頭が痛い。
みしみしと軋む音が城中から聞こえてくる。
魔王城の冷たい床の上に俯せに横たわり、辰乃は頭を押さえて呻いている。
ばらばらと背の上に零れ落ちてくるのは、ひびが入って砕けた天井の欠片だ。感覚で……いつもの魔王領域に視線が行き届いているのを同じように……崩れてくるほどではないことは分かったが、それにしたって笑えない被害だった。
四畳半に詰め込まれた、広大無辺の魔王城。そのどこへ目を向けても、無事な場所は一カ所もない。
大きな地震があったであるとか、城の中で嵐が吹き荒れたであるとか、そういうありさまだ。いたるところが砕かれ、ひび割れ、ぼろぼろになっている。
辰乃は這いつくばった状態で視線だけを何とか動かした。ケープハイラックスたちもただでは済まなかったようだ。腹を上にして失神しているものや、辰乃と同じように俯せで震えているものもいる。辰乃も、いまだに頭がガンガン痛んでいる。影の楽団もすっかり消え失せて、魔王領域はズタズタだ。
幸い、襲撃者たちも姿を消している。敵を撃退する効果は間違いなくあったということだ。楽団が席を空け、期待しただけのことはあった。
しかし、これでは撃退できてもよかったのか悪かったのか分からない。とにかく頭が痛い。
「……なん、なんだ……」
ぼろぼろの魔王領域の玉座の間でただひとり、無事にぼんやりと佇んでいる男がいた。
その姿にはノイズがかかって、時折背の低い少女のようにも見える。
名も知れず素性も知れないこの男に、歌えと言ったのは辰乃である。影の楽団がぽっかりと開けた歌のパートを埋めるためだった。あのままでいたら、いくら楽団を指揮しようと襲撃者たちを押しとどめられず、この程度では済まなかった可能性はある。しかし、だからと言って。
「──▓▓▓▓▓」
「ウギャッ」
悲鳴を上げて、辰乃は床の上でびくりとのたうった。
こちらを向いた男の口から不明瞭な声が漏れたと同時に、万力で締め付けられるような痛みが頭に走ったのだ。
「おまっ……お前、いや、あんた、マジ、それ……やめ……」
最初に自分の身分を述べようとした時に男が発した声とは、雑音交じりであるということだけは共通しているけれど、決定的に違っている。ざらつきすぎて音程も定かでないが、これは明確に歌だ。
そして、その歌こそがこの城をここまで追い込んだ。
「け、ケープハイラックス」
「いや……僕にもこんなの分からないからね……ていうか、歌わせたのはあんたなんだからさ……あんたが責任取ってよ……」
声を発したのは、俯せのままふるふると怯えるように震えている個体だった。声を発する主が次々移り変わっていかないところを見ると、ほかのケープハイラックスはすっかり気絶してしまっているのかも知れない。
辰乃でさえまだ立ち上がれないのだから、体が小さいケープハイラックスたちはひとたまりもなかったということか。死んでいるものがいないと思いたいところだが。
「んなこと言ったって、まさかこんなんなるとは思わないでしょ……」
「すっごい音痴……」
「そんなわけ……あるか!」
辰乃はがばりと身を起こした。
全身に激しい筋肉痛のような引き攣れた痛みが走るのを無視して、男だか少女だかにずかずかと歩み寄る。
「あのなあ、あんた……!」
歩み寄ってから、そもそも城を歌声で破壊するような奴にこんなに不用意に喧嘩腰で近づくのは危険なのでは、という考えがようやく頭をよぎった。
しかし、楽団がこいつのために今後も席を空ける可能性がある以上、この城を任されたものとして事態をどうにかしなければならないのは事実なのである。
要するに──つまり、どちらが恐ろしいか、と言うことだ。目の前のこの男と。辰乃を魔王代行に任じた、あの『玩弄する言語の王』と。
(どっちもどっちでは?)
