#2 霧のない街で

 背筋を伸ばし、黙りこくったままのグロリアの横顔には、あからさまな退屈が浮かんでいた。
 ここは、それによって反省の姿勢が見られないだとか言われて余計に誹りを受けるような愚かな場ではなかったけれど、さすがに静かに言葉を尽くす女性の、「扱いづらい」という感情がもろに表に出た顔とグロリアの態度を見比べていると、俺の方がいたたまれないやらひやひやするやらで、消えてしまいたくなってくる。
 そもそもグロリアがこの場に呼ばれたのは、彼女が上の判断を待つまでもなく体調不良を理由に撤退を選んだことが原因であって、つまり本来であれば、叱責を受けるのは俺であるべきだ。
 だというのにグロリアがここに立っているのは、『ゲフィオン』のハイドラライダーがあくまで彼女であり、その行動の責任を負っているのも、またグロリアでしかないからで、本当に申し訳ないというほかない。それはグロリアに対してもそうだし、次回は改善しますの一点張りで応えている様子もない少女を目の前にする〈指揮官殿〉に対しても、そうだった。けれども、俺が落ち込んでいたところで、どうしようもない。
「――こんなことを言いたくはないのだけど」
 飾り気のない作戦室の灰色の壁を背に立ち、赤毛をひっ詰めたその女性はため息を噛み殺した。
 俺たちは彼女の名前を知らず、ただ単に〈指揮官殿〉とだけ呼んでいる。しかし、マヴロス・フィニクスの〈冠羽〉に所属している彼女が着ているのは、その肩書はそれほどそぐわない、会社員然としたスーツだった。しかもタイトなスカートを穿いている。見たまま、前線に出ることのない人員だ。
君たちは出向の身とは言っても、我々にその能力を示し続ける必要がある存在だ。
 こういったことが続けば、それが難しくなってくる。それは君の本意ではないと思う」
 とは言え、彼女の口ぶりはビジネスマンというよりは士官のようだ。グロリアが眉を跳ね上げ、唇を尖らせたのを表情も変えずに見て取ると、彼女は小さくかぶりを振った。
「もちろん、コンディションの問題であったことは理解している。遠征へ向けて調整中の『ゲフィオン』を本来投入するような戦場ではなかったとも。
 戦場、『ゲフィオン』――そして君自身。すべてが悪く重なり合って、今回の結果になった。
 むろん、その責任を取るのは君ではなく、別の人間になるだろう」
 〈指揮官殿〉が述べているのは、グロリアやほかのハイドラライダーたちが報告した内容と、研究チームの分析を合わせた今回の作戦におけるグロリアの行動に対しての公式見解だ。
 北方遠征に備え、『ゲフィオン』だけではなくグロリアもコンディションを整えている最中だった。それを企業間戦争に捻じ込まれ、いったんは戦闘を行ったものの、すぐに能力を発揮しきれないと判断して、即座の撤退判断とした。
 もちろん、それはまったく、正確な情報ではない。
 でもとにかく、それで収めようとグロリアは報告を行って、実際それで落としどころは見出せそうではある……責任を取らされる顔も知らない人間のことを思いやるとどうもまたいたたまれなくなってくるが、さすがにこれ以上はどうしようもない。
 どうしようもないのだが、俺はハイドラライダーをやっていたころ、こういうしがらみとは全く無縁だった。こういう、自分の行動や成果が誰かの立場を悪くするようなことは、本当に気が滅入る。
 もっとも、グロリアと言えば慣れたものだ。〈指揮官殿〉の言葉を当然といった顔で受け止めている。
「……が、撤退する判断が早すぎたのは否めない。そこを問題視されているのは分かってくれていると思うのだけれど」
「コンディションに不安があるなら報告を怠るな、問題なしと判断して出撃したのだから撤退時にはいったん判断を仰げ。
 理屈は分かりますけど、急な不調でこちらも予測できなかったし、『ゲフィオン』は今のところは避けるのも耐えるのも半端な機体ですから、一刻を争うと思ったんです」
 このセリフも、〈指揮官殿〉に対して言うのは幾度目かだ。次の文句も決まっている。
