ゼロが墜ちていく。
目を開こうが閉じようが変わりばえしない暗闇の中を、目も眩むようなまばゆさできらきらと数字の『0』が零れてゆく。
美しい。
美しいけれど、どこか退屈な光景だ。
無数のゼロは、真っ直ぐ下へと向かって回るでもなく揺らめくでもなく規則正しく落ちていくままで、いくら眺めていても何の変化もない。
こんなにも眩しいのに、指先で触れようとしてもわたしの体が緑色を帯びたその光に照らされることもなかった。まるで、透明人間にでもなったかのように。
これは夢なのだ、と、頭の中でぼんやりと分かっている。
この光景を、わたしは今までに何度も見たことがあって、けれど目覚めている時には忘れている。
繰り返し、繰り返し見ている夢だ。
繰り返し、繰り返し忘却している夢だ。
この夢に、何か意味があるのではないかと思っている。
わたしの中の感情や記憶を反映したものなのか、それとも未来かなにかを暗示しているのか。
なんともあいまいでぼんやりした感覚だけれど。
ただ、自分の姿かたちさえ失って、こうしてゼロの群れのただなかに置かれた時、この光景の向こうに待っているものがあるという予感があった。
だからこうして、触れた手の感触がなくても、闇の中でゼロへ向けて手を伸ばす。
「意味などない」
その手が乱暴に掴まれる。
相変わらず煌めく数字の羅列以外には何も見えないし、体感もはっきりとはしないけれど、掴まれたのはなぜか感じた。だれかの体温に、わたしはその部分だけ、世界との境目を取り戻す。
否定の声は男のものだった。
私の手を掴んだその人であろう、低く押し殺した声もまた、わたしは何度もこの夢の中で耳にしたことがあった。
いつも聞いている声。いつも聞いている抑揚。いつも聞いているリズム。
その声を耳にした途端に、掴まれた手以外の場所がいっそう甘くぼやけて、暗がりの中に拡散していく。
舌先ではなくて、からだ全体でその甘さを感じている。
ひどく心地がいい。
「何も、見る必要はない」
その通りだ。
わたしには果たさねばならない仕事があって、本当ならこんなところでのんびりと数字を眺めていられるような身分ではない。
声は何よりも気持ちよく、それを教えてくれている。仕事の中身ではなくて、仕事への義務感を呼び起こしてくれる。
それでじゅうぶんだった。目覚めている時のわたしがこの夢のことを忘れているように、夢の中のわたしは現実のことを忘れているのだから、あとは目覚めるだけでいい。
忘れてしまっても、こうして甘く浸透した声は、それが教えてくれた気持ちは、すっかり消え去ったりはしないだろう。
「目を閉じて、ゆっくりと息を吸え」
ひんやりと冷たい気さえするその声音とは反対に、わたしは熱を持ってゆく。
吹き込まれる吐息に揺すられて、じわじわと昂っていく。
からだはもはやどこへ行ったか分からなくて、闇の中に蕩けてしまっていた。
耳で聞いているわけではなくて、声に浸っているようになっているから、ただわたしの内側にこころよい声が響いて、それがひどく、甘い。
濃厚なクリームの灼けるような甘さではなく、シャーベットの冷たい甘さでもなく、ずっと、いつまでも、永久にこの声だけを聞いていたいと感じるような、優しくて柔らかい甘味。
それが正体を失くしたわたしの中に満ち満ちて、恍惚とさせられる。
声が消えて、暗闇に残滓がうっすらと残り、消失していくその時間さえいとおしい。
──完全に声が消えてしまったあとは、一転して寂しさと物足りなさで凍えそうになる。
冷たく硬く震えて、沈黙が怖くて、からだはどこにもなくて、気が狂ってしまうのだ。ふたたびその声を聞くためならば、何だって差し出してしまいそうなぐらいに。
「さあ──よく聞くんだ」
果たして声は与えられ、わたしはまたしても満たされる。
からだがないから頷くことができなかったけれど、もしまだ体の感覚が残っていたら、バカみたいに何度も首を振っていたことだろう。