辰乃は自分の顔が露骨に引き攣るのを感じた。
「……いや、その、ほんとに、何者なんでしょうね……あなたって……?」
「ヘタレ……あんたほんと、マジのヘタレ……」
「うるっせェー! ぷるぷる震えるだけの小動物は黙ってろッ!」
辰乃は相変わらず絞り出すようなケープハイラックスの声にごく小声で叫び返すと、いまだ名前さえ分からない男を見上げた。
見上げたと思うとそこに顔はなく、辰乃よりも目線の低い位置に頭が移動しているのである。
はっとして見下ろせば、そこにはノイズがかった胴体があるだけで、また陰気な視線が上から降り注ぐ。
どうにも安定しない。『揺蕩する影法師』たちやあの篝火を持った影たちともまた違う得体の知れなさ、頼りなさがあった。
「▓▓▓▓▓」
辰乃は咄嗟に身構えたが、今度は痛みは走らない。
つまり、歌ではないと言うことだ。聞き取れないに違いはないが、被害が出ないことにはひとまず安心させられる。
……少なくとも、この男はむやみに辰乃に危害を与えようとは思っていないし、脅かそうともしていない。アルドリクのように、辰乃に適度に恐怖を与えたりはしないわけだ。
「厄介者を抱え込ませてすまないな」
「い、いや、そこまでは言ってないんで、その……」
実際、そういう気分ではあったのだが。内心を言い当てられたような気がして、ぎくりと辰乃は身をすくませる。
とにかく、雑音の混じらない男の言葉を聞いたのがずいぶん久しぶりに感じた。ちゃんとした男の声を聴くのもだ。ノイズまみれで聞けたものではなかったあの破壊的な歌も、言葉も、そういえば少女の声音で紡がれていた気がする。
(……喋ってみた感じ、『男』に見えはするけど)
今にも死にそうなほどに陰気な眼差しも、淡々としていながら薄暗い喋り方も。この男の姿の方が印象に沿っている。となると、男に少女が混じっているとでも言うような状態に思えるけれど、何をどうしたらそんなことになるのかは見当もつかない。
ただ、あり得ないことが起こるのがこの魔王領域だ。それは例えば、ひとりがケープハイラックスの群れに憑りついたり、日本人の男が女の姿になって魔王代行として指揮棒を振る羽目になったりだ。死人が雄弁に喋り、不死身の勇者たちは斃されるとともに塩と化し、四畳半の城の中にはあらゆるものが詰め込まれている。
「ええと、とりあえず、私たちに分かる形で自分の身分を説明できないもんかな。
言い回しを変えたり、単語をぼかしたり、そういう感じでさ……」
「できないことはないと思うが」
男はぼそぼそと言って、視線をうろつかせた。
ぼろぼろになった玉座の間に、ぽつぽつと倒れるケープハイラックスたち。この惨憺たるありさまを作り出したことに自責の念があるのか、男は眉根を寄せる。
「俺がこの城を出て行った方が早いのではないか」
確かにそれは、手っ取り早い魅力的な提案にも思える。しかし、辰乃はかぶりを振った。
「あんたがいなくなって、それでも楽団がパート空けっぱなしだとどうしようもなくなっちゃうんだよ……」
「……お前の楽団だろう。コントロールできないのか」
「できないから困ってまして……」
力の振るい方というものをもう少し覚えるといい。
アルドリクが言っていたことが、ぐるぐると頭の中を回る。かの『玩弄する言語の王』に力を与えられ、この城の指揮を任されている以上、辰乃に力を与えた魔王がそう宣っている以上は、辰乃はあの『揺蕩する影法師』たちを自分の意志でもって操ることができるはずなのである。
