#4 洗浄

 『ゲフィオン』の指先が伸ばされ、装甲を押し砕く。
 跳躍の頂点にいた軽量の逆関節機は、その場でもんどりうつと煙を上げながら地面へ向けて落下していった。
 立ち上る煙は戦場のウォーハイドラたちによる噴霧と混ざり合い、あっという間に区別が付けられなくなる。
「もう、ほとんど警備部が片付けてくれているみたいだな」
「あれって、ワニって奴?」
 グロリアが呟くと同時に、全天周囲モニタの一部に拡大された静止画像が貼りつけられた。今しがた撃墜したハイドラの肩口に取りつけられたエンブレムは、確かに、紐で括りつけられた炸薬を口に咥えた、青いワニ――に見える。
「……ディオニウス社のエンブレムじゃないな」
「ほかの会社の機体ってこと? そりゃ、相手があそこばっかりとは限らないけど」
 マヴロス・フィニクスとディオニウス社の企業間闘争は、長期戦の様相を呈していた。
 こちらが北とそれ以外、両方に力を割いているためにリソースを注ぎきれないことも影響しているが、ディオニウス社が不気味なほどに善戦しているというべきだろう。最初の襲撃以来、好戦的にこちらの施設を何度も襲撃しており、力尽きる様子もない。
 明確なひとつの頭を持たない黒い不死鳥――際限なく膨張しようとするこの巨大な複合企業の中にあって、より頭部に近い『冠羽』企業群が集まるこの敷地は、警備部によって堅く守られている。そのため、今回もこの周囲には目立った被害は出ていないものの、それ以外の工業プラントやその他施設に関してはディオニウス社に押さえられた場所もあった。
 警備部がこの敷地を離れずに上層部を苛立たせ、マヴロス・フィニクス側から上手く打って出られない状況が続いているのを考えても、ディオニウス社がいったいどこから何度も襲撃をかけるような戦力をかき集めているのか、とは思っていたのだが――確かに、ほかの企業と連帯していると考えれば不思議も何もない。
 五年前と今で、あらゆる状況が動いている。いったん平和路線に立ち、黒い不死鳥全体も大きく力を削がれているのに、五年前と同じ感覚で他企業を食い潰しに行って、手痛いしっぺ返しを食らっている、と言ったところか。
 しかし、前回は例の小型ハイドラにすり抜けられたとは言え、警備部の守り自体は申し分のないものだ。要請を受けて後から駆け付けた『ゲフィオン』の仕事は、もうほとんど残っていない。
「……んっ。これ、どういうことか分かる? フィリップ」
「本隊は退き始めたが、そういう空気を出してない奴らがいるな。殿を務めるって風でもない……」
 シートに浅く腰掛け、レーダー図を見上げて怪訝な声を上げるグロリアに、俺は頷いてみせる。
 と、頭の隅がざわつく気配とともに、〈デコレート〉が予測を送ってきた。やはり、残る連中は撤退を援護するわけでもなく、このまま継戦する見込みだ。
「……たぶん、相手はディオニウス社だけじゃなく、複数の企業の連合だ。それが原因じゃないか」
「足並み揃ってない? 土壇場で意見が割れたのかしら?」
「分からない……でも、逃げる連中はともかく、居座られるのを見逃すわけにはいかない」
「それじゃ、『ゲフィオン』にももう少し仕事ができるかな」
「ああ」
 応えながらも、俺はその居残った部隊の中に、あのハイドラがいないことを願っている。
 あれに乗っているハイドラライダーが何者であれ、『ゲフィオン』の指先であのハイドラに触れることはもう避けたかった。
 何者であれ――いや、俺はすでに、その正体について想像を巡らせ始めている。だからこそ、もう関わり合いにはなりたくないのだ。
「うん、やっぱ見通しはいい……」
 ある程度、ハイドラ同士の戦闘が行われた後だ。噴霧によって辺りに霧が満ち、電磁波の強度も高まっているならば、もうここは『ゲフィオン』にとってもそれなりに動きやすいフィールドだ。先程ハイドラを落とした時の〈指先〉の手応えも、北にいる時と遜色ないほど確かなものだった。
 うっすらとかかった靄の中を、『ゲフィオン』は一歩踏み出した。
