#1 企業間闘争

 『ゲフィオン』が歌う。
 全身を真紅に塗装されたこの鮮やかなウォーハイドラは、霧の中においては思ったよりも目立つことはないが、歌声はその存在を否応なしに周囲に知らしめる。そして、『ゲフィオン』もこの歌によって戦場を知覚し、その霊障を浸透させていく。
 どこにいても、どれほど『ゲフィオン』から遠くにいても、『ゲフィオン』の〈指先〉が届く範囲であるなら、その歌声もまた耳元で囁くように間近で聞こえるという。
 澄んだその少女の歌声は、『ゲフィオン』特有の霊障の表出の仕方で、HCSの意図した挙動ではなかった。
 九つの首を持ち、パーツの組み換えアセンブルよって自在にその性能を変えるウォーハイドラ――『ゲフィオン』のハイドラ・コントロール・システムにアセンブルされた術導肢は、霊障の出力を強化安定する機能を持ち、この機体もまたその恩恵を受けている。だが、この〈不可思議な現象〉はついぞ除去することはできなかったという。霊障の発生を制御し、ウォーハイドラの武器の一部となして久しい今となっても、こうしたことは起こる。霊障というのはそういうものだ――元来、そういうものだった。
 五年前、世界を覆う霧が晴れた時、霊障を大気に走らせ、増幅させていた電磁波もまた消失した。
 ハイドラライダーの中でも〈霊障屋〉などと呼ばれる連中は、自らの飯の種が失われる危機にたいそう顔を青くしたそうだが、それで霊障機がぱったりいなくなったかと言えばそうでもなかったらしい。『ゲフィオン』も戦後に製造された機体にもかかわらず、霊障を最大限活用できるように調整されていた。
 それが、この区画を想定してのことだったのかは分からない。しかし、『ゲフィオン』が霧を待ち望んでいたことは間違いない。
 北へ
 ハイドラ大隊の長い旅が終わってから五年間、ひとまずの平穏を保ってきた残像領域において、この言葉はその終焉を予感させる一種の合言葉になっている。
 世界のほとんどが霧に覆われていた時代、残像領域には多くの未踏破領域が存在していた。霧が晴れた後、各地に調査隊が派遣され、地図の空白は少しずつ埋められていったが、北部で見つかったものは明らかに様子が違った。
 つまり、霧と電磁波だ。
 そしてその奥底には、一度は取り合った手を振りほどくほどの力が眠っているという。
 組み立て前の『ドゥルガー』の素体というものがこの世界の人間たちにとってどれほどの価値を持つものなのか、小競り合いを駆けずり回って糊口をしのいでいた俺にはまったく分からないが、それでも多くの勢力が今、北に目をつけている。
 だからこその北方遠征。だからこその、この霧の中の『ゲフィオン』だ。
 この話を聞いた時、『ゲフィオン』の開発者たちが快哉を叫んだであろうことは想像にかたくない。
 事実、大木の根を踏みしめ、木々の間に間に駆けていた時よりも、より生き生きと、よりはっきりと、『ゲフィオン』はその性能を発揮し始めている。『ゲフィオン』に合わせて調整されているグロリアもまた。俺が感じ取れるほどの張り詰めた緊張感は抜けて、この霧に馴染むことができたようだ。
「このままゆっくり前へ出よう、グロリア。〈デコレート〉とも意見が一致している」
「焦るなってことね」
 グロリアは、きゅっとわざとらしく口の端を持ち上げてみせた。シートの背もたれに体重をかけると、上下左右、シートで遮られている以外の場所に外部の映像が映し出された全天周囲モニタに視線を走らせる。
 もちろん、手は『ゲフィオン』を操作するためのアームカバーへ突っ込まれたままだ。
 円筒形のそれは、グロリアの細腕を肘辺りまで呑み込んでいる。衝撃吸収の意味もあるが、ハイドラライダーの生体認証やバイタルを検知する機能もそこには詰まっているらしい。『ゲフィオン』はグロリア以外には扱えない機体だ。
 『ゲフィオン』は霧の中を、指示通りにゆっくりと進んでいく。
 この北方遠征においても、参加しているハイドラの戦績は解析されており、それに応じて報酬に傾斜がかけられる。
