《――――工程終了》
声が聞こえる。
スピーカー越しに聞こえる、機械的な、無機質な音声。
《洗浄の完了を確認しました。問題は認められません》
それが人の声なのか、それともそれをなぞっただけの機械のものなのか、ぼんやりと考える。
《投薬を行い、被験体を非覚醒状態に戻したのち、引き続き復旧作業を行います。作業者は――》
体が重い。
頭が働かない。
抑揚のない言葉の羅列が、いったい何を言わんとしているのか、その意味を理解しようとする前に、再び意識は闇の中へと堕ちていく。
指先を持ち上げ、腕を伸ばそうとしても、それはどこにも到達することはなかった。
どこにも。
どれほど眠っていたのかは分からない。
だが、そこは間違いなくグロリアの部屋であり、そして目覚めたのは〈俺〉だった。
「―――――ッ!」
声もなく跳ね起き、俺は自分の手を見下ろす。細く、小さな、褐色の指先。グロリアの手だ。
部屋の中は、薬を打たれる前と何も変わっていなかった。まるで何事も起こらなかったかのように。しかし、そこにいるものが、決定的に変わってしまっている。いるべきではない人間が――俺が――ここに、いる。グロリアの体を動かしている。
「……グロリア?」
答えはない。
部屋の中はただ静かだ。空調の低い音だけが、耳の奥に響く。
なぜ、どうして、という、中身のない問いだけが頭の中を嵐のように駆け巡った。何が起こったのか、まるで分からなかった。
いや、分からないはずはない。
ただ俺は、分かりたくないだけだ。分かっている。目が覚めた瞬間から、身体を起こした瞬間から、あるいはもっと前から分かっている。そんなことが起こっていいはずがないと必死に可能性を除外しようとしても、現状がどうしようもなく事実を突きつけてくる。
グロリアは、〈デコレート〉に対してと同様に、俺の意識のスイッチも握っていて、彼女がそうと望みさえすれば、俺を自在に眠らせることが可能だった。
そして、グロリアが許せば、今までも俺が彼女の体を代わりに動かすことも、できた。けれど、それはまったく一時的なもので、〈デコレート〉を起動する以上に彼女に負担をかける行為だったし、俺の方もグロリアの体を自分の体のように動かすことはできず、薄皮一枚、あるいはもっと分厚い着ぐるみを着込んでいるような感じが拭いきれなかったし、その上にさらに『ゲフィオン』が覆いかぶさって、すべての感覚が鈍く、重いものになっていた。
今は、違う。かつて俺が生きていた時のように、ごく自然にグロリアの体を動かしている。触れるものも、見る情景も、鼻に触れるにおいも、すべてがグロリアの体を通してギャップなく俺が受容している。
そして、ここにグロリアはいない。〈デコレート〉の気配もない。
「グロリア……ッ!」
あの声は、洗浄は完了したと言ったのだ。
その意味を俺は知っている。自我のない人工人格である〈デコレート〉が、外部からのフィードバックによって〈汚染〉され、グロリアの人格を破壊するのを防ぐために、マヴロス・フィニクスはフェイルセーフとしてのスイッチと、リセットのための洗浄技術を用意していた。そしてその〈洗浄〉は、彼女の頭の中に住み着いた残像であるこの俺を、グロリアを破壊し得る危険な存在を消し去るために行われたのだ。
だから、本来であれば〈洗浄〉されるのは、この俺のはずだった。そのはずだった。
けれども、今ここにいて、グロリアの体を動かしているのは俺だ。
であるなら、あそこで〈洗浄〉されたのは。
「…………なんてことを……」
その言葉がだれに対するものなのか、自分でも分からない。
人間の脳に別の人格を植え付け、その上で〈洗浄〉などと称してその人格を消すことに躊躇のないマヴロス・フィニクスにか。
自分が消える可能性があると知りながら、俺に身体を明け渡したグロリアにか。
それとも、そもそもあの時、言われるままにグロリアの手を取り、図々しく彼女の中に居座り続けた俺に対してか。
いずれにしろ、ことは成されてしまった。ここにはグロリアはいない。俺しかいない。〈デコレート〉の気配も、感じられなかった。
〈洗浄〉というのがどのような作業を指した言葉であるのか、グロリアも正確なところは知らされていない。けれど、そもそも〈デコレート〉に対して行われることが想定されていた作業だから、もしかしたらグロリアと一緒に――俺の代わりに、洗浄されたグロリアとともに――消されてしまったのかも知れない。
目が眩む。胸やけのように熱が喉までせり上がり、息が詰まった。こんなことが起こっていいはずがない。グロリアが俺の代わりにいなくなっていいはずがない。絶対に、許されてはならないことだ。起こってはならなかったことだ。けれど、どうしてこんなことになったのかと問う資格が、俺にはどうしようもなく、ない。俺がいなければ、こんなことにはならなかったのだ。あの時、俺が、差し伸べられた彼女の手を取りさえしなければ、こんなことにはならなかった!
