#6 邂逅

 雨が降り続けている。
 立ち枯れた樹木のあいだに溜まった雨水を背後に蹴り上げながら、小型のDRが駆けていく。
 DR『ウエストランナー』は、その名に反して市街地内での移動に最適化されている。狭く入り組んだ路地の中まで入り込み、外壁を上って上階まで登る性能を担保するために、きわめて小型で、軽い。もともと市街戦を想定して――恐らくは、非常に残忍な目的で――設計されたこのDRは、現在では工場生産の段階で火器をほとんど外されており、主に荷物の運搬に使用されている。
 HCSを持たず、パーツの組み換えをソケットへの抜き差しのみでは行えないDRの拡張性は、ウォーハイドラに比して低い。『ウエストランナー』にも工場でカスタマイズされたバリエーションはいくつかあるものの、出荷された後にそのセッティングを変えるとなれば、コストは非常に高くなる。それはDRが、戦場におけるシェアをウォーハイドラに奪われ、劣化ハイドラなどという呼び名を拝する原因ともなった。
 DRが戦場から完全に排斥されないのは、ウォーハイドラの要であるハイドラ・コントロール・システムを起動ブートするために必要なライセンスの取得が狭き門であること、ウォーハイドラの拡張性が高いあまり、オーバースペックとなるケースが多いことなどが挙げられるだろう。ハイドラライダーが出撃するまでもないちょっとした小競り合い――たとえば、街から街へ、荒野を運搬する荷物を襲う強盗団がハイドラを保持していることは多くないし、かつて企業連盟と対立していた西方軍閥でさえ、軍団の大半を占めるのは装甲車・航空機・DR――などの旧い兵器だった。
 ともあれ――つまりは――『ウエストランナー』は市街地の移動を想定されている。アルラウネの根を避けながら石畳の上を走破することはできても、数ヵ月以上振り続ける雨でぬかるんだ土の地面を走ることは想定していない。『メル・ミリア』はカフェのほかに機械のメンテナンスもその業務として請け負っているが、そこに依頼をかけても短時間では泥濘を突破するようなセッティングにすることは難しかったろう。
 それでも、ダリル=デュルケイムは何とか機体のバランスを崩さずに『ウエストランナー』を走らせていた。泥水に浸されて見えなくなった根を引っかけることは何度かあったが、幸いここまで転倒はしていない。ただし、乗り心地は最悪だ。ダリルも俺――グロリアも、ハイドラライダーであるから、この程度の揺れでは酔ったりはしないけれど、うんざりさせられるのは確かだった。
 なお嫌になるのは、薄暗く、息苦しささえ感じられる『ウエストランナー』の操縦席に、さっきからずっとアラーム音が鳴り響いていることだ。『ウエストランナー』はマヴロス・フィニクスで開発されたDRだ。その音色には聞き覚えがあった。通信機に着信の入ったことを知らせる呼び出し音だ。ダリルはそれに出るでもなく拒否するでもなく、気にもしていないのか、それとも慣れない道のりをゆくのに精いっぱいなのか、進行方向を見つめているままだ。
「気になるか?」
 俺が後部座席から質問を投げかけかねていると、ダリルが叫ぶような声音で問いかけてきた。かしましくアラームが鳴り響いているとは言え、それほど大きな声を上げなくても聞こえるのだが、やはり操縦に必死で、余裕がないのだろう。俺は首を竦める。
「……グロリアを連れ出す許可なんて、本当は取っていなかったんじゃないのか」
「いいや、それはちゃんと取った! ただ、ちょっと魔法が解けただけだ」
 ダリルは早口で言い、ぶつりと音を立ててアラームを切った。
 俺は身を乗り出し、ダリルの背中越しにレーダー図を覗き込む。ディオニウスの本社へはあと一時間もかからないうちに到着するだろうが、今のところレーダーに反応はない。
 ディオニウス社はいくつかの中小企業と連合してマヴロス・フィニクスに対抗している。ここに至っては、それほど躍起になって社屋を防衛してはいないのかも知れない。『ウエストランナー』は火器も自衛用の最低限しか積んでいなければ、弾数もほとんどないから、俺たちとしては助かる話ではある。
