レーダー上、配置図の上を、編隊を組んだ光点が離れていく。
黒い不死鳥は、今回も撤退を選ばせられたようだった。
戦力の少ない中でただでさえ勇み足だったところを、頼みのウォーハイドラの一機に裏切られたのがとどめになったのだろう。ふたたび攻勢をかける気があるにしても、いささかの立て直しが必要になるはずだ。
踏み荒らされた泥の海の中で、『ゲフィオン』はゆるやかに歌声を止めた。
その腹部がほどけて、操縦棺を外気に露出させる。
しばらくの戦闘で遠のいていた雨のにおいが、再び操縦席へと流れ込んで来るのを、グロリアはシートに沈み込んだまま嗅ぎ取った。
『ゲフィオン』のアームカバーから腕を引き抜くと、サブの操作盤の横に置かれた小さな機械のチップへ、生の指先を伸ばす。
その表面に触れたか、と言うところで、グロリアはまるで熱いものに触れたかのように、びくりと腕を引いた。しかし、小さく息を吐くと、彼女は再び恐る恐るに手を差し伸べ、チップを拾い上げる。
細く千切れた配線が、チップからは伸びている。
今や、どこにもつながってはいない。
「――ごめんね」
吐息を吹きかけるような距離まで顔を寄せ、グロリアは小さくつぶやくと、そっと目を伏せた。
その言葉に、答える声はない。
『ゲフィオン』が歌うのをやめた今、ただ雨の降り注ぐ音だけが、ノイズのように操縦棺の中を埋めている。
《貴機の協力に感謝する》
と。
通知音とともに入った通信に、グロリアは顔を上げる。
それはどこか懐かしく、ひどく聞き馴染みのあるような、しかし確かに初めて聞く声だった。
少し緊張したように息を飲んでから、グロリアは口の端をきゅっと持ち上げる。
「ううん、こっちこそありがとう――『ローリィ・ポーリィ』。あなたが手伝ってくれなかったら、『ゲフィオン』を取り戻せなかったんだから」
《我々には、君を迎え入れる準備があるが……》
その言葉に、グロリアはシートから身を乗り出して、ちょっと視線を巡らせる。だが、すぐに唇を尖らせて首を傾げ、
「……嫌だって言ったらどうする?」
《何も。心配しなくても、後ろから撃つような真似はしないさ。
それに、そっちがまだ余力を残していることは分かっているよ》
グロリアは破顔して、手の中で弄んでいたチップを元の位置に戻した。再びシートへ背を預けて、ひらひらと手を振る。
「そうね。あなたのことはいい人だって思うけど、ほかの会社に所属するつもりはないの。せっかく、上手く逃げられそうだしね」
《詮索はしない。これ以上は手助けもしないが、そのまま雲隠れできるように祈っている》
「ありがとう。……あっ、でも、その『
通信機の向こうから、笑声のこぼれる気配があった。
《死んだ母の機体を引き継いだんだ。HCS以外はもう全部換装してるが、さすがに思い入れがある。
……それじゃ、そろそろ失礼するよ》
「ええ、さようなら、『ローリィ・ポーリィ』」
《正直なところ、そのハイドラの〈指〉は苦手だが、君の歌声は嫌いじゃない。
今度もまた、味方として戦いたいものだ》
通信が切れるとともに、『ゲフィオン』の上空を旋回するように回っていた小さな光点が、速度を上げて離れていく。
別れの言葉を言うために、わざわざ上空に留まっていたのだろうか。それとも、『ゲフィオン』が翻意して再びの裏切りをした時に備えていただけか。
いずれにせよ、搭乗しているハイドラライダーの律儀な性格がそこに現れているように思われた。
「……お母さん、かあ」
グロリアは『ローリィ・ポーリィ』の反応が消えるまでレーダー図を見つめていたが、ふと、そう声を漏らして顎を反らした。
体をほぐすように大きく伸びをして、ぐるりとこちらを振り返る。
「ねえ、一言ぐらい挨拶しなくてよかったの?」
……その問いに。
その問いに、俺は頭を抱えたまま――今やその動作には何の意味もない――グロリアの方を見返した。
「むやみに、」
口の中がひどく乾いて、くっついているような感覚があるのが不思議だ。
俺は目を伏せて、大きくため息をつく。
「混乱させる必要もないだろう……俺だって、知らなかったんだ」
「あたしだって知らなかったわ。言われてみれば、『イグノティ・ミリティ』ってずいぶん朽ちていたような気がしたけれど……ううん、だってそんな話、一回もしなかったもの! あなたって、本当は何年前に撃墜されたの?」
矢継ぎ早なグロリアの声に圧されるように頭を垂れて、俺は操縦棺の隅で小さく縮こまった。……やはり、その動きにも意味はない。すでに体の主導権はグロリアに戻っていて、俺はただ、彼女の視界の中に像を結んでいるだけだ。
「……分からないんだ、本当だ」