 戦場は、総体として目標を達成するための場であると同時に、名誉と金を取り合う場所ともなる。すでに戦果を確保しようと動き始めている友軍は大勢いるだろうが、俺たちはまだこんなものだ。
 むろん、グロリアは俺などよりはずっと優れた能力を持つハイドラライダーだ。しかし、圧倒的に経験が足りない。それを補うのが〈デコレート〉とは言え、俺も〈デコレート〉も、急ぐことはないと判断していた。それに、『ゲフィオン』が慌てて前に出ずとも、その感覚はすでに戦場に広がっている。
「――でもフィリップ、あなたの方がそわそわするんじゃない? 『イグノティ・ミリティ』よりはずっとゆっくりでしょ」
 彼女がそう聞いてくるのは、俺が訓練中に『ゲフィオン』の足の遅さに戸惑ったことがあったのを覚えているから。が、それもずいぶん前のことだ。グロリアはこのじれったい行軍を自分が耐えられるかと、俺が心配しているのを感じ取っている。心外なのだろう。
「慣れたさ」
 どう弁解しようか迷いつつ、俺はそれだけ答えた。グロリアは口を尖らせる。
「あたしだって慣れてる」
「でも、もっと先に進んで、早く相手を見たいんだろう? 別に責めてはいない。悪いことではないから」
「なら、もう少し急いでもいい?」
「いいや。グロリア、ここは計算を取ってくれ。感覚ではなくて」
「むう」
 『ゲフィオン』を通じて、俺たちには戦場の様子がおぼろげながらに掴め始めている。
 けれど、グロリアにとっては十分ではないらしい。この深い霧の中、自分の目で見て確かめたいというのがどういうことなのかはグロリアも理解しているはずなのだが、貪欲と言うべきか、それとも鈍感なのか。
 いずれにしろ彼女は好奇心に溢れた十五歳の女の子で、俺と〈デコレート〉と『ゲフィオン』は、それを護る役目を負っている。
 実に過保護な話だが、それぐらいでちょうどいいだろう。
 何せ、いくら硬い鉄の棺の中にいると言っても、ここは殺し合いの場所だ。しかもこの霧の中においては、目隠しをしてナイフを握っているに等しい。『ゲフィオン』によって多少ましになっているとはいえ、目が塞がれているのは変わらなかった。すべてが手探りだ。
 ……戦果など挙げられなければ、結果など出せなければ、という気持ちが、俺にないとは言えない。
 しかし、〈デコレート〉と『ゲフィオン』はそうもいかない。どちらもただ、己の機能を果たすだけの存在だ。それに、俺の感情通りの結果になったとして、そのあとにどうなるかは不透明だった。良い方へ向かう、とは思えない。それは、特別悲観的な考え方ではなかった。
「そのうち、向こうから近づいてきてくれるさ」
「そうね。もう近づいてきてくれてる」
 焦れていたグロリアの顔に、不意に笑みが広がった。花のようなと言うには獰猛な笑い方。まさしく、獲物を見つけた肉食獣が歯を剥くのと同じだ。
「ッ――」
 〈デコレート〉から引き出した情報が、グロリアと俺の思考の中に展開されていくのを感じて、俺は息を呑んだ。自分の頭が、その中身が周囲に向けて一回り広がって、見えるものが増えたような、そんな奇妙な感覚だ。
「そこにいるのね!」
 シートの上で身を乗り出し、アームカバーの中に腕をぐっと押し込んで、グロリアが歓喜の叫び声を上げる。
 全天に展開された視覚映像には、ただ目が潰れんばかりの眩しい白が映し出されているだけだ。
 しかし、『ゲフィオン』がグロリアに呼応して高らかに歌声を上げ、霧の中に術導肢の指先を潜り込ませたその先に、確かな手応えが存在する。
「――触った
「砕くわ!」
 その手応えが、見えぬままに脆く押し砕かれるのを、どう感じ取っているのかと問われた時、説明するのは難しい。
 生の皮膚で感じているのとは少し違う。もう少し離れているとも、もう少し深いとも言えてしまう。つまり、自分のからだから見えない薄皮を数枚隔てた部分まで感覚が広がっているようにも、その逆――皮膚の奥で触れているようにも思える。
 俺は霊障屋ではなく、あくまでグロリアと〈デコレート〉に連動して知覚しているに過ぎないから、こうしてぼやけた感想を抱く。グロリアはもう少し正確に、生々しく世界を把握しているだろう。