 その脚は、ふたたびグロリアのために重逆関節になっている。ほかのパーツもそれに合わせ、燃費もウェイトも重いものに戻していた。グロリアはもちろんのこと、やはり『ゲフィオン』もこちらの方が安定するようだ。へそを曲げることもない。
 戦場に『ゲフィオン』が歌声を響かせ、周囲へ向けて指先を伸ばし始める。
 その感覚は、敵機を圧し潰すためばかりではなく、味方の存在を確かめるためにも張り巡らされている。もっとも、適性のあるものからすれば、別のハイドラライダーに触られることは、それだけで不快な気分になることもあるらしいが。
「――よし、触った!」
 身を乗り出し、グロリアは小さく叫んだ。『ゲフィオン』の引き起こした霊障が装甲を破砕するその感覚に、あの突き抜けるような違和感は、ない。あのハイドラではない。
 それでもなお、首筋が冷えるような緊張を消せないままでいた。レーダー上には、あのハイドラらしき反応が見つけられないのにも関わらず。
「グロリア、次を……」
「心配しないで、フィリップ。触れば分かるはずだから」
「……すまない」
 その寒気がグロリアに伝わらないように、と思っていたのだが、どうしても筒抜けだ。俺はため息をついて、かぶりを振る。〈デコレート〉が無神経に、残った機体を破壊するルートを提示してくるのがありがたくさえあった。
「大丈夫、あたしだってフィリップに似てるライダーを潰したくないもの」
 そう言って口元に浮かべてみせた笑みを、グロリアはすぐに引っ込める。
 『ゲフィオン』の伸ばした指先がハイドラの表面を撫ぜ、そのまますり抜けていった。カメラではまだ捉えられていないが、レーダー上の相手の反応が、まっすぐこちらへ向かってくる。
「格闘機でしょう、撃って来るのッ?」
 シートの背もたれに張り付くように身を引いて、グロリアは鋭く声を上げた。間を置かず、『ゲフィオン』の周りで鬼火のように炎が舞い踊る。恐らく焼夷弾だろう。『ゲフィオン』に当てられないということは、この霧のせいもあるだろうが、そもそも射撃の精度がそれほど高くない。
連動だ、近づいてくるってことは……!」
「本命はそっちってことか! でも、燃えるのだって嫌よ!」
 グロリアが叫んでアームカバーを押し込むうちに、霧にけぶる視界の中に黄色い装甲のハイドラが飛び込んでくる。
 『ゲフィオン』よりもだいぶ上背の小さい、いわゆる中車輪の機体だ。腕に備え付けられているのは焼夷機関砲だけで、格闘武器は持っていない。
 その何も持たない片腕がこちらへ向け、ただ指先で触れようとでも言うように伸ばされる。
「――躱せない!」
 瞬間、視界を閃光が灼いた。
 肉薄してきた敵機と『ゲフィオン』の間に、無数の雷球が発生したのだ。電光が弾け、硬いものを叩いたような鋭い音と、『ゲフィオン』の装甲が砕かれる音が連続する。
 雷球領域とはその名の通りに、自分と相手の間に高電圧を展開し攻撃する、短射程の格闘武器である。
 実体剣よりもなお距離を詰めねばならない代わり、その範囲は読みづらく、弾数も多い。中のハイドラライダーまでが焼かれるようなことはそうそうないのだが、液化した霧の流れるウォーハイドラの駆動系には手痛いダメージとなる。
「っまだまだ!」
 操縦棺の中で鳴り響くアラームによって、グロリアの叫び声もだいぶ聞こえづらくなっている。
 〈デコレート〉の指示に従い、『ゲフィオン』が煙を上げながら、その場を大きく飛びずさった。――通常、飛行ユニットでも積んでいない限り、車輪の機体は上空まで追って来られない。
 砲口――焼夷機関砲――が跳ね上がり、宙空の『ゲフィオン』へ向けられる。
 霧の中、炎が花のように咲いて舞ったが、やはりこちらを捉えきれていない。
 再び伸ばした指先によって、中車輪の黄色い装甲に入っていたひびが、カメラで分かるほどに大きく広がる。だが、まだだ。
「着地、狙われる!?」
 装甲の破片を周囲にばら撒きながら、黄色いハイドラが再びこちらに迫った。もう一発、雷球領域を食らってもまだ墜ちはしないはずだが、このままでは分が悪い。