なぜか言い訳をしているような気分になって、俺は小さく呻いた。
どれほどの間、『イグノティ・ミリティ』とともに戦場を彷徨っていたのか。霧の中で目を凝らすようにおぼろげだ。
しかも俺は、いまだにここにいる。
結局のところ、グロリアは『ローリィ・ポーリィ』からの応答がある前に、自力で俺から体の主導権を奪い取った。そして、通信機の向こう側にいるはずのフィリップ=ファイヤストーンと俺を接触させないために、スイッチを切ろうとした。
だが、除去されたスイッチを取り戻すことは叶わなかった。グロリアも、俺が自分の中で壊れることを、一度は覚悟したようだ。
「そんなにショックなの? そりゃ、あたしだってフィリップにあたしよりも年上の娘がいたなんて思わなかったけど」
『ローリィ・ポーリィ』から返ってきた声を聞いた瞬間の、あの背後から殴られたような感覚が蘇ったような気がして、俺は後ろ頭に手を置いた。
戦闘中の音声通信で顔は見られなかったが、彼女の声は母親によく似ていた。
父子だからと言って、ハイドラライダーとしてのくせが似るとは思えない。たぶん、あれは俺の戦闘ログを見て、操縦技術を学んでいる。腕がいいとはとても言えなかった俺のログをちゃんと保存していたなんて、俺の整備士だった彼女の母親ぐらいだ。母親に似て、几帳面に育ったのだろう。
「覚悟ができたら、また会いに行ってもいいけど」
「いや……それより、かれはどうするんだ」
俺の問いに、彼女は苦い顔で操作盤の方を振り返った。
そこには、先ほどと変わらず機械のチップが置かれている。
グロリアが戻ってきた途端、元の主の帰還を待ちわびていたかのように『ゲフィオン』は沈黙した。
サブの操作盤に寄生するような形で接続されていたのが、この小さなチップだった。この体から複製された人格が、そこには入っているはずだ。
「たぶん、壊れてしまっていると思う。この中には、あたしもいたはずだけど……」
「……やっぱり、『ゲフィオン』の中にいる自分を迎えに来させようとしたんだな。俺に」
「怒る?」
「死ぬかも知れなかったんだ。死人のために死ぬ必要はなかった」
「フィリップは死人じゃないよ。ちゃんとここにいるもの」
そういうことじゃない。俺を自分の頭の中に置き続けることがどういうことか、君は分かっていない。
喉元まで出かかった言葉を、俺は飲み込んだ。
脳裏に、顔も知らない自分の娘のことが浮かんでいる。彼女にとって、俺が必要だった瞬間があったのかも知れない。
だが、あったとしても、その時間はとっくの昔に過ぎてしまった。
グロリアにとっても、俺は必要のないもので、害でしかないとさえ思う。
でもたぶん、グロリアにはそんなことは関係がない。
「フィリップは、あたしと一緒にいるのはいや?」
グロリアが、縋るようなまなざしで俺に手を伸ばす。
俺はもうあの時、彼女の手を取ってしまった。
だから、彼女はその手を掴んで離さない。
「いいや……君が、帰ってきてくれてよかったよ」
「うん」
俺は差し伸べられた彼女の手に、自分のそれを重ねた。触れている感覚はなかった。
……きっと俺は、彼女が俺を必要としなくなるその瞬間が恐ろしいのだ。
それでも俺には、この触れられない手を振り払うことはできなかった。
「……あ、そうだ。ダリルを迎えに行かなくちゃ」
不意にグロリアが声を上げて、慌てて俺から手を引く。
『ローリィ・ポーリィ』はぎりぎりまで重量を削った一人用のウォーハイドラだ。グロリアは何とか隙間に押し込められたものの、そこにさらにダリルが乗れるわけもなく、かれはいまだに『ウエストランナー』の中で待機していた。
「かれには世話になった。君が助けを頼んだのか?」
「ううん、何にも。そう言えば、フィリップはエイビィにも会ったんだよね?」
ハッチを閉じ、アームカバーに手を差し入れながら、グロリアはまた話題を変える。
「ああ、あそこはグロリアが行きたいと言ってた店だったな」
「『メル・ミリア』ね! あたし、そこのケーキが食べに行きたいわ。DRもそこで直せるでしょ?」
『ゲフィオン』が泥をひっくり返しながら、ゆっくりと足を上げた。
「……ああ、君の行きたい場所に行こう。これからはいくらでもそれができる」
いつか、彼女が俺のことを邪魔にさえ考えるようになる。
そんな日が必ず来る。来るべきだとさえ思っている。
「ねえ、フィリップはどんなケーキが好き?」
「俺のことは――いや、グロリアが好きなケーキがいい。あまり、食べたことがないんだ」
けれどそれまで、彼女の隣でともに歩くことはできる。
耳元ではまた高らかに、『ゲフィオン』の歌声が響き始めていた。
その歌は、少なくとも濁ってはいなかった。