 ……と言って、その分ディオニウス社に行ったところで目的が果たせるのか不安は残るし、おまけに本社に近づけばさすがに攻撃にまったくさらされないということはないだろう。我ながら、あまりに無計画に逸り過ぎている。それに付き合っているのが、この男だ。
「……ダリル=デュルケイム」
「どんな魔法を使ったのか聞いておきたいか?」
「いや。……だが、あんたはなぜそこまでしてグロリアを連れ出したんだ?」
 それは、あまりに今さら過ぎるかも知れなかった。だが、俺がかれの話を聞けるうちに、確認はしておきたかった。このダリルという男は、確かに俺たちの手助けをしてくれている。疑いようがない。だが、それがなぜかだけがよく分からない。
「最初から、あんたのことはよく分からない。グロリアとなにか話したにしても――彼女は『冠羽』付きの研究チームが扱っていた実験体だ。警備部がいくら特殊なセクションだからと言って、横紙破りが過ぎるだろう。そこまでする理由は、あんたにはないはずだ。
 『偽りの幸運』のことは何となく分かったよ。……でも、あんたは一体何者なんだ?」
「……五年前も、こうやって女の子と一緒に走っていたんだ」
 ダリルはまるで俺の言葉が聞こえなかったかのように、呟くような声でそう言った。
「もちろん、今とはずいぶん状況が違う。俺が乗っていたのは『ステラヴァッシュ』だったし、その子はグロリアちゃんと同じぐらいの年だから、その時はもう少し小さかった。こんな雨じゃなくて空は一面真っ青で、原生林がまとまっている場所とは違う荒野だった」
 息をつき、ダリルは『ウエストランナー』の操縦桿を押し倒す。地表に突き出した根を軽々と飛び越えて、着地とともに操縦席が大きく揺れる。それでもすぐに姿勢を立て直し、小さなDRは再び枯れた木々の間を駆け出して行った。
「ある男を追っていた。そいつはたぶん、俺の仇みたいなもので……いや、実際はそうじゃないんだ。俺も、そんなことは思ってなかった。ただ、そいつのことを一体どうしてやればいいのか、分からなくて」
「……あんたの話は、相変わらずよく分からない」
「俺は、あんな目に遭うやつがこれ以上増えて欲しくなかっただけだ」
 それがあのエイビィのことを指しているのは、さすがに俺にも理解できた。
 五年前、かれらの間に一体何がったのかは分からない。だが、恐らくすでに終わった話だ。『偽りの幸運』はハイドラに乗れない身体になって、『メル・ミリア』にいる。
「でも、そう――あんたたちはあいつの言ってた通り、ちょっと違うみたいだ。それは、よかった」
 言葉とは裏腹に、ダリルの声は硬かった。
「……俺が言いたいのは、あの時と同じように悩んでるってことだ。本当にあんたをこのまま手伝っていいのか、こうやって出てきてから考えてる。
 つまり、それでいいのかってことと……上手くいくのかっていうことだ。もし、その飛脚機のハイドラライダーと――元のフィリップ=ファイヤーストーンと対面したとして」
 俺は背もたれに身を預け、大きく息を吐いた。背筋を這い上った悪寒を、どうにかやり過ごすためだった。
 『ゲフィオン』を通して触れた感覚が、その拒否感が、滲みだす恐怖が鮮やかに指先から蘇り、鈍い痺れをもたらしている。触れたその時に俺が感じた時よりもよほど鋭敏に突き刺さる気さえする。もしかしたら、俺が今グロリアの体の主になっているのが原因かも知れなかった。グロリアがその時に感じたものを、今俺が受け取っている。
「だいいち、それって間違いないのか?」
「……グロリアも確かに、あれは俺だと言っていた。あの飛脚機のハイドラライダーは俺だ」
 『イグノティ・ミリティ』に撃墜され、俺はそこで死んだのだ、と考えていた。
 死んだことにすら気が付かず、残像となって戦場を駆けずり回り、その果てに霧が晴れた時、この世界のどこにも居場所を失って、操縦棺の中で苦しみ呻くばかりの存在となった。それを、グロリアが救ってくれたのだと。
 しかし、『ゲフィオン』の指があの機体に触れて、感覚を追いかけ、あのウォーハイドラの動きを見るに至って、俺はあの中にもう一人の自分がいることを認めざるを得なくなった。