 と。
 突然、黄色いハイドラが横っ飛びに吹き飛ばされる。
 一瞬、ぽかんとした顔をしたグロリアが、すぐさまアームカバーを押し込み、そちらへ『ゲフィオン』の指先を伸ばした。
 『ゲフィオン』が高らかに霧の中へ歌声を響かせ、今度こそ相手を過たず圧し砕く。その装甲は、指先が触れる前に、すでに銃弾によって深く穿たれていた。それが、『ゲフィオン』を通じて伝わってくる。
「……警備部のハイドラだ。この重多脚機」
「助けてもらっちゃったわね。お礼をしなきゃ」
 レーダー図には、警備部のハイドラから送られてきた、敵味方の識別入りのアイコンが表示されていた。横合いから敵機を狙撃してくれたのは、額に星のついた、牛のアイコンだ。
《――、こちら、『ステラヴァッシュ』……!》
 回線を開いた途端、向こうのハイドラライダーの慌てふためいた声が聞こえてくる。
 グロリアが目を瞬かせ、応えようとする。だが、その前に。
《なあ、もしかして、エイビィなのか!? あんた、どうして……》
 その言葉に、頭を殴られたような衝撃が走った。ぐるりと視界が回転したかと思うと、あっという間に闇へ堕ちていく。
「フィリップ!? 嘘、やだッ……」
 グロリアの悲鳴めいた声だけは、辛うじて聞き取れた。
 だが、それきりだ。後には、ただ暗闇が広がっている。


 ザッザザザ……ザッザザ……
 嵐の中にいるようなすさまじいノイズが、ずっと耳元でがなり立て続けている。
 目を凝らしても何も見えず、瞼の裏と大差のない乱れた闇が広がっているだけだ。
 いや、そもそも――体の感覚が全くおぼろげで、自分の目がしっかりとそこについているのかさえ定かではない。
 喉を締め上げられるような息苦しさや、痛みもなく指先から細切れにされるようなうそ寒い感覚が輪郭を留めさせてはくれているけれど、それも辛うじて、と言ったところだ。わずかな体感から腕を持ち上げて目の前に突き出してみても何も見えはしないし、指先に神経が通っている感覚だって本当にかすかなもので、目と同様、本当に両腕がそこにくっついているのか怪しく思えた。
 ――――いや、すべて、嘘だ。
 本当のところ、周りと自分のあいだに境目があるような気がしているだけで、そんなものはとっくのとうに失われていることは分かっていた。待っている人がいるのにもかかわらず、そこにもう決して帰ることができないことを知っていた。
 ただノイズの音だけが耳元で、絶えることなく、聞こえ続けていた。
 それは、己の外縁を失ってなお、自分のものではないといまだ感じられる、無数の異質な音だった。決して聞き取れない言葉で紡がれるメロディー、聞いたこともない商品や企業のコマーシャル、破綻した話を繰り返すラジオのパーソナリティー……
 そうして耳を澄ませていると、すっかり霧の中に溶けて消えてしまっていたかと思われた己のかたちがぼんやりと手元に戻ってきて、気がつくといつもノイズは操縦棺の中の液化した霧の流れる音と混じり合って、グリップを握りしめている。
 自分が何者かも分からないのに、操縦桿を倒した時のハイドラからのレスポンスを感じ取りながら、いつも通りだななどと胸のうちでうそぶいて、どこともなく駆けずり回っていた。頭の裏側にだれかのことを思い浮かべながら、そこへ帰らなければと思いながらも、自分では止めることができず繰り返し繰り返し繰り返し、何のために戦い続けているのかもさっぱり分からないまま、あの深い霧の中、腕を曲げて顔の前に持ってきた指先さえ見えないような、目も眩むようなまばゆい闇の中――
 そしてその果てに、あの白いハイドラが、


 グロリアは体を丸めて膝を抱え、こちらに背を向けて椅子の上に腰かけていた。
 俺がその姿を認めた途端に、弾かれたように床の上に降りて立ち上がり、慌ててこちらを振り返る。その顔はすっかり青ざめて、目元には涙の痕がはっきりと残っており、俺を視界に収めるとまた見る見るうちに雫が盛り上がってくるのが見えた。
「……グロリア」