「――!」
扉の開く音。
俺は身を竦め、耳をそばだてる。グロリアが目覚めたことを確認した研究チームの人間が、こちらへやって来たのかも知れない。一瞬、頭の中が真っ白になる。どうするべきか、どう振る舞うべきか、何も決められていなかった。グロリアを――洗浄した、連中。かれらに、グロリアがいなくなったことを伝え、かれらのあてが外れたことを教えて、彼女を取り戻すために協力を求めるべきか? しかし、奴らがまともに話を聞いてくれるのか分からなかった。そもそも、問答無用でグロリアを拘束して処置を施すようなものたちなのだ。それにもし、かれらに洗浄した人格を復旧する技術がなかったら――最悪、このグロリアの体を、俺ごと破棄する判断をする可能性さえある。だいいち、グロリアを殺したかも知れない奴らに協力を求めることが、俺にはできそうにない。
しかし――なら――どうやって――彼女を護り、彼女を取り戻せばいい? いや、果たして、そんなことが可能なのか。
「グロリアちゃん」
背中にかかった声に、俺は強張った体を無理に動かして、そちらへ目を向ける。どうすべきか、何も分からないまま。
だが、そこに立っていたのは、研究チームの人間ではなかった。
……というより、まったく見覚えがない男だった。
マヴロス・フィニクスの人間には違いない。青いつなぎの肩の部分には、黒い不死鳥のエンブレムが縫い付けられている。背が高い――と言うより、巨大な男で。グロリアの頭の高さからかれを見上げると、顔を視界に収めるのにも苦労するほど長身で、おまけに体格もいい。まだ若い、精悍な顔つきをしている。
その男が――鳶色の目をした、でかい男が――部屋の入口に立ち、こちらを見下ろしている。……ここは、グロリアのプライベートルームであって、ふつうは無断で入っていい場所ではない。しかもこの男は、研究員でさえない。
「……誰だ?」
「えっ」
俺の問いに、男は驚いた顔になった……と言うことは、俺の知らないグロリアの知り合いか。
それ自体は、別におかしいことではない。俺はグロリアと脳を共有していたけれども、主導権を握っているのは常にグロリアで、彼女は俺のことを把握していたがその逆はなかった。俺が眠っている間に彼女が話した相手であれば、俺が知らないということはあり得る。だが、俺の知る限り、勝手に部屋に入ってくるほど親しい奴はいなかったはずだ。
「俺のこと、覚えてないか? ええと、ほら、昨日話したばかりだろ。エイビィの話を……」
……ノイズはなかった。代わりに、背筋を――グロリアの背筋を、悪寒が這い上る。エイビィではないか、と、『ゲフィオン』に通信をよこした男。まさに俺が意識を失っている間、グロリアと話していた男だ。確か、名前は――
「……『ステラヴァッシュ』の――ダリル?」
「思い出してくれたかい?
