#7 シェファーフント

 テーブルの上には、細かく千切られた紙片が散らばっている。
 その中の一枚を拾い上げて、僕は小さくため息をついた。執念深くばらばらにされたその紙片を誰が作ったのかは、言うまでもないだろう。
 前々週、僕たちの店舗は非常に売り上げがよく、このランキングの一番上に載っていた。その時は、ウィリアムも多少は機嫌がよかったのだが、今回はまた逆戻り、紙の上からは姿を消している。それで、まあ、こういうありさまだ。僕の見ていないところでやっておいて、こうして僕の見えるところへ放置しておくのはやめて欲しいものだが、窘めるべき相手は今リビングにはいなかった。
 ウィリアムの体調は、ここのところ悪くなさそうだ。犬を引き取ってきて面倒を見始めたこともあるのだろう。かねてからの悪い癖であった深酒もすっかりなりを潜めている。こんなことならもっと早くに犬を仕入れておけばよかった、と思ったものだが、それは別に彼の不機嫌や気鬱が解消されたというわけではないらしかった。むしろ、ここのところは体調がいいだけ、かえって苛々も激しくなっているような気がする。
 それは恐らく、記憶の最も大事な部分――と彼が感じている――に、手が届かないことがひとつあるだろう。僕の指にいつの間にか指輪が嵌められているのを見てから、恐らくその感覚は強くなっている。
 集めた紙片を屑籠へ入れて、僕はテーブルの椅子を引いた。
 左手の薬指には、相変わらず指輪が付けられている。僕はその指輪を外して、テーブルの上に置いた。
「――チャーリー」
 指輪の内側に刻まれた名前を、僕はひっそりと読み上げる。
 刻まれた名前は二つ。もう一つは、僕の名前だ。恐らくこれは、結婚指輪というものなのだろう。僕が、誰かと約束をして作った指輪。
 この指輪は、僕にとって確かに大きな変化だ。
 だが、ほかには何も伴わない。この指輪を見ても、この名前を見ても、口に出してみても、僕の心に何の感慨も生まれず、何の記憶も刺激されない。この指輪だけが僕の手元にあっても、だから、何の意味もない。
 そう考えると、この指輪のことをむしろ、忌々しげに感じてしまう。
 こうして大切なものが戻ってきたところで、思い出せなければ意味がない。何かが失われているという気分を、より強くするだけだ。
「…………チャーリー、君は、一体……」
 問いかけは、形になりにもしなかった。つぶやきだけが、むなしくリビングに消えていく。
 と。
 扉の開く音に、僕は顔を上げて指輪を拾い上げた。目を向けると、ウィリアムが相変わらず不機嫌そうな顔でそこに立っていた。
「ウィリアム……」
 僕の方を見もせずに、彼は黙りこくったまま大股に部屋を横切り、さっさと出て行こうとする。確かにもうすぐ店を開ける時間だが、性急すぎる。
 待ってくれ、と声を上げようとして、僕は一度、言葉を飲み込んだ。その背を追っていくはずの犬の姿が、今日は見られなかった。
「ウィリアム、あなたの犬は」
「俺の犬じゃない。……もういない」
 ウィリアムが外へ通じる扉に手をかけたところで、僕は慌てて立ち上がった。返ってきた言葉の意味を、頭の中で噛み砕く。
 迷宮から絶えず生み出されていた、たくさんの犬の中の一匹だ。本当に犬なのか、一体どういう仕組みで生み出されたのか分からない存在。いつ消えてもおかしくはない、と思っていた。思ってはいたが……
「まだ、消えるまで時間はあるものだと」
「さあな。知らねえよ」
 こちらを振り返りもせず、ウィリアムは吐き捨てて扉を開けた。扉の向こうには、僕たちが店を出すべき区画が広がっている。
「だが、初めから分かっていたことだ」
 僕が追いつく前に、目の前で扉は閉められた。


 今日も、店内を犬が気ままにうろついている。
 かれらは本当に好きに動き回っていて、たとえば客のにおいを嗅ぎに寄っていっては、頭を撫でられたリ追い払われたり。店の中の調度や飾りを咥えることもあった。
 客の中には、犬を見て喜び、食べ物を差し出して犬に与えているものもいて、犬もそれを当然のように受け取るのだが、時折ウィリアムが、慌ててそれを止めている。
 僕は犬のことをよく知らないのだが、どうも犬という生き物には、与えてはならない食べ物があるらしい。考えたこともなかったが。
「……」
 ウィリアムはいつも通り、それなりに不機嫌そうに見える。今日が特別どうというようには見えない。
 だが、出がけに彼がさっさと出て行こうとしたのは、間違いなく犬のことが原因だろう。
 店の中に犬はたくさんいた。
 だが、その中に、ウィリアムが連れて帰ってきた犬の姿はない。
 そういうわけで僕は彼のことをちらちらと気にしながら、どうも声をかけられないでいる。
