#3 シンデレラの義姉

 霧の中に歌声が響く。
 歪み、軋み、頻りにノイズのかかったそれは、『ゲフィオン』の澄んだ歌声とはまったく違っている。
 よくよく耳をそばだててみれば、歌声ですらないのだ。ぶつぶつとくぐもった誰へとも知れぬ怨嗟の声であったり、明確な形にならずにただただ「どうして」「なぜ」と繰り返される茫漠とした疑問の声であったり、聞いたこともない企業のラジオコマーシャルであったりする。
 歌声が常にかたちを変え、正体を失しているのか、それともかれらの声そのものがこちらの感覚を狂わせて、本当の姿を掴ませないのか、確かめようはない。声に耳を傾け過ぎれば、気がおかしくなるとまで言われている。
 残像領域の深い霧と重い電磁波は、人間の思念を飲み込み、留まらせる格好の媒質だった。
 伸ばした指先さえ見えなくなるような白い闇の中で、ひとびとが終わらない戦争に明け暮れていたころ、死者は今よりもずっとそばにいて、生きた人間へ向けてさまざまな――硬直し、変わることのない――感情を、ただ投げかけ続けていた。それは時に、生者の命を奪いさえした。
 霧が晴れた時、夢から覚めるようにかれらはいなくなった。けれども、果たしてどこへ行ったのか。
 ――そもそもそれは、かれらなどと呼べるような、生きた人間たちに寄り添った存在であったのか。
 とにかく、いずこかへともなく消え失せた死者の念は、こうして北の遺跡にふたたび表出している。
 これらの霊障が、かつて残像領域のそこここに存在していたのと同種のものなのか、俺には分からない。ドゥルガーを求める各勢力のハイドラライダーたちがこの遺跡に押し寄せ始めてからしばらくが経った今、この霧に満ちた遺跡に飲まれて死んだものは無数にいる。区画によってセクションを振られたこの北の遺跡は、かつての残像領域がそうであったように、たびたび人々にその不条理な牙を剥いた――ただ殺されるならばまだいい方で、もっとおぞましい結末を迎えたものたちもいるが、いずれにしろそうした犠牲者たちの感情は、新たに霧の中へ放射され、電磁波の中に焼き付けられ、まだ辺りに残っている。
 そのようなホットスポットは霊場と呼ばれ、特に電磁波の濃い時にはハイドラの装甲さえ砕くような強力な霊障を発揮した。新たな仲間を増やそうとでも言うように。
 もっとも、一度は消え失せ、こうしてまた姿を現した霊場について、深く考えているハイドラライダーはそれほどいないはずだ。
 霊場に対する俺たちの理解なんて、電磁波の濃い時はちょっと厄介な相手、ぐらいのものだった。そうでなければ気にすることもないし、気になるようなら銃弾の一発も叩き込んでやれば、幻のように吹き散らされて消え失せる。その在り方は、ちょっとした揺らぎで見えなくなって保てなくなってしまうような、ひどく脆いものだからだ。それでじゅうぶんだった。
 じゅうぶん、というのは、対処という意味でもそうだし、それぐらいのことを分かって付き合っていればよい程度の存在だった、ということでもある。それほどありふれていたし、むしろかれらの言葉ひとつひとつ、霊障ひとつひとつに思念がこびりついているということに思い悩むようなハイドラライダーは、霊場にとって格好の餌食であるとさえ思われていた。だから、その声には決して耳を傾けず、雑音程度に思っていた方がいい。
 けれど、こので初めて霊場を目にするものたちにとってはどうだろうか。
「……聞こえている?」
 グロリアのひそやかな問いかけは、俺に向けてのものではない。
 『ゲフィオン』の操縦棺の中は、霊場のいびつで調子の外れた歌声と、『ゲフィオン』の発するそれが混ざり合って、いっときは頭の痛くなるような不協和音で満ちていた。
 ただ、それもほんの数分のことだった。今やふたつの旋律は調和し、時折ラジオのチューニングがずれたような雑音を紛れ込ませつつも、ひとつの音楽を奏でている。
 なにか、グロリアが『ゲフィオン』へそうした命令をしたわけではない。
 もともと、『ゲフィオン』の歌は、ハイドラライダーどころか開発者たちも意図していないアンコントローラブルな霊障の表出であって、操作盤をいくら弄ったところで制御できるようなものではない。つまり、『ゲフィオン』が自らの意志で――ハイドラに自分の意志などというものが存在するとするなら、だが――霊場の歌に調和するように歌い方を変えたということだ。
