#3 待ちわびる楽団

 光の縛鎖が城の中に張り巡らされる。


 辺りを見回しながら、恐る恐るにそっと指揮棒を振るう。


 硬く澄んだ音とともに、光の檻が魔王領域を取り巻く。


 楽団の演奏は精彩を欠いていた。
 隠れて、バレないようにこっそりと演奏をするなど、まったく意味が分からない。


 ……そして、魔王城には音楽が絶え、その広さは元来の四畳半までに縮まっている。
 辛うじて存在を許され、残されている玉座には、呆れ果てた顔の『玩弄する言語の魔王』、アルドリクが腰かけて、辰乃はべたりと冷たい床に沈み込んで土下座していた。
 いつも通り、アルドリクがいる王の間にはケープハイラックスの姿はない。
 『天球使』たちに摘発されてその力を失し、たった四畳半までに縮まった魔王領域に、身を隠す場所も何もあったものではないはずだが、魔王領域の外に一時的に出ているのかも知れない。そこまでするほど、ケープハイラックスたちはこの目の前の魔王に怯えているということだ。
「すいません、本当にすいません……ご期待に応えられず……『天球使』どもの目を誤魔化すこともできず……」
「特に期待をした覚えはないが、本当に極端から極端だな、お前……」
 足を組んで肘掛けに頬杖を突き、アルドリクはそう言った後で、「別に土下座はしなくてもいいんだが」とぼそりと付け加えた。そう言われても辰乃は狭い四畳半の魔王領域の中で、さらに小さく身を縮めるしかない。
 『玩弄する言語の魔王』は、辰乃にこの魔王城の運用を任せている。任せているというのは、本当に何もかもを任せていて、指針や目的を示してくれるわけですらない、と言うことだ。
 だから、こうして魔王として影の力を使い、摘発され、摘発を回復し、そうしたらまた摘発され……というこの状況が、『魔王』という存在として情けないありさまであるのは理解しているのだけれども、アルドリクにとってどうなのかは、実のところ分からない。怖くて聞けていないのだ。
 なにも説明しないまま、辰乃にすべてを任せきりにしているのだから、辰乃が魔王として失敗しようがしまいが、どうでもいいのかも知れない。
 けれども、アルドリクが雑に任せると言いながら、業績を上げられないことに怒る理不尽な上司でない、という保証はどこにもなかった。
 なので土下座している。土下座しなくてもいいとは言われたが。
「魔王領域が完全に失われることがないのならそれでいい。摘発をしても、『天球使』たちもそこまではしない」
「はっ……」
「だが、先日のように魔王領域に護りの備えをし損ねたりはするな。分かっていると思うが……」
「はい……ごもっともでございます……」
 深く頭を垂れたまま、辰乃は弱々しく呻いた。
 魔王領域にはつごう十三の区画がある。魔王は魔法を発動するため、勇者からの侵攻を防ぐため、あるいは勇者を打ち倒すための魔王城の編成アセンブルを行う。
 中でも魔王城の最奥であるこの玉座の間には、魔王の身代わりとなる護衛か、姿を隠す目くらましの構造物を置くのが普通だ。そうでなければ、勇者に玉座の間に攻め込まれたが最後、魔王自身が戦わなければならない。
 そして、討ち果たされれば本当に死ぬ。噂では、黒い錆のようなものになって、まともな死体さえ残らないと言われている。
 だから、どこの区画に何を置き忘れても、何より玉座の間の備え自体は欠かしてはならないのだが、辰乃はついこの前、うっかりそれを忘れていたのだ。
 幸いと言うべきか、すぐに影の力を感知した『天球使』によって辰乃は摘発され、隔絶されて事なきを得たが、そうでなければ本当に死んでいたかも知れない。それこそ、アルドリクがはじめて辰乃の前に現れた時、彼の助けがなければ『回転する火の目の勇者』に殺されていたように。