「霧のない戦場で、企業間闘争を行うのは初めてだったから、あたしも『ゲフィオン』も動き切れなかった。
 だから次は修正して、改善します。……そうじゃないですか?」
「構わないよ。そういう話だ」
「……でも、今こっちで無理に戦争する意味って、あります?」
 〈指揮官殿〉は大きくため息をついた。頬にかかる赤毛を耳にかけ、姿勢を崩すと、
「それは君が考えることではない、と理解してもらおう、グロリア。
 今回、撤退したのはいい。作戦に報告にも問題ない。
 それでも君が呼び出されたのは、君は自律的に過ぎるからだ。今の発言もそう。そういうのが君に関する報告書を長くして、保護者たちが顔を青くしながら言い訳をひねり出すことになる。それが目的ならいいんだけど」
「いいえ、〈指揮官殿〉。もちろんそんなことはありません」
 背筋を伸ばして答えるグロリアを見ても、〈指揮官殿〉の表情が晴れることはなかった。小さく頷いて、言葉を続ける。
「であれば、君を借り受ける役目として、私のできる助言も決まってくる。――『もう少し慎みを持って、グロリア』」
「……了解です」
 グロリアはなおもまだ言いたげな顔をしたが、何とか我慢してくれたらしい。踵を合わせて小さく答え、きゅっと唇を引き結ぶ。
 〈指揮官殿〉もまた、それに応え、背筋を伸ばした。少なくともこの社内においては、おどけているのでもない限り、軍人のように敬礼を行う人間を見たことはない。
「お疲れ様、グロリア=グラスロード。
 次回は間違いなく『霧と電磁波』のある戦場、〈北〉への遠征が君の仕事になると言っておこう。
 それまでは自由時間とするけれど、既定の報告は欠かさず、刻限までにはアセンブルを済ませておくように。
 以上、何か質問はある?」
「いいえ、〈指揮官殿〉」
「なら、自室に戻っていい」
「それでは、失礼いたします」
 決まりきったやり取りを済ませたグロリアは、気のない表情に戻っている。
 〈指揮官殿〉を前にもう一度だけ姿勢を正して見せると、彼女はすぐに作戦室を後にした。


 高らかに靴を踏み鳴らして廊下を大股に歩いていくグロリアの背に、一体なんと言葉をかけたものか、俺は部屋を出てからずっと悩んでいる。
 彼女が不機嫌になっているのは、俺のせいで面倒な時間を過ごさせられたからで、一言ぐらいは詫びる必要があるのではないかと思うのだが、俺が謝ったって機嫌が直ることはないのではないか、という考えがどうしても頭をかすめ、さりとて代わりに何を言うべきかも分からず、こうして彼女の背を眺めているばかりになっている。
「はあ~も~、ほんとにああいうのっていやなんだから……!」
 周囲にはばかることなく大声を上げながら、グロリアはずんずんと進んでいく。
 時折〈指揮官殿〉と同じようなスーツを着た人間や、白衣を羽織った研究員とすれ違うが、かれらはグロリアのように足音を大きく立てなくとも、同じぐらいに早足で、グロリアの方に視線を向けさえしない。
 グロリアの立場がどう、というわけではなくて、これはこの会社の構造や体質が端的に表れているだけだ。特にグロリアが所属しているこの〈冠羽〉のセクションは、黒い不死鳥の特徴――横のつながりもなく、それぞれに独立した企業であること――が色濃く出ている。
 ほかの部署の人間に、表立って興味を示す人間はいないわけだ。……もちろん、声を張り上げながら歩いていくグロリアに関わりたくない、というのは前提として。
 研究チームから出向しているグロリアに対して、あれほど気を払っている〈指揮官殿〉は、恐らくここでは珍しい存在だろう。
 それはグロリアが試作品、貸与品として丁重に扱うべきゲストであるからかも知れないし、賢しらな年若い女の子であるからかも知れないし、単純に〈指揮官殿〉が部下のメンタルコントロールに敏感なタイプというだけかも知れない。とは言え、彼女の気遣いが功を奏しているかと言えば、むしろ逆だ。
「フィリップもそう思うでしょ?」
 歩みを止めないグロリアから急にそう問いかけられて、俺はぎょっとする。