「……そう、よかった。でも、それならもうお別れね」
 グロリアが話しかけている相手の声を、俺もまた耳にしているはずだ。
 だが、俺にはその声をどうしても聞き取ることができなかった。ただ、時折調子を外す雑音交じりの歌が聞こえるだけで、そこに何か意味が込められているとは到底思えなかった。それは果たして霊障に対する適性の問題か。それとも、俺が無意識に耳を塞いでいるだけなのか。
 歌声の中に混じっていたノイズはやがて聞こえなくなった。
 レーダー上にあった霊場の反応も跡形もなく、操縦棺の中にはただ、調子を変えた『ゲフィオン』の澄んだ声だけが残される。
「時間をかけすぎたかしら?」
 シートにもたれ、天を仰いだグロリアが、ぽつりとそう問いかけてきた。
「問題ないさ。霊場の処理はしておくに越したことはないし、それほど遅れも出ていない」
「『園長』、心配しているかも」
「させておけばいい。到着予定時刻は伝えてあるけど、その時間に来れるとは限らないのは、向こうも分かってるはずだ。
 〈デコレート〉を起こしてくれ。今の『ゲフィオン』のアセンブルは万全じゃないから、細心の注意を払わないと」
 今のところ自我のない人工人格ではあるものの、〈デコレート〉は周囲の影響を強く受ける可能性があるセンシティブな存在だ。
 霊場などはまさに、〈デコレート〉を汚染しかねないインパクトが懸念される相手である。ゆえに、『ゲフィオン』が霊場に合わせて歌いだした段階で、かれのスイッチを切っていたのだ。
「オーケー。じゃあカウントを合わせて……3、2、1」
 自分の薄皮一枚下、なにかが浸透してきたようなうそ寒い感覚に、俺は顔をしかめる。
 この北の遺跡――霧と電磁波の中では、俺はずいぶんと調子がいい。陽の光もなく草木のにおいもしないこの場所なら、自分の居場所がないなどと不安がる必要もない。
 だから、あとはこの〈デコレート〉とさえうまい付き合い方を見つけられれば、憂いごともだいぶ少なくなるのだが、これがなかなか難しかった。
 嫌悪感。恐怖心。最近はその理由について考えようとすると、引きずられるようにしてあのディオニウス社の軽量ハイドラのことまで思い出してしまう。
 もちろん、あのハイドラを相手取ったときに感じる忌避感と、〈デコレート〉に対する拒否感はまったく違うものだ。
 だが、そのどちらも、俺にとってはできれば考えたくないことだった。感覚を掘り下げ、探っていったその先に、見つけてはならないものを見つけてしまうような気がしている。
 しかし、考えなくては取り返しのつかないことになるかも知れなかった。特に、あのウォーハイドラについては……戦場で会うのはごめんだ、とは言ったが、マヴロス・フィニクスがディオニウス社に対して企業間闘争を仕掛け続ける限りは、いずれまた戦う羽目になるだろう。前回はグロリアの協力もあって、上手くハイドラライダーを殺さずに追い返すことができた。だが、その次は。いつまでも躱し続けられるはずがない。
 あれに乗っているのは、一体何者なのか。
 それが分かった時、俺は果たしてどうするべきなのか。
「フィリップ? 〈デコレート〉が……」
「ああ、分かってる」
 しばらく寝かしつけられていた人工人格は、俺とグロリアを通してすぐさま戦場を把握すると、せっつくように俺たちに指針を提示してくる。その内容は、脚を止めれば止めるだけ目まぐるしく変わり、まるで苛立ちを表すかのようだった。まったく、いいご身分だ。
「ひとまず、『サルガッソ』へ向かおう。さすがにあんまり遅くなると、『園長』の皺も増えそうだ」
「楽しみね。新しい脚」
 笑顔のグロリアに、俺は一瞬答えに詰まる。『サルガッソ』で換装される脚。新しい、『ゲフィオン』のパーツ。
「……いいのか? グロリア」
「もちろん! 『デコレート』と一緒に考えたアセンブルだもの。
 そりゃ、『ゲフィオン』はそもそも霊障機だから、勝手は違うかも知れないけれど」
「そういう意味じゃなくて……いや、こんなことは、しない方がいいんじゃないかと思っているんだ、本当は」
「この前の繰り返しね?」
 首を傾げ、グロリアはアームカバーの中に腕を押し込んだ。『ゲフィオン』が重たい脚をもたげて、霧の中を歩き出す。
