#6 指環

「それはだめだ。だーめーだ。おい、こらばか、だめだって。
 ……つーか、さっき食ったばっかだろうがよ。おい、アホ犬。離せ」
 床に放り投げられたビニール袋に鼻を近づけ、あまつさえ口に咥えようとしているその鼻先を、俺は手で押さえて無理矢理止めさせる。
 もう片方の手で、いつからそこに転がっているのか知れないぐしゃぐしゃの袋を拾い上げて犬から離すと、俺は安堵の息をついた。
 明るい橙色の毛並みをした犬は、今まで自分が何をしようとしていたのかすっかり忘れてしまったのか、鼻を押さえられて不満げな顔をひとつせず俺の手を舐めだしている。――まったく、危なっかしいったらない。
 迷宮から湧き出す犬の一頭を、俺は自分の部屋に連れ帰ってきていた。店から出したら消えてしまうかも知れない、とも考えていたのだが、今のところはそんなこともなく、家の中をうろうろと歩き回っている。
 で、頭が悪いのか、それとも犬とはこういうものだったか、気になるものがあるとすぐに顔を近づけてにおいを嗅ぎ、とりあえず、という感じで口に含もうとするので、俺は散らかり放題にしていた自分の部屋をこうして掃除する羽目になっていた。
「おいこら、それもだめだ――あっ!」
 丸まったジャージを犬から引きはがし、ベッドの上に放る。放ってしまった。
 しまった、と思った時には、犬は驚くべき反射速度でその後を追い、前足でジャージを押さえ込むと、生地に躊躇いなく歯を立てた。……今のは俺が悪かった。というか、そもそも、この落ち着きのない犬をここに居座らせたまま掃除をする、という行為に無理があることに、俺は薄々気が付き始めている。
 だが、リビングがここよりもずっと片付いているとは言え、この犬から目を離すというのも不安があった。犬の興味を惹きそうなものがないわけではない。
「……しゃあねえな」
 ということは、俺以外の人間にこの犬を見ていてもらう必要がある。
 俺は即座に共同経営者に頼ることにして、ジャージに噛みつくのに夢中の(俺の方に持って帰ってきすらしない)犬を抱え上げた。
 俺がきちんと面倒をみる、という条件でもって連れて帰って来たので、手を借りるのは少々気が引けるが、さすがにこの程度のことならオーガストtも難色を示さないだろう。
「オーギー、部屋を掃除すっから、こいつのことを……」
 言いながらリビングに出た俺は、途中で言葉を止めて部屋を見回す。
 いつもならばテーブルの席について、朝飯を食うなりなんなりしているはずの若造の姿が、今日に限って見当たらなかった。
 もしかしてまだ寝ているのか、という思いつきを、俺はすぐに頭の中で否定する。目を覚ました犬が元気に部屋のものに噛みつきだしたもんで慌てて掃除をしていて気が付かなかったが、時計を見るとそこそこいい時間になっていた。
 今回、俺たちはほかの魔王を助けるとかで、勇者化した魔王の臣下とやらに有償で物資を運んでやることになっている。俺たちの店舗は基本的に救援物資になるような商品は仕入れていないのだが、炊き出しとかなんとか名目をつけて店を出す予定だった。あのばかにまじめなオーガストが、いまだに寝こけているのはおかしい頃合いだ。行事の前夜にわくわくして寝れなくなるタイプでもない。が、俺を置いてさっさと出かけたとも思えない。
「おい、オーギーよお」
 犬を床の上に下ろし、呼びかけながら、俺は締め切られた扉を何度か叩く。反応はなかった。そもそも、オーガストの奴は耳が悪い。大声で呼んだところで、扉越しでは聞こえていない可能性もある。
「……」
 俺は逡巡したが、結局は時間がないことを理由にすぐにドアノブに手をかけた。それに、オーガストの面倒ごとは、恐らく俺の面倒ごとでもある。関わり合いにならずに済ますことはできない。
 ……部屋に、鍵はかかっていなかった。


 俺の部屋とは対照的に、オーガストの部屋はよく片付けられていた。と言うより、そもそも置くべきものがそれほどなく、殺風景な印象を受ける。寝台のほかには、小さな棚にこの世界で買い求めた書物が数冊、行儀よく収められているだけだ。
 オーガストという男がもともとそういう男だったのか、それとも記憶を喪っているせいでこうした有様になっているのかは判断がつかない。俺は記憶を取り戻す前と後で自分の性格に変化があったという自覚はないが、オーガストのこの性格が元からのものではないという可能性はないとは言えなかった。