「いや、俺は……」
「あのおばさんの言いたいことも分かる? 分かるは分かるけど、いやなものはいやなの。
 丁寧に扱われるふりをされるのもいやだし、子供扱いされるのもいや、私は味方みたいな風に話しかけられるのもいやよ!」
「……グロリア、廊下で言うことじゃない……」
「どこで言ったってさ――」
 グロリアは言葉を飲み込み、急に足を止めた。ばっと顔を俯けて、両手でそれを隠すと、手近な壁にもたれかかってそのまま押し黙る。
 俺は再び、ぎくりとした。まさかグロリアが泣くことなんてないだろうと思っていたから、なお驚いて、絶句してしまう。
 しかし、俺が困って声をかけあぐねているうちに、彼女は勢いよく顔を上げた。その顔は相変わらず不機嫌そうだったが、涙の痕は見られない。
「あたし、町に出かけたい」
「……パーツを見に行くのか?」
「まさか! 遊びに行くの。すぐに準備する」
 大きく声を上げて、グロリアは壁から背を離すと、また大股に歩き出した。俺はその後を、無言で追いかけるしかない。
 行くと言った以上、彼女は絶対に行くだろうし、自由時間だとも言われているのだから問題もない。彼女の気分が晴れればいいとも思っている。
 だが、どうしても外に出ると考えると、気分が重くなるのは避けられなかった。
 この壁の向こうには、霧がないのだから。


 樹木の群れに寸断されてはいるものの、霧に覆われていたあの頃よりは、街並みはどこまでも見通しがいい。家の姿形や色までが遠くからでも見て取れるし、大通りを歩いている人々の姿も同様に捉えることができる。白い靄の中で耳を澄ませていたあの頃には、考えられなかったことだ。
 グロリアが軽やかに踏みしめる石畳は、ところどころひび割れていて、細かな植物の根が張っている。木漏れ日の下、葉をザワザワと揺らしながら吹き抜ける風は、いまだ嗅ぎ慣れない、瑞々しい土と緑のにおいがした。
 五年前、新人類の萌芽を抑制するために急激に成長した樹木――アルラウネ・ユニットの巨大な木々たちは、天に伸び上がる前に地下で張り巡らされた下水道や電線をずたずたにし、場所によっては地面の陥没や隆起によって怪我人が出るところもあったという。
 今の世界、今の人類を護るために、こうして木々が世界を覆うことは避けられないことだった。
 だが、インフラの復旧には少なくない労力と時間が費やされ、いまだ回復しきっていない地域も多い。
 この辺りは早期に資金が投入されたこともあってすっかり問題もなく、町のものはみな霧が晴れた世界に馴染んでいるように見えるけれど、そうした場所ばかりではないし、そうしたひとびとばかりでもない。
 ――俺もまた、霧のない世界に心もとなさを感じているものの一人だ。
 恐らく、もう慣れるということはないのだろう。屋内や、操縦棺の中にいる時はまだましだが、こうして外に出ると、怯えにも似たざわめきが頭の中を駆け巡る。
 この世界は、すべてがつまびらかに見えすぎる。
 その中には、俺の居場所はどこにもない。そんな気がするのだ。
「……よい、しょっと」
 道を横断するように張り出たひときわ太い根を、グロリアはちょっと勢いをつけて飛び越える。
 視線を巡らせると、配送業者のエンブレムを脚部にプリントしたDRが、やはり少し足を持ち上げて根を踏み越えるところだった。街中でも、こうして根っこが地表に張っている場所であれば、車輌よりも脚を持ったDRやハイドラのほうが踏破性が高い。
 戦争とはかかわりない分野にDRやハイドラが利用されることは、霧が消える以前にもいくらだってあったことだ。
 けれど、霧の中、一歩先さえ見えない手探りの状態で巨大な機械が石畳を踏みしめる遠い音に耳を澄ませていたのと、通行人から見える位置に会社のエンブレムをつけて眼前を歩く姿を見るのとでは、受ける印象は大きく違う。
 背後から足音を立てて歩いてきたDRは、俺たちをすぐに追い越して、大通りをまっすぐに進んでいった。機体が作っていた日陰が消えると、再び目の中に明るい日差しが飛び込んで来る。