だが、できない。
理由は分からない。影法師たちは辰乃の知らない曲を奏で、意図的に一部のパートだけを演奏しない。
かれらに向けて指揮棒を振っている時、自分の意志や感情を反映したかのように動いてくれている、と感じることはある。しかし、それは辰乃が自分の力でもって制御している、というわけではない。
辰乃が自信を持ってできることと言えば、『天球使』たちに張り巡らされた『光の縛鎖』を解くためにキュアを編成することぐらいなのである。
「……でも、こんなことは初めてなんだよな。そりゃ今までだってなんでも言うこと聞いてくれるって感じじゃなかったけど、指揮に従って演奏はしてくれてたよ。
そんなに『影の楽団』にとって、あんたが魅力的な歌手ってことなのかね」
「俺が?」
男が浮かべた笑みは自嘲めいていた。さっきから楽団の話に終始しているためか、男の姿にも声にもノイズが混ざっていない。
しかし、辰乃が見上げた男の顔は、ふと、少女でもなく、陰気な男でもなく、見たことのない誰かのものになっていた。
「……俺を必要とするものなどいない。勘違いだろう」
「あんた……」
それも一瞬のことだ。自虐的な男の言葉に辰乃が面食らっている間に、誰でもないようなその顔は、見慣れた陰気な顔に戻っている。
「いや……勘違いだろうがなんだろうが、このままどこかに行かれちゃこっちが困るんだよ。
魔王様が戻ってくる前に、あんたとこの城と楽団と、全部何とかしてしまわないと……」
「こ、
「ヒエッ何?!」
ケープハイラックスのかすれた声に、辰乃は反射的に魔王城を見回す。
アルドリクが帰ってきたのか、勇者の襲来か、それともあの篝火を持った得体の知れない影たちか。どれでもあり得るが、どれにしても今はまずい。
「え」
しかし辰乃の目に飛び込んできたのは、その中のどれでもなかった。
魔王城には、まだ音楽が絶えている。
城の
そもそもにしてこの魔王城の広さはたった四畳半。『天球使』たちに摘発されればたちまち詰め込まれたパーツは力を失い、城内に行き届いた魔王の力も喪われて空間が縮こまってしまうのだ。そんなでたらめな挙動をすることに比べれば、破壊された城がこうして見る見るうちに直っていくのも特段おかしなことではない。
何にせよこれでまずひとつ、ぼろぼろになった城をアルドリクに見られて、叱責を受けるかも知れないという心配はなくなったわけだ。
とは言え、辰乃が大きく吐いた息は、安堵の感情から来たものではない。
玉座の間には、今三人の人間がいる。
一人はほかならぬ辰乃自身、もう一人はノイズまみれの歌を歌った陰気な男。
そして最後が、コート仕立てのワンピースに身を包んだ銀髪の女である。
方々に倒れていたケープハイラックスは、いつの間にやらいなくなっている。
「ええ──あなたは、そのように自分を定義しているのですね。それはとても悲しいこと」
「自縄自縛しているつもりはない。事実を認識している。それだけだ」
「事実だとしても……あなたを安らかにしてくれるものへ、新しく目を向けるという選択もあるのではなくて?」
「俺という存在の成り立ちに関わることだ。求めるものも、そこへ帰結する。決して叶えられることはない……」
詩を読み上げるような美しい女の声に、低く抑えられた男の声が答える。
『瞑目する沈黙の王』アンジャリ=サルカールは、その名と裏腹に雄弁に男に話しかけていた。
そして、それに触発されるように、男もずいぶん饒舌になっているように見える。
(…………何だこれ?)