 残像領域の霧と電磁波は、人間の思念を写し取り、捕らえ、残像としてこの世界へと映し出す。しかし、それが死者そのものではなくその残像に過ぎないのであれば、囚われるのは死者の念に限らないのではないか。俺は死者でさえなく、未だ生きている人間の残像ではないか。
「でも、あんたはもうその……元のフィリップとは別人なんだろう?」
「……ああ」
 俺が残像として霧の中に漂っていた間、そして、グロリアの頭に住み着いてから。俺と『フィリップ=ファイヤーストーン』はすでに大きく乖離している。顔を合わせたところで、ひとつに戻ることなどないだろう。
 だが、生きている自分に出会った時、こうしてグロリアの体の中にいるとしても、俺自身がもとの形を保てないという予感があった。
「――んッ」
 レーダーを覗き込み、ダリルが小さく声を上げた。枯れ木ばかりとなった森を抜けて、『ウエストランナー』は雨の降りしきる泥の荒野へ足を踏み出す。
 その視界に、ふと影が差した。
「飛脚機だ!」
 ダリルが頭上を見上げ、鋭く叫ぶ。けれど、それだけではない。
 俺は確かに聞いた。
 間違うはずのない。耳元でささやくような、その歌声を。


 雨を切り裂く矢のように、小型のウォーハイドラが上空を行き過ぎた。
 こちらに影が落ちるほどの低空で、しかも低速だ。『ウエストランナー』に覆いかぶさるほど高く泥が巻き上げられて、一瞬でカメラの映像が黒く染まる。
「うわ――っぷ!」
 ダリルの悲鳴。
 反射的に制動をかけたのだろう。操縦席の中が大きく揺れ、泥を跳ね上げながらずぶずぶと沈み込むようにして停止する。
 しばらくの雨によって森の中と同じように泥の海と化した荒野は、この小さなDRが渡るにはいささか足を取られ過ぎる。歩けないほどではないにしろ、機動性は完全に殺されていた。
「ダリル、上を!」
「ああ……ちょっと待った!」
 呻くようにダリルが声を上げながら、操縦桿を引き上げた。泥を落としながら、カメラが上空を捉えなおすが、再び速度を上げ始めた機体の姿を再び視認することはもはや難しかった。だが、恐らくはあのウォーハイドラだ。
 いや、それよりも問題は、この耳元で鳴り響く歌声だ。こちらこそ取り違えようがない。
 レーダー上にはまだあの飛脚機の反応しかないが、もとより『ウエストランナー』に搭載されているレーダーはお世辞にも性能の良いものではなく、その索敵範囲もごく狭い。その外にこの歌声の主――いや、回りくどい言い方をする必要さえない。この戦場に『ゲフィオン』がいるのは間違いなかった。
 ――だが、いったいどうして、ここに『ゲフィオン』がいるのか。
 そもそも、『ゲフィオン』のHCSを起動させるためには、グロリアの生体情報が必要になるはずだ。
 もちろん、『ゲフィオン』を製作した研究チームであれば、その条件を変えることは可能だろう。けれど、グロリアのために隅から隅まで調整されたウォーハイドラのセッティングをわざわざ変えて、別のハイドラライダーを載せてまで出撃させる意味が分からなかった。グロリアが警備部に連れ出されたからと言って、さっさと見切りをつけるかれらとは思えない。ダリルが使った『魔法』とやらはとっくに効力を失っているのだ。
「戦闘だ。あの飛脚機、攻撃されているのか?」
「『ゲフィオン』だ! カメラで確認できるか?」
 レーダーは相変わらず。しかし、カメラの映像には、雨の向こうの薄暗い空に爆炎が瞬く光景が映し出されている。森の中で何の出迎えもなかったのは、防衛を軽視していたわけではなく、すでに襲撃を受けていたからだったのだろう。
 伸ばした指先さえ見えないような濃霧の中では多少役に立つとは言え、視覚映像よりも見える範囲の狭いレーダーと言うのもお粗末な話だ……と言っても、カメラでもウォーハイドラの影かたちまで確認することはできなかった。『ゲフィオン』に備え付けられている全天周囲モニタのような上等なものは、このDRには備え付けられていない。映像を拡大したところで、粗く乱れるだけだ。
「『ゲフィオン』……ってことは、グロリアちゃんのハイドラ?