それほどに、恋しい声。いや、恋しいというには、あまりにも支配的な、優しいのにひどく
なのに、彼の声が消えてゆくその余韻を覆って潰して、わずかに音が聞こえてくる。
彼の声を識る前であれば、あるいはわたしはそのいくつかの音を美しいと感じたかも知れないけれど、今はただ、邪魔なだけだ。
でも、やめろ、ということもできなかった。わたしにはもう唇も喉もなかったし、何より彼が聞けと言っていたから。
「──理解しているか? ここを。そして、お前自身を」
そうだ。わたしは。
そして奔流。
ゼロはもう見えない。
痛い──
鼻先に猛烈な痛みを感じて、
しかしわさっと手に触れたのは、低くて丸くて小さな自分の鼻ではなくて、人間の髪の毛でもない、なにか動物の、滑らかな毛皮であった。
それはすぐさま身を振るって辰乃から逃れると、転げるようにして少し離れた足元、磨かれた石の敷き詰められた床の上へ着地する。
焦げ茶色の毛並みをした、形容しがたい生き物だ。体つきはモルモットのような気もするが、それよりは大型で、顔も大分違う。
少なくとも愛玩動物という感じではなくて、動物園にはいそうだけれど、何の動物かは分からない。なんだか原始的なつくりをしていて、脚は短い。歯はあるため、噛まれれば当然痛い。
「この──ネズミッ!」
「ケープハイラックスだって言ってるでしょうが! このポンコツ指揮者!」
辰乃の罵声に応えたのは、目の前の、たった今辰乃の鼻を齧った哺乳類──ケープハイラックスとやら──ではなかった。
しかし、辰乃が眉根を寄せてずり落ちた眼鏡の位置を直し、視線を向けた先にいたのは、やはりケープハイラックスであった。別の。
「いつまでも気持ちよさそうに眠りこけてらっしゃるから、間に合うように起こして差し上げたんでしょ」
改めて、足元の個体が声を上げる。辰乃は呻き声を上げて、背もたれに体重を預けた。
「起こし方ってものがあるって?」
「そんなに贅沢言っていられる立場じゃないでしょ、あんた」
「自覚ってものが足らないよね」
「感謝して欲しいぐらいだ」
「それに、叩こうが舐めようが全然目を覚まさなかったのはあんたなんだから」
成る程、鼻が妙にかぴかぴしている気がするのはそのせいか。
辰乃が今度こそ自分の鼻を撫でて労わる間にも、次から次へと飛び跳ねるように声は移っていく。
辺りを見回せば、辰乃が座る玉座を取り囲むように、ケープハイラックスの群れがひしめいているのが見えた。数える気も失せるようなぐらいいる。いや、一回だけカウントしたことがあって、確かおおよそ八十匹ぐらいだった。
つまり今、八十匹にも及ぶ、見慣れない、しかも喋る哺乳類の群れに囲まれている。なかなか頭の痛くなる光景だ。その上、物理的にも頭は重い。
「──ああっ、分かりました、分かりましたよ。分かりましたから、そろそろ黙ってくれるかなぁ!」
目の前にずれてきた大仰な王冠を持ち上げてかぶり直し、白いファーのついた豪奢な真っ赤なマントを引きずりながら、辰乃は玉座を立ち上がる。
そして、寝起きでだるい手を持ち上げて、白い指揮棒を振るった。
ぴたりと劇的に声は収まる。辰乃は安堵の息を吐いて、顔を俯かせる。
しかし、彼らの視線はすべて、いまだこちらへ注がれているのだった。
いや、彼ら、と称していいのかは分からない。同じ意志でもって統率されているにしても、この動物たちの行動は不気味に一致し過ぎている。さっきから聞こえている声も、大小さまざまな個体から別々に上がっているのに、全てがまったく同じ。たった一人の少年のものだ。少年であるように思う。
少年がケープハイラックスを操っている。さらに言えば、その言葉から通常想像される意味とは、実情は少し違う。
彼らは少年そのものだ。なにか魔法でもって少年のコントロールを受けているわけではない。彼ら一頭一頭が一人の少年であり、意識はそれだけに塗り潰されている。少年の意識が分割されて、絶え間なく彼らの間で行き来している。