辰乃は眉根を寄せて、二人のやり取りを見つめる。
見つめたところで、この状況の答えが見えるわけではない。
魔王の間に唐突に現れたこの女は、話をしましょうなどと言って男に声をかけ、その間辰乃には城を直していればいいなどと提案してきた。
口が重い男の陰気な雰囲気に欝々とし始めていた辰乃は、流れるような彼女の言葉にすっかり飲まれて、こうして言う通りにしている。
(それはまあ、いいけどね、百歩譲ってさ……)
彼女が代わりに男の話を聞いてくれていて、正直助かっている。アンジャリが上手いのか、男が気を付けているのか。彼の身の上を話題がかすっていても、その声が雑音交じりになってはいないし、彼の後ろ向きな言葉を受け止めて優しく言葉を投げかけているように見える。
……問題は、辰乃が彼女の名を知っていたことだ。アルドリクの魔王としての名が、するりと口から飛び出したように。
『瞑目する沈黙の王』という名前もよくない。『玩弄する言語の王』と対のような名前だ。
そんな魔王に、勝手に魔王領域の最奥まで入り込まれて、好き勝手されている。
今のところ、害をなすという風ではないけれど(害をなしたのは男の方だ)、この状況がアルドリクの機嫌を損ねないとは言い切れない。損ねるかも知れない、と考えただけで身が竦む思いがした。
しかし、入り込まれてしまったものは仕方がない。
楽団はまだ動かせないし、動いたところでこの男がいる限りは機能不全のままだ。その上、十全に動いたところで魔王であるアンジャリに楽団の力で対抗できるのかさえ分からないのである。こんな間近まで寄られているのだから、今から対抗しようとしたところで辰乃にはどうしようもない。
だから、今から辰乃にできるのは、アルドリクが戻ってくるまでに少しでも原状復帰することだ。城を元通りに直すのはもちろん、どうして楽団がこの男のために音楽に隙間を空けるのかを解明し、この新たな魔王にはお帰りいただく。
そして、できれば言いつけ通りに力の振るい方とやらを覚える。
「や、やることが多い……」
「ひとつひとつやっていけばいいわ。あなたにはそれができる」
と。
唐突にこちらへ向けられた声に、辰乃は咄嗟に自分の口元を両手で押さえた。
アンジャリが、穏やかなまなざしをこちらへ向けている。
優しい目だ。
アルドリクの底冷えするような目つきとも、男の暗い視線とも、もちろんケープハイラックスとも違う。この世界であったほかのどんな人物よりも、優しげな表情をしている。驚くほどに。
だが、それで落ち着いたり、癒された気分になるかと言えば話は別だ。妙齢の女性というだけで辰乃には据わりが悪いし、いくら目つきが柔和だからと言って、いきなりここに現れて勝手知ったる振る舞いで指示を出し始めるような女なのだ。気を許していい相手ではない。
(……そもそも、私がこの世界で求めている『視線』は)
辰乃は唇を引き結んだ。『回転する火の目の勇者』はあれからまったく姿を現していない。
「っ、て、うわっ」
いつの間にやら目の前にアンジャリの顔を認め、辰乃は思わず声を上げた。
背が高く、厚みのある靴底をしたブーツを履いた彼女からは、辰乃を見下ろし、覗き込む格好になる。
美女だ。
いい匂いがする。
男だったら、絶対こんなに近くまで寄ってもらえなかったと思う。
そう考えると、役得を感じないでもない。のだが。
「あ、あの……」
「アルドリクを、信用してはだめよ」
「え」
それはどういう意味か、と問い返す前に、アンジャリはするりと離れた。長いスカートの裾を翻し、こちらへ背を向ける。
「今までと何かを変えたいのなら、違うことをやっていかなければいけないわ。そうでしょう?
まずは、そこの彼と。もう少し話をしてみて」
「えっ、ちょっと」
控えめに足音を響かせながら、彼女は魔王の間を去っていく。呼び止めようと伸ばした手が虚しく空を切る。
あとには、辰乃と男だけが残された。
辰乃は腕をアンジャリの背に向けて手を挙げたまま、首だけを動かして男の方を向く。
嫌になるぐらい陰気な顔だった。
そうしてすっかり修復された魔王の間の冷たい床の上で、辰乃と男は向き合うでもなく並ぶでもなく、何となく離れて立っている。
お互い何も話さないまま、体感で五分ぐらいが経過していた。
会話のとっかかりがない。
(き、気まずい)
共通の友人が離席して、特に親しくもない知り合いとふたりで残されたようなかっこうだ。
もちろん、辰乃も男も、あのアンジャリという女とは初対面で、付き合い自体はこっちの方が長いはずではある。
……しかし。
(名前がな……)
『玩弄する言語の王』
『瞑目する沈黙の王』
そして、『回転する火の目の勇者』
名乗られたわけではなく、辰乃の口から自然に出てきた名前だ。思考の隅に乗ってすらいない。考える前に唇から発せられたこれらの名は、いったい自分のどこに刻み付けられているのか。
もしかして、前に会ったことを忘れているだけなのではないか。
「
「はいっ!」
辰乃は裏返った声を上げて、慌てて男に向き直った。いきなり声をかけられるとびくつく。
「お前は、魔王の代行として楽団を率いているのだと聞いた」
辰乃は唇を曲げる。もちろん、この男にもアンジャリにもその話はしていない。男に伝えたのはアンジャリだろう。だが、あの女はどこでそれを知った?