 あれって霊障機だろ。いくらうちでも、適性のあるハイドラライダーをホイホイ用意できるもんか?」
「それは……だが、この歌声は確かに『ゲフィオン』だ」
「歌? 歌なんて……ああ、これか」
 ひときわ大きく声が張り上げられたのを聞いて、ダリルは声を上げた。『ゲフィオン』の歌声の届き方には多少の個人差があるらしいが、ここまで強い『声』ともなるともはや関係がない。
 確かに『ゲフィオン』はいて、この戦場で霊障を使っている。
 そして、この歌声が聞こえるということは、『ゲフィオン』の〈指先〉――霊障攻撃は、俺たちにも届くということだ。『ゲフィオン』がここにいること自体もそうだが、嫌な予感がした。
「いったん、森の方に引き返す! 枯れてるが、丸見えになってるよりはましだ」
 ダリルもそれは同じだったのかも知れない。計器とカメラの映像を見比べながら、泥に沈んだ『ウエストランナー』を立て直そうと操縦桿を引き倒す。
 そこまでしなくとも、このDRにろくな戦闘能力がないのは外から見ても分かるだろうが、今の状況で荒野のど真ん中に無防備に立ち往生しているのが得策とは言えない。
「――よし、動けるな。いい子だ!」
 激しい雨に叩かれながらも、『ウエストランナー』は何とか足を持ち上げて、枯れた森の中におもむろに引き返し始めた。『ゲフィオン』よりも巨大な機体に乗っていた男にしては、その操縦は細やかだ。ハイドラライダーになる前には、DRに乗っていたのかも知れない。そうした経歴は、ハイドラライダーには特に珍しくはない。
「しかし、どうやって飛脚機のハイドラライダーに接触する?」
 周囲の様子を頻りに確認しながら、ダリルが問いかけてくる。俺は頷いた。
「戦闘中ならオープン回線は開けてるはずだ。ハイドラに乗ってくれているなら、むしろ都合がいい……」
 ばきり、と。
 いやな音を立てて、『ウエストランナー』の操縦席が大きく傾く。視界が回り、アラート音とともにランプが明滅した。
 その直前に、さっきのように『ゲフィオン』の歌声がいっそう高らかに鳴り響いたのを俺は聞いていた……そこに、霊場が奏でる歌声のような、わずかなノイズが混じっているのを。
 グロリアが乗り込んだ『ゲフィオン』は、どこまでも透明な歌声を発していた。
 いや、それよりも問題は、あの『ゲフィオン』が、こちらを敵として認識ていることだ。明確に、この『ウエストランナー』へ向けて霊障攻撃をしてきた。
「――くそっ、これ、けっこう来るな!」
 操縦桿から手を放し、ダリルは頭を抱えて唸り声を上げた。
 霊障機による攻撃――『不可思議な攻撃』は、単純にものを破壊するだけではなく、人間の精神にも大きく影響を及ぼす。俺は軽い衝撃を受けた程度だが、操縦者であったダリルの方は、DRが破壊されたのに伴って、なにかフィードバックを受けたのかも知れない。
「これも『ゲフィオン』なのか?」
「ああ、歌が聞こえただだろう。歌が聞こえる範囲には、大体『ゲフィオン』の霊障攻撃が届く」
「クソッ、位置さえ分かれば――いや、分かっても反撃できないのか。どうするか……」
「……」
 『ウエストランナー』はマヴロス・フィニクス社製のDRだが、配送業者のように見える位置にでかでかとロゴが印刷されているわけではない。だから、『ゲフィオン』のハイドラライダーがこちらを敵だと判断したとしても、不思議ではない。こちらに害がないことを通信ででも表明すれば、見逃してもらえる可能性はある。
(いや……)
 俺は、こちらへ触れた『ゲフィオン』の指先のその感触を思い出して、ふと眉根を寄せる。
 その形のない指、皮膚の内側か、それともその薄皮一枚外側か。肉体ではない、しかし〈俺〉に確かに触れてきたその感覚にもまた、歌声と同じようにノイズのようなわずかなぶれがあった。
