#9 Dの回想

 店の様子はおおむねいつも通りだった。護衛たちがせわしなく行き交い、その足元を気ままに犬がうろついている。
 違うことがあるとすれば、以前は店の隅に腰かけるなり佇むなりして、不機嫌そうに店内を睥睨していたウィリアムが、店の真ん中に立って興味深げに護衛たちや訪れる勇者たちを眺め、首を傾げているということだ。
 彼の記憶は、結局まだ戻っていない。いや、正確には、戻ってしまった、というべきか。今まで覚えていたことをすっかり忘れ、今まで忘れていたことを覚えている、というような状態だ。
 といっても、今回彼が失ったのは、この世界に来てから僕とともに魔王として活動をしている間の記憶で、以前僕に話してくれた彼の生い立ちであるとか、彼が所属していたハイドラチームのことであるとかは、以前よりも不正確ではあったものの、おぼろげに残ってはいた。ただし、彼が言っていた最後の出撃、彼の認識している己のいまわのきわのことについては、すっかりと抜け落ちている。
 幸いだったのは、ウィリアムが僕が身構えていたよりもずっと冷静であったことだ。動揺こそしているものの、前と同じように魔王として活動することを彼から言い出してきたほどで、それは僕にとってありがたいことでもあったが、いささか意外でもあった。失礼な話、癇癪を起こして部屋に引きこもられても仕方がないかぐらいには思っていたのだが。
「ダリル=デュルケイムについて話を聞いてもいいかい」
 客足がある程度落ち着いたのを見計らって、僕はウィリアムに声をかける。
 足下にまとわりつく犬を適当に相手をしていたウィリアムは、顔を上げてちらりと僕の方を見た。僕はその気のない表情を見つめながら、ずいぶん前、ウィリアムが調子を崩す前のことについて思い出している。そういえば、例の悪夢を見る前は、ウィリアムは少しだけ感じが違っていて、怒鳴ったりはしていたものの、ここ最近のように苛々し続けている、という感じではなかった。
 今の彼は、そのどちらともまた少し違っている。
 けれど、それは恐らく彼が落ち着いた性格気質にまったく変わったわけではないのだろうと考えていた。要するに、彼は自分がそういう性格であるということを自覚していて、意識して僕にその面を見せないようにしている。恐らく、まだ僕のことを警戒しているのではないかと思われた。
「できの悪い後輩だ」
 ウィリアムは押し殺すような声で答え、目を泳がせる。
「俺のいたハイドラチームの一員だったが、まあ馬鹿でな。ライセンスがさっぱり取れなくて、DRに乗っていたような奴だ」
 続く言葉に、僕は眉根を寄せる。それは恐らくダリル=デュルケイムという人のプロフィールとして間違いのないものなのだろうが、僕の知りたいことではない。
「……あなたの、大切な人なのかい?」
「馬鹿な……」
 ウィリアムは顔を歪め、鼻で笑って見せた。だが、すぐに笑みを消して、しかめ面を作る。やがて大きなため息をついて、自分の髪をかき回した。
「俺がお前に話したっていう俺の記憶だがよ」
 僕は彼の言葉に頷いた。
 それは、この世界に来てから、幾度かウィリアムと繰り返している作業だ。何を忘れ、何を覚えているのか。ウィリアムが再び目を覚ました後に、あらためて情報を共有し、互いの記憶を突き合わせていた。
「お前は、俺のチームが、俺にとっての家族のように感じたと」
「……ああ、あなたにとっては、彼らこそが信頼のおける仲間で、家族だったのだろうと、僕はそう感じた。ダリルはそうではなかったのか?」
「ダリルの奴のことは……いや、」
 ウィリアムは早口で何かを言いかけたが、途中で言葉を飲み込んだ。僕に何をどう話したものか、ひどく言葉を選んでいるように見える。
「あれは、パイロットとして信頼のおける仲間ではなかった。
 気ばっかりが逸って、前線に突っ込みがちな、周りの見えないプレイヤーだ。お前もハイドラライダーなら、そういう駒を扱いかねるのは分かるはずだ」
「それは、指示に従わないことがある、というような?」
「そういうこともあった。しつけの悪い犬だ」
 そういうウィリアムの足元には、相変わらず犬がまとわりついているが、彼はそれを振り払ったり追い払おうとする様子はなかった。
 ――僕に、ここに来る以前のきちんとした記憶がないことは、今の彼にも伝えている。だが、そのうえで彼は僕をすっかり、自分と同じハイドラライダーとして扱っている。話を合わせるために、あるいは彼から話を引き出すためには、僕の中にわずかばかり存在するハイドラライダーとしての記憶や経験を何とか手繰り寄せなければいけない。
「これは、僕の印象の話なんだが」
「いちいち前置きをしなくていい」
「あなたはチームの話をよくするけれど、あなた自身は案外、スタンドプレーを好むタイプなんじゃないかと思っていた。
