#13 その声を聞け

 どこまでも鼻につく、甘ったるい匂い。
 それは果物や花のものとは似て非なる人工的な香り。さして特別なものではない、少し珍しいだけの香水のそれだ。
「……大丈夫、心配しないで」
 とろけるような笑みに細められた琥珀色の瞳は、愛おしむと言うよりは、玩具か実験動物を眺める観察の色を帯びている。
 彼女にとって、目の前に座る男は患者であり、同時に作品でもあった。
「落ち着いて、ゆっくりと息をするんだ。
 何も心配は要らないよ。君は、ここにいる。そう、君の名前は――」
 子供をなだめるような優しげなその声を聞いていたのが誰だったのか、今はもう分からない。
 オーガスト=アルドリッチであったかも知れないし、ウィリアム=ブラッドバーンであったかも知れないし、まだ名前を与えられたばかりの、己が何者かも理解していない『AB』であったかも知れない。
 あるいは、その全員か。誰にも、この記憶が誰のものであるとは断言できない。
 少なくとも、自分がどこにいるか分かるような状態には置かれていなかった。暖かい綿の塊のような微睡みの中にあって、ずいぶんと長いあいだ、彼女の声だけを聴いていた。
 そうしてゆっくりと僕たちだけが水に溶かれたように薄まって、沈んでいったのだ。
 それが果たして、苦しみを取り除かれるまでの時間だったのか、己というものを剥奪されていくまでの過程だったのか、それは分からない。
 ウジェニー=エッジワース博士が行った、悪魔的としか言いようのない行いを責め立てても、今さら何がどうなるわけでもない。
 いったい、何が悪かったのか。あの戦場で、部隊の撤退判断が遅れたためか、僕ひとりで彼を相手にすることを決めたことか、オープン回線の通信を切っていなかったせいか。
 それとも、ウィリアムの執念が為せる業だったのか――僕自身の心がもう少し強ければ、こんなことにはならなかったのかも知れない。
 いずれにしろ、気がついた時にはすべては取り返しのつかない状態で、ぐちゃぐちゃに混ざり合って手が付けられなくなっていた。
 僕とウィリアムが意識を沈められ、その上に書き込まれたプレーンな人格に名前が与えられて、すでに二年が経っている。
 そこにどんな感情を抱いていいのかさえ、僕には分からなかった。
 生き延びたいのであれば、チャーリーのところへ戻りたいのであれば、ウィリアムが言っていたように、彼を殺し、『エイビィ』を殺して、自分の身体を残像領域に取り戻すことも可能なのかも知れない。
 けれど、その先に待つものが何なのか、僕には想像することができなかった。チャーリーが僕を迎え入れてくれるのか……そうではなくて、どこまでも自分の感情のことだ。僕は、自分のことしか考えられない男だ。
 だから僕はすべてを忘れて、ただ苦しみから逃れる道を選んだ。
 だというのに、自ら望んで忘れていたというのに、どうしようもないことを取り戻そうと躍起になっていた。
「どうしようもないだと」
 それは本当に、ウィリアムの声だったのだろうか。
 あるいは、僕の中にある、彼の記憶をもとにして、僕自身が反駁したものだったのか。
 ただ、押し殺すような唸り声は、確かに僕の頭の外側から聞こえてくる。
「どうしようもないはずがあるか、まだ、戻れるはずだ」
 ウィリアムが吠えている。今まで、残像領域でいくらでも殺してきたのと同じように、僕と『エイビィ』を殺して、ダリルのところへ帰るのだと。
 だが、彼にもまた僕の惧れが伝わっているはずだ。
 残像領域にひとつだけ残ったあの体は、もともとはウィリアムのものではない。僕のものであったとしても、頭の中身ばかりではなく体の感覚に至るまで、三人の記憶が混淆し、区別が付けられなくなっている。
 人間の記憶は、簡単に消せるものではない。一度書き込まれてしまったそれを、どのようにして消し去るものか。
 事実、『エイビィ』も今なお、僕とウィリアムの記憶に苦しめられ、エッジワース博士もまた、僕の中のウィリアムの人格を消すことを諦めて、〈彼〉で上書きすることを選んだ。そして失敗した。……失敗した、と言ってしまっていいはずだ。今の、このありさまは。
 見捨てて、死なせることを選んでくれていれば、こうまでなることはなかったろう。でも、彼女は自分が作った人格を、時間をかけて育てることを選んだ。……そのような手間をかける女なのだ。彼女は。
 『エイビィ』、〈彼〉の、エッジワース博士に対する怒りと憎悪も、また生々しい手触りがある。
 正しいかたちで生まれることのなかった〈彼〉のこの二年間が、どれほど痛苦に満ちたものであったのかも。
 構うものか、とウィリアムが呻く。だが、彼もその痛みを、まるで自分のもののように感じているはずだ。それが自分のものではないと、頭で考えて切り分ける必要があった。そうでなければ、すべてが自分のものとして受け止められ、思い出されてしまう。