 身体が熱を持つのを感じて、辰乃はごまかすように唾を飲み込んだ。息を吐いて、言葉を続ける。
「以後、このようなことがないように重々気を付けますので……」
 『回転する火の目の勇者』は、あれから辰乃の前に姿を現していない。
 勇者にはすべて、ただ一人の運命の魔王がいるという。あるいは辰乃があの勇者に執着を覚えるのも、その影響があるのかも知れない。辰乃は魔王ではなく、その代行に過ぎないから、『回転する火の目の勇者』にとっての運命の魔王がアルドリクであるのだろうが。
 もしかすると、アルドリクもあの少年にに辰乃のような執着を覚えているのだろうか。
 であるなら、彼は辰乃を助け、『回転する火の目の勇者』を追い払った時に、いったいどんな感情を抱いたのか。
「……前の指揮者コンダクターはもっと安定してたんだがな」
 と。
 独り言のようなアルドリクの声に、全身から一気に汗が噴き出すのを感じて辰乃は唇を引き結んだ。
 前の指揮者コンダクター
 辰乃の前にアルドリクの代行をしていた、『揺蕩する影法師』たちを指揮していた人物。
 そういうものが存在し得る、と言うことは、ぼんやりと辰乃も想像していた。しかし、あらためてアルドリクの口からその存在がはっきりと示されると、いやな想像が頭を駆け巡る。
 つまり、どうして『前の指揮者』は今この魔王城におらず、辰乃が代わりに魔王代行をしているか、と言うことだ。
指揮者コンダクター、前任者がどうなったか知りたいか?」
「はっ、はひっ」
 辰乃が何を考えているのか、アルドリクも読み取ったのだろう。猫なで声で問いかけられて、辰乃は声を裏返らせる。
 前の指揮者コンダクターがどうなったか。そう、それを知るためには、目の前のこの魔王に聞くのがいちばん早いに決まっている。
 だが、恐ろしくて聞けない。この魔王に投げかければ知れるだろうあらゆる問いを、今まで飲み込んできたように。答えを知るのが恐ろしいばかりではなく、自分の知りたい答えのどれかが、この魔王の怒りに触れるのではないかという恐怖が染みついている。
 殴られたり蹴られたりどころか、叱責されたことさえない。しかし、この『玩弄する言語の魔王』を前にする時に感じる恐れは、決して過剰なものではないのだ。
 柔らかい声音を使いながら、優しい言葉を投げかけながら、この魔王は確実に、それでも辰乃に恐れられるように振る舞っている。
 その指先で。その視線で。その姿勢で。
 どこかで辰乃が境目を踏み越えた時に、容赦をしないだろうという予感を感させているのだ。
 ケープハイラックスがいまだにこの魔王の前に現れないのは、きっとそれと無関係ではない。
指揮者コンダクター
「はいっ! そっ、の、差し支えなければお教えいただけるとっ、この指揮者コンダクター、幸甚の至りでございますっ」
 喉を詰まらせながら、辰乃は言葉を並べ立てて床に額を擦りつける。どうすればこの魔王の機嫌を損ねないでいられるか、それしか頭になかった。
「教えてやろう。お前の前任者はその任を解かれた。だがそれは、仕事を果たしたからじゃあない、その逆だ」
「ひッ……」
「この魔王領域のどこかに、それはまだある。探そうとは思わないことだ。お前もそこに加わりたくないのなら」
 辰乃の答えを待たずに、アルドリクは玉座を立ち上がる。硬い靴底が床を叩く音。それは楽団が刻む拍のように一定だ。
「外へ出てくる。俺が戻ってくるまでに、力の振るい方というものをもう少し覚えるといい」
 言葉をかける時さえ足音は止まることはない。辰乃は顔を床にくっつけたまま、アルドリクの気配が魔王領域から消え去っても、しばらくその姿勢でいた。