であるから、八十頭を目の前にしていても、その実ひとりと向き合っているに過ぎない。
辰乃もそれは分かっているが、視覚的な圧からは逃れられないのだった。
「──それでは、どうなさるんですか、
焦れたような問いかけに、その言葉に、辰乃は自分の首に枷を嵌められたような気分になって、指揮棒を持っていない手の方で首元を確かめた。
けれど、そこには自分の首があるだけだった。細い女の首だ。何度確かめても変わることはない。
息を吸って、ゆっくりと周囲を見回す。
薄暗くだだっ広く天井の高い部屋。加工され磨き上げられた美しい石が敷き詰められた床は、たかだか小動物が八十匹いようが隠れ切ることはない。
辰乃の据わる豪華な玉座は、一段一段が薄っぺらい小さな階段の上にある、小高いスペースに鎮座していた。背後を振り返れば、辰乃の背よりも高い背もたれが見える。紋章などはないが、いっちょ前に豪華な玉座。
──文句のつけようない魔王の間だ。
思ったとたんに憂鬱な気持ちが増して、辰乃は立ったままだらりと両手を下げて下を向いた。王冠がずり落ちてくるのを慌てて押さえると、
「お客様を出迎える準備をしよっか……いい加減、開場だ。我が楽団。『揺蕩する影法師』たち」
そう言って、指揮棒を弱々しく振り上げた。
チューニング。
ざわざわと、ごそごそと、ひそひそと、身じろぎやささやき声に満たされていた空間を、鮮やかな楽器の音が満たしていく。
オーボエ、ヴァイオリン、ファゴットにクラリネット、トロンボーン、ホルン……わずかなずれはやがて収束し、魔王領域がひとつの
辰乃の軽く上げた手によって音が収まれば、あとは胸の痛くなるような静寂と緊張感。──音楽への熱望が否が応でも高まって、世界がピンと張り詰める。
息を吸うと、ひぃ、と悲鳴めいた声がわずかに漏れる。すでに、脂汗がじっとりと背中に脚に滲んでいた。
それをばかばかしいと思う頭がある。けれど、この場に圧されるなと言うのは、辰乃にはどだい無理な話だった。
壇上に立っているわけでも、観客席を前にしているわけでもないのに、それがはっきりと分かる。魔王の間には誰ひとり楽団員の姿は見えないのに、皆が自分の指揮を待っているのを感じる。
こんなに大勢に注目されることなど、辰乃にとっては分不相応に過ぎる。
(そもそも自分は音楽だって指揮だって、何一つわかりゃしないのに!)
それでも指揮者として雇われた以上は、ここで逃げ出すということはできはしない。
けれど、どうして?
(さあね!)
辰乃は大きく息を吐き──腹を決めて、今度は力強く指揮棒を振り下ろした。
──魔王とは。
魔王とは、かつてこのできそこないの世界の理の一角を担っていた者たちであったと言う。
神と魔王と勇者とで、この世界は成り立っていた。
詳しい経緯を辰乃は知らない。現在では神々は世界からその姿を消し、魔王の力は失墜し、その権能は今や狭苦しい領域に押し込められ、その中のみに及ぶことになった。その広さ、わずか四畳半。
しかし、辰乃が今めちゃくちゃに指揮棒を振っている広大な魔王の間は、まさにその四畳半の魔王領域の中に存在した。
四畳半の領域の中に、魔王はあらゆる世界を詰め込むことができる。
だが。
「
目も眩むほどに華やかで軽やかな滑り出し。テンポは目まぐるしく速く、疾走していると称するに相応しい。
ケープハイラックスの一頭が、辰乃の肩の上に乗って耳元でがなり立てた。視線を巡らせると、城の入口に勇者の群れが差し掛かっているのが見える。
魔王の間は城の最奥。そこから門の設置されたエントランスまでは、いくつもの区画を潜り抜ける必要がある。
しかし、魔王領域の広さは四畳半に過ぎない。いかに城館が広大無辺でも、辰乃の目は魔王城の隅々まで届くのだ。ちらと視線を動かせば、魔王城のそこここに、演奏者たちの姿も見える。