あ、その、返事がなかったから――ただ、許可はちゃんと取ってある。つまり、君を警備部で保護する許可を」
グロリアの許可は取っていないだろうという声を、俺は続くダリルの言葉を聞いて思わず飲み込んだ。何を言ってるのか分からなかった。
グロリアは、マヴロス・フィニクスに身柄を買い取られた実験体だ。横のつながりがきわめて薄い黒い不死鳥において、小企業同士で争い食い合うことこそあれ、ほかの部署の実験体を警備部が保護するなどと言う話は――聞いたことがない。そんなことがあるなら、なぜ今さら、どうしてグロリアが消えてしまった今さらになってやって来たというのか。
しかし、その八つ当たりめいた気持ちを、俺はすぐに頭で否定する。この男がグロリアのことを知ったのはつい昨日のことなのだ。いや、しかし、だから、そもそも――警備部は、社内を積極的に調査して、実験体を保護するような真似はしていないはずだ。なら、この男はなんだ?
「とにかく、そういうことになってる。とりあえず来てくれ。君も、ここにいるよりはいくらかましなはずだ」
「……ま、待て。俺は……」
「話はあとだ。警備部のほうまで来てくれればいいから」
……このダリルという男の言いようはどこまでも怪しい。全く信用できない。信用できる部分がない。
だが、どう理屈を捏ね回そうと、心理的に抵抗があろうと、研究チームのところにいるよりははるかにましだった。恐ろしいことに。そんな場所にいることを、俺もグロリアも仕方がないと割り切っていた。それが、こんな形で。こんな時に。
「………分かった」
さんざ悩んだ後で、結局、俺はそう頷くしかなかった。
………そして、俺は今、雨がざあざあと降りしきる中、なぜかカフェの前に立っている。
見上げると、長雨ですっかり葉を落とした大樹に、ムカデ型の巨大なウォーハイドラが絡みついているのが見えた。
カフェ&メンテナンス『メル・ミリア』について、俺が知っていることは多くない。
五年前のハイドラ大隊に参加していたハイドラライダーが、戦後に引退して営み始めた店であること。それより前から行っていたウォーハイドラの整備業も継続しており、評判がいいこと。そのため、カフェの方の客にもハイドラライダーが多いこと。かつて残像領域に存在していた四つの遺跡要塞。そのひとつで行われた戦闘をモチーフにしたケーキが有名であること。……グロリアが、行きたいと言っていた店であること。
傘を差して隣に立つ大男は、空いた手を自分の胸元に当てて、なぜか俺よりもよほど緊張した面持ちでいる。
このダリル=デュルケイムという男は、確かに警備部に所属するハイドラライダーだった。もっとも、あの場にいてグロリアに通信を送ってきた以上、そこに関しては疑う余地はない。
警備部は、マヴロス・フィニクスの中でも大きな力を持つ『冠羽』企業を守護することをその使命とした、特殊な立ち位置のセクションだ。五年前の企業内戦争で部署そのものが切り捨てられかけた経緯から、内部の結束はきわめてかたく、今や裏切り者やスパイが入り込む隙さえないと言われている。『ゲフィオン』があの防衛戦に参加していたのは、ディオニウス社との戦闘経験があることを鑑みたレアなケースだった。
……それにしては、とぼけた男ではある。
詰所に連れていかれたところで、俺はダリルに自分がグロリアではないこと、彼女の頭の中に存在する残像であることをぶちまけた。
ダリルの目を誤魔化しながらグロリアを取り戻すのも、あるいはかれの目を逃れて社外に逃げ、ひとりでその方法を探すことも難しく思われた以上、迷っている場合ではなかった。むしろ、俺の言葉が信用されるかの方が怪しいと考えていたのだが、この男は〈デコレート〉の話を聞いたところで、やはりと言う顔をした。
それで、連れて来られたのがこのカフェだ。と言うのも。
「……本当に、こんなところに『偽りの幸運』がいるのか」
「ああ、エイビィならたぶん、あんたたちのことも何か分かるはずだ。……よし、入ろう」
ダリルは俺の話を聞いて、俺たちのこの状況はエイビィに似ていると言った。
