#11 オーガスト

 ……ひとが、ハイドラライダーになろうと思うきっかけは様々だ。
 金のため、名誉のため、ハイドラという存在そのものへの憧れ、それ以外では生きるすべを持たないから、あるいは、ただライセンスを手に入れたからという理由でHCSに触れたもの。理由に大小や強弱はあるけれども、乗り込んだ以上は彼らは同等な存在であり、同じ戦場で戦い、そして同じように死ぬ。
 いずれにせよ、企業連盟によって掌握され、戦争の絶えることのない残像領域において、戦いや兵器というもの、またその中で戦況を決定づける花形的な存在であるハイドラは、人々にとって遠くもあり、身近な存在でもある。
 僕はと言えば、入った会社にハイドラのライセンスを取るように求められたから、というシンプルな理由だ。
 そうじゃなければ戦闘ヘリか、テンペストか、DRか、装甲車か、そういうもっと死亡率の高い兵器に乗せられていたはずで、そういう意味では多少ほっとはした。それは、それぐらいには会社に評価されているのだという安心でもあった。
 もちろん、その話をした時に両親は心配そうな顔をしていたように思う。でも、かれらは何も言わなかった。残像領域には、死も戦争もありふれている――実際、ふたりとも僕がハイドラに乗って戦場に出ている間に、戦闘に巻き込まれて家の中であっさり亡くなった。母は足が悪かったので、避難が遅れたのかも知れない。その程度のことが生死を分ける。どの場所でも。
「――だからと言って、悲しんではならないということはないでしょう」
 と、彼女は言った。
 僕はその言葉の意味を取りかねて、隣に立つ彼女の横顔を見やる。
 チャーリー=キャボットは、僕と同じ時期にライセンスを取得した同僚で、優秀なハイドラライダーだった。彼女と、彼女の乗るハイドラ『ヴォワイヤン』の〈目〉に、僕だけではなく仲間はみんな、何度も命を救われている。
 いつも冷静で強い物言いをするので敬遠する人もいるけれど、どちらかと言えば戦いにはそれほど向いていない、優しい女性であることを僕は知っていた。
 もともと、オペレーターの腕を見込まれてライダーになった女性であり、その能力を戦場でも十全に発揮してはいるが、……いや、どうだろう。
 あるいは、彼女が戦いにそぐわないという感覚こそ、僕の個人的な感情に基づくものかも知れなかった。
「悲しんではだめだ、とは思っていないよ、チャーリー」
 格納庫の中に組まれた足場の上に並んで立って、僕たちは出撃の時間を待っている。退屈を紛らわすため、あるいは緊張をほぐすための単なる雑談だったのが、いつの間にか個人的な話になっていた。
「正直なところ、悲しいのかどうかも分からない。
 時間を置いたからどうってわけでもなくて、訃報を聞いた時も悲しむどころではなかったんだ。
 別に仲が悪かったわけでも、嫌っていたわけでもないんだけどね。疎遠だったからかな」
 僕は言葉を選びながら、グローブに包まれた手を組み合わせる。屋内ではあるものの、この区画は大して除湿がなされていないため、こうして立っていると髪も身に着けているものもすぐにしんなりと湿っていく。
「あなたのそういう言い方って、どう反応していいか困るわね」
「……すまない、確かにそうだね。なんだかふわっとした話をしてしまった。
 だから何、って話じゃないんだ、本当に」
 足下には、僕の乗機である『アンテロープ』が伏せていた。
 少しばかり巨大でごつい見た目だけれど、こうして見ると名前の通りに草食動物のようにも見える。
 その隣に、『アンテロープ』よりもずっと小さい、頭でっかちの『ヴォワイヤン』が並んでいた。ちょうど、僕らが並んでいるのと同じように。
「チャーリー、ただ僕は……」
「何?」
 チャーリーの目がこちらへ向けられる。
 僕はその、夜明けのまだ薄暗い、朝靄の中のような色をした冷えた青い目を見返して、とっさに言葉に詰まった。
 これから僕が口にすることで、彼女が怒るのではないかと不安になったのだ。僕の言いたいことを、正確に伝えるために、よほどの言葉を尽くさなければならない気がしていた。
「……いや、そろそろハイドラに乗り込んでおいた方がいい時間だ。今日もよろしく頼むよ、頼りにしている」
 だから、結局僕は言いたかった言葉を飲み込んだ。実際、彼女に僕が思っていることを伝えきるまでにはどだい時間が足らない。
 チャーリーは僕を訝しげな目で見上げていたが、やがてひとつ頷いて、
「了解。こっちこそ、あなたを頼りにしているわ」
 それだけ言って、彼女の方がさっさと僕に背を向けて歩いて行った。それを見送って大きく息を吐き、僕は胸を撫で下ろす。
「あとで、詳しく話を聞かせてもらうから」
 というところに、チャーリーのそうした声がかかったので、思わず噎せそうになった。彼女は振り返りもせずに階段を下りて、『ヴォワイヤン』へ向かう。
 ハイドラの中に滑り込むその小さな彼女の姿を見つめ、僕は唇を引き結んだ。出撃の後に、もし彼女がこの話を覚えていたら――そのために、どう彼女に伝えるか、決めておかなければ。もしかしたら、それはひどく陳腐で、バカみたいな言い回しになるかも知れない。
 ただ僕は、彼女には死んで欲しくない。