 はるか頭上で重なり合った木々の葉に遮られていても、太陽の光は確かにこの大地に降り注いでいた。俺には少し眩しく、暖かすぎる光だ。自分のからだが、その光の中に溶けていくのではないかと錯覚するような。
 ――不意に、風の中を電気的なノイズが走り抜けた。
 息苦しさが瞬間的に喉元までせり上がり、目が眩む。
 『イグノティ・ミリティ』の、あの墜ちた冷たい操縦棺の中に戻ったような、冷えた霧の中に漬け込まれたような苦しさとともに、聞こえる音に、見える景色に、鼻を突く香りに、舌先に触れる空気に、指先に触れる感触にびりびりとノイズがかかり、ぶれて、歪んで、軋みを上げる。
 際限なく。ノイズの上にまたノイズが載せられていくように。繰り返し、繰り返し、繰り返し。とめどなく、崩れていく。毀れていく。
 自分の輪郭線を見失って、どこにも見当たらなくなるほどに。
 ……あの時の俺は、霧の中にいるからこんなにも息苦しいのだと思っていた。
「フィリップ?」
 グロリアの声。
 急に手を解かれ、弾き出されたように、からだを覆っていたノイズが消える。
 俺は息を吹き返したような気分で、胡乱な眼差しでこちらを見上げる彼女の顔を見返した。
 ひどく、安心する。目を瞬かせ、じっとこちらを見つめる彼女の視線があるだけで、自分があらためて世界の中に定義されていくような、そうして居場所を作ってもらえたような、そんな安堵感があった。
 どのぐらいぼんやりしていたのか分からない。たぶん、そう長い時間ではなかったはずだが、グロリアを訝しがらせるにはじゅうぶんだったようだ。
「――フィリップ、あのね」
「大丈夫だ、グロリア。すまなかった」
 俺が慌てて言った途端に、グロリアはぱっと口を噤んで、言いかけていた言葉を飲み込んだ。
 言葉を遮ってしまったことを悪いと思いつつ、俺は彼女の眼鏡の奥の、複雑な色合いの瞳を覗き込む。
 ……俺がここにいられるのは、グロリアのおかげだ。
 こうして木漏れ日の暖かい光の下を歩いていられるのも、ハイドラにまた乗り込めているのも、彼女に申し訳ないという気持ちを抱くことさえ、グロリアが俺のところへ来てくれなければできなかったことだ。
 だからこそ、できるだけグロリアに心配や迷惑をかけたくないと思っているのに。
「さっきのことも、悪かった。〈指揮官殿〉がグロリアにああいう絡みかたをするのは、隠し事の気配を嗅ぎ取っているからだろう。
 確かに、グロリアが借りを感じる必要はない。でも、噛みつきすぎるのもできればやめたほうがいい。そのぶん、俺に怒ってくれればいいから」
「なにそれ」
 グロリアはぎゅっとしかめ面しい顔になって、俺を睨み上げた。
 けれど、何かを言おうと開かれた唇からは、なかなか言葉が出てこなかった。何度か何かを言いかけてやめ、唇を歪める。
「言っておくけど、あたし、八つ当たりをするつもりなんかないからね。あのおばさんにだって……」
 顔を俯かせたグロリアの言葉尻が小さく消えて、拳がかたく握り締められた。
 八つ当たり。そういうことを言おうとしていたわけではなかった。けれど、そういう風に言ってしまえば、そうなのかも知れない。本来俺にぶつけるべき怒りを、〈指揮官殿〉にぶつけている、というような。
「すまない、グロリア。違うんだ。
 ただ、俺のせいでグロリアがああいう風に言われるのは、申し訳なくて」
「申し訳ないなんてフィリップに言われても困る。怒ってくれればいいのにさ」
 グロリアは硬い声で言って、視線をうろつかせる。
「それに、大丈夫じゃない時に大丈夫って言われるのも、嫌だし……調子悪いんだったら、街に出るんじゃなかったじゃん」
「……すまない」
「だから、そういうんじゃなくって……」
 彼女はなおも何か言おうとしたが、そこで言葉を切って飲み込むと、拳を解いて大きくため息をついた。
 それ以上、何をどういえば分からなくなって、俺は黙ったままぼんやりと立ち尽くす。
 話せば話すほど、彼女を怒らせてしまうような気がしてしまっていた。俺の話しかたが悪いのか、彼女と俺の間に相当の認識の齟齬があるのか、そのどちらもか。
