#5 変哲のない手

 店の中を護衛たちがせわしなく行き交っている。
 『勇者』たちはいつも通り攻め入るように僕たちの店を訪うと、護衛たちによって席へ誘われ、あるいは乱暴に叩き返されてお帰りいただき、その性質に忠実に振る舞っているように見えた。
 店舗を蹂躙し、あるいは商品を強奪しようと来店したかれらが、護衛たちに宥めすかされて満足して帰る姿は滑稽で、現実のこととは思えないが、記憶の一番最初からこの場にいて『魔王』として働いている僕が、どうしてそれが現実のことと思えないなどと言い切れるのか、その根っこがどこにあるのかはいまだに思い出せないままだ。
 僕は騒がしい店内の片隅で壁にもたれかかりながら、ふと店の様子から目を逸らして、隣へ目を向ける。
 この店舗のもう一人の『魔王』、共同経営者であるウィリアムとは言えば、いつも通り店の隅の飾り気のない椅子に、まったくやる気がないという顔で座り込んでいた。
 いつもと違うのは、その膝の上に一頭の犬が載っていること。その犬の頭を、いつものかれとは打って変わった優しい手つきで撫でつけていることだろう。
 茶色い毛並みのその中くらいの犬は、ウィリアムに言われて購入したマーケットの商品が生み出したものだ。
 犬を生み出す迷宮……という触れ込み通り、店舗のバックヤードに設置された迷宮は、こんこんとその奥から犬を発生させ続けている。ウィリアムが撫でている犬以外にも、何頭かが店の中をうろついていた。幸いなことに、客に向かって吠えたり噛みつくことも、店の中で粗相をすることもなく、大人しくしてくれている。大人しくしているのはウィリアムも同じで、椅子に座ったまま、無言で犬を撫で続けていた。
 だが、その横顔は満足そうには見えず、どうもすっきりしていないように見える。
 ……その理由はなんとなく想像はついていたが、そろそろ確認した方がいいかも知れない。
「よかったのかい、ウィリアム。迷宮の契約期間を四週にしておいて。
 その犬も、迷宮が生み出したものなんだから、期間が過ぎたら消えてしまうだろうに」
「ああ……」
 ウィリアムはこの通り、生返事だ。だが、少なくとも不機嫌ではない。
 僕は壁にもたれかかったままずるずるとその場に座り込んで、一心に犬を撫でているウィリアムの方を横目で見上げる。ウィリアムはこちらに目もくれないが、代わりに犬と目が合った。犬も……犬こそ……なにを考えているかは分からない。ウィリアムの膝に顎を載せて、ただただ撫でられている。丸まった尻尾が、たまにぱたぱたと揺れていた。
「それで、何か思い出したのか?」
「いや」
 やはり、そういうことらしかった。が、ウィリアムは落胆した様子もなく、何と言うことのないような顔で息をつき、
「ただ、俺が欲しかったのは、たぶん これじゃない」
「……あんなに欲しがっていたのに?」
「犬はいいんだけどな」
 背もたれに体重をかけて、ウィリアムは店の方へ目を向ける。
「犬を……飼ってたんだ。そのはずだ」
「その話は、前にも聞いた気がするよ」
「どんな犬だったかが思い出せない。それを思い出したい」
 言いながら、ウィリアムはそこで初めて僕の方を見た。
 僕はどう答えていいか分からず、ウィリアムの顔をただ見返す。
 声を荒げるでもなく、顔をしかめるでもない。淡々と呟くように言うウィリアムの表情は静かそのもので、いつもとはまるで様子が違っている。
 その理由が、こうして犬を手元に置いているからなのであれば、言う通りにしたかいはあったのだろう。
 いっぽうで、思い出したいというウィリアムの言葉も、彼の偽らざる本心であるはずだ。僕とは違い、部分的にでも記憶を取り戻しているからこそ、欠けている部分を埋めたいと願い、もどかしい気持ちでいるのかも知れない。
 とは言え、事情は多少違うとはいえ、本来の記憶を思い出したいと願っているのは僕も同じだ。約束は、果たしてもらわなければいけないだろう。
「ウィリアム」
「分かってるよ」
 そう答えた後で、ウィリアムはかぶりを振り、
「だが、悪いが、俺はお前のことを大して知っているわけじゃない。お前に関わる記憶は、俺の中にほとんどない」
 ウィリアムの言葉は、少なからず僕を落胆させる。しかし、それならなぜ彼は、今まで僕にそういった話をまったくしてくれなかったのかとも思う。
「だからまあ、俺の話だ。面白くもないけれど……」
 僕の内心の疑問を知ってか知らずか、ウィリアムはそう前置きをして、ぼそぼそと話し始めた。
 それほど長い話ではなかった。残像領域に生まれ、やがてハイドラライダーになった一人の男。……つまり、ウィリアムの話だ。
 貧しい家庭に生まれ、幼い頃から親に使い走りのような扱いを受けていた彼は、家を棄ててあるハイドラチームに行きついた。