 ぶれそのものが重要なわけではない。俺は、その感触に覚えがある。『ゲフィオン』だからというわけではない。そこに乗っているハイドラライダーに。
「通信機はまだ生きてるけど、どうする?」
「……外へ出よう。操縦席ごと潰される可能性がある」
 見るからに戦闘能力のない『ウエストランナー』に攻撃してきたのだ。そこまでしないという保証はない。
 それに、俺の考えていることが正しければ、〈かれ〉は俺を憎んでいてもおかしくないはずだ。
 問題は、どうして〈かれ〉がそこにいるかだ。
「って言っても、下は泥だろ。DRが埋まるぐらいだ。頭まで潜ってしまうかも知れないぜ」
「……とにかく、ハッチを開けてくれ。〈かれ〉に姿を見せたい」
「なに?」
 俺はダリルに応えず、シートベルトを外して身を乗り出し、操縦盤のボタンを押した。
 ハッチが開き、雨風が激しく操縦席に吹き込んでくる。目に入る雨水を手で拭いながら、俺は『ウエストランナー』の上に出、上空を見上げた。
 風が吹きすさぶ中でも、歌声は遮られることなく耳元に吹き込まれるように聞こえている。だが、そこに混じるノイズはより強く、耳につくようになってきていた。
 飛脚機が高度を上げて、上空を飛び回っている。
 その後を追いすがるように『ゲフィオン』の霊障が弾けているのが見えずとも分かった。そして、それは一度撃つごとに正確さを増して、飛脚機を捉えようとしている。
 そこには、明らかに怒りと憎悪があった……あるいは、こうして主戦場から離れたところにあのハイドラが飛んできたのは、ハイドラライダーが――フィリップが狙われていることを自覚して、囮を引き受けたのかも知れなかった。あの飛脚機はその役割を確かに果たしている。だが、その役目を半ばで終えつつある。
 『ゲフィオン』の霊障の精度は、グロリアが乗っていた時よりも明らかに低いが、高速移動のために極限まで軽量化されたあのウォーハイドラの装甲は、下手をすれば戦闘用ではない『ウエストランナー』よりも脆い。まともにぶち当たればいかに威力が見劣りすると言ってもただでは済まないだろう。中のハイドラライダーだって無事では済まないはずだ。
(――そんなのだめ)
 だが、『ゲフィオン』に乗っているのが〈かれ〉ならば、俺が――フィリップが憎まれるのも無理はないのだ。俺さえいなければ、グロリアがこんなことになることはなかった。
(――でも、あのフィリップは関係ない。『ゲフィオン』を止めなければ)
 どうやって?
 『ウエストランナー』の通信機はまだ生きている。『ゲフィオン』に通信を入れることも可能だが、〈かれ〉がこちらの通信を受けてくれるとはとても思えなかった。方法を考えている時間もない。
「フィリップ、どうするんだ!? このままだとあのハイドラ、撃墜されてしまうぞ!」
 ダリルが叫ぶ声が、雨風と歌声に遮られ、どこか遠くに聞こえる。
 俺は雨の中、視界の中にちらつくような飛脚機の影に手を伸ばした。だが、その行為にも何の意味もない。『ゲフィオン』の指先は、間もなく飛脚機を捉え――
「―――――ッ!」
 絶叫が、喉から迸った。


「――やめて、〈デコレート〉ッ! フィリップを殺さないで!」
 それは確かに、俺が自分の意志で吐き出した声ではなかった。
 視界を遮るほどに依然降りしきる雨の中、少女ひとりが声を上げたところで、どこにいるかも分からないウォーハイドラに声が届くはずもない。
 しかし、まさに飛脚機を捉えようとしていた『ゲフィオン』の〈指先〉は、拳を握り込む寸前でその動きを止めて消え失せる。
「グ……」
 グロリア、と。
 叫ぼうとした喉が詰まり、俺はその場に膝を突いた。
 体の内側に、強烈な違和感が潜り込んでいる。
 間違いなく、上空から消えたはずの『ゲフィオン』の〈指先〉だった。心臓をじかに握り込まれたような触感に体が凍りつき、全身から汗がにじみ出る。