見張り台に。応接間に。回廊に。闘技場に。商店街に。
陽炎のように、幻のように。とらえどころなく揺らめく楽団員たちは、確かに楽器を構えて音を奏でている。そして、魔王城の隅々まで、軽やかに旋律を響かせる。
辰乃の指揮によって──ということになっているけれど、その『指揮』が辰乃の知る『指揮』とはまるで異なるものであるのは明らかだ。
なにせ辰乃は、この曲がどのように展開し、どのように最高潮を迎え、そしてどのように終息を迎えるのかをまるで知らないのだから。
そもそもふつうのオーケストラは、音で勇者を攻撃しない。
ティンパニーが叩かれるとともに、魔王城の奥へと足を進める勇者たちを衝撃が打ち据える。かれらの姿は魔王城の楽団員のごとくわずかに揺らめいたが、消え去るまでには至らない。
しかし、白い粉のようなものがその足元にわずかに零れているのを辰乃は見逃さない。
塩だ。勇者たちは、塩の塊でできている。
……この勇者という存在についても、辰乃が知っていることは多くない。何を目的としているのか、何を考えているのか、その辺りはさっぱり分からない。
分かることと言えば、彼らが魔王領域の支配の力を無効化する『聖なる力』を持っていることと、魔王城に向かって執拗に侵攻してくるということだけだ。
そう、魔王城。魔王城すべてに向かって。
「ひィ!」
今度ははっきりと悲鳴を喉から迸らせて、辰乃はあとじさった。
迫りくる音を弾き飛ばし、ティンパニーを叩く影を切り裂いて、勇者がエントランスから次の区画へと進む。廊下の中を炎が回転し、全身を鎧で固めたもの、昔のロール・プレイング・ゲームに出てきそうな古めかしい勇者──たちが、魔王城を破壊しながら踏破していく。
ティンパニー奏者が切り裂かれたその瞬間、視界ごと魔王城の空間がぶれた気がして、辰乃は眉根を寄せた。
辰乃が座らされた魔王の間の外、四畳半の魔王領域のそのさらに外には、へし合うようにしていくつもの魔王城がへし合っている。その中にはそれぞれ魔王がいて、己の魔王領域を持っているという。
勇者はこの瞬間にも、辰乃のいる魔王城と、ほかの魔王城を攻め立てているようだ。理屈は分からないが、ぶれた空間の向こう側には、ほかの見知らぬ魔王の城が見えた気がした。まさに同時に、複数の魔王城へ向けて侵攻が行われているのだ。
それが一体どういうことなのか、この場で起こっていることとは一体何なのか、辰乃には見当もつかない。
ただ、できることがただ一つあって、こうしてなにも分からないまま、楽団に向けて指揮棒を振るい続けることだ。勇者がこの魔王領域まで踏み込めば、魔王城は上から下までめちゃくちゃにされて、辰乃も無事では済まないだろうから。
わずかの間、楽団の中からティンパニーが消え失せ、歯抜けとなった旋律は、辰乃が慌てているうちにいつの間にか、完璧なものに戻っていた。
時に激しく、時に静かに、ただ速く、音が紡がれる。そのあいだにも、息を吐いて、額に浮かんだ汗を拭い、辰乃は指揮のまねごとを繰り返す。
ここで自分が果たしている役割とはいったい何なのか、何も分からず指揮棒を振るうだけなら、別になくても同じではないか。そう思ったことは何度もある。
しかし、この影たちは辰乃が息を上げて指揮棒を振らなくなると、たちまち演奏を止めてしまうのである。そうなれば、魔王城に旋律は絶え、音の魔法も途切れて、勇者を防ぐことは叶わなくなる。
たぶん、指揮というより、オルゴールを回しているのに近いのではないだろうか。ねじを回してやらなければ音を奏でることはないように、辰乃が指揮をしなければ楽団員たちも動くことはない。
これも、どういう理屈なのかは分からない。辰乃である必要があるのか、指揮棒に特別な意味があるのか、その両方か。とは言え、これぐらいの労力で楽団が動いてくれるのならば安いものだ。あの勇者たちがこの魔王領域まで攻め込んで来たら! 楽団員たちと違って、辰乃は不死ではない。