 僕たちは互いの頭の中を覗きすぎた。否応なしに。分断された他人ではもはやあり得ない。
 そんな相手を、いったい、どうやって殺すというのか。それは、自分を殺すことにはならないのか。
「殺せるさ」
 ウィリアムが立っている。
 頭を押さえた彼の顔には、少なくない量の血が伝っていた。こちらを睨み付ける彼の姿は、あの日、あの戦場で見たものと確かに同じだ。
「殺せる……今までだって、嫌になるほど殺してきたんだ。今さら、何が変わるものか」
「でもそれは、顔も知らない、言葉を交わしたこともない相手を、ハイドラ越しに殺していたに過ぎない」
「殺しは殺しだ。お前が言っていることこそ正気じゃない。
 同じことだ、それは……心の弱い奴が、自分を誤魔化すために言うセリフだ」
 吐き捨てて、ウィリアムは大股に僕の方へと近づいてくる。先程まで揉み合っていたはずなのに、いつの間にかこれほど距離が離れていた。
 そもそも、ここがどこかも分からない。辺りはすっかり闇に落ちて、互いの姿だけがぼんやりと浮かび上がっている。
 暗闇の中、僕の目は〈彼〉の目を通して、青い空を見てもいるけれども、それは僕たちの身体ではない。ただし、僕たちがその内側にいるのは確かなことであった。他人の頭の中というのは、あるいはこういうものなのか。
 〈魔王〉として動いてきた僕たちのあの体が一体何だったのか、そもそも、まともな肉体であったのか。だが、その体を認識することはできなかった。あの店はもうどこにもなくて、ただ闇だけが広がっている。
「……もう、あんな場所に戻る必要はない」
 声に出さない僕の言葉に応えるように、ウィリアムが言った。
「あちらに繋がっているのが分かればそれでいい、俺は、あいつのところに帰る!」
 叫び、彼はこちらに手を伸ばした。僕は咄嗟に身構える。ウィリアムが僕を、そして〈彼〉を殺すつもりであれば、僕はそれを止めなければならなかった。
 だが、血にまみれた手が僕へ触れる前に、その動きがぴたりと止まった。
「ダリル」
 見開かれたウィリアムの目は、もうこちらを見ていない。
 愕然とした顔でその名を呼び、彼は視線を巡らせる。
「やめろ、どうして、そんな……そんな、ことを」
 頭を抱え、寄る辺ない声でウィリアムが呟いた。
 哀願めいたその言葉もまた、僕へ向けられたものではない。何が起こったのか、分からなかった。
 確かに、〈彼〉の目を通した視界の中には、ダリル=デュルケイムの乗機である巨大な多脚機、『ステラヴァッシュ』の姿がある。
 だが、ウィリアムをここまで動揺させる何かが起こっているとは、僕には思えなかった。〈彼〉は通信を切り、外部の音を聞くためのヘッドフォンさえつけていない。ウィリアムが何を見、何を聞き取っているのか、まるで分からない。
 ……分からない?
「ウィリアム?」
「やめてくれ、ダリル! 俺は……ここにいる、ここにいるんだ、だから……!」
 ついに膝を折り、ウィリアムが絶叫する。
 それでも僕には、それがなぜか見当もつかない。
 僕たちは分かちがたく、もはや混ざり合っているはずではなかったのか。
 いや。
「――」
 僕はウィリアムがしていたのを真似するように、ぐるりと辺りを見回した。
 どこまでも続く暗闇に重なって、〈彼〉の見ているものが見える。
 もちろん、いくら視線を巡らせたところで、〈彼〉が思い通りに首を動かしてくれるわけではない。
 だが、確かに聞こえた。
 そして、聞こえるというのがどういうことかを、僕はもう思い出している。
 あの懐かしい音。ミストエンジンの駆動音。HCSに繋がれたパーツの奏でる、ウォーハイドラの息遣い。
 たまらなく僕を安心させてくれる、『ヴォワイヤン』のあの音が。
 〈彼〉にはきっと、聞こえなかった。ウィリアムにも。
 ……それでよかった。
「チャーリー、ありがとう」
 膝を突いたウィリアムに背を向けて、僕は小さく言葉を紡ぐ。
 この声が、決して彼女に届くことはなく、僕の気を晴らすためだけのものでしかないと知っていながら、それでも言わずにはいられない。
 僕は最後まで卑怯者だ。何をすることもできなかった。
 それでも、彼女がそこにいて。
 ……彼女のしようとしていることは、正しいと思える。
 それが、僕には嬉しい。
「ウィリアム。時計の針を進めよう。
 僕はあなたと違って、あなたと魔王をやるのは嫌いではなかったよ……でも、そろそろ、おしまいの時間だ」
「馬鹿な……」
 膝を突いたままウィリアムが唸るが、その声はごく弱々しい。
 僕は目を伏せて、拳を握る。
 左手には、揃いで作った指輪の感触があった。