 結局、再び口を開いたのはグロリアの方が先だった。
「いいよ、フィリップ。この話は終わりにしよう。
 ――でも、あたしには、隠し事はできないんだから。それはちゃんと覚えておいて」
 釘を刺すように言うグロリアに向けて、俺は小さく頷いた。それは、確かにくつがえしようのない事実だった。
 だからこそ、こうして言い合いをするようなこともない。実際、今までもなかった――と、そう思っていたのだが。
 この明るい世界に俺が掻き乱されているせいか。それとも、都合のいい話などないということなのかも知れない。
「ケーキ屋に行くんだったっか?」
「そう、ちょっと歩くんだけれど、美味しいんだって。元ハイドラライダーがやってる店って聞いた」
 気を取り直したように楽しげに言って歩き出すグロリアの背を、俺はぼんやりと目で追った。
 見たくないものまで見えてしまうようなこの世界ではあるものの、グロリアの姿をこうして目で見ていられることは、俺にとってはありがたいことだった。
 グロリアもまた俺と同じように霧の中で生まれて、霧の中で育った人間だ。だが、グロリアはこうして、木漏れ日の下にいるのがよく似合う。
「……やっぱり、まだ調子が悪い?」
「いや、体調は問題ない」
 首を横に振ってから、グロリアがまだ心配そうな顔をしていることに気がついた。俺の『大丈夫』や『問題ない』は、ここ最近のやり取りですっかり信頼を失ってしまったということだろう。実際、上の空ではあったわけだし。
「少し考え事をしていただけだから」
「それって、この前の飛脚機の話?」
「いや……」
 グロリアの問いに、俺は再びかぶりを振ったが、そのまま言葉を飲み込んだ。『ゲフィオン』があのハイドラに指先を触れさせた時の、あの感じを思い出したのだった。
 俺がグロリアを制止し、彼女が『ゲフィオン』をすぐさま退かせたのは、あのハイドラが原因だ。
 本来であれば、あのハイドラが俺にとって何なのか、もう少し考えてみるべきだったはずだ。だというのに無意識にか、あの手触りについて深く考えることを避けていた。
「――でも、そうだな。あの機体とはまた遭う可能性がある。分かったら、ちゃんと話すよ」
「それはよろしく。まあ、ほんとに大丈夫ならいいから、今日は付き合って。
 フィリップは、好きなケーキってある?」
「俺のことは――」
 気にするな、という言葉に被さって、グロリアの端末からけたたましいアラーム音が発せられる。――招集命令だ。
「やだ、もう。自由時間って言ってたじゃない!」
 渋面を作って毒づきながらも、グロリアは慌てて踵を返した。


 HCSが起動し、操縦棺の中を液化した霧の音が満たすと、自分が今まで驚くほどの息苦しさを感じていたことに気が付かされる。
「この前の連中ってわけ? そういうやつ……」
 モニタに表示される情報を横目で確認しながら、グロリアが眉根をしかめてつぶやいた。
 こちらの敷地へ接近するハイドラの編成は、確かに先日のものと同じ、いや、それに加えて数機、機体が追加されている。後詰めにいた連中までが、こちらに向かって出勤してきたということだろうか。予測していたよりも好戦的だった。
「――ッつ」
 と。頭の中を走り抜けた違和感に、俺は思わず声を上げる。グロリアが予告なく〈デコレート〉を起動させたのだ。
「ごめん。ちょっと慌ててた……ディオニウスって、そんなに大きくないとこだったと思うんだけど」
 アームカバーに手を入れながら、グロリアはゆっくり深呼吸をした。
 確かに、ディオニウス社はマヴロス・フィニクスよりはよほど規模の小さな会社だ。肥大したマヴロス・フィニクスと比べるのが適当ではないが、企業間闘争を積極的に行うようなパワーのない企業であることは事実である。
 今出てきているハイドラたちも、向こうが採算度外視でハイドラライダーを大勢抱えていない限りは、向こうの全戦力に近いはずだった。