その意味を確認する前にダリルは移動用のDRを借り出して俺をここに連れてきた。つまり、相変わらずこの男が何を考えているのか、まったく分からない。そもそもかれがグロリアを警備部に連れ出そうとした理由も、本当に正当に許可を取ったのかも確認できていない。
しかし、俺は今のところ、この男に頼るしかなかった。そして実際、この男のおかげで状況は動いている。『偽りの幸運』であれば――〈デコレート〉に似ているというかれであれば、何かわかるかも知れないと言うのも確かだ。ダリルや俺の感覚が正しければ、エイビィは恐らく――
ダリルが深呼吸をして、意を決したようにカフェの扉を開く。俺は顎を引いて、そのあとに続いた。
……グロリアは、迎えに来てと言った。なら、その方法はどこかにあるはずだ。
この長雨にもかかわらず、店の中は賑わっていた。
ショーケースには色とりどりのケーキが並び、奥のカフェスペースの席も多くが埋まっている。北の遺跡への出撃と出撃の間の日のためか、ハイドラライダーらしい姿も見られた。と言っても、パイロットスーツを着ているわけではなく、そんなにおいがするだけだ。
「エイビィ!」
ダリルが上げた声に、俺はぎくりと身を竦ませる。
しかし、迷いなくカフェスペースの奥へ歩いていくかれの背の向こうに目をやって、『エイビィ』の姿を探しても、すぐに見つけることはできなかった。『ライズラック』の姿は記憶に焼き付いていても、そのハイドラライダーの顔までは分からない。男か女かさえ知らないのだ。ハイドラライダーらしい人間は何人もいるけれど、その誰が『エイビィ』なのかは、まったく判断が付かなかった。
「いらっしゃいませ、お客様。カフェ&メンテナンス『メル・ミリア』へようこそ」
わざとらしいまでの愛想笑いは、すぐにしかめっ面に変わる。
結局、ダリルの声に反応して立ち上がり、こちらへ向かってきたのは、客の中のだれでもなかった。
黒いエプロンをつけた、カフェの店員だ。ダリルほどではないが相当に長身の男で、ダリルと同じか少し上ぐらいの年齢に見えるが、髪はすっかり白くなっている。
「さっきのあれ、何? 仕事中なんだけれど。アポだって取りようってものがあるわ」
「悪い。急いでいたんだ。その……」
口ごもり、ダリルがこちらを振り返った。男の胡乱な目もまた、こちらへ向けられる。
『ライズラック』のハイドラライダーは、五年前に引退したのだと、グロリアは言っていた。
「……『
「どうもここのところ、懐かしい名前で呼ばれるわね。お嬢さん、昔のハイドラライダーに興味が?」
首を傾げて、男――エイビィはこちらに空いている席を勧めてくる。俺が大人しく腰かけるのを横目でちらりと見やって、男はそのままカウンターの方へ向かった。
「待ってくれ、あんたに話が」
「『あんた』ですって――」
脚を止め、エイビィはこちらを振り返った。その顔には、面白がるような笑みが浮かんでいる。
「お茶の一杯もなしに話を聞くこともないでしょう? それぐらいは用意するわ。
ケーキが食べたいなら選んでいいわよ。それぐらいはこの男が払うだろうし」
言って、さっさとバックヤードの方へ引っ込んでいく。
俺は手持無沙汰になって、立ったままのダリルの方を振り返った。ダリルは俺と視線を合わせるように軽く屈んで見せると、小さく頷いて、
「ここのケーキはどれも美味しいけど、俺はチョコレートの奴が好き……」
「そうじゃない。あれが本当に『偽りの幸運』なのか?」
「昔はな。今はここの店員だ」
エイビィが戻ってくるまで、大した時間はかからなかった。ティーポットとカップが載せられたトレーを持って、こちらへ戻ってくる。
そこで、ようやく俺はかれが足を引きずるような動きをしていることに気がついた。正確には、それを慎重に隠している。だが、ぎこちなさは完全に消せるものではない。
「……怪我を?」
「ええ、無理な制動に撃墜が重なって、神経と内臓がぐちゃぐちゃになってね。
命は助かったけれど、体は前よりはうまく動かなくなった。少なくとも、『ライズラック』のような高速機に乗るのはもう難しい……」