「いずれ不要になれば、棄てられるだけの存在だとも」
「いや、それは」
そこまでは言われていない、と否定しかけて、辰乃は言葉を飲み込んだ。
辰乃の前任者は仕事を果たせなかったがために『指揮者』としての任を解かれた、とアルドリクは明言した。そして、魔王城にまだあるとも。回りくどく、注意深く言葉を選びながら、アルドリクは辰乃に想像させることでその恐怖を煽っている。そう感じさせられる。
「にもかかわらず、なぜお前は逃げも逆らいもせず、ここで仕事をしているのか。
それをお前の口から聞けと、あの女は言った」
「……」
ぱくぱくと口を開閉させ、辰乃は文字通り絶句した。
無数の罵声が頭の中に浮かんだが、罵倒の相手はこの男ではない。すんでのところで叫び声を上げるのを堪え、頭を抱える。
この世界において、魔王の代行などしていなければ辰乃など生きるすべをろくに持たない弱者なのだ。逃げおおせられるとも、逆らえるとも思っていない。選択権などはじめからないのである。
なぜと聞きたいのはむしろ辰乃の方だ。どうして自分が指揮者に選ばれたのか。しかし問いをアルドリクに投げかけることさえ恐ろしいのだ。
「
「……いや、今のでめちゃめちゃ無理になった。ちょっと待ってっていうか、あの女は何なんだ本当に……!」
呻き声を上げ、辰乃はその場にしゃがみこんだ。そんなこと知るか、と怒鳴り返してやってもよかったが、それは理性で何とか堪えた。男に問えと言った一方で、あの女は辰乃にも言ったのだ。この男ともう少し話をしてみろと。
「……何で、そんなことが知りたいんすか……」
「俺は壊れて、不要になり破棄された」
「……」
ぼそぼそと紡がれる声は、あくまで淡々としている。
「そんなことになるのなら、最初から作られなければよかった」
「…………」
「棄てられる未来が見えているお前が、指揮者を続けているのは何故か、その理由が知りたい」
「それは、」
「
言いかけた辰乃の言葉を、聞き慣れた声が遮った。目を向けると、小動物がこちらに駆けてくるのが見えた。
毒づく気勢は、視線を動かした途端にたちまち萎えてしまった。
炎の色は辰乃の目にも映っている。
待っていた。
待っていた、待っていた、待っていた。
涙がこぼれてくるほどに嬉しい。どうしてこんなに喜びが湧き上がってくるのか分からないほどに嬉しい。
これが欲しかった。どうしてもどうしても欲しかった。頭の隅に追いやってもどこかにこびりついていて離れなくて忘れられなくてずっとずっとずっと待望していた。怯えるような期待感に気が狂いそうになっていて、逸って、逸って、叫び出しそうなほどになっている。
待っていたのだ。
もはや、異常を通り越して滑稽だった。辰乃は熱っぽく荒いだ息を抑え、魔王城へと入り込んできた勇者たちを睥睨する。
すでに城の中は、一本糸を張り詰めた静寂の中にあった。姿かたちの見えない聴衆たちは、辰乃一人を無数に鏡写ししたように、ひそやかに音楽を切望する。
しかし、膨れ上がる期待の上を、辰乃の目は通り過ぎていた。
炎が。
壁を床を天井を門扉をぐるりと舐めて、回転する火がとぐろを巻いた。いとけない少年の顔の美しいその目からこぼれた炎が、魔王城を焼いていく。それが見える。
「ううう……!」
獣のような呻き声が漏れるのを左手で押さえながら、辰乃は汗ばんだ手で指揮棒を振るう。衝動に突き上げられ、さっきから意味のある言葉が頭の中にほとんど浮かんでこない。
だから繰り返し繰り返し、かの勇者の姿に目を釘付けにされたまま、同じ言葉をぐるぐると、何度も。
(どうして!)