「大丈夫よ、フィリップ。
 やりたいことをやって、行きたい場所に行って……そういうのができないんだから、少しだって許されるならやっていい。
 あたしも〈デコレート〉も手伝うよ。だからさ――」
 グロリアはふと言葉を切り、その先を口に出すことはなかった。唇を引き結び、レーダー図に視線を走らせる。
 周囲にはもう何の反応もない。『ゲフィオン』は静かに、霧の中を進んでいく。
 白く染まった全天周囲モニタの一点を見つめながら、俺は消えていった霊場が『ゲフィオン』の歌から何を聞き取ったのかを考えていた。
 しかし、いくら耳を澄ませてみても、赤いハイドラが何を歌っているのかは分からなかった。グロリアの言葉の先も。
 ――問いかけることさえできないでいる。


 サルガッソ―へようこそ……
 開けた区画の中にいくつものテントが張られ、プレハブが建ち、その間を縫うようにしてハイドラや人がせわしなく行き交っている。
 セクション1は北部遺跡における最初の関門。『サルガッソ』と呼びならわされたハイドラキャンプは、そのセクション1を超えた先に設置されていた。
 ここへ辿り着けないものは遺跡へ挑む価値すらないとされているが、『サルガッソ』自体には企業や教団、ドゥルガー素体を狙う各勢力の出先機関が設置されており、遺跡の中でも比較的安全な場所ではあった。
 比較的というのはつまり、セクションなどというものはしょせん、この遺跡を土足で踏み荒らす盗掘人たちがふった番号にすぎず、遺跡の方は平気でそれを無視してくることもある、ということだ。この『サルガッソ』の目と鼻の先で、深層でしか見られないような奇怪な現象に見舞われ、ついぞ帰って来られなかった者たちもいる。
 もっとも、油断しきっていられる場所ではないにしても、遺跡の中では貴重な安全地帯だった。
「いつ来ても賑やかね!」
 ほどけて口を開いた『ゲフィオン』の操縦棺の端に立ち、グロリアは腰を伸ばしながらそんな感想を漏らす。大勢の人間が行き交い、ハイドラのマーケットや歓楽街までもが詰め込まれたこの街は、確かに賑々しくはある。猥雑、と言った方が正しいだろう。女子供がひとりでは歩けないような場所も多い。それは、ハイドラライダーであるグロリアも例外ではないのだが、それを彼女が分かっているかは怪しいところだ。
 『ゲフィオン』から降りて五分もしないうちに、『サルガッソ』の中でもひときわぼろぼろの大きなテントが姿を現す。入口には、申し訳程度に黒い不死鳥のエンブレムが縫い付けてある。
「何だてめえ、生きてやがったのか!」
 中に入った途端、怒鳴るような声がかかった。
 ……要するに、ずっと待ち構えて入口を注視していてくれた、ということだ。
 声の主は機械油にまみれた老人だった。膝から下、両脚が美しい装飾の施された金属製の義肢になっていて、しっかりした足取りで大股に歩いてくる。
「ごめん。ちょっと霊場を構っていたの。脚ってもらっていける?」
「とっくにできてる。さっさと持っていけ」
 この老爺は、『園長』と呼ばれていた。
 マヴロス・フィニクスに昔からいるパーツ職人で、作ったパーツにすべて動物の名前を付けるから、『園長』……噂では、残像領域のからやって来た異世界人であるとも言う。少し前までは黒い不死鳥の敷地内にテントを構え、そこから出ることはほとんどなかったようだが、北の遺跡が発見されてほとんど間を置かず、この『サルガッソ』へ移動してきたらしい。理由は分からない。語ることの少ない老人ではある。
「わあ、綺麗!」
 『園長』のテントの中には、何に使うかも分からないジャンクパーツが所狭しと積み上げられ、敷き詰められている。
 その一角に目当てのパーツがあるのを見つけて、グロリアは歓声を上げた。
 まず目につくのは、『ゲフィオン』のために塗装された艶めいた赤い色だ。
 だが、グロリアが綺麗だと称したのはその色のことではない。
 ――確かに、美しい脚だった。
 装飾自体はどこまでも排されている。流線形のデザインは、加速した時の抵抗を少なくするためだろう。風を切り裂くような形――『ゲフィオン』が今まで使っていた重い脚とは決定的に異なる、どこまでも機動性を重視した形状だ。
「しかし、何を考えてそんな軽い脚を使うつもりになったんだ?