「前任者」
「前任……?」
「覚えてないな」
「そんなものはいなかったと思うけどな」
「僕が知る限り、指揮者コンダクターと呼ばれうる存在はあんただけだ」
 足元をうろつくケープハイラックスたちの言葉を聞きながら、辰乃は床の上で指揮棒を振るっている。
 発動しつつあるキュアによって、ゆっくりと光の縛鎖は解かれていたが、復旧した区画はまだ半分程度だ。戻ってきた区画を編成アセンブルし、キュアを維持しなければ、完全に摘発は解除されない。
「……って、言っても、そっちだって自分の名前も思い出せないんだし、全然あてにはならないでしょ……」
「それはまあそうだけど」
「でも、おかしいことはほかにもある」
「魔王領域は、僕もあんたもどこだって見回せるし」
「摘発を受けたら領域自体が縮小して狭くなるのに」
「僕たちが見つけられない前任の指揮者コンダクターなんて、どこかに存在し得るんだろうか?」
 それは確かに、その通りではあった。
 探すな、と言われたことをアルドリクに言われたことを忘れたわけではないのだが、いつも通りに魔王領域を見回すついでに、ついつい壁や床、柱の影などを注視してしまう。
 しかしいつも通り、辰乃の目の届かない場所はこの魔王城のどこにもなく、なにかを隠す余地はないように思う。隠し扉や隠し階段があったとしても、その向こうまで視線が通るのであるから意味がないのだ。
 ……あるいはあれは、単に辰乃を脅かすための言葉だったのか。
 あの魔王の言葉は、どこまでが本当で、どこからが嘘なのか。
 ぼんやりと考えながらも、アルドリクに言われたように、辰乃は指揮棒を振るって玉座の間に目くらましの楽士を編成し──
「……えっ」
 どさり、と。
 上から、影ではないものが墜ちてきた。
 前触れなく。唐突に。辰乃の足元に。
 ケープハイラックスが一斉に蜘蛛の子を散らす。
 辰乃は指揮棒を軽く振り上げたままの姿勢で、恐る恐るに足元を見た。
 そこには、少女が。