 それを〈デコレート〉が計算し、『ゲフィオン』が出力する。
「フィリップ、どうだった?」
「かなりいい。次に向かおう。ただし、それほどは急がなくていい」
「もう!」
 俺とは言えば、こうしてグロリアの話し相手になって、彼女と戦場の様子をぼんやり眺めているぐらいだ。
 それがグロリアと『ゲフィオン』にとって致命的なノイズにならないように注意を払ってはいるけれど、実際のところは分からない。
「……グロリア、また何か見つけたのか?」
 むくれていたはずの彼女がぱっと笑顔になったのを見て、俺は問いかける。グロリアはかぶりを振ってみせた。
「ううん、北に来てよかったな、って思ったの」
「そうだな。『ゲフィオン』の調子はすごくいい。グロリアもやりやすいだろう」
「それもあるけど、フィリップもだよ。こっちに来てから、すごく具合がよさそうだから」
 俺は目を瞬かせる。こちらが何かを言う前に、グロリアはシートに体を預けると、再び白い世界へ目を向けた。
「さ、ゆっくりするのはいいけど、データが取れる程度には動かないとね。行こう、フィリップ」
 『ゲフィオン』が歌声を響かせながら、再び前進を始める。白い霧の中を。確かに、そうかも知れなかった。
 ……俺は、〈ここ〉に帰って来たのだ。


 グロリアは〈デコレート〉によって拡張されている。
 必要に応じて、彼女の意志によって拡張される、という表現がより正確だろう。
 〈デコレート〉は、グロリアの中にあるもう一つの人格だ。
 人格と言っても、しっかりとした一個の人間として自我があるわけではなく、データベースと計算機を兼ねたような存在で、グロリアは必要に応じて〈デコレート〉を起動して知識や技術を頭の中に呼び起こす。かつて研究されていた、ある技術の失敗例が見直され、転用されているという。
 ふだん眠らせておくのは、グロリアへの負担が大きいのはもちろんのこと、グロリアや外界からの〈デコレート〉への影響を避けるためだ。
 〈デコレート〉には、グロリアから自立した演算能力が与えられていて、グロリアに呼び起こされた時、その力はグロリアのものとなる。
 その時、グロリアから思考や感情のフィードバックがあって、〈デコレート〉に自我を芽生えさせるかも知れない……そうした懸念を、グロリアを作り出した研究チームは持っているのだ。それを、彼らは汚染と呼称していた。
 実際、〈デコレート〉の基になった人工人格は、そもそも自我を持っていなかったにも関わらず、焼き付けた先の人間や周囲の干渉によって明確な自意識を持つと、最終的に元の人格を破壊するに至ったという。〈デコレート〉とグロリアにも、その危険がある。
 だからできるだけ〈デコレート〉は眠らせておき、グロリアに従属させる。そしていざという時にはグロリアが主導権を握り、スイッチを切れるようにしておく。そうした措置が取られている。
 何故、そんな危険な技術を使ったのか、という問いには、彼女に身よりがなかったからという答えが返ってくるだけだ。研究チームからすれば、フェイルセーフを噛ませただけ優しいというところだろうか。
 もっとも、そうした設計もグロリアのことを思いやってのことではなく、〈デコレート〉が制御不能になるのを避けるためだ。グロリアは、それなりに金のかかった『製品』なのだ。
 〈デコレート〉はグロリアを護りもするが、グロリアを傷つけ、破壊してしまう可能性がある。その取り扱いには、細心の注意を払わなければならない。
「えええー、ううーん、いやーっ、これはどうかと思うなあ」
 ……それを、ほかならぬグロリアも理解はしているはずなのだが。
 どうも彼女は俺よりもずっと、〈デコレート〉のことをポジティブにとらえている。〈デコレート〉の力を、積極的に使おうとする場面もあった。
 それは例えば、出撃の時ではなく、こうしてアセンブルの時にも〈デコレート〉を起動させてみるとかだ。