 そんな小さい脚じゃ、元のパーツはほとんど使い物にならんだろう」
「大丈夫、ほかのパーツもちゃんと準備してるから。
 あとはこの脚をつけて調整すれば完璧」
 ……『ゲフィオン』に接続されているパーツは、そもそもそのほとんどが、霊障を扱うための特殊な加工を施されている。
 『園長』は霊障について専門外であるから、通常『ゲフィオン』のパーツは社内でも別のパーツ屋に発注をかけていたのだが、今回は少し事情が違っていた。
 ウォーハイドラは、その根幹をなすハイドラ・コントロール・システムに九つのパーツを接続することによって、柔軟に変幻にその姿を変える現代のヒドラ――脚部と操縦棺はその九つの中には入っておらず、別で接続する仕組みになっているが、特に脚部は、機体の傾向を決定的に変えてしまう重要なパーツである。
 『ゲフィオン』はふだん重逆関節と呼ばれる、ある程度重さと装甲のある脚を使用している。だが、今回『園長』に作らせた脚はいわゆる軽逆関節だ。普段の脚よりも軽く、速く、そして脆い。
「戦果を出せずにやけになったのか? 付け焼刃で戦場に出てもいいことはねえぞ」
「最近はけっこういい感じですう~。それに、ちゃんと計算に基づいてるアセンブルなんだから」
「〈デコレート〉か。相変わらず研究者ってのは、人間をハイドラのパーツぐらいにしか思ってねえな」
 不機嫌そうな顔で言い、『園長』は鼻を鳴らす。……それは、まったくその通りだ。
 グロリアと同じように人工人格を焼き付けられた被験体たちが、使い物にならないと判断されたあとどうなったのか、正確なところは知らされていない。だが、マヴロス・フィニクスが利用価値のない少年少女たちをいつまでも保護しておくような慈善団体でないのは確かだ。
「でも、〈デコレート〉のアセンブルは刺激的よ。やっちゃダメなことはしてないし。
 ちゃんと動いてみせるから、戦果を楽しみにしていてね」
「脚に振り回されて切り落とされる羽目にならないようにな」
「大丈夫、作ってもらった脚にぴったりなアセンブルを組んでいるもの。爪先とかかとを切り落としてね!」
 そのぎょっとするような喩えに、『園長』は片眉を跳ね上げただけだった。それ以上、なにかを言うこともない。
 ほどなくして外にトレーラーが回され、『ゲフィオン』の新しい脚はテントの外へ運び出されていった。


 ガレージに運び込まれ、脚を付け替えられた『ゲフィオン』は、今までとは打って変わって、ハイドラとしても最小の五メートル級までサイズダウンしていた。
 脚のためにほかのパーツを小型化するにあたって、見てくれを取り繕うための多少のハリボテ――とは言え、きちんとした装甲ではあるのだが――を接続していたのだが、すでにそれも取っ払って、違うパーツをアセンブルしている。
 霊障機、というそもそものコンセプトは変わっていないが、こうなるともう別のハイドラと言っていいだろう。あとはもう、真っ赤な塗装とHCSぐらいしか残っていない。
「すっかり小さくて可愛くなっちゃったね! きっと、みんなびっくりするわ」
 『ゲフィオン』を見上げ、グロリアは上機嫌だ。
 出撃ごと、戦場に合わせてハイドラの傾向をまったく変えるハイドラライダーはいないではないが、『ゲフィオン』はその点、脚に関してはほとんど弄る余地のない構成をしていた。いきなり軽量機になられては、驚くというか、困惑するものはいるはずだ。
「明日の出撃まで慣らし運転を済ませておこう。今までも重量機にしては動き回る機体だったが、比じゃないはずだ」
「Gばっかりはシミュレーションじゃ感じきれないものね」
「ああ、ただでさえ、爪先とかかとを切り落としたような無理なアセンブルなんだからな」
「ふふ」
 俺の言葉に、グロリアはふと笑みを噛み殺した。怪訝な顔をする俺を見上げて、首を傾げてみせる。