「いい調子だ! この調子でどんどん行こう、辰乃!」
「
足元の小動物の声は、城中に響く旋律にかき消されていささか聞こえにくい。
辰乃は喘ぎ喘ぎ答えて、重くなった腕を振り上げる。これぐらいの労力とは言うものの、絶え間なく指揮棒を振り続けるのは、それなりに重労働だ。けれど、元の体とどちらが体力があったのかと考えると、それはどちらとも言えなかった。
楽団は勇者たちを圧しとどめ、打ち据え、よくやってくれているようだった。楽曲のテンポが速いことが影響しているのか、楽団員たちの動きもいやに早い。辰乃が彼らに合わせる必要はないが、見ているだけでせわしない気持ちにされ、息が上がってくる。
「しかし、この曲何分あるの? めちゃくちゃ長くない……?」
「本当は五分ぐらい、これぐらいのスピードなら四分四十秒ぐらいかな」
「方々を繋ぎ合わせて、それっぽくリピートしているんだね」
「演奏は素晴らしい速弾きだけど」
「曲としてはもう冗長だね」
ぽろりとこぼした辰乃の問いに、ケープハイラックスが四頭がかりで答えた。
実のところ、こいつについても辰乃は知らないのである。ただ辰乃を
辰乃も、この小動物に言われていやいや指揮者をやっているというわけでもないのだ。
ただ、自分が周りと違って魔王城のあるじ、魔王領域を支配する魔王そのひとではなく、その力を借り受けた指揮者に過ぎず。
本来の魔王はこの城を空けている。
辰乃でも、この小動物の群れでもない、本当の魔王が──
「あの勇者だ、
と。
かかった声に、辰乃は慌てて辺りを確認した。侵攻する勇者のひとりが、強く炎を噴き上げて歩みを進めるのが見える。
ほかの勇者は音の攻撃を受けずともその存在がぶれて見えるけれど、あの勇者だけははっきりと姿形がわかった。
ここにいる。
こちらへ向かっている。
「『回転する火の勇者』……」
指揮棒を振る手を止めないまま、辰乃はひそやかに呟いた。途端に、痺れるような感覚が体を突き抜ける。
──それは恐怖であり、同時に期待である。
あの勇者に殺されるかも知れないことについて。
あるいは、あの勇者を殺すかも知れないことについて。
「
「分かってる……!」
答える声はみっともなく震えている。それだって、恐ろしさだけが理由とは言えないのだ。
辰乃は熱っぽく息を吐き出しながら、たった四畳半の向こうにいる、広大な魔王城を踏破せんとする異形の勇者へと指揮棒を差し向けた。
楽曲が変わる。
大きな筆で画布を一気に塗り潰したかのように、魔王城に鳴り響く音の色ががらりと変わった。
曲調ばかりではなく、楽団を構成する楽器の編成自体が大きく変更されている。コントラファゴットが姿を消し、ティンパニーに加えていくつもの打楽器、そして種々の金管楽器が取り揃えられて。奏でられるのは地の底から響くような、天の上から振り下ろすような、腹の底に響く重々しい旋律。
言葉を発して、楽団員たちに命じたわけではない。以前から打ち合わせをしていたわけでもない。陽炎めいたかれらはふだんから辰乃の前に姿を現さず、魔王城のどこかを通りがかった時に、視界の隅にちらつくだけの存在だ。
それが、ただ辰乃が指揮棒を一振りしただけで──そこに載せた意志を瞬時に汲んだとしか思えないような敏感さで、その動きを変える。
より大きく、より激しく、より重く、さきほどまでの軽やかさを振り捨てて、叩きつけるように強く、身もよだつほどに壮大に。城壁を振るわせ、見えない圧力さえ感じさせるその音の波は、辰乃たちにとってはそれでもただの音楽でしかないが、勇者に対してはその身を打ち砕く魔法となる。
「走ってるな!」
ケープハイラックスがキイキイという獣めいた鳴き声とともに、辰乃の耳元で再び声を張り上げた。それは音に圧され足を止めた勇者のことを指しているわけでも、もちろん先程から疲れて足元から覚束なくなってきた辰乃のことでもなく、影の楽団たちが奏でるその音楽のことだろう。