紅茶の注がれたカップを俺の目の前に置いて、エイビィは淡々と言葉を紡ぐ。何度も、同じことをいろんな人間に説明しているのだろうと思われた。
とっさに、反応しかねる。……俺のように撃墜されて死ぬハイドラライダーも大勢いるが、一命をとりとめても負傷によって二度とハイドラに乗れない体になる人間も少なくはない。
それを、死んだ方がましだと思うほどみじめに感じるものがいることを知っている。この男は、表面上穏やかには見えるものの、内心そう考えていないという保証はなかった。たとえ、顔を上げた男の口元が、笑みの形に弧を描いたとしてもだ。
「もっとも、そうでなくてもハイドラに乗るつもりはないのだけれどね。
それで、あたしに何の用? お嬢さん。今のあたしで手助けになれるかしら」
「ハイドラライダー用の人工人格について知っているか」
はっきりと分かるほど、エイビィの顔がひきつった。
からかうようだった表情が剥がれ落ち、信じられないものを見る目でこちらを睨み付ける。
……やはり、この男も〈デコレート〉のような人工人格を焼き付けられたハイドラライダーなのだ。
「あんたに状況が似ている、と言われた。
俺は、この体の中にいる残像だ。彼女には、それとは別に〈デコレート〉と言う人格がインストールされていた」
「……あなたのこと、やっぱり殺しておけばよかったわね」
エイビィの言葉に、立ちっぱなしのダリルがきょとんとした顔で目を瞬かせる。
「人のプライベートな情報を、断りも入れずにべらべら話さないで。これ、言ってる意味分かる?」
「それは、いや、でも……」
「似ているというのは、この男の大雑把な感覚だわ……頭の中の残像ですって?」
渋面で吐き捨て、エイビィはカップの把手に手をかけた。紅茶に小さなさざなみが立つ。
「その体の元の持ち主は?」
「目を覚まさない。〈デコレート〉……人工人格もだ。
研究チームは、俺たちを彼女の体から〈洗浄〉するつもりだった。だが、彼女がなにかをして、俺だけがここに残っている。
彼女を取り戻したい。心当たりでもいい。なにか分からないか」
返事はなかった。片手で顔を押さえ、エイビィは大きく息を吐き出す。
「…………あなた。ダリル=デュルケイム」
「俺か?」
「あなた、一体どういう……つもりで、どういう気持ちで、この子をここに連れてきたの」
問いに、ダリルは目を瞬かせた。
「放っておけないだろ? 助けられるなら助けたい。何もなければ、かれらは上手くいってたんだ」
「ああ、忌々しいったら……」
唸るように言うと、エイビィはテーブルを叩くような勢いで手を置き、
「分かった。詳しくあなたたちの話を聞かせてちょうだい。とにかく、聞くだけは聞いてあげる。あなた、名前は?」
「フィリップ=ファイヤーストーン。
彼女の話をする前に……まずは、俺の話をさせて欲しい」
砂糖もミルクも入っていない冷めた紅茶は、グロリアの舌にはひどく苦かった。
頭痛をごまかすように額を押さえて俯き、エイビィは俺の対面に座ったまま、目を伏せて黙りこくっている。話し始める前から苦虫を噛み潰したようだった表情は、今では幾分かは落ち着いていたけれども、話の途中からはずっとこの調子で、相槌さえ打たなくなった。
俺はカップを置いて、背後のダリルを振り返る。かれもまたどこか憮然とした顔をしていて、俺の視線に気がついた途端に、所在なさげに視線を彷徨わせた。先程までの緊張感のなさがうそのようだった。『メル・ミリア』の賑わいの中、この席だけが取り残されたような空気になっている。
「…………なにか、」
いい加減沈黙に耐えかねて、俺はエイビィに向き直って口を開く。
「ちょっとしたことで、いいんだ。ほんの少しでもいい、なにかきっかけが欲しいんだ。なにか……ないか」
エイビィの前に置かれたカップに注がれた紅茶は、結局少しも減ってはいない。目を開き、そこへじっと視線を向けたエイビィは、なおもしばらく口を噤んでいたが、
「――『もし、あの時』って考えている?」