 〈デコレート〉の機能に外れた使い方ではない。だが、起動時間が長ければ長いほど、汚染の危険性が増す。とは言え俺にそれを止めることはできず、最初に釘を刺してグロリアのへそを曲げさせた後は、気が気でない気分で見守っているだけだ。
 『ゲフィオン』の前に立って、グロリアはタブレットを手に渋い顔をしていた。指先は彼女の意志から離れたように、目まぐるしく機械的に動いている。
 画面に表示されているアセンブルを覗き込み、俺もグロリアと似たような顔になるのを感じた。
 繋ぐパーツによってその姿と性能を大きく変貌させ、戦場に合わせて最適化されるウォーハイドラ。しかし、ハイドラライダーの技術や気質によって、アセンブルには一定のくせがあることが多い。
 俺の場合、霊障はからきしだめだから術導肢をアセンブルしたことはないし、重装甲の機体も軽すぎる機体も扱いきれない。グロリアはせっかちな性格の割には基本的に重いアセンブルを好んだ。ただし、若いからか性格か、俺よりは柔軟性がある。
 そして、〈デコレート〉の場合は……これは、柔軟性がありすぎると言っていいだろう。
 〈デコレート〉はグロリアと『ゲフィオン』の能力の傾向を把握し、それに沿ったアセンブルを提示しているはずなのだが、その意図や目的が人間である俺たちには理解しきれないことがあった。〈デコレート〉によって意識を拡張し、連動しているはずのグロリアでさえ、だ。
 あるいは、これが〈デコレート〉のくせと言えるのかも知れない。
 先程も言った通り、この人工人格には自我と呼べるものは存在していない。
 しかし、〈デコレート〉が提示するアセンブルには、射撃が得意とか動きの速い機体を好んで使用するとか言うのとは違う、別の嗜好が存在しているように感じられた。
 俺の見た限りでは、〈デコレート〉は新し物好きで、まだ試していないもの、組み合わせを常に使ってみようとする。学習に対して、きわめて貪欲な姿勢だ。ただ、死に対する恐怖であるとか、ハイドラライダーの熟練に関する配慮は欠如している。
「フィリップはどう思う?」
 ひとしきり唸った後で、ようやく、という感じで問いかけてきたグロリアに対して、俺は肩を竦めてみせる。
「アセンブルに関して、〈デコレート〉と気が合ったためしがない」
「あたしは面白いと思うけれど……」
 俺は嘆息した。
「面白さでアセンブルを組まれたらたまったものじゃない」
「面白さでアセンブルを組まれたらたまったものじゃない?」
 俺とグロリアの声はほとんど唱和する。唇を曲げるのは、今度は俺の方だった。
 グロリアは得意げに笑ってみせると、〈デコレート〉が提示してきたアセンブル案を画面上のボックスに放り込んだ。タブレットを持ったまま、大きく伸びをする。
「ま、いいや。いったん保留で。次の出撃まではちょっと時間があるし、マーケットに見に行ってもいいもんね」
 ウォーハイドラのパーツは、ハイドラライダーだけが出入りできるマーケットに毎週入れ替わりで並べられている。パーツは取り寄せることもできるし、実際にマーケットに出向いて購入することも可能だ。
 外出は気が進まないが、グロリアが出るというのであれば俺がごねても仕方がない。
「……グロリア、〈デコレート〉を」
「はーい」
 グロリアが頷くと同時に、急に頭が軽くなったような、視界が狭くなったような感覚が走った。〈デコレート〉のスイッチが切られたのだ。
 俺はこっそりため息を噛み殺し、頭を押さえる。〈デコレート〉との連動それ自体もそうだが、正直なところ、〈デコレート〉の存在そのものが苦手だった。
 それは、かれがグロリアに危害を加えうる存在だから――というだけではない。
 俺にもうまく説明できない、正体の見えない嫌悪感を〈デコレート〉に対して抱いている。恐怖心に近かった。何故かは分からない。けれども、想像し得る理由の、そのどれでもない気がしている。
「喉渇いちゃったし、休憩室に行くわ。フィリップは何か飲みたいものある?」
「俺のことは気にしなくていい……何だ?」
「ううん、どうして霧は晴れてしまったんだろうって思ったの」