辰乃はこの曲もまた聞いたことはない。
指揮者である辰乃が耳にしたこともない、曲名さえ分からない音楽を、間違いなく辰乃の指揮に従って奏でるのがこのオーケストラ、この魔王領域だ──しかし、小さな牙を向き出した小動物の怒鳴り声の通り、この演奏が走っていることは、辰乃でも何となく理解できた。
世界を揺さぶるような激しさ、全身を震わせて金縛りにするような重さ、聴衆を圧倒するような壮大さ。だが、明らかに曲調のわりにテンポが速い。
まるで重い荷物を背負い、重装備のまま、足並みを揃えてマラソンをしているかのような。せわしなく疲れる気持ちにさせられる。
だがそれも、辰乃の心映えを写し取ったものであるかも知れなかった。辰乃自身が、この曲を聞く前から逸っている。
「……はあっ、はあっ……!」
上がる息を抑えて、辰乃は汗ばむ手で指揮棒を握り締め、魔王城の中を目を凝らして睨んだ。
炎はその力を減じ、音に圧されたように、しかし消えることもなくその場に凝っている。
『回転する火の目の勇者』は、まさにその双眸から燃え盛る炎を噴き上げた異形の勇者だ。とは言え楽団の音楽によって釘付けにされたその体は間違いなく人間のもので、火の向こうでじりじりと揺らめくその顔はあどけない少年にも見える。その顔の造作は、人形のように整っている。
この勇者のことを、辰乃は知っていた。
もちろん、ほかの勇者と同じぐらい何者か分からぬ存在だけれども、自分は個体としてかの勇者を認識している。
「……はあっ、はあっ、はあっ……!」
この大音量の中にもかかわらず、荒く吐き出される自分の息が、早鐘のような心臓の音が酷く大きく聞こえた。指揮棒を持たない方の手で──汗をかいてひどく震えている──胸元を掴み、口の中にたまった唾を飲み込む。
どくどくと高鳴る心臓も、からからに乾いた喉も、全身から噴き出す汗も、このむちゃくちゃな指揮に振り回されているばかりが理由ではない。
前からこの魔王城へ侵攻を繰り返している勇者だ。いつもは辛うじて追い返しているけれど、今日は楽団の調子がいい。もしかすると、上手くやれるかも知れない。
「はあっ、はあっ……!」
「
「そうだ。慌てるな。今日こそあの勇者を」
「分かってる、っ、分かってるから……!」
吐息交じりの自分の声は、みっともないほどに期待に上ずっている。
……なぜ自分がここにいて、魔王の代わりをしているのか分からないのだ。
この世界がなんなのか。この魔王城がなんなのか。魔王とはなんなのか。勇者とはなんなのか。ケープハイラックスたちは。この城の本当の主人はどこにいるのか。この指揮棒は何で、どうして自分は王冠を被せられ、マントをつけて指揮などしているのか。
だがひとつ、自分たちは確実に、この勇者に執着している。
あの勇者を打ち倒し、我がものにすることを望んでいる。
あるいは、あの勇者に斃され、引き裂かれることさえ。
「ひィ……ッ」
耳で聞いているのか定かではなくなるほどに低いチューバの振動が、辰乃の背を甘く震わせた。歯を食いしばっても、裏返った悲鳴が漏れるのは止めることができない。
主題へと向かって盛り上がる演奏に、動きを止めて表情を動かさぬままにく異形の少年に、昂揚させられる。
焦ってはいけない。
急いてはいけない。
だが、どうしても。 火に炙られるようにしてじわじわと、じりじりと上り詰めて行く。
「……ッ!」
深く息を吸い込み、指揮棒を振り上げる。振り下ろすことで欲しいものが手に入るという確信があった。
だが。
「…………えっ?」
音が止まる。
余韻のひとかけさえなく、魔王場に満ち満ちていた音がぶっつりと途絶えた。
一瞬、何が起こったのか分からない。耳の痛くなるような静寂の中に、指揮棒を振り上げたままの、熱のこもった体だけが取り残される。どうして、なぜ、という問いが頭の中で暴れまわり、手に入れられるはずだった快楽をすんでのところで取り上げられた怒りが胸を突く。