 迷宮の底に作られた部屋に窓は設えられていない。明かりが消されていれば部屋の中は完全に闇に落ち、開いたドアから差し込む明かりだけが光源となっている。ベッドに目を向けると、そこに部屋の主が仰向けに横たわっていた。俺は息をついて、大股にそちらに近づいていく。
「……オーガスト」
 返事はなかった。薄暗い部屋の中、身動ぎさえしないが、死んでいるわけでもないらしい、ただ、眉根を寄せて苦しそうにしているのが見える。
 あるいはこいつも今、まさに、何か悪夢を見ているのか。
 そのことに思い至って、俺は思わずぎくりとする。そうして、俺と同じように何かを思い出そうとしていて――目が覚めた時には、まるっきり人が変わっているということもあり得るのだ。
 こいつは、俺を殺した男なのだから。
「――起きろ!」
 俺はほとんど反射的に手を伸ばし、オーガストの肩を掴んでいた。体を強く揺すると、ほどなくしてオーガストが低く呻き、ゆっくりと目を開く。
 その目が、薄く開かれた金色の目が、瞬間的に怯えに歪んだのを、俺は見逃さなかった。
「……………ウィリアム?」
 だが、俺の顔に焦点が合った途端、気のせいであったかと思うほどにすぐにそれは霧散する。オーガストはぼんやりと何度か目を瞬かせて、胡乱な声を上げた。俺はその間の抜けた声を聞いて安堵のため息をつき、オーガストの肩から手を離した。指先がこわばっていた。
「朝だ」
 正確には、もうの時間と言っていい。俺は顔を歪めて、オーガストを睨みつける。
「無駄に早起きのお前が起きて来ねえから、心配して来てやったんだろうが」
「僕が……? そうか、すまない……」
 身を起こし、オーガストは頭を押さえる。顔色は相変わらずよくなかったが、その口ぶりや振る舞いは、いつものオーガストに見えた。
「魘されていた、何か、思い出したか」
「夢を?……いや、何も覚えていない。どんな夢を見たのかさえ……ああ、悪い、すぐ準備をする」
「寝てろよ。店番ぐらい、俺がやっておく」
「そういうわけにはいかないよ」
 立ち上がろうとするオーガストを俺は止めようとしたが、オーガストはかたくなにかぶりを振った。掛布を払って、ベッドを降りる。俺を避けてリビングへ向かおうとするその足取りは、いつかの俺のように覚束ない。
「無理すんなって……」
 オーガストの背を目で追って、俺はかけようとした言葉を途中で飲み込んだ。
「……おい、オーガスト、お前」
「止めないでくれ、ウィリアム。
 あなたと違って、僕は何も思い出せないんだ。せめて、いつも通りのことだけでもやらないと」
「そうじゃねえ、お前、ちょっと待てって」
 訝しげな顔でオーガストがこちらを振り返る。俺はそれに無言で歩み寄り、壁について体を支える、オーガストの左手を掴み取った。
 その薬指には、銀色の指輪が嵌められていた。
 ――つい昨日までは、確かそこにはなかったものだ。オーガスト自身、自分がつけているその指輪には、まるで覚えがないらしい。こちらへ向かって、うかがうような視線を向けてくる。
 その顔を何の気なしに見返し、続く言葉を考えていた俺は、一拍遅れてその目の意味に気が付いた。
「俺じゃねえよ!」
「そうだよな、うん。よかった」
 あからさまにほっとした顔で胸を撫で下ろし、オーガストは眉を寄せて指輪に目を落とす。
「……いや、でも、どうして」
「マジで何も思い出せないのかよ」
 問いに、オーガストはかぶりを振る。指輪に指をかけ、外そうとして止めて。オーガストは戸惑うような顔でこちらを見た。
「なあ、ウィリアム。あなたはこれがどういう意味か分かるか?」
「知るかよ」
 俺は吐き捨てて、オーガストの手を離した。オーガストの横をすり抜け、リビングに出る。
 犬は暗い場所に入っていくのが躊躇われたらしい。リビングを気ままに歩き回って、今は椅子の脚を嗅いでいた。部屋から出てきた俺を見向きもしない。
 その犬を抱え上げ、俺はふとオーガストを振り返った。オーガストはまだ指輪を見つめているのか、こちらに背を向け、その場に立ち尽くして俯いている。
「残してきた奴がいるってことだろ、たぶん……」
 言った後、俺は自分でぎょっとして、踵を返して足早に部屋の外へ向かって歩き出す。オーガストがついているのか、きていないのか、もはやどっちでもよくなってきた。
 残してきた奴がいるのだ。オーガストには。
 あるいは俺にも。
 だが俺は、どうしてもそいつの顔を思い出すことができない。