勢いをいや増して、炎は廊下を撫ぜてゆく。
火に飲まれた楽団員たちはゆらゆらと揺らめいて、形なく消え失せる。
しかし、辰乃が指揮棒を振るう限りは、魔王城に流れる音は絶えることがない。柱の影から、壁の中から、扉の奥から、再び現れる『影の楽団』たちは確かな手つきで楽器を構え、曲を奏で続ける。
足りない音楽だ。
この期に及んで、こんなにも辰乃が待ちわびていた『回転する火の目の勇者』を目の前にして、楽団員たちは主旋律を欠いたまま演奏を続けている。
目も眩むような気持ちだった。何一つ、思い通りにならない。
「何でだ! 『揺蕩する影法師』たち!」
上擦った悲鳴のような声を上げて、辰乃は指揮棒を振りかぶる。
いくら激しく腕を振り下ろしても、いくら強く念じても無駄なことだった。今までだって、楽団員たちは辰乃の指示に従っていたわけではないのだ。
辰乃の意思を反映して曲調を変えたり、楽曲自体を変更したりということはあった。だがそれは、コントロールというには程遠い。
何故と問うことさえばかばかしい。
(……そもそもこれは、私の楽団じゃないんだ)
ばかばかしいが、涙が出るほどにそれが悔しい。アルドリクの顔が頭に浮かんだ。
辰乃はあくまで、あの魔王に力を貸与されているだけだ。役割を果たせないと分かれば
しかも、自分がこれほど執着しているあの『回転する火の目の勇者』すら、本来ならば……
「──くそっ!」
毒づいて、辰乃は背後を振り返った。
よそ見をするな、というケープハイラックスの声はもう飛んでこない。小動物たちも、このまま演奏していても勇者たちを押しとどめられないことは承知しているはずだ。
男は佇んでこちらを見つめている。
その唇は引き結ばれて、自ら歌い出す様子はない。
物言いたげに見えるのは、辰乃が男の問いに答えていないからだろう。いずれアルドリクに見限られ、棄てられるさだめにあるのにもかかわらず、こうして
薄暗い目が問いかけている。
今ここで、全てを投げ出してしまってもいいのではないかと。
「……何だ」
「いや、その……」
「
「魔王城が壊れても、ここまで踏み込まれるよりはましだ」
「早くその男に歌わせるんだ」
「あああ、いいから、ちょっと黙ってろ!」
足元でぶつぶつ言うケープハイラックスたちに唸り声を上げて、辰乃は髪を掻きむしった。男の表情には、変化はない。
ため息をついて、体ごと男に向き直る。指揮棒を下ろした途端に、音楽はぴたりと途絶えた。叱責めいた少年の声が方々から上がったが、無視する。
「……ええと! そう、あんた、さっきの話だけどさ」
「ああ」
「たぶん、あんたと私はだいぶ考え方が違ってて」
焦っているのは辰乃も同じだ。魔王城は迎撃をやめたところで一瞬で踏破されるものではないが、城は荒らされ、距離は確実に縮まっている。あの『回転する火の目の勇者』が、近づいてくるのだ。
殺されるかも知れない。だからうまく言葉がまとまらず、声も震えている。
ケープハイラックスの言う通り、無理にでも男に歌わせるべきでは、という考えも浮かんでは消える。なにせ、威力は保証されているのだから。
だが、それでは十分ではない。問題を先送りにしているだけだ。
やり方を変えたのは、辰乃よりも『影の楽団』たちの方が先だった。
自分は
「つまり私は、そんなに死にたくないし、生まれなきゃよかったとかも思ってないからさ」
「そうか……」
男は困ったように目を伏せる。
恐らく、求めていた答えではなかったのだろう。辰乃は喘ぎ喘ぎ、再び口を開く。
「ええと、それで、それが何でなのかを聞かれても困るなって思っていたんだよ。私記憶喪失だし。
