうして奴と俺がこうして一緒に暮らしているのかも、記憶を思い出したところで分からない、大きな謎の一つだ。
 確かなのは、俺たちは同じ店を割り当てられているということ。
 それから、オーガスト=アルドリッチが俺を殺した男だということだ。
 俺はもう一度だけ深呼吸をして、リビングへ繋がる扉を開けた。