「謝らなくていい」
 グロリアはぴしゃりと言って俺の言葉を遮ると、眼鏡をちょっと持ち上げて涙を拭う。だが、すぐに眉尻を下げて、
「……もう、目が覚めないかと思った……」
 両手で顔を覆うと、寄る辺ない声でつぶやき、そのまま押し黙ってしまった。俺はどう声をかけていいやら分からず、その場に立ち尽くすしかない。……また、心配をかけてしまった。
「もう大丈夫だ。どれぐらい気絶していた?」
「二時間ぐらい。戦闘は問題なかったわ、あのまま収束した」
 鼻にかかった声で応えた後、グロリアは深呼吸をして、ようやく顔を上げる。
「何があったか聞いてもいい? また、気を失ったりしないよね?」
「たぶん。……エイビィのことだな」
 その名を舌の上に載せた瞬間、頭の中をひどいノイズが走り抜ける。だが、意識を失うほどではない。
 俺は頭を押さえて部屋の壁にもたれかかると、小さく息をついた。と言っても、それらの行為は俺にとってほとんど意味のないものだ。昔の感覚を、引きずっているに過ぎない行い。
 グロリアのプライベート・ルームだった。ぬいぐるみに小物に洋服と、彼女の私物にあふれた年相応の少女の部屋だ。扉を一枚隔てた向こうは、マヴロス・フィニクスの研究施設らしい、無機質な廊下が通っているのだけれど、この部屋ばかりはグロリアの自由にしてよいことになっていて、恐らくはここがこの建物の中で一番、人間らしい部屋だろう。
 入るのは初めてではないが、いつ来てもどうも気が引ける。正直なところすぐにでも場所を移したかったが、ほかの場所でするような話でもない。俺は壁から背を離し、グロリアの目の周りの、赤くなった部分へ目を向ける。
「……まず、グロリアはエイビィが何者かを知っているのか?」
「さっきの人に教えてもらった」
 俺が意識を失う前に通信を投げてきた、『ステラヴァッシュ』のハイドラライダーのことだろう。俺は、グロリアがどんな態度で彼に接したのか想像を巡らせて、小さく首を竦める。
のハイドラ大隊に参加していたハイドラライダーで、『ライズラック』っていう軽くて白い機体に乗っていたんでしょう」
 『偽りの幸運ライズラック』――そうだ。あの白い、ごく小さなウォーハイドラ。エイビィはまさに、それに乗っていたハイドラライダーだった。
 今もまだ、頭の裏側にこびりついている。こちらへ凄まじい速度で迫る、スズメバチのようなを、そして、その瞬間の恐怖。
「『ゲフィオン』とは全ッ然違う機体なのに、何でそんな風に思ったのか聞いたら、『何となく』って。意味わかんなかった。
 しかもその人、うちの社員だったっていうけど、とっくに引退してるのよ!」
「引退?」
 吐き捨てるようなグロリアの言葉に、俺は思わず問い返す。
 ――『ライズラック』のあの喰らいつくような鋭い動きを思い出すだけで、身が竦む思いがする。
 獲物を見つけ、こちらへ迫るあのウォーハイドラは、歓喜の声を上げたように思えた。……乗り込んでいるハイドラライダーも、また。ハイドラを降りたなどとは、にわかに信じがたいことだ。
「そう。ダリル――その警備部のハイドラライダー、『ゲフィオン』とは全然違うハイドラの、引退したハイドラライダーとあたしを取り違えたってこと。
 しかも彼、エイビィと知り合いなの! 間違えるなんてことある?」
「…………」
「フィリップ?」
 憤懣やるかたないと言った様子だったグロリアは、俺の顔を見上げてふと怪訝な顔になる。
 俺は、『ゲフィオン』の操縦棺の中でいつも感じている、あのいやな手応えを、頭の中で再び追っていた。その忌避感がいったいどこから来るものなのかを、今まで深く考えてみようとしたことはなかった。
 だが、一度気が付いてしまえば、どうして思い至らなかったのだろうかとさえ思う。
 あの、体にこびりついていた嫌悪感、恐怖心が、再び呼び起こされるかのような違和感。かれが投げてよこす攻撃的な指示。いや、そんな表に分かりやすく現れた類似点などではなく、けれども確かに、かれは『ライズラック』のハイドラライダーに似ているのだ。