 しかしそれも、それほど長い時間ではなかったはずだ。もしかすると、ほんの瞬きの間のできごとだったかも知れない。詰まった喉に無理矢理管で空気を通されたかのように息を吹き返して、俺は大きく息を吐きながら『ウエストランナー』の装甲に額をぶっつける。
 すぐそば、耳元へ吹き込むような近さで聞こえていたノイズ交じりの歌声もまた、いつの間にか遠くに離れ、耳を澄まさなければ聞こえないほどになっていた。
 だが、まだ消えてはいない。
「フィリップ、大丈夫か?」
「……ッ、ああ」
 気づかわしげなダリルの声に何とか答えて、俺は喉に手を触れる。
 もうそこは、俺の意思を離れて震え、声を発したりはしない。けれど、間違いでも幻でもない。
 確かに、グロリアだった。彼女はやはり、消えてなどいないのだ。この体の中にまだ存在している。ここにいる。
「歌声が遠くなった、撤退したと思うか?」
「……いや」
 俺はかぶりを振った。グロリアも俺もここにいる以上、『ゲフィオン』は退かないだろう。今ので、こちらを殺すつもりがないのは分かったが、だからと言ってこのまま引き下がるとは思えない。
 グロリア。グロリアも〈デコレート〉だと言っていた。〈かれ〉であれば、『ゲフィオン』の操作には習熟している。
 機能だけを搭載された人工人格である〈デコレート〉に、指先を通して感じたあの憎悪と怒りはそぐわないが、俺もまた〈かれ〉の気配を感じていた。
 ……だが、グロリアと同様に〈洗浄〉されたはずの〈デコレート〉が、どうして『ゲフィオン』に乗っているのか。グロリアが消えていない以上、〈かれ〉もまた、この体の中に残っているはずだ。
 あの〈洗浄〉作業というものが何だったのかを、俺は朧気ながら理解し始めている。
 グロリアは、俺と〈デコレート〉の意識のスイッチを握っていた。
 それはもともと、グロリアが人工人格に破壊されないために研究チームの用意したフェイルセーフだった。つまり、スイッチに関して、研究チームはコントロールができていた。
 恐らく、研究チームは俺と〈デコレート〉の意識のスイッチを取り去ることを、〈洗浄〉と称していたのではないか。眠らせたまま、二度とその情報にアクセスできないのであれば、それは消去したのと見かけ上は変わらない。
 あそこにいる〈デコレート〉も、オレたちから引き剥がされ、移動させられたわけではないはずだ。そんな器用な真似が研究チームにできるのなら、こんなことにはなっていない。
「『ウエストランナー』は、動かせないか」
「ああ、脚が完全に破壊されてる。
 通信機は生きているけど、救援要請が聞いてもらえなきゃこのままここで遭難だな」
 ――『迎えに来て』と。
 意識を失う直前、グロリアはそう言っていた。
 〈洗浄〉がどのようなものであるのか、果たしてグロリアは知っていたのだろうか。
 もし、単なるスイッチの除去であると知っていたなら、俺に意識の主導権を握らせなどしなかったのではないだろうか。彼女の方が、俺よりずっとこの手のコントロールには慣れている。〈デコレート〉のために植え付けられたスイッチを、俺にまで使えるほどだったのだ。自力であっさりと取り戻せていた可能性さえある。
 なら、彼女は何故俺に意識を手渡し、何をもって俺に迎えにこいと言ったのか。
 ……〈デコレート〉はそもそも、量産を前提として製作された人工人格だ。グロリアたち被験体に焼き付けられる際に、元のチップから複製されていた。
 人格の複製。こちらは、スイッチなどよりもよほど古くから残像領域に存在する技術だ。聞いた話では、自分の人格を培養した素体に移し替えて生き続ける人間もいるという。その技術を使えば、あるいはこの体から別の体に〈デコレート〉の意識を移すことはできたのかも知れない。
 しかし、ひとつの体の中に複数の意識があった時、かれらは複製する対象を選べたのだろうか。
 あそこにいるのは、本当に〈デコレート〉だけか?