 残像領域の霧は、新人類の〈発芽〉を防ぐため、日照と気温上昇を抑制する目的で存在していた。
 それが晴れたのは、霧を発生させていた『霜の巨人』――フィンブルヴェト・コントロール・ユニットが打倒されたからだ。
 かつて霧に覆われていた残像領域は、無数の大樹が連なる世界へと変貌した。それもまた、木々によって日照時間を少なくする役割を負っている。
 俺が『イグノティ・ミリティ』の中で呻いている間に終わっていた話だ。当時はほんの子供だったとは言え、グロリアの方がこのことには詳しい。
 もちろん、グロリアの言いたいのがそういうことでないのは分かっている。
 霧がなくなったことで、世界は大きく変貌した。何故、変わらなければならなかったのか。そういう話だ。
「グロリアが俺を見つけられたのは、霧が晴れたからだ」
「それは分かっているけど……でも、フィリップは霧の中にいた方が元気そうだから」
 彼女が言うほどに、俺は違いを自覚していない。だが、彼女が言うのならそれは正しいのだろう。この世界が以前と同じように霧に覆われていたら、グロリアがマーケットに向かうと言った時に咄嗟に憂鬱な気分になることもなかった。
「言ったって仕方ない話だ。グロリアに会えなければ、俺は操縦棺の中でくたばっていた。
 グロリアが来てくれたから、こうやってぼんやり話していられる……」
「ううん……そうか。そうね、でもさ、フィリップが苦しかったのは」
 言葉を遮って、アラームが鳴り響いた。
 グロリアは目を瞬かせ、タブレットをタップする。画面には、出撃を命じる書面が表示されていた。訓練でもなければ、への再出撃の話でもない。予定外の命令だ。
「攻撃目標、ディオニウス社所有の工業プラントだって、これってどういうことだか分かる、フィリップ?」
「……ああ」
 画面の隅に表示された黒い不死鳥のエンブレムを見つめ、俺は小さく頷いた。
 霧が失われ、アルラウネ・ユニットによって世界が樹木で覆われた時、世界は急速に平和に向かっていった。その中で最後まで、身内で肉を食み合うことに躍起になっていた企業があった。五年経った今でも、その性質は変わっていない。
「これは企業間闘争だ、グロリア。マヴロス・フィニクスが、肉を食うための頭を作り始めたんだ」
「行きたくないの?」
 問いに、俺はただ頷く。けれども、俺が行きたくないと思っていたところで、グロリアは命令には逆らえない。それに。
「行かなければ見ているだけだ。行けば何かできることがあるかも知れない。
 行こう。でも、〈デコレート〉はぎりぎりまで起こさないでくれ」
 グロリアが頷くのを確認してから、俺は目をつぶった。


 残像領域が霧にまだ覆われていたころ、世界は企業連盟によって支配されていた。
 統制された戦争、前線の兵隊を使い潰すだけの馴れ合いとパワーコントロール。それらはハイドラ大隊によって破壊され解体されたが、それ以前、この世界において経済活動というのは戦争そのものだった。
 マヴロス・フィニクス社は、残像領域に存在する複合企業コングロマリットのひとつであり、企業連盟とは一歩独立した行動をとりながらも、霧の中の企業としてその生態に忠実な存在だった。すなわち、吸収、合併、分離、独立、買収、そして戦争。大小の企業が寄り集まり、肥大化したこの黒い不死鳥は、時に頭を増やし、己の肉体さえも食い千切って餌とする。
 ただしこの醜い怪物も、世界中に広まった厭戦気分と戦いの終息には最終的には抗えなかったらしい。霧が失われ、社内で起こった大規模な戦闘が痛み分けに終わった後は、平和路線を取ってひとまず大人しくなった。
 だが、この不死鳥の本質は、あくまで膨張しようとする旺盛な食欲にある。
 それを忘れたわけではなかったのは、『ゲフィオン』のような戦闘に特化した機体や、グロリアのようなハイドラライダーを製造していたことからも分かる。そうして、北方遠征が始まった途端、隙を見てほかの企業の施設を押さえようとしているわけだ。