「〈デコレート〉だ」
「〈デコレート〉?」
 グロリアは眉根を寄せた。
 〈デコレート〉が起動している時の彼女は、〈デコレート〉の持つ演算能力や知識を手に入れる。人工人格には自我と呼べるようなものは存在せず、『ゲフィオン』を動かしているのはあくまでグロリアだが、その背後にいるものの存在を――ハイドラを通じて嗅ぎ取るということが、もしかしたらあり得るのかも知れなかった。
「……でも、それっておかしいよ。エイビィって人、確かにマヴロス・フィニクスのハイドラライダーだったらしいけど、〈デコレート〉の成功例はあたしだけ。
 それに、五年も前に引退してるんだよ」
「分からない。けれど、確かにダリルという男が言っているのと同じようなことを俺も感じている。
 外から『ゲフィオン』を見た時に、重ね合わせるかどうかまでは言い切れないが……グロリアを通じて〈デコレート〉と連動している時にははっきりと分かる。あの『ライズラック』のハイドラライダーと同じものを、〈デコレート〉には感じるんだ」
「それって、あの飛脚機がフィリップに似ているみたいに?」
「……そうだ」
 再び、目の前をノイズが走り抜けた。
 木々の合間を縫うように、あるいは靄を切り裂くように飛ぶ、名も知れぬあの飛脚機。『ゲフィオン』の指先から感じた手応えは、〈デコレート〉と『偽りの幸運ライズラック』との類似の比ではないほどに俺に近い。
 そこへ考えを巡らせる時、頭の中が懼れに支配されるのを感じる。それは、エイビィの名前を耳にした時のような衝撃―――過去の恐怖が蘇る感覚――ではなくて、想像力から来る、じわりと鮮血のように滲みだす、新鮮な恐れだった。
 それが、グロリアに伝わっているのかどうか。彼女はぎゅっとしかめ面しい表情のまま、顔を俯かせている。
「……フィリップは、エイビィに殺されたの?」
 押し殺すような問いに、俺は唇を引き結んだ。目覚める前に、何も見えない、深い――どこまでも白く目を眩ませる霧の中にいたことを思い出していた。それを切り裂くようにしてこちらへ迫るあの白いウォーハイドラ。『ライズラック』は俺にとって、まごうことなく明確な死のイメージだ。
 だが、それは間違っている
「名前を聞いた時、フィリップの頭の中が真っ白になって、あたしの体まで強張るのを感じた。
 だから、フィリップを殺したのはエイビィなんだと思っていた。……でも、違うのね?」
「俺が『偽りの幸運』に撃墜されたのは、もっとずっと後の話だ。あれは、むしろ……」
 言葉を遮るように。
 物々しい足音が、部屋の中に響き渡った。


 全員の顔に見覚えがあった。
 マヴロス・フィニクスの研究員たち。もっと言えば、グロリアに〈デコレート〉を入れ込んだ、『冠羽』の研究チームの人間たちである。
 ……この部屋はグロリアのプライベートルームだ。彼女がマヴロス・フィニクスにその身柄を押さえられた被験体であるからと言って、通常ならば許可もなしにずかずかと入り込んでくるような場所ではない。かれらはグロリアのコンディションにそれなりに気を払っており、その一環として彼女を最低限、人間扱いすることに努めている。……通常ならば。
 いざとなればこうして私室に踏み入ることはできる。それは、グロリアも俺も理解していたことだ。だが、それが今になるとは思っていなかった。いずれ来るとも、もしかしたら思っていなかったのかも知れない。
「……いったい、何の用ですか? こんなところまで来て……」
「君には〈汚染〉が認められている」
 それがあまりにも甘い目測だったことを、その言葉で痛感させられる。
 そもそもが、危うい橋を渡っている自覚はあった。しかし、咎め立てされてこなかったことで、警戒心が緩んでいなかったと言えば嘘になる。本来であれば野放しにされていることが不思議なぐらいな状態だと、頭から抜けて落ちていたのだ。だから、こういう形になってしまった。
「洗浄の必要があるということだ、グロリア=グラスロード」
