#3 見覚えのない男

「ウィリアム、ウィリアム」
 閉め切られた扉を何度かノックすると、向こうで人の動く気配があった。
 店の共同経営者であり、この部屋の同居人であるウィリアム=ブラッドバーンは、もとより深酒の癖があり、ひどい時は二日酔いに寝不足で、僕が寝る直前に起きてくる日もある。
 いくら窘めても改める気配がないため、ふだんは放っておいているのだが、店を開ける時ばかりはこうして起こさないわけにはいかない。彼は店の経営に関してちっともやる気がないのにも関わらず、放っておいて話を進めると怒るので……つまりは僕にとって非常に面倒なことなのだけれど……こうして、目を覚ましてくれるまで呼びかけるようにしていた。
「……大丈夫かい? 本当に調子が悪そうだけれど」
 頭を押さえて部屋から出てきたウィリアムを見て、僕は思わずそう問いかける。
 髪がぼさついているのはともかくとして、顔色が悪く、目も充血している。彼は昨日は夕方ぐらいに部屋に引っ込んで、ずっと寝ていたと思っていたのだが、こうして見ると眠れていなかったのかも知れない。
「問題ねえよ」
 低く唸るようにウィリアムは言って、血走った目を僕に向ける。
「だが、てめえはずいぶん調子がよさそうだ」
「あなたは酒を控えた方がいい、ウィリアム。いくら何でも飲み過ぎだ」
 と言いつつも、僕も今の彼が二日酔いのせいばかりで体調を崩しているわけではないことは認識している。
 以前、ウィリアムがいつも通り具合が悪そうに起き出してきて、吐き戻したことがあった。
 もちろん、それ自体は取り立てて変わったことというわけではない。
 問題なのはその後だ。僕と同じように記憶を喪い、わけもわからずともにここで生活している彼が、おぼろげながらも昔のことを思い出したらしいのだ。悪夢を見たために体調を崩した、とウィリアムは言ったが、その夢には恐らく彼の過去が付随している。
「こんなこと、酔わなきゃやってられるかよ」
 吐き捨てると、ウィリアムは僕を押しのけて、重い足取りながらもリビングへ出た。ここのところ部屋に籠もることが多くなってきた彼は、起きている時もこうして具合が悪そうだ。
「ウィリアム、本当に調子が悪いのなら、休んでいたって別に……」
「馬鹿言え! 最初っから俺がいなかったら、連中に舐められるだろうが」
「あなたは、またそういう……」
 ウィリアムの声粒が多いのは、耳の遠い僕への配慮だ。しかし、その言葉はまるきり破落戸ゴロツキの論理だった。実際、破落戸なのかも知れないけれど、僕はそこまで彼のことを知らない。
「いいから、さっさと行くぞ、オーギー」
 こちらの答えを待たず、ウィリアムは扉を開け放つと、捨て鉢めいた早足になって、部屋を出て行ってしまう。
「……」
 その背に声をかけようとした僕は、開きっぱなしの扉の向こうに広がる大迷宮が見えた途端に、ふと息を飲んで身を竦めた。
 どうしてなのか、自分でも分からない。何かが、僕のどこかをくすぐっている気がする。
 その『どこか』は、あるいは僕の失われた記憶なのかも知れないけれど、その感触を追ってみても、形があるものを捕まえられはしなかった。
「オーギー! さっさとしろ、この〈のろま〉野郎!」
 ウィリアムの罵声。
 僕ははっと我に返り、慌てて彼の後を追った。


 この世界が滅ぶまで、あと十二週しかないという。
 それを防ぐために僕たち魔王が何をするかといえば、迷宮を訪れる勇者たちに商品を売り払い、あるいは何らかのサービスを提供して彼らから金品を受け取るという、ごくごく単純な商売だ。
 実際、これが世界の滅びを防ぐためにどのように役に立っているのかは分からない。分からないが、それ以外にやれることもないようなので、僕たちはこうして迷宮の中に店を構えて、勇者たちを相手にしている。
 『勇者』と呼ばれるものたちの姿は様々だ。
 たとえば、炎を纏った天使。
 たとえば、みすぼらしい野良猫。
 たとえば、崩れかけた土人形ゴレム
 僕たちに姿を見せるとは限らない。店の中に乾いた足跡が続き、金品がいつの間にか残されているということもある。
 そうした勇者たちがいずこからか迷宮の中にやってきては、僕たちの店に気紛れに押し入ってくる。まさに、押し入るという表現が正しいだろう。お行儀のよい『お客様』はほとんどいない。店の中を荒らしたり、商品を勝手に持って行こうとするようなものばかりだ。
 そうしたものたちをさばくのも、僕たちの仕事となる。正確には、マーケットで雇い入れた護衛たちがその業務を負うため、僕とウィリアムはその監督をしつつ、客を送り迎えしているに過ぎないのだけれど。
「オーギー、あの男を知っているのか?」