 ウィリアムは、この店に湧き出ている犬たちのことを、自分の犬ではないと言っていた。かつて飼っていた犬がいて、その犬のことを思い出したいのだと。それが思い出せないから、彼は苛立っていた。
 犬を連れ帰ると言った時も、犬を単純に連れて帰りたい、というよりは、記憶を少しでも取り戻そうとするためだろうと僕は思った。
 でも、ゆめまぼろしのごとく消えてしまう存在だろうが、それが最初から承知の上だったとしても、あの犬はウィリアムの部屋にいて、ウィリアムはその面倒をみるのに熱心だった。部屋まで片付けて、餌も水も与えて、今までは想像もつかないほどかいがいしく働いていた。そうでなくても、今まで一緒に寝起きしていた相手が、忽然といなくなって、それで何とも思わない男だとは思っている、のだが。
「……うぜえな」
 不意にそう吐き捨てて、ウィリアムがこちらをじろりと睨み付けた。……まあ、気づかれないはずはないだろう。僕は首を竦めてみせる。
「あなたのことを心配しているんだよ、ウィリアム」
「それがうぜえっつってんだよ。お前があれこれ考えることじゃねえ」
「でも、あの犬がいなくなったのは、僕だって寂しいよ」
 僕がそういった途端、ウィリアムは何故かぽかんとした顔になった。何か言葉を返そうとしてか口を動かすが、言葉が出てこない。俯いて、髪をがしがしとかき回す。彼の足元にまとわりついていた犬が、それを見て少し離れ、様子をうかがうようにその場に伏せた。
「……お前にそういう情緒があるとは思ってなかった」
「ないと思ってたのか?」
 思わず問い返す。僕よりも彼の方がよほどそういう――犬をかわいがるとか――情緒があるようには見えないと思うのだが、喧嘩になるような気がしたので口には出さなかった。
 ウィリアムは片膝をついて手を伸ばし、離れた犬の方に手を伸ばす。
「犬がいなくなるのは分かっていた。消えても構わないと思って傍に置いてたんだ。こいつらも、次にはもういなくなる」
 首をもたげ、犬はウィリアムの掌に顎を載せた。彼はそれを見てなぜか大袈裟にため息をつき、犬の頭を撫で始める。
 僕たちがマーケットで買い求めた、犬を生み出す迷宮は、購入してから既定の期間を決めれば、忽然と消える仕組みになっている。より多くの金を払えば契約期間を延ばせるから、ウィリアムもできるだけ長く契約すると思っていたのだが、彼はそうはしなかった。
「……さっさと記憶を取り戻したかった、すぐに取り戻すだろうと思っていた。だが、このありさまだ」
「願うだけで思い出せるのなら世話はないさ、ウィリアム。僕なんか、全然何も思い出せないんだ。ゆっくりやっていくしかないだろう」
 ウィリアムの目がこちらを向く。彼の表情は、思っていたよりもずっと険しい。
「お前は、考えたことがあるのか?……記憶を取り戻した時に、自分が今までとは違う人間になっちまうんじゃないかと、その時、ここでこうしているはどうなるのかと」
「あなたが……それを考えるのかい?」
 僕は戸惑いながらも、ウィリアムに問い返す。記憶を取り戻す前と、取り戻した後、僕の見る限り、彼は少し短気になったような気はしたが、ほかはそれほど変わったようには思えなかった。もちろん、僕も変わらない、という保証はないけれど、それは僕の話であって、彼のことではない。
「あなたは、僕があなたを殺した、と言いながら、こうしてここにいるのに、これ以上……」
 僕の言葉は、悲鳴によって遮られる。
 まさしく、悲鳴だった。ウィリアムが短く鋭い声を上げ、頭を抱えてその場に倒れ伏したのだ。
 何が起こったのか分からない。慌てて周りを見回すが、店の中で何かが起こったわけではなかった。それを確認して、僕はウィリアムに駆け寄る。
「ウィリアム、大丈夫か!? 一体、何が」
 頭を押さえている以上、体を無暗に動かすことは躊躇われた。そうした予兆はなかったが、彼はそもそも不摂生で、体調もよくなかった。なにがしかの病気の可能性もある。頭の中で出血が起こっているのなら、動かしてはまずいはずだ。
 必要なのは、たぶん医者だろう。だが、この世界のどこに行けばそうした存在がいるのか、僕には見当がつかない。
「ウィリアム、返事をしてくれ。僕の声が聞こえるか?」
「――」
 ウィリアムの手が伸び、僕の手首を乱暴に掴む。
 だが、ウィリアムの目は僕を見ていなかった、天を仰ぎ、何かを睨み付けるような。
「ウィリアム」
 何かが、そこに見えているのか
 また、何かを思い出そうとしているのか。
「なら、どうして僕は」
 掴まれた手首の痛みに、僕は顔をしかめる。ウィリアムの唇がわななき、彼は顎を仰け反らせる。その目は、確かに何かを捉えている。
「――――だ、これで……『シェファーフント』!」
 それが一体、何を指す言葉なのか、僕にも分かった。