吐き出された問いは、またも俺に対するものではなかった。腕をおろし、ダリルを見上げたエイビィの口元には不意に笑みが浮かんだが、いい笑顔ではない。どこか自暴自棄な、無謀な相手に挑みかかるような顔だ。
「そう思うのは、あんたの方だろう……いや」
頭上から降りかかるダリルの声は、どこか詰まってひどく疲弊している。
「そうじゃないな。俺たちじゃないんだな、そう思うのは」
「〈洗浄〉も〈スイッチ〉も、五年前にはなかった技術だわ。
あなたたちの研究チームが優秀だったのか、それともどこからかギフトがあったのかどうかは分からないけれど、とにかくあたしたちとは事情が違う――そうね、確かにあなたたちは安定していた。
それでも、正気とは思えないけれどね、そのグロリアという子。人工人格を焼き付けられた段階で相当のストレスであったはずなのに、おまけにもう一人抱え込むなんて」
「それは……」
とっさに反論しかけて、俺は口を噤んだ。
研究チームは、〈デコレート〉が外部やグロリアからのフィードバックによって〈汚染〉され、グロリアの人格が破壊されることを懸念していた。実際、グロリア以外に人工人格を転写された被検体の中には、〈デコレート〉が自我を持っていない状態でも情報負荷に耐え切れず、〈洗浄〉前に自死をはかったものもいたと聞く。
グロリアはこのケースで初めての、そして唯一の成功例だが、なぜ彼女が安定しているのかは研究チームも解明できていなかった。そして、グロリア本人もその理由が分からないままに俺を拾い上げた。
考えるまでもなく、人格のない〈デコレート〉などよりも、俺の方がよほどグロリアの負荷となっていたはずだ。だからこそ、俺の存在に気がついた研究チームは、グロリアの〈洗浄〉に踏み切ったのだから。
「それはあなたにしても同じことよ、フィリップ=ファイヤーストーン。いえ、でも――本当にあたしたちとは違うのね、たぶん。
少なくともあなたは、その子の頭を完全に覗けていたというわけではないようだもの」
そこまで言ったところで、エイビィはカップを持ち上げ、ようやく紅茶に口をつける。冷め切った紅茶をほとんど一気に飲み下してから、かれは大きくため息をつき、
「グロリアは霊障に高い適性があったという話だったわね。もしかしたら、それが関係しているのかも知れない……嫌になっちゃうけどね」
「……」
「そんな顔をしなくても分かっているわ。でも、もちろんはっきりしたことは言えないの。あたしの言葉はほとんどアテにならないと思っていい。
断言できるのは、もしその〈洗浄〉によってグロリアや人工人格が完全に削除されてしまったのだとすれば、この話はこれでおしまい、どうしようもない、と言うことだけ――あなたって、ほんとに今にも死んでしまいそうね。それでよく人の頭に居座ろうなんて思えたものだわ」
エイビィはそう言うと、身を乗り出して俺の顔を覗き込んだ。ずいぶん、底意地の悪い表情をしている。とは言え、さっきのあの笑い方よりはいやな感じはしない。
「さて、あたしがこれから言うのは、彼女が消えていなければ……という前提に立っての話。だから、少し都合がよすぎる仮定の話なのだけれど」
「それでもいい。頼む」
俺の言葉に、エイビィは軽く肩を竦めた。笑みを消し、背もたれに身体を軽く預けて、
「あなたたちの境界線を探しなさい」
「境界線?」
「そう、見つけて、それを取り払えばいい。そうすれば、あなたはグロリアを取り戻せるはずよ。
もっとも、あたしはそんなことをやろうと思ったことはないし……それであなたたちがどうなるかは分からないけれどね」
その言葉の意味を――それ以上問いかけられず、俺は唇を引き結び、エイビィの青ざめた顔を見上げる。
そこに、どうにかして『ライズラック』のあの姿を――その操縦棺に乗っていたかれの姿を重ね、思い描こうとしたが、どうしてもうまくはいかなかった。
雨は依然、窓を叩き続けている。
テーブルの対面には、ダリルが神妙な顔をして腰かけていた。
仕事に戻る、と言ってエイビィはこの席を早々に立ったが、結局は俺たちが来る前と同じ位置、店の奥にぽつんとひとつ置かれた椅子に腰かけて、文庫本をめくっている。真面目に店員の仕事をしているようには見えないのだが、俺の話を聞くつもりもないらしい。