「それで、どうする? 通信機が生きてるうちに、どこかには連絡を取らなきゃいけないだろうけど」
 ダリルはここに来て、なお衒いのない口ぶりだった。怒りどころか、焦りさえない。雨を拭いながら聞いてくるダリルの顔を見返して、俺は一瞬言葉を失う。
「フィリップ?」
「……ああ、いや」
 俺は息をついた。ごちゃごちゃ考えていても仕方がない。
 あそこにいるのが誰にせよ、この体の中にグロリアがいるのなら、それを取り戻さなければいけない。彼女がさっき自分の意志で叫んだのなら、ここでこうしていても彼女に主導権を返せるかも知れないが、待ってはいられない。
「予定通りに飛脚機に接触しよう。オープン回線を開いてくれ」
「そうか。なら、あんたとこうやって話すのはこれが最後だな」
 ダリルの声に陰りが混じった。
 ……『ウエストランナー』に鞭打ってここまで走ってくるその前に、俺はダリルにこの行程が俺と言う残像を消すための道筋であることを伝えていた。ダリルがどんな気持ちで俺の頼みを引き受けたのかは分からない。改めて問うても、もう無意味だろうが。
「悪かったな。こんなところまで付き合わせて」
「いや、いいんだ。俺はあんたに礼を言いたいぐらいなんだ」
 ダリルは言いながら『ウエストランナー』の操縦席の中へ再び巨躯を押し込めた。
「あんたがそういう奴じゃなかったら、ここまで手伝ってなかったと思うけど」
「そういう?」
「回線、開くぞ」
 聞き返す声が聞こえなかったのか、ダリルは俺の問いに答えず、パネルに指を走らせる。
 ――やめろ、と言う声が咄嗟に喉元までせり上がってくるのを、俺は何とか堪えた。
 それがグロリアの言葉なのか、それとも土壇場で怖気づいた俺の言葉だったのかは、区別ができなかった。
 だが、もうどっちにしたって同じことだ。
「こちら『ウエストランナー』、応答願う――」
 ダリルの事務的な声を聞きながら俺はゆっくりと瞼を閉じた。


 あの赤いウォーハイドラに乗っているハイドラライダーがいつもと違うことはすぐに分かった。
 もともと、不可解な動きをする機体だった。禁忌戦争後に表向き平和路線を取り、実際のところ社内の抗争のあおりを食って大幅にその戦力を減じていたマヴロス・フィニクス社が、満を持して投じてくるハイドラなのだ。搭乗者の腕も悪くはなく、部隊の主力となるような機体であるはずなのに、どうもこの『ローリィ・ポーリィ』を相手取った時だけ、妙な手心を加えている。
 はじめは、こちらの動きを量るために見に徹しているのかとも考えた。だが、戦闘ログを詳細に追うまでもなく、当該機体が撃墜を躊躇っているのは『ローリィ・ポーリィ』のみであって、さらには他のマヴロス・フィニクスのハイドラにはそのような奇妙な行動は見られない。
 であるなら、個人的な事情である、と推測するのが妥当であるように思われたけれど、その心当たりはまるでないのだった。おかげで、内通さえ疑われた。もっとも部隊の人間の中に、こちらの裏切りを芯から考えるものはいなかったのだが。
 何にせよ、不可解な……霊障機であるのも相まって、不気味にさえ感じるハイドラだった。
 しかもそれが、今回は行動が真逆になっていたのだから、こちらとしてはたまったものではない。
 つまりは、執拗に『ローリィ・ポーリィ』だけを付け狙い、他の機体に目もくれない。以前、装甲を撫でるような罅だけを入れて追い払われたことがあったが、その程度で済ませるような風にはとても感じられなかった。
 何かがあって、ハイドラライダーが入れ替えられたのかも知れない。
 もっとも、この機体だけを付け狙ってくれるのなら、それはそれで都合が良かった。だからこそ本隊から離れ、引きずり回していたのだが――
 今や歌声は遠のき、執念深く追いかけて来た殺気もまた失せている。しかも、こちらを捕らえる寸前で。
 ――遊ばれているのか?
 戦況自体はこちらが押している。一体何のつもりで、あの機体はあんな動きをしているのか。
《こちら『ウエストランナー』、応答願う》
 オープン回線で通信が入ったのはその時だった。
 先程から、眼下で明らかに戦闘用ではないDRが動いているのは見えていた。もちろん、見覚えはない。見覚えはないが、『ウエストランナー』は確か、相手方の製品ではなかったか。
 ――いったい、どういうんだ、この状況は?
《お願い、話を聞いて》
 こちらが問い返す前に、また別の声が通信に割り込んでくる。発信源は変わらず、泥の中に埋もれたDRから。
《あたしはグロリア=グラスロード。
 『ゲフィオン』の……貴方を追ってる霊障機のハイドラライダー》
 しかし、この声は。通信越しでも涙が滲むこの少女の声音は。
《ねえ……あなたの名前を教えてちょうだい》
 果たして、どこかで聞いたことがなかったか。