だがそれも、何が起こったのかを閃くまでのことだった。
……摘発だ。
「うわっ……あっ……!」
「摘発だ、摘発された!」
「『天球統率者』に見つかったんだ」
「見ろ、魔王領域を」
「隅々まで『光の縛鎖』が張り巡らされている」
「指揮者の力が及ぶ場所は、もはやこの城のどこにもない」
小動物たちの言う通り、いくら指揮棒を振り回しても、何の手応えもなかった。影の楽士たちは姿を消し、弦をつまびく音ひとつさえ聞こえてこない。
魔王の力を打ち消し、領域を侵すのが勇者たちの塩の力であるとするならば、これは魔王の力を縛り、その存在を隔絶する呪縛の力だった。辰乃は顔を引きつらせて、ついに尻餅をつく。
パキン、と言う硬い音とともに、魔王の間を光が取り巻いた。
広大だった城の姿が揺らぎ、収束していく。
それは、抗う発想自体が萎えさせられる、魔王を縛る絶対の拘束だ。縛鎖に捕まった以上は、何もできることはない。そして、同時に何もされることもない。戦場から引き剥がされ、まさに隔絶される。ゆらぎの中にあった勇者もまた、他の魔王城へ飛ばされるはずだ。
「目立ちすぎた」
「影の力を使いすぎたんだ」
「こうなってはどうしようもない」
「残念だけど、今回はここまでだ」
「いや」
「待て」
「待った」
「何かがおかしい」
「へあっ……?!」
炎に温められた空気のにおい。
魔力を失い、体裁を剥ぎ取られ、魔王領域の広さは本来の四畳半まだ縮まっている。力を奪われ、いくら辺りを見回しても、曲が鳴り響いていた時のように視界がぶれたりかぶったりはしない。疲れ切って立ち上がる気力さえない、腰の抜けた女が一人座っているだけだ。
その目の前に。
「え、な」
目から炎を噴き出した少年が、ゆっくりと立ち上がる。
『回転する火の目の勇者』が小さく吐息を漏らすと、楽団の音楽に押さえつけられていたかれの炎が、再びその名の通りにぐるりを回り始める。
わずか上を向いていた顎が引かれ、辰乃の方を見た。本来であればもう、そこにいるはずのない勇者が。
炎の向こうに揺らぐ眼窩は、眼球を備えていない、ように見えた。しかし、確かにこちらを見ている。
電撃で打たれたかのように、全身にびりびりと痛いほどの痺れが走っていた。
勇者は魔王城を踏破し、その最奥にいる魔王を打倒するものだ。辰乃はその力を借り受けているだけだが、勇者にしてみれば違いはあるまい。
(殺される)
しかしそれを、自分は望んでいたはずではなかったか。
殺そうと殺されようと、そこに境目はなかったはずだ。
その夢想をしていたはずだ。
「いや、ちょっと、待っ……」
だが。
狭苦しい魔王領域の中をめぐる炎に、その熱に頬を叩かれるだけで、甘やかな夢さえ引き潰されて、恐怖ばかりが浮かんでくる。
怖い。
しかし、そんなことは勇者には関係がない。
異形の少年がこちらへ向けて一歩足を踏み出すとともに、炎が勢いを増し、辰乃を飲み込もうと迫った。
もはや悲鳴さえ出ない。頭を抱えて、辰乃は目をつぶる。
「…………」
炎の気配が失せたのは、やはり唐突だった。
いつまでも焼かれる気配のないのに眉根を寄せて、辰乃は恐る恐るに顔を上げる。
『回転する火の目の勇者』の姿はどこにもなく、ケープハイラックスたちもいつの間にやらどこかへ逃散していた。
代わりに辰乃の目の前に立ち、こちらへ影を落としているのは。
「よお、相変わらずシケたツラしてんな、
「…………は」
身を屈めてこちらを見下ろし、色眼鏡越しにこちらを睨む目つきの悪い男を、辰乃は言葉もなく見上げる。
見覚えのない、初めて会う男だった。だが、確かに辰乃には分かった。間違いない。かれはここに帰ってきたのだ。
「が、『玩弄する言語の魔王』……」
知るはずのないその名前を辰乃の唇が紡ぐと、男は満足げににやりと笑った。
魔王城には、音楽が絶えている。