 ハイドラライダーの中には、企業に所属しているような行儀のいい戦争屋のほかに、小さな互助組織を作って協力する連中もいる。彼がいたのも、そうしたチームの中のひとつだろう。
 はじめはDRに乗っていたウィリアムは、すぐにライセンスを得て己のハイドラを持ち、チームの中心人物となっていく。
「どうしようもない くずどものの集まりだったよ。最低だった。馬鹿ばっかでよ」
 そう語るウィリアムの口調は、自分の親の話をする時よりもよほど楽しげだった。彼にとってはそのチームこそが家であり、家族のいる場所であったのだと想像できた。
「ある時、仕事を請け負った。珍しくもねえ仕事だが、でかい話でな。いくつかの企業を巻き込んだ戦争になりそうだった。企業間闘争って奴だ」
 ウィリアムの表情が曇ったのは、そう語り始めた時のことだ。
 残像領域の企業が戦争を繰り返すのは、ほとんど生態と言ってしまっていい。この世界における『魔王』が店舗を経営し、『勇者』たち相手に商売をするのと同じか、それ以上に、霧の中の企業群は互いに闘争を宿命づけられている。
 企業連盟によって戦局が緩やかにコントロールされ、戦争自体が前線の人間を使い潰すだけの馴れ合いと化していても、それを誰もが理解していても、殺し合い自体は残像領域に絶えることがなかった。
「……だが、どうもうまくなくてな。どこかが約定違反でもやらかしたのか、どこも引くに引けず泥沼になっていて、俺たちも出撃が日に日に多くなって、金はもらってたから途中で降りるわけにもいかなかった。仲間が何人か帰って来れなくて……でも、それ自体はそんなに騒ぎ立てるほどのことじゃない。
 ただ、確かに様子はいつもと少し違っていた。思えば、さっさと手を引いておくべきだったんだろう。いくらでも金は持ち逃げできた。それができなかった。誰も……」
 俯いて、遠く思い出の中を眺めるように視線を彷徨わせていたウィリアムは、ふと顔を上げ、床に座り込んだままの見下ろした。
「何がどうなったのか、詳しいことは思い出せない。
 ただ、最後に出撃したのは特にひどい戦場だった。いつの間にか仲間はみんないなくなっていて、俺のハイドラもレーダーが破壊されていた」
 常に厚い霧に覆われた残像領域の戦場において、レーダーは目の代わりである。それがを失うことがどれほど致命的で恐ろしいことなのか、僕にもよく分かる。
「俺は、その戦場で死んだ。俺を撃墜したのは、お前のハイドラだ」
 そしてウィリアムは、まるで他人事のような口ぶりでそう言った。
 一瞬、何を言われているのか分からず、僕はウィリアムの顔をまじまじと見返す。ウィリアムはすぐに僕から顔を背けると、膝の上の犬の頭を緩やかに撫でた。嘘や、冗談を言っているようには見えなかった。
「僕が……乗っていたハイドラは」
 しばらくの沈黙ののち、僕は何とかウィリアムにそう問いかける。
 ――本当に、僕があなたを殺したのか。
 などと言う質問は、どうしてもできなかった。頭が話についていけていない。そもそも、彼は今、ここに生きている。
「大型の多脚機だ。多脚っつても四つ足だったがな。それ以上のことは何も。
 だいいち、どうして俺がお前の顔を知っているのかも分からないんだ」
 それは――確かにそうだ。
 戦場で行き会っただけのハイドラライダー同士であったのなら、敵同士であったならなおさら、ウィリアムが僕の顔を知っているわけはない。そんなことにも思い至らないほど、僕は混乱している。だがとにかく、ウィリアムは僕が、自分を撃墜したのだと信じているようだった。
「で、お前の方は。何か思い出したかよ」
「…………いや、何も」
「だろうな。そんな気はした。だから言ってなかった。……それだけじゃないが、言いづらいのは分かるだろうが」
 僕はウィリアムの言葉に頷くことすらできず、その場で顔を俯かせる。ウィリアムの話は、予想外で、衝撃的で、飲み込むまでに確かに時間がかかりそうだったが、それ以上に、それだけの話を聞いて何も思い出せないということが、僕を打ちのめしていた。
 疑問だけが、頭の中に渦巻いている。どうして、ウィリアムが僕の顔を知っていて、自分は死んだと断言している彼がここに平然と座っていて、――彼だけが、こうして記憶を取り戻しているのか。
「店番は、俺がしておいてやる。お前は今日は休んでろ」
 犬を抱え上げ、ウィリアムは無造作に立ち上がって歩き出した。僕はその背に向かって思わず手を伸ばし、その手を途中で引き戻す。引き留めたところでどうしようもなく休んでいた方がいい、と、ぼんやりながらも分かったことと、それと、もう一つ。
 床の上に座り込んだまま、僕は自分の両手を広げ、目を瞬かせた。何の変哲もない自分の手、その指先。
 ……そこに、何かが足らないような気がしたのだ。