「フィリップってさ、灰かぶり姫の物語って知ってる?」
「いや。そういう話なのか?」
 唐突な問いかけに、俺は首を横に振った。グロリアは頷いて、その場でかかとを踏み鳴らしてみせる。
 グロリアの話してくれた灰かぶり姫の物語は、次のようなものだった。
 たった一人の父を亡くしてから継母と義姉二人にいじめられ、下働き同然に扱われていた灰かぶり姫は、お城で舞踏会が開かれるその日も、家で薄汚い服を着て留守番をしていることになる。
 しかし、落ち込んだ灰かぶり姫が庭のハシバミの木の下に行ってみると、そこには美しいドレスと靴が置いてあった。
 舞踏会に出た彼女は王子の心を射止めるが、舞踏会が終われば家に帰らなければならない。急いで帰る時に彼女が落としてしまった靴を頼りに、王子は灰かぶり姫を結婚相手として探し出そうとする。
「それを聞いた継母は、義姉に靴を履かせて玉の輿に乗らせようとするのね。だけど、足が大きくて靴には入らない。どうしたと思う?」
「――つま先とかかとを切り落とした?」
「そう。靴に足がぴったりはまるようにね」
 グロリアは俺の表情を窺うように身を乗り出してこちらを見つめていたが、やがて身を引いて、
「まあ血の匂いと染みであっさりばれてしまって、最終的には灰かぶり姫が王子様の結婚相手になってめでたしめでたしで終わりなのね」
「そりゃそうだ。もしそれで上手くいったって、後から絶対バレるだろう」
「そうね。でもあたしも、もし足が入らなくっても、絶対にガラスの靴を履いてみせるわ。
 だからフィリップ。その時は、きっとあたしの手を握っていてね」
 俺は、笑みの消えたグロリアの顔を、ぼんやりと見返した。
 ――俺は、俺にそれができないことを知っている。
 彼女はどうだろう。そういうことを考えていた。
「もちろん、そんなことをしなくても欲しいものを手に入れられるのが一番だけどね。
 さ、慣らしを済ませちゃおうよ。フィリップも、はやく乗りたいでしょ?」
 目を逸らしたのは、グロリアの方が先だった。かぶりを振って、『ゲフィオン』の方へ向かって歩いていく。
 その背に一瞬ノイズが走ったのを見て、俺は頭を押さえた。


 HCSを、操縦棺を、機体の中に通された管を、グロリアのからだを通して、霧の中に高らかに歌声が浸透し始める。それは操縦棺の中でわずかに聞こえる液化した霧の流れる音と混ざり合い、奇妙な子守歌のようにさえ聞こえる。けれどそれは気持ちを落ち着かせてくれることはなく、むしろ神経のざらついた部分を掻き乱し、落ち着かない気分にさせられた。
 もっとも、それを『ゲフィオン』のせいばかりにするのは筋違いと言うものだろう。俺は首の後ろから刺すような緊張をごまかすように息を吐いて、全天周囲フルスクリーンモニタに映し出された一面の白い霧と――その向こうにけぶる瓦礫や、友軍の影に目を凝らした。ハイドラらしきそのぼんやりとしたシルエットは、索敵機から送られてくるレーダー図の配置に一致する。
 操縦棺の中、俺はグロリアがいつもそうしているように、アームカバーに手を押し込んで、前方へ向けて身を乗り出した。
 自分の動きがひどくぎこちなく、重苦しく感じられるのは、ハイドラに操縦者として乗り込むのが本当に久しぶりだということもあるし、そのハイドラが、俺が前に乗っていた機体――『イグノティ・ミリティ』とはかけ離れた操縦法を求められるためもある。
 けれども、最も大きいのは、これがすべて本当は俺のものではないという自覚があるからだろう。それが、緊張となって実際以上に身体を鈍く、硬くしている……本当にこんなことをしていいのか、という思いも、また足を引きずっていた。
「――大丈夫よ、フィリップ。なんてことないわ」
 そうグロリアが保証してくれても、不安と強張りがすぐさま消え去るわけではなかった。