「きっと、どちらかが先に戦場で死ぬわ」
 そう言って白い手に嵌めた指輪を見下ろすチャーリーの顔は、ゆるく微笑んでいた。
「……けど、意味のないことじゃないと、君も思ってくれてるはずだ」
「ええ、そうね」
 彼女が広げた手をこちらに差し出す。その手に重ねた僕の指にも、同じデザインの指輪がある。チャーリーが、こちらを見上げる。
「ありがとう、オーガスト。――愛している」
 そのひそやかな言葉に、僕はきっと、同じように返したはずだ。


「各員、先に撤退してくれ! 『アンテロープ』もすぐに後を追う!」
 僕はそれだけ言って通信を切った。近づいてくる反応に、意識を集中する。
 この泥沼の戦場で、恐らく最後に相対する敵だ。『ヴォワイヤン』も、ほかの仲間たちも、これできっと逃げ切れる。


 ――忘れるはずなどなかったのだ。
 本当であれば、これは忘れるはずがなかったことだ。
 膝をついた僕の脚の間には、吐瀉物が撒き散らされている。
 いったい何が起こったのか、まだよく分からないでいる。けれど、ここではないどこかで何かが起こって、僕たちの目の前にライセンスが落ちてきて。そのあとは。
「チャーリー……ッ」
 顔を覆い、僕は低く呻く。
 チャーリー、チャーリー=キャボット。僕のただひとりのひと。
 どうして、思い出せないのだろうと思っていた。大切であったはずの人であれば、なぜウィリアムのように思い出すことができないのかと、彼に的外れな怒りを向けもした。
 それは、本当に的外れだったのだ。忘れていたのは、思い出せなかったのは、ほかでもない――僕が望んだことだからだ。
 忘れてしまいたいと、覚えていたくないと、僕が望んだのだ。思い出せないのは、当たり前のことだ。
「チャーリー、すまない、僕は……」
 謝罪が彼女に届くわけもないのを分かりながら、僕はかすれた声で言葉を吐き出した。
 いや、果たして本当に届かないのか。
 僕にはそこに、彼女がいるのが見えている。
 青ざめた顔をして、拳を握りしめ、こちらを見つめる彼女の顔が。見たこともないような険しい顔でこちらを睨みつけている、その瞳が。
 僕の視界ではない。僕が見ているものではない。
 ただ僕には、〈彼〉が何を考え、何を感じているのかが分かった。手に取るように。まるで自分が感じているかのように。だが、それは僕ではない。
 自分の中に、もうひとり誰かがいるような感覚――しかしこの場合、中にいるのは僕の方だった。
「ん、ぐ……ッ」
 胃のひっくり返るような感覚に耐えきれず、僕は再び激しくえずく。
 とは言えもはや戻すものもなく、酸っぱい臭いのする胃液が口から溢れるだけだ。喩えようもない気持ちの悪さと違和感が、体を支配している。そしてそれは、向こうも感じていることだった。それが分かる。
 だから、忘れてしまいたかった。どうしてもこれから逃れたかった。彼女のことさえ忘れたとしても。
 けれど、もうこうして思い出してしまった。
 うずくまったまま、僕は視線を巡らせる。
 ここにはいない誰か、ここではないどこかの映像ではなく、僕がいるこの世界のことを見ようとする。そうすることで、誰かとひとつのからだを共有するようなおぞましさが消えるわけではなかったけれど、ウィリアムもそこにいるはずだ。
「――っ!」
 喉に、誰かの手が触れる。
 思った瞬間、こちらの視界がぐるりと回って、仰向けに押し倒されていた。抵抗する間も無く押さえ込まれ、首に指がかかる。息苦しさに目が眩み、僕は呻き声を上げた。
「ウィ、リアム……ッ!」
「呼ぶな……!」
 僕が辛うじて上げた声に、ウィリアムは顔を歪めた。手にはますます力が込められ、親指が喉笛を押し潰すようになっている。
「くそ、ふざけやがって、ふざけるな、何が、ABだ、こんなことがあってたまるか……!」
 彼のその言葉の意味も今の僕には分かる。そして、彼の感じている怒りも、痛いぐらいに分かる。息苦しさは、もはや痛みに変わっていた。それでも僕は。
「なら」
 僕の思考を読んだかのように、ウィリアムが眉根を寄せる。僕が彼のことが分かるように、彼も僕のことが分かる。
「そのまま死んじまえ」
 ウィリアムの噛みつくような声とともに、僕の意識は緩やかに暗闇に落ちていった。