 淡々と告げる研究員の顔には、表情らしい表情が浮かんではいなかったが、対照的にグロリアの顔は見る見るうちに強張っていく。言葉もなく唇がわななき、泳いだ目がわずかだけ俺を捉えた。
 俺は、その、こちらへ訴えかけるような目に、適切な言葉でもって答えることができない。彼女の期待に応えることができない。
 ただ、制止する前にグロリアは動いていた。身を屈め、研究員たちを何とか躱して、部屋を出て行こうとする。
 その試みがどれほど無謀なものかは、誰が見ても明らかだった。彼女はあっさりと捕まり、取り押さえられて、その場に跪かせられる。
 俺はそれを見ているだけだ。
「――フィリップッ!」
 グロリアが必死の形相でこちらを見た。だが、部屋に押し入ってきた研究員たちの誰も、グロリアの視線を追い、俺に目を向けることはない。いや、誰も、俺がここにいることに気がついてはいない。
 当然だ。彼女以外の誰も、俺のことを見ることはできない。俺はもはや、電磁波の中に焼き付いた思念ですらなく。グロリアの頭の中にいるだけの存在なのだから。
 そして、それももう終わりだ。グロリアを〈汚染〉しているのは俺だ。
「そんなことないッ!」
 口にも出さない俺の考えを読み取って、グロリアが叫び声を上げる。
「そんなはずない、そんなわけない、フィリップはあたしの相棒なの!
 汚染なんかじゃない、あたしに、絶対に、必要なんだから……」
 研究員のひとりが、薬液の入った注射器を取り出した。グロリアが息を飲み、何とか逃れようと首を振るが、大人の男に数人がかりで押さえ込まれているのだ。どうしようもない。
「フィリップ、お願いだから諦めないでよ、フィリップがいなくなったら、あたし……ッ」
「……グロリア、すまない。俺は」
 何もできない。
 グロリアが許してくれた時だけ、彼女の体を代わりに動かすぐらいはできるけれども、並外れた力を出せるわけでもない。状況を打開することなど、できるはずもなかった。
 それに俺は、ここで消えてしまっておいた方がいいのではないかと思ってしまっている。今の俺には、死よりも向き合うのが恐ろしいことがあって、それよりもここで消えてしまった方がましではないかと思ってしまっている。
「フィリップ……」
 首根っこを押さえられ、グロリアが顔を引きつらせた。俯かせようとする手に何とか抵抗し、なおもこちらを見上げる。
 その目を見返し、俺はなにか、彼女に言い残しておくべきなのだろうかということを、考えた。
 けれども、何も言葉は出てきはしなかった。少しでも、彼女が悲しまないように、後悔しないように、そう思ってかける言葉は、すべて彼女を怒らせてしまうだろうと分かっていた。そんな言葉は求めていないと知っていた。押し黙っていることが正しいとは思えないのに、俺はグロリアに対して言葉を持てない。そうしてすべてが、取り返しのつかないまま終わってしまう。
「フィリップ」
 哀願するようだったグロリアの声音が、低く抑えられる。
 無理矢理に押さえ込まれて顔が俯き、視線が合わなくなった。
 だが、彼女の頭を通じて、彼女がどんな顔をしているのか伝わってくる。彼女が、何かを決めてしまったことも。何をしようとしているのかは分からないのに、それがやってはいけないことだというのが理解できる。焦燥が背筋を這い上り、俺は体を強張らせた。
「グロリア、よすんだ。何を」
「あたしは、フィリップに運命を感じたの。
 フィリップも、あたしに運命を感じてよ」
 首筋に薬液が打ち込まれる。グロリアの小さな体が震え、震える息を吐き出す。グロリアの意識が遠のくのに合わせて、俺の視界もまた急速に狭まり、闇に墜ちていくのを感じる。
「待て……待ってくれ」
 その言葉を届けるべき相手は、恐らくグロリアではなく、周りの研究員たちだ。だが、グロリアの許しがない限り、俺は彼女の口を借りることさえできない。
「フィリップ」
 唇を動かし、グロリアがなおも俺の名を呼ぶ。その舌はもつれて、ひどく重たい。
 それでも何とか顔を上げた彼女の口元には、穏やかな笑みが浮かんでいた。