 ウィリアムが思い出したように声を上げた。その間にも、店の壁をひっかこうとした猫を備え付けの苔が柔らかく包み込み、席へ運んでいる。
「あの男って?」
 とぼけてみせると、ウィリアムはあからさまにへそを曲げた顔になった。
 でも、これぐらいやり返すのは許してもらってもいいと僕は考えている。僕と違ってウィリアムは多少でも記憶が戻っているのに、そのことについてずっと口を噤んだままだ。
 殴ってでも聞き出したいという衝動がたまに襲ってくるのも事実だが、単純に喧嘩は避けたいというのと、恐れもあった。記憶を取り戻して、今までの自分と変わってしまうのではないかという恐怖。そして、ウィリアムのように体調を崩してしまわないかという恐怖。
「連中だよ。『水族館』の――」
 舌打ちしながらも、ウィリアムが言葉を続ける。
 僕は頷いて、店の入口のガラス戸を開けた。
 そこには、やはり広大な迷宮が広がっている。ぐるりと視線を巡らせると、ほかの魔王の店舗が点々と建っているのが見えた。
 魔王の店はいつも同じ場所にあるわけではない。勇者たちが来そうな場所に、その都度移動している。
 そうして現れた僕たちの店舗は、一応喫茶店という体裁をとっているが、外観にも内装にも飾り気はなく、看板が出ていなければ何の店なのかも分からず、店名さえない。
 それでも、この店に訪れる奇妙な客たちは、店の中で座って飲み物を出すだけで満足したり、マーケットから仕入れた得体の知れない商品に金を出したりする。
 こんな店を構える魔王たちが、この迷宮の中にはひしめいていた。
 深夢想水族館トリエステはそんな中で、僕たちと姉妹提携を結んでいる店だ。
 提携といっても、商品の都合をしたり互いの宣伝をしたりしているわけではなく、何と言うか、不可侵条約めいたものを結んでいるのに近い。『いつも近い場所に店舗を出し、できるだけ客を取り合わない』といったような。
 だから、水族館アクアトリエステも、すぐ近くに店舗を構えている。その証拠に少し外へ出ると、ほのかに塩辛い香りがした。
「僕は何も覚えていないんだよ、ウィリアム。見当もつかない」
 提携相手にこだわりはなかった。客を取り合わなそうだったというだけで、そこにほとんど経緯も意味もない。
 けれど、かの水族館の経営者の一人が僕の顔を見てこう言ったのだ。『ハイドラライダーという言葉を知っているか』と。
「あなたの方はどうなんだい。あなたは――少なくとも、自分がハイドラライダーだったことは覚えているだろう?」
「知ってたらこんなことは聞かねえよ」
「なら、僕については?」
 振り返ると、ウィリアムは硬い表情で僕を睨み付けていた。僕はその目を、まっすぐに見返す。
 答えが出ないことを知りながら、彼が口を噤んでいる理由について僕は幾度も想像を巡らせている。彼は僕のことを知っていて、記憶を喪う前の僕が相当に厭な奴であったのではないかとか。そうでなくとも、僕たちの間にはよくない因縁があるのではないかとか。――そうでなければ。
「ウィリアム。どうして、あなたはそんなに……」
「オーガスト!」
 僕の言葉を遮って、ウィリアムがこちらに一歩足を踏み出し、さっと僕の胸倉を掴んだ。
 たたらを踏みながら、僕は彼の方に引っ張られる格好になる。
 と同時に、地響きのような音ともに、店の中が大きく揺れた。
 首だけで振り返ると、そこには巨大なゴレムが立ち、店の入り口を壊さんばかりの勢いでこちらに入ってこようとするところだった。その周りには、バチバチと雷のようなものが纏わりついている。
 彼ら勇者は、相手がどういった存在なのかということをまったく斟酌してくれない。ウィリアムが引っ張ってくれていなかったら、接触して感電していたかも知れなかった。
「い、いらっしゃいませ……」
 さすがにぞっとして、僕が恐る恐る言葉を発すると、それを合図に護衛たちがゴレムの相手を始める。身を縮めて店の中へ入ってくる巨体をちらりと横目で見やって、ウィリアムは安堵の息をつくと、僕からようやく手を離した。
「……お前について知ってたら、とっくにもっとちゃんと話してる」
「……」
 ため息交じりに吐かれた言葉に、信じていいのかと問い返すことは躊躇われた。
 僕はぼんやりウィリアムの不機嫌そうな顔を見つめたが、ウィリアムは結局僕と目を合わせることはなく、客の様子を見に行ってしまう。
 それを黙って見送りながらも、彼が僕に隠し事をしているのではないか、という拭い去ることはできないでいる。
 息をつき、僕は目下の当店の提携先、アクアトリエステのことを考えていた。僕に問いを投げかけた、ニーユという人のことを。
 ウィリアムが僕のことについて知らないと言うのなら、彼にもあらためて話を聞いてみないとならないのだろう。
 でも、あの潮の香りも水槽の色も、僕には手応えを与えてくれない。