 遺跡は入口からまずセクション1へ到達すると、そこからセクション2から4へと放射状に道が分かれている。それらをすべて制圧したのち、より深層――セクション5へと駒を進めることができるという。
 そこまでは、他企業や組織の差し向けた調査隊によって明らかになってはいたが、セクション5に到達して生きて帰って来たものはおらず、その先は闇に包まれていた。セクション5の突破は、この遺跡を調査するものたちにひとまず課せられた試練であって、俺たちハイドラ大隊もまた、セクション踏破を目指している。
 レーダー図は間隔を置いて更新されつつも、今のところは大きな動きはない。その画面の上には、セクション3の文字列が表示されていた。セクション5に到達するための関門のひとつに、本来の操縦者であるグロリアではなく、俺が出撃しているのだから、そういう意味でも不安は消せない。
 あるいは、恐怖か。『ゲフィオン』には、撃墜されてもハイドラライダーを保護するための装置が備え付けてあるが、保証されるのは命だけだ。以前、遺跡調査中に一度撃墜された時は、幸いグロリアに怪我はなかったけれど、次も上手く動作するとは限らない。『ゲフィオン』が墜ちた戦場では、死者も出ているのだ。
「……すまない、どっちかにすべきだな。グロリア」
 グロリアの言葉にどう応えたらいいか考えた後で、結局、そういう謝り方になった。
 『ゲフィオン』の操縦権をこうして渡されてみると、緊張と不安で胃がひっくり返りそうになりながらも、降りようという気は湧いてこなかった。無責任な話だが、俺もハイドラライダーなのだ。俺のためにアセンブルされた『ゲフィオン』に乗って、このまま戦闘に臨むことを辞めたくなくなってしまっている。
「ううん。久しぶりなんだから緊張するのはしょうがないよ。ただ、心配はないってことだけは言わせて」
 俺のどうにもはっきりしない物言いと対照的に、彼女は直截で明快だ。自分がこれぐらいの年齢の時に、こんなにものを考えていたかと、思わず考えを巡らせされるほどに。
 今回のことを提案したのも、グロリアの方からだった。言ってしまえば、俺はその誘惑に抗えなかったのだ。
 『ゲフィオン』は本来、グロリアにしか扱えない機体だ。生体認証のためのアプリケーションが内蔵されているため、ライセンスがあっても、生体認証をパスしなければHCSが起動することはない。かつて、マヴロス・フィニクスのハイドラライダーがライセンスを盗まれ、ハイドラが起動して大騒ぎになったことがあったとかで、特に重要な試験機にはすべてこの機能が載せられていた。
 だが、このシステムにはがある。だから、グロリアの許可があれば、俺でも『ゲフィオン』を動かすことはできた。とは言え、軽い脚に切り替えているにもかかわらず、その動きは元の『ゲフィオン』よりはずっとぎこちないままだ。それは、俺が緊張しているからとか、腕が悪いからだからとか、『ゲフィオン』に嫌われているからとか、そういう理由からではない。
「……報告通りに、≪ΜΕΛΠΟΜΕΝΗ≫も『ドゥルガー』もいるな」
 全天周囲モニタに展開されたレーダー図を確認し、俺は小さくつぶやいた。どちらも、この遺跡ですでに確認されている要注意機体だ。≪ΜΕΛΠΟΜΕΝΗ≫については、よくは分からない。射撃や格闘火器でも、霊障でもない、奇妙な力を使うユニットであることだけは認識している。『ドゥルガー』の方はいささか馴染みがあるけれども、こちらの方がむしろ気をつけねばならないだろう。
 そもそも『ドゥルガー』とは、HCSの搭載されていない機体――劣化ハイドラ・擬似ハイドラとも呼ばれるDRの中でも、高出力な霊障を操る実験機体のことを指している、というのが俺の認識だった。この遺跡に現れ、いまハイドラ大隊の前に立ち塞がっているのも、このドゥルガーシリーズ。先日の戦闘で死者を出したのも、この『ドゥルガー』タイプのためだった。