 グロリアは北方遠征にも参加しているハイドラライダーだ。〈デコレート〉のこともあるし、それほど彼女を乱用しないと思っていたのだが、見立てが甘かったと言うべきか、それともマヴロス・フィニクスも意外に手勢がないと言うべきか。以前は関連企業のどこにもハイドラやDRが一機は配備されていたというが、現在はそこまでではないのかも知れない。
「もう、量産するつもりなんじゃないかしら」
 木漏れ日に照らされる『ゲフィオン』の装甲は、艶やかに赤く煌いていた。
 地表には太い根が張り、ハイドラとしては比較的大型に分類される、十五メートル級の『ゲフィオン』よりもはるかに高く太い木々がどこまでも続いている。
 霧に成りかわってこの世界の象徴となった樹木は、霧よりも視界を遮りはしない。恐らく遠くからも『ゲフィオン』の姿はよく見えるだろう。慎重に行動する必要があった。
「〈デコレート〉を?」
「つまり、あたしを。だからあとは、開発コストぶんぐらいは働いてもらおうってこと」
「……考えづらいと思うが」
 確かに、〈デコレート〉は量産を前提とした製品だ。この計画は最終的に、経験のないハイドラライダーの能力を、即座に熟練レベルまで引き上げることをコンセプトとしている。
 グロリアはその被験体のうちの一人であり、〈デコレート〉も彼女だけではなく何人にも焼き付けられた。だが、その中で上手くいったのは彼女だけだ。グロリアは今のところ特殊な成功例であり、量産の目処は未だ立つはずもない。
「俺は、マヴロス・フィニクスが我慢できなかったんじゃないかと思っている。
 戦力が揃っていなくても、戦争せずにはいられない。だから、グロリアに無理をさせて、こうやって戦争をさせる」
「そういうの? うちの会社って」
「意外と、研究チームはキレているかもな。
 遠征も控えてる、俺たちは無理をしないで行こう。霧吹きが来るのはともかく、電磁波ばかりはどうにもならない。『ゲフィオン』の火力は北にいる時よりも段違いに低いはずだ」
 そういう状態の『ゲフィオン』を出撃させてしまうのが、今の黒い不死鳥ということだ。
「ずるいんだ。〈デコレート〉には正しいことを教えておいて、ずっと我慢がきかないんだから」
 グロリアは言って、けらけらと笑った。
 が、その笑みはすぐに引っ込められる。
 霧の中と違って、『ゲフィオン』の歌は遠くまでは届かない。代わりに頼りになるのは、ほかの機体と同様に目視とレーダーだ。
 全天周囲に展開された外部映像が、グロリアの操作に従って一部大きく拡大される。大樹の陰に、動いている影があるのが見えた。工業プラントまではさほど距離がない。防衛部隊と見て間違いがないだろう。
「敵影を発見、霧吹きって間に合わない?」
 通信回線を開き、グロリアが後続のハイドラに向かって問いかける。返事は芳しくなかった。
 戦争末期に投入されたハイドラ用の新パーツ――ランページ・ユニットは、戦場の霧濃度を劇的に変化させる力を持っている。
 それは霧のない戦場でも代わりはなく、当時もまさに霧吹きとして重宝されたというが、コントロールには多少の調整がいる。少なくとも、『ゲフィオン』が満足にその力を振るうまでは、少しの間耐えねばならないということだ。
「――んうッ!?」
 操縦棺に走った衝撃に、グロリアが呻き声を上げた。『ゲフィオン』の装甲が一部弾け飛び、着弾のアラートが上がる。
「狙撃砲だ! 次の装填までは一拍かかる――木を、盾、にッ……」
 言葉の途中で走った嫌な感じに、俺は息を詰まらせながらも言い切った。グロリアが合図なしに〈デコレート〉を起動させたのだ。
 グロリアと俺から状況を瞬時に読み取った〈デコレート〉が、思考を俺たちから乗っ取る勢いで計算を走らせていく。その判断は、俺のものとは食い違う。
「なるほどね!」
「無茶をするな!」
 グロリアの声と俺の制止とが重なり、『ゲフィオン』が跳躍した。小型の機体よりはよほど重々しい挙動で、『ゲフィオン』の赤い機体が樹木の間を飛び跳ねてゆく。逆関節機はこのようにして、走るよりも飛び跳ねる方が速度が出るものだが、特に重い機体の場合、滞空時間が長いほどいい的だ。