「その……悪い、あんまり助けになれなくて……」
「いや、あの男の言っていることはなんとなく分かる」
俺は自分のぶんのカップを持ち上げて、残った紅茶に自分の――グロリアの顔を映した。俺らしい陰鬱な表情は、グロリアの顔立ちにはどうもそぐわず、違和感がある。
けれども、いくら違和感があろうとこれは今は〈俺〉だ。彼女が手を差し伸べたあの時から、俺は彼女の頭の中にいた。こんな状態になるまで俺は彼女を外から眺めているような感覚でいたけれども、それは変わらない。俺はグロリアと同じように、グロリアの脳の中の住人だった。
残像が人間の脳の中に入り込み、焼き付くということは、それ以上変化のない存在であったはずの死者が、再び思考し、学び始めるということだ――しかしそうなった時、元の人格と残像の区別は、その境界線は、いったい誰がどこに引くのか。
俺たちの場合、それはグロリアが引いた線だったのだろう。エイビィは彼女がそれを引けた理由を、霊障への適性の高さに求めたようだ。霊障は、人間の精神に深く影響を及ぼすからだ。それが残像相手だとしても。
その境界線がどこにあるのか、俺には分からないが――研究チームはどうだったのだろう。
特定の記憶を狙って消したわけではないのは明らかだ。だが、違うという区別自体は付けていたはずだ。そうでなくては、グロリアが消えて俺がいる理由が説明できない。
「俺とグロリア、〈デコレート〉を分ける境界線は、確かにあるはずなんだ。
でも、その境界線がもしなければ――その区別がなければ、俺はグロリアの記憶を思い出せるかも知れない。たぶん、エイビィが言ってたのはそういうことだ」
「……『人間の脳は機械じゃない。容易に書き換えや上書きができるようなものじゃない』」
ダリルは唸るように言って、エイビィの方をちらりと見た。
「知り合いが言ってたんだ。実際そうだった。彼女は本当は、その逆の方がよかったんだろうけど……
でも、他人と自分との境目を消すことだって、容易にできる話とは思えないぜ。いや、できたとして、それは全然、まともな方法じゃないだろう」
「まともじゃないのはもとからだ……」
俺は言って、カップに残った紅茶を呷った。
グロリアは俺の残像を受け容れ、自分の頭の中にフィリップ=ファイヤーストーンの居場所を作ってくれた。そのことを感謝する気持ちに変わりはない。俺は俺として、グロリアとは別の人格として存在しているつもりだし、それは間違いのないことだ。
けれど、そのありようはいびつだったし、その歪みは今こうしてここに表出してしまった。少なくとも彼女は、自分の頭の中の死者のために身を投げ出すべきではなかった。
「……そんなことはない、と彼女は言うだろうな」
俺のつぶやきに、ダリルが訝しげな顔になる。グロリアは俺の頭の中を読み解き、口に出さなくてもその考えを先回りすることがあったが、ダリルには俺の考えが伝わるはずもない。俺は顔を上げて、ダリルを見上げた。
「グロリアは『迎えに来て』と言った。彼女が想定していたのも、もしかしたらこの方法だったのかも知れない。
でも、確かにまともな手段じゃない。境界線を取り払った時、俺たちは今度こそグロリアを破壊してしまうかも知れない」
「なら、」
「方法はまだある。あんたにもう一カ所だけ、付き合って欲しいところがあるんだ」
「そいつは構わないけど――どこだ?」
恐れが、滲みだすように全身を浸す。
〈デコレート〉に対する嫌悪感は、『ライズラック』に対する死のイメージは、幾分か和らいでいる。エイビィを見ることで、あれが俺の命を奪う死そのものではなくて、操縦棺に人間を載せていただけのウォーハイドラであったことが、頭ではなく感情で納得がいったのだろう。
けれど、俺が恐れて避けていたものは、まだひとつこの世に残っている。
「ディオニウス社だ。ここが俺の居場所ではないことを、グロリアに分かってもらいに行く」
……それが、一番良い選択のはずだ。