「……だから、ちゃんとあたしのことを迎えに来てね」
 その言葉を最後に、グロリアの首ががっくりとうなだれる。
 同時に、俺の意識もふつりと途切れた。


 ザッザザザ……ザッザザ……
 記憶を辿ろうとする時、いつも耳元でこうしてノイズが聞こえてくる。
 最初に、そして最期に撃墜された時のことを、実のところ俺はろくに覚えていない。どんな戦場で、どんな相手に撃墜されたのか、その時は霧の濃さはどうで、なぜ出撃していたのかさえさっぱり忘れている。
 確かなのは、思い出されるのは、俺はその後も電磁波に焼き付いて、霊障となってしがみつき、戦い続けていたということだ。
 残像機体とは、霊場よりももう少し色濃く生前の個人とウォーハイドラを映した存在だが、霊障の表出には違いない。生きていた時と同じハイドラに乗って現れ、火器を振るい、戦場をレーダーで走査して送信してくる。不可思議な力の賜物だ。
 俺もまた長いあいだ霧の中を彷徨い、だれかから依頼を受けていたような気分で、ひたすらに走り回り、戦い続け、ハイドラを直すための金の心配さえしていたのだ。
 実際のところは、いくら戦い続けたところで報酬はなく、名誉もなく、繰り返し、繰り返し、繰り返し、目についたものに牙を剥いていただけだ。どれほどのハイドラを撃墜し、何人を手にかけたのかは、はっきりとは思い出せない。すべては夢の中のようにあいまいな中で為されたことだった。だが、恐らくすべて、現実に起こったことだ。
 いくつもの戦場を駆けずり回った。
 物資の輸送、カルト教団の調査、地下空間の捜索、パーツの性能試験、それから企業同士の戦争……その果てに、俺はあの『ライズラック』に撃墜された。
 その姿を見たのは、ほんの一瞬だけだ。肉薄され、『イグノティ・ミリティ』が操縦棺ごと両断されたその瞬間に、俺は自分がとっくに死んでいることを知った。気がついた途端に自分の姿を保てなくなった。その後は『イグノティ・ミリティ』の――本来の――朽ちた操縦棺の中にいて、グロリアに拾われるまで意識もほとんどないまま呻いていたのだ。
 だから死のかたちを思い描くとき、そこにはあの『ライズラック』のスズメバチのような顔が思い出される。自分の本当の死よりもずっと、強烈に身体に叩き込まれている。
 いや、もしかしたら……けれど、これは今は考えても仕方がない。
 人間の思念を焼き付け、保持し続ける霧と電磁波が晴れて、俺の居場所は、本当はこの世界のどこにもなくなっていたはずだった。
 その場所を、グロリアが自分の頭の中に与えてくれた。
 苦しみのうちに消えていくはずだった俺をすくい上げて、自分の中に居場所を作ってくれた。彼女のためになるのならば、再び苦しみの中に引き戻されることさえ厭わないと考えていた。
 ……恐ろしいのは、にもかかわらず、グロリアが意識を失って、俺もまたこうしてどことも知れぬ闇の中に立っているのに、いつまでもその居場所が消える感覚がないことだ。
 グロリアは、意識を失う直前に何かをしたのだ。たぶん、俺を助けるための何かを。
 そんなことをして欲しくなかった。俺のために身を投げ出して欲しくなどなかった。もうじゅうぶんだろうと思っていた。ようやく、彼女を解放してやれると思ったのに。
「それが、この体たらくか」
 ……耳元では相変わらずノイズが鳴り響いている。視界は闇に鎖されている。
 その中で、その声は確かに聞こえた。あまりにクリアに。
 しかし、それが一体誰の声なのかを思い出せない。聞き覚えのあるような気もするし、全く知らない人間のもののような気もする。
「大丈夫、必ず、迎えにくるよ――待っているから」
 けれども、闇の中でこちらを振り返った彼女の顔は、間違いなく、グロリア=グラスロードのものだった。
 俺は叫んで、手を伸ばそうとしたのだと思う。でも、叶わなかった。指先の感覚はなく、暗闇の中に無数のノイズが走り、はっきりと見えていたグロリアの顔も、全て呑まれて……
 あとはただ、どこまでも昏く。意識さえ、かき消されていった。