「こっちは、霧もないのに『ゲフィオン』を主力として攻めてくるようなありさまだ。自分たちが攻めた隙に、本社が反撃を食らうようなことはないと判断しているんだろう」
「しっかり見抜かれちゃってるってことか、ダサいなあ……」
 唇を歪めて、グロリアはぐるりと周囲を見回す。全天周囲のモニタには、霧のない世界がしっかりと映し出されていた。マヴロス・フィニクスの私有地であるこの敷地内もまた、日光を遮る形で巨木が連なり、それが視線を遮ってはいるものの、その光景はよく見える。
 レーダーには反応が出ているものの、まだ敵機を視認することはできない。
 グロリアはいまだ見えぬハイドラの編隊がいる方向へ目をやりながら、アームカバーに腕をより深く押し込んだ。
 『ゲフィオン』が戦場へ向けて指先を伸ばし、歌声を響かせ始める。その手応えは、霧の中にいる時に比べればごくごくわずかだ。
「―― 霧吹き機はまだ出てこれないみたいだな。
 警備部の機体が出てるから、そっちに任せて『ゲフィオン』は支援に徹した方がいい」
「分かってる。呼ばれたのも、前に交戦したからってだけだしね。『ゲフィオン』は賑やかしでいく」
 レーダー上に映る光点は、どんどん味方のものが増えていた。
 霧のない戦場に『ゲフィオン』を引っ張り出したわりに、防衛にあたるハイドラの数は多い――以前、マヴロス・フィニクスが企業内で大規模な戦闘をやらかした際、警備部門の発言権が大きくなったという話を、小耳に挟んだことがあった。
 霧のなくなった後も戦力を削られることはなく、それでいて外部への侵攻にも引っ張り出されない。そういう地位を、この黒い不死鳥の中でかれらは築いているというわけだ。
 だからこそ、こういう時には張り切って働かなければいけないということでもあるが。
「フィリップ、あの機体が出てきたらどうする?」
 不意にそう問われて、俺は咄嗟に答えることができなかった。
 グロリアは眉根を寄せて、俺からその答えを読み取とろうとするように視線を向けてくる。
「つまり……あのハイドラに接触したら、またああなるか、ってこと……」
「……なる、と思う」
 『ゲフィオン』があの高速機を握り込んだ時、突き刺さるように感じた違和感を、俺は再び思い出す。
 知らない機体のはずだった。そもそも俺が『イグノティ・ミリティ』に乗っていた頃には、飛行ユニットを脚部に用いて軽量化した高速機など、残像領域に存在しなかった。
 だが、あの時、『ゲフィオン』があの小さな機体を砕こうとした瞬間に感じたのだ。それはやってはいけないことだと。
「ここで戦うのは問題があるから、少し前に出て戦場を押し出すと思うけれど、後ろはマヴロス・フィニクスの『冠羽』の敷地で、前回みたいに撤退する場所はない。
 それに、今回はあたしたちが何もしなくても、警備部のひとたちが何とかしちゃうでしょ。
 ……でもフィリップは、とにかくあのハイドラが落とされたらいやなんだよね?」
「恐らくは。でも、それが正しい感覚なのかも分からない。見覚えがないんだ」
「どうすればいい?」
 分からない……と言っていられる場合ではない。
 俺が戸惑い、抵抗を覚えていても、向こうはそうではないのだ。迷っている時間もない。とにかく、グロリアに答えを伝えなければならなかった。
 自分の背筋が焦燥と怖気に震えるのを感じながらも、俺はゆっくりと息をつく。グロリアがこうして言葉にして聞いてくれるだけ、ありがたいのだ。俺もそれに応えなければ。
「……鹵獲できれば一番いいが、今の『ゲフィオン』にあのハイドラを捕らえる力はない。
 次善は、向こうに撤退してもらうことだ。ハイドラライダーを殺すのは避けたい。
 だが、相手はこちらを殺す気で来ている。自分の身を護ることが最優先でいい。……難しいことを言っているのは分かっている」
「ううん、そう言ってもらえれば分かりやすい。気をつけてやってみるから、そこで見ていてね」
 こういう時のグロリアは、驚くほど頼もしい。だからこそ、こうして後ろから眺めて口を挟むことしかできない自分を情けなくも思う。