 戦場の話をする時、あなたはいつも一人だから」
 ウィリアムは黙ったまま、肯定も否定もしなかった。俯いて足元の犬を見つめるウィリアムの横顔を見ながら、僕は言葉を続けることにする。
「反面、あなたはほかのパイロットたちがチームとしてそつなく動くことを重視している。チームの中で、あなたがどういった役割を果たしていたのかは分からないが……」
「……もしかして、お前俺に説教しようとしているのか?」
 顔を上げ、ウィリアムがこちらに渋面を向ける。僕はすぐに首を竦めてみせた。
「まさか、ただの印象だよ。
 ほら――そんな中に会って、ダリルという人は確かに、チームの中で扱いかねるような……お荷物とまで言ってしまえる存在だった、というのは分かった」
「ああ、そう言ってる」
「でも、あなたはそれにしては彼のことをずいぶん気にかけていたように見える」
「悪いかよ」
 ウィリアムの口調には、以前のような刺々しさが戻っていた。僕がそうさせたのだ。それは分かっている。
 僕は、彼をわざと怒らせようとしているのかも知れない。あまりよくないことなのだけれど、そもそも話を混ぜっ返して誤魔化そうとしたのは彼だ。
 彼は慎重に言葉を選んで、僕からこのことを隠そうとしている。それは恐らく、僕を警戒していると言うよりも、単純に――
「悪くはない。むしろいいことだと思うよ。
 だから、つまりこう言ってはあなたは怒るのかも知れないが、恥ずかしがることはないと……」
「…………」
 ウィリアムがものすごい顔をしたので、僕は思わず言葉を止めた。怒鳴られるか、最悪話を打ち切られるかとも思ったのだが、ウィリアムはここでも自制心を発揮してくれた。大きくため息をついて、頭を押さえる。
「……それが、何か重要なことなのか? そうやって根掘り葉掘り聞いてくるのがよ、まさか趣味とは言わねえよな」
「本当のことを言えば、そういった部分がないではないんだ」
「おい……」
「あなたにも話しただろう。僕はあなたと違って、ここに来る以前の記憶はないし、ほとんど戻ってもいない。
 確かにいくつかは思い出したが、それは僕ひとりではどうにもならなくて、あなたの話を聞いたからこそ、辛うじて戻って来たのではないかと思ってる」
 僕はウィリアムの目をまっすぐに見つめた。彼の灰色の目は不機嫌そうに歪められてはいたが、以前はこびりついて拭い難かったが昏さがすっかりないように見える。それも、ここで魔王を続けていれば戻ってくるのかも知れなかったが、もしかしたらそうではないのかも、と僕は思っている。
 彼は恐らく、肝心なことを思い出した。ほかの何を忘れても、忘れてはいけなかったはずのものを。
「……僕は、あなたが羨ましいんだ、ウィリアム。
 でも、羨ましがっているだけでは何も思い出せない。だからあなたの話を少しでも多く聞きたい」
「へっ」
 ウィリアムは不意に、笑みに顔を歪めた。それが嘲笑であると気が付くのには、やや時間がかかった。
「すらすらとよく並べ立てたもんだな、若造。前の俺には言えなかった分を、今の俺にぶっつけているのか?」
「それは……」
「なるほどな、だが確かに、ここが残像領域と全く違うことは俺も認めている。違うルールで成り立った世界だ。
 戻るためには、なにがしかの手立てが必要だ――記憶を取り戻そうとするのは、アプローチとしては的外れじゃあない」
「……」
 僕は咄嗟に返事をすることができなかった。それは、記憶があるウィリアムだから言えることだ。僕は元の世界に戻りたいかさえ、定かではない。
「まあ、いい」
 相変わらず口元に意地の悪い笑みを浮かべたまま、ウィリアムが片眉を跳ね上げる。
「別に恥ずかしがってるわけじゃない。てめえなんかに聞かれてハイそうですと答えるようなことじゃない。それだけだ」
「……ああ、不躾だった」
「ただ、答えるとするなら」
 不意に笑みを消して、ウィリアムは僕を睨み付ける。
「お前が言っていた最後の戦場――お前が俺を殺した戦場に、もしダリルが出撃していて、お前がダリルを殺していたのなら。
 今の俺たちが何者で、喋って動く死者に過ぎなかろうが、俺はお前を殺すだろうよ」
 答えはそれで十分だった。僕はウィリアムの言葉を聞きながら、左手を自分の前に差し出す。そこには、指輪がはめられている。僕とチャーリーというひとの名が刻まれた指輪が。
「ウィリアム、僕とあなたは何が違うと思う?」
「さあな、少なくともこっちのルールに関して、俺はお前よりもよほど詳しくないぜ、オーガスト……」
 ウィリアムは僕の名前を呼んだあと、ふと眉をひそめた。僕から目を逸らし、店の中を見回す。
「…………AB? まさかな……」
 ごく小さな声でつぶやかれたその言葉の意味は、僕には分からなかった。