「距離を詰めるまでは耐えられるわ!」
「距離を詰めてからが本番なんだ!」
「わーかってる……ってえ!」
 再び、操縦棺が着弾の振動に揺れるが、最初の一発ほどではない。樹木がいい目くらましになってくれているのは間違いなかった。
 だが、『ゲフィオン』は霊障をコントロールすることに設計を割いているため、装甲の厚さを誇れるような機体ではない。連射はないとは言え、次に狙撃砲を食らえば、手痛いダメージになる。
 それでも、〈デコレート〉は前進を弾き出す。
 俺の場合、こうして焦っている時はほとんど自分の考えと〈デコレート〉の計算の区別が付けられず、混乱する羽目になる。この辺りがハイドラライダーにとってストレスになるのは、研究チームも認識していたところだ。じりじりと削られていくごとに、焦燥も強くなっていく。
「――触れる!」
 グロリアが鋭く叫び声を上げた。
 間を置かず、全天周囲モニタが一気に白く染め上げられる。ランページ・ユニットによる急激な噴霧は、戦場のすべてを覆うほどに劇的だ。
 霧を介することで、俺にも『ゲフィオン』の指先が敵機に触れたのが明確に感じ取れた。
 しかし、仕留められるほどではない。電磁波の走らない霧の中では、霊障の威力は半減する。
 『ゲフィオン』が根を潰すほどの勢いで地を踏みしめ、急速にブレーキをかけた。霧が辺りに満ちた以上、相手に近づく必要もない。跳躍を予想した速射砲の銃弾が頭上を通り過ぎるのを感じながら、俺は息をつく。
 霧が動いた。
「来た来た来たッ!」
 アームカバーごと右手のレバーを強く引っ張り上げて、グロリアが全身に緊張を漲らせた。深い霧は射線を遮り、狙いを定めさせない。つまりは、こちらへ脚の速い格闘機の接近を許すことにもなる。
 敵機を捉えるべく、『ゲフィオン』が白い霧の中へその指先を突っ込むが、それはあっさりと空を切った。
「――はっ、やい!」
 『ゲフィオン』の足元を、矢のように小型のハイドラが潜り抜ける。『ゲフィオン』が損傷のアラートを発する頃には、敵機ははるか後方に飛び去っていた。『ゲフィオン』はよろめきながらも、霧の中を背後に向かって跳躍する。
 腰を起点として上半身だけを回転させた『ゲフィオン』の足元を、速射砲の射撃が貫いた。
「連携とれてる、でも……触った!」
 グロリアの動きに連動して、再び『ゲフィオン』が霧の向こうへを差し入れる。
 白い靄の中、軌跡を残すほどに鋭く飛び抜けるハイドラの姿を捕らえ、『ゲフィオン』がそれを握り込んだ。その確かな手応え。
 瞬間、走り抜けた違和感は、〈デコレート〉と連動した時の比ではなかった。
「あっ……!?」
 それはだめだ
「フィリップ?!」
 グロリアがレバーを引き戻す。
 ハイドラはあっさりと『ゲフィオン』の指先から逃れ、木々の間を縫ってその姿を隠した。すぐに、動きを止めた『ゲフィオン』の背を銃弾が叩く。装甲を削り切るほどではないが、あまり食らい続けるとまずい。
「グロリア、俺のことは……」
「ダメな時に大丈夫も気にするなも言わないでよ!
 『ゲフィオン』、ハイドラライダーのコンディション不調! 霊障の出力が安定しないんで撤退するから!」
 通信機にがなり立て、グロリアは乱暴にシートの背もたれに倒れ込んだ。俺が目を白黒させているうちに、頭がふっと軽くなり、眩暈さえ感じるほどだった視界の広さが失われる。〈デコレート〉のスイッチが切られたのだと理解する頃には、『ゲフィオン』は全力で逃げる態勢に入っていた。
「深追いはしてこないと思うけど……」
 足元まで含めてすべてが霧に覆われたモニタを、グロリアはぐるりと見回した。その視線が、背後の一点で止まる。
「……速い奴、気配が消えた。フィリップ、何だったの?」
「分からない……」
 俺はグロリアの問いに何とか答えると、大きく息を吐き出した。あのハイドラを墜とさずに済んだことを安堵していた。
 『ゲフィオン』越しに感じた、あの手触りを思い出す。
 あれは一体、なんと表現すべきものだろうか。