 モニタの中を流れる文字列が、最前線の警備部の連中が会敵したのを告げてくる。
 下手に動くなと命じてくる〈デコレート〉の計算を無視して、グロリアは操縦棺の中で身を乗り出した。『ゲフィオン』のミストエンジンが周囲にわずかに噴霧を漂わせるが、もちろん霧吹きに比べればごくささやかなものだ。
「貯水に気をつけて……」
 自分に言い聞かせるように呟いたグロリアが、不意に上を仰いだ。
 一拍遅れて、俺も戦場に薄く――弱々しくも――広がった感覚の中に、あのハイドラの気配を感じる。
 木々の間に間に、『ゲフィオン』の頭上を高速のハイドラが行き過ぎるのが見えた。
「取りこぼし!? ありがたいけど……!」
「目標はこっちの施設だ、警備部は前線で釘づけにされてる!」
「なるほど、きっついなァ!」
 息を詰まらせながらも、グロリアが『ゲフィオン』の上半身を転回させる。
 戦場に広がった感覚、『ゲフィオン』の〈指先〉から返ってくる手応えはごくごく弱かった。あのハイドラは疾い。前回は捕まえられたが、それは戦場に霧吹きによる霧が満ちていたからだ。
 それでも、矢のように飛ぶハイドラへ向けて、追いすがるようにグロリアは腕を伸ばした。空を掻いた指先が、風となって木々を揺らす。
「――〈デコレート〉! もう少し優しくして!」
 顔を歪め、グロリアが引きつった声を上げた。
 こちらの思惑など気にもせず、あくまで〈デコレート〉は自分の機能に忠実に、ハイドラを破壊する方策を提示する。
 それを押さえつけることはグロリアにとってかなりのストレスになるが、この状況で〈デコレート〉を落とすわけにもいかない。霧のない状況で、『ゲフィオン』にあのハイドラは速すぎる。動きを予測できないことには――
「……グロリア、俺の言うとおりに座標を合わせてくれ」
「これ、先回りできるのッ?」
「ああ……」
 〈デコレート〉からの荷重に目の前がぐらつくのを感じながらも、俺は頷いてみせた。〈デコレート〉と俺の予想は一致している。いや、俺の方が〈デコレート〉よりも精度が高くすらあった。あのハイドラの動きが俺には分かる。
 それが何故なのかも、俺は理解していた。
 ――頭の中に、日差しの中で感じたあのノイズが湧いて出るのを感じる。
 『ゲフィオン』の指先は、機動を変えた飛脚機にぎりぎりのところでかすり、躱されていた。俺はノイズを振り払うようにかぶりを振って、グロリアに指示を出す。
「そうか、これ……!」
 グロリアが、得心の言ったような声を上げてアームカバーの中のレバーを引っ掴んだ。……そう、俺が自分で分かるほどなのだから、グロリアに分からないはずがない。だからあとは、繊細に、注意を払うだけでいい。
 動きの読める高速機は、もはや手強い相手とは言えなかった。『ゲフィオン』の指先が機体の塗装を撫ぜながら、その奥底へと潜り込む。
「ちゃんと撤退してよね!」
 そうグロリアが叫んだ瞬間、びしり、と薄い装甲に亀裂が走った。


 警備部も上手くやったようだった。
 こちらの施設の損害はごくごく軽微。俺たちが追い返した飛脚機も含めて、撤退したハイドラは何機かいたものの、向こうの被害は甚大だ。ディオニウス社にとっては大きな痛手、こちらにとってはほとんど最高の戦果だろう。
 〈デコレート〉を切り、グロリアはアームカバーに腕を突っ込んだまま、ハイドラの去った方をじっと見つめていた。噴霧によってわずかに霧にけぶる森の向こうに、煙が立ち上っているのが見える。
「……フィリップだった」
「ああ……」
 ぼそりと紡がれたグロリアのつぶやきに、俺は小さく頷いた。
 俺は、あんな風に軽量機を扱うことはできない。だが、確かにあの機体のハイドラライダーの操縦のくせは、俺によく似ていた。
「ねえ……本当に、心当たりはないの?」
「……ああ、まったく。だけど」
「だけど?」
「こんな風に戦場で会うのはもうごめんだな、できれば……」
 それは紛うことなき本音だったが、グロリアからの答えはなかった。彼女はただ硬い顔で、ハイドラの逃げ去った方を睨みやっていた。