 しかし、多くの勢力が求めている『ドゥルガー』素体とは、この『ドゥルガー』とは一線を画す、過去の大戦の遺物であると言う。詳しいことは分からない。なんにせよ、この遺跡に挑む者たちはドゥルガーを求めて、ドゥルガーと戦う羽目になっている。
「動いたっ」
 グロリアが小さく、しかし鋭く声を上げた。レーダー図が更新され、前線のハイドラが敵部隊に襲いかかるのを確認できる。
 俺は息をついて、アームカバーの中で指先を動かした。グロリアを通じていつも感じていた『ゲフィオン』の伸ばす指は、俺がメインのライダーに成り代わったことでなお鈍くなっている。いつでもグロリアに交代できるよう、霊障機としての体裁は保っているものの、それに頼るのは難しいだろう。
 であるなら、俺が頼れるのは自分により馴染んだ方法だ。
 モニタの中に展開された画面の中、敵機をロックしたのを確認して、俺はボタンへ手を触れた。
 わずかな振動。目も眩むような白い霧の中に向けて、燃える尾を曳いて誘導弾が発射され、すぐに姿を消す。
 画面にはすぐさま命中の表示が流れたが、敵機は、まだ健在だった。と言っても、予定通りだ。軽量化をはかり、ハイドラの機体の各所に格納されたミサイルは、命中したとしてもおおむねはハイドラの装甲に阻まれ、致命的な損傷になることは少ない。だがそれは、一発一発の評価だ。ミサイルの利点は、文字通り矢継ぎ早に弾を叩き込めるというところにある。
 レーダー図上に点在する敵と味方の光点のうち、最初のひとつが消えるまで、そう時間はかからなかった。ただし、『ドゥルガー』でも、≪ΜΕΛΠΟΜΕΝΗ≫でもない。位置からして、霊場であろうと思われた。
『どうして?』
 ……そう、思った瞬間、誰のものとも知れない問いかけが、耳の後ろ側から吹き込まれる。
 いや、正確には受信してしまったと言うべきだろう。霊場の思念は、常に霧と電磁波の中に漂っている。放射された思いが、繰り返し繰り返し繰り返し無為に反射され続けている。その問いからは、かつて存在していた意味も抜け落ちている。もうそこには、何もないのと同じことだ。何を見出すこともできない、機械的な問いかけだ。
 ノイズが走り抜けた。
「フィリップッ!」
 グロリアの鋭い叫び声が、俺の意識を引き戻す。ぼやけた焦点を画面に合わせると、白い霧の向こうに、奇妙に揺らぐ機体、が。
 ――≪ΜΕΛΠΟΜΕΝΗ≫!


 戦闘時間自体こそ長かったものの、部隊の被害自体はそれほど大きいものではなかった。
 『ドゥルガー』タイプは全機撃墜。≪ΜΕΛΠΟΜΕΝΗ≫も撃墜が確認された。≪ΜΕΛΠΟΜΕΝΗ≫はセクション1、セクション2でも撃墜されているが、同タイプの機体が何機も確認されている『ドゥルガー』と違って、こちらはすべてが同一機体であると推測されている。つまり、次のセクション4でも再び姿を現す可能性が高い。
「すまなかったな」
 グロリアが何も言わなかったのは、俺のその謝罪が彼女に対するものではなく、『ゲフィオン』へのものだと分かったためだろう。撃墜こそされなかったものの、≪ΜΕΛΠΟΜΕΝΗ≫に何度もあの奇妙な攻撃を食らって、動くのがやっとというところまで追いつめられている。戦果自体も、目覚ましいものではない。
「次はもうちょっとうまくできるわよ、きっと」
「間隔を置いた方がいい。さすがに何度もアセンブルをこうしていたら、不審がられる」
「ってことは、また乗るのね?」
 目を瞬かせたグロリアの顔に、ぱっと笑みが浮かぶ。俺は頷いてみせた。『ゲフィオン』には悪いが、もう少し付き合ってもらうことにしよう。グロリアも、それを望んでくれているのなら。
 ……それが、誤った選択であることを、俺もグロリアも、この時には気が付いていなかったのだ。