ただその、逆に聞きたいんだけど……あんたを棄てた人って、たぶん歌が好きだったんだよね?」
「どうしてそう思う」
「何となく……いや、あんたが言ってたんだよ。彼女のようには歌えないとかなんとかさ。
その人が好きで、その人の歌も好きだったんだろ」
辰乃はため息をついた。
空気が薄いわけでもないのに息苦しい。背を向けて視線すら向けていないから、勇者たちがどこまで迫ってきているのか分からない。
『回転する火の目の勇者』の炎を思うだけで、背筋に甘い痺れが入る心地がする。だがそれは、今耽溺するべきものではない。辰乃はかぶりを振った。
「棄てられたあんたに、歌えって言うのは酷だったのかも知れない。
でも、私が思うに楽団員が歌手の席を空けたのは、あんたが歌いたいからじゃないだろうか」
「……」
「私は、その彼女の代わりにはなれないし、あんたが必要だとは言わないけど、あんたが歌いたいなら席を空けて、あんたのために指揮棒を振ろう。それぐらいのことはするよ」
「
「もう中層まで勇者たちが来ている。あの火の目の勇者も」
泡を食ったようなケープハイラックスの声。男は目を伏せたまま、相変わらずの陰気な顔で、表情の変化さえ分からない。
「あんたは今、歌いたいのか?」
「……ああ」
ノイズ。辰乃は唇を引き結んだ。頭を押さえた男の姿に、少女の姿が被さっている。男の声に、少女の声が混ざる。
「歌いたかった、彼女とともに歌いたかった、彼女のように歌いたかった」
だが、そう言葉を吐き出す男の姿は、陰気な黒髪の男でも、褐色の少女でもなかった。それが誰かを辰乃は知らない。名前も知らない男なのだ。
「そうか」
音楽の途絶えた魔王城には、戸惑うようなざわめきが満ちている。
視線が、腕を止めた指揮者に集中しているのが分かる。抗議めいた声が、その中に混ざっている。
姿の見えない聴衆に、辰乃は左手を上げて応えた。
「どれだけ、叶えられるか分からないけど」
男に背を向ける。この魔王城の楽団は、指揮者よりも勇者たちの傍にいる。
「……きっと楽団は、あんたが歌いたい曲を
言いながら、辰乃は指揮棒を振り上げた。
魔王城に満ちる音楽は、途切れる前と変わらない。彼らは席を空け、歌声を待望する。
けれど、それに応える歌声は、
わずかに残る炎の気配を、辰乃はぼんやりと目で追った。
魔王城は健在だ。『天球使』たちの目をごまかしきり、摘発も受けてはいない。
演奏を終えた『影の楽団』はすでに姿を消している。勇者たちは撤退し、城の中には静寂が戻っていた。
「あいつ、結局何だったんだろ」
「名前も分からなかったし」
「どこから来たんだか」
足元をうろつくケープハイラックスたちの言葉に応えず、辰乃はぐるりと四畳半の広大な魔王城を見渡す。
見張り台、回廊、三叉路に商店街、闘技場に奈落。そのどこへ目を向けても、男はもう見つからない。
どこから来たのか分からなかったように、どこへ行ったのかもまた分からない。演奏を終えて振り返った時、そこには誰もいなかった。別れの挨拶さえしていない。
「
「まさか」
かぶりを振って、辰乃は目を伏せた。
「ただ、いい歌だったなって思ってたんだ」
「そうだな」
「最後は雑音もなかったもんな」
「歌いたかったなら、ずっといてくれたらよかったのに」
小動物たちが気楽な声を上げる。辰乃は嘆息して、再び魔王城を見回した。
楽団員たちが曲を奏でても、男はもう現れないだろう。席が空けられることもないに違いない。
だが、歌声は残っている。楽団がそれを望んだからだ。
「……あんたはこれでよかったのか?」
答えはどこからも返ってこない。