 玉座のための段差のうちの一段に腰を下ろし、辰乃は顔を覆って、指の間からケープハイラックスたちに取り囲まれる男を見ていた。
「名前は?」
「……分からない」
「どこから来た?」
「分からない」
「どうやってここまで入り込んだ?」
「分からない」
 黒髪の、陰鬱な青年だ。ケープハイラックスの問いにぼそぼそと答えているが、何一つ答えになっていない。何も覚えておらず、何も分からない。少なくとも、そう答えている。
 恐らく、勇者ではない。叩いても擦っても塩は出てこなかったし、何より勇者はもっと攻撃的だ。魔王を目の前にして攻撃をしてこない勇者はいない。つまりひとまずは、こちらに危害を加えてきそうな存在ではない。それはいい。
 問題は、彼がいきなり魔王領域の一番奥、玉座の間に現れたことだ。
 加えて言うなら、彼がここに現れた瞬間は、確かに少女であったことも。
(見間違いじゃない……)
 辰乃は息を吐いて、顔覆ったまま男の横顔を見上げる。
 何度見てもそこに立っているのは、顔色の悪い若い男だ。自分が何故ここにいるのかを、本当に分かっていないように見える。だが少し前までは、褐色の肌に銀色の髪をした、中学生ぐらいの小柄な少女だった。
 そういう変化に、辰乃は覚えがある。
 いや、覚えがあるどころではない。男から女に変わるという現象を、ほかならぬ辰乃が経験している。
 姿も性別も変わり、記憶も曖昧。そして、この魔王城の中に唐突に現れた。
 背中にいやな汗が滲むのを感じて、辰乃は身を捩った。
 ……もしかして、この男──少女──が、アルドリクの言っていた前任の指揮者なのでは?
(いやっ、でも、別に、あえて探したわけじゃなくてですね……! 上から降ってきたわけで、私は何もしていないんです!)
 頭を抱えて、辰乃は頭の中でアルドリクに対する言い訳を並べ立てる。
 しかしそもそも、アルドリクは『探そうなどと思うな』と言っていた。それが字義通りなら、なにかしたわけではなくとも思い浮かべただけでアウトということになる。実際、辰乃の探そうという気持ちに反応してこの男が現れた可能性は否定できない。何が起こるか分からないのが、この魔王領域なのだ。辰乃は指揮棒を振っているだけで、きちんとそれを制御できているわけではない。
指揮者コンダクター、だめだ」
「こいつ本当になんにも覚えてないや」
「しかし、何だろうこいつのこの格好」
「あんまり見慣れないな」
 ケープハイラックスの言葉に、辰乃は恐る恐るに顔を上げる。いきなりどこかにアルドリクが現れて、辰乃に罰を与えやしないかと思うと気が気でないのだが、この男のことを放っておくわけにもいかない。言い訳を考えるためにも、辰乃も少しぐらいは彼の話を聞かなけれならないだろう。
 あらためて見ると、確かに男はあまり普段着には見えない格好をしていた。体の線がはっきりと出るスーツで、色も顔に似合わずところどころ派手な色が使われており、肩と胸には材質の違うガードまでついている。
 バイクか車のレーサー。辰乃が最初に見た時の印象はそんなところだけれど、音楽家に見えないからと言って安心できるわけではない。辰乃だって、指揮者らしい格好はしていない。
「……」
「あー、その……私は三原辰乃と言って……この魔王城の代行を仰せつかっているものです……どうも……えへへ……」
 男の沈んだ視線と沈黙に耐え切れず、辰乃は立ち上がってとりあえず頭を下げた。男の表情には何も変化がない。
(なんか既視感があるな……)
 アルドリクと違うのは、彼からは特に威圧的な空気や酷薄さを感じないところだろうか。ただただ陰気で、弱々しくさえある。
「……ええ~と、本当に何も分からない? その服がなにかとか、職業とか」
「職業」
 鸚鵡返しのその言葉に、思わず肩が跳ねた。
 男は目を瞬かせ、自分の体を見下ろす。そこではじめて、自分がどんな服を着ているのかに気がついたような顔をした。彼はひとつ頷いて、
「これは……▓▓▓▓▓▓▓▓……だ……▓▓▓▓▓▓に乗るための……」
「は?」
「▓▓▓▓▓……そうか」
「いやっ、ちょっと待っ……」
 それは、紛れもないノイズだった。
 発音が分かりづらいとか、発声の仕方が特殊とか、そういう問題ではない。機械的な雑音が、男の言葉をかき消している。ふつうは、人間の喉から出るような音ではない。
指揮者コンダクター。でも、これははじめて、この男が覚えていたことだ」
「この方向から攻めて行けば、こいつが何者か分かるかも」
「いやいやいやっ、でもこれなんかヤバそうじゃない!? なんかおかしいよね!? ロボット?!」
「それは違う」
 今度は、その声ははっきりと聞こえた。
 辰乃は男から微妙に距離を置きながら、上から下までその姿をじろじろと眺める。言ってはみたものの、外から見る限りとてもロボットには見えなかった。作り物だとしたら、よほど精巧に作られている。
「……えっ」
 と。
 今度は男の姿にノイズが走ったように見えて、辰乃は思わず声を上げた。目を擦り、眼鏡を拭いて、もう一度男を見つめる。
 その目元が、肘が、腰が、太腿が、それぞれ時間を置いて、砂嵐のようなノイズに上書きされた。
「げっ」
 部分的に画面が切り替わったかのように、男の体にノイズが走る。
 時折、そこに少女の姿が重なった。この魔王城にはじめて落ちてきた時に見た、あの少女の姿だった。
 辰乃は思い切り身を引いて、男から離れた。男は無表情のまま、辰乃が逃げるのを目だけで追う。
「どうしたんだ」
「どうしたはこっちのセリフだよ!! さっきから声はザーザー姿もぶれぶれ、バグってるみたいになってるんですけどそこに関して何かコメントあります!?」
 男のノイズが空間に広がっていく様子はない。しかし、そこにあえて触れたらどうなるか、辰乃にはとても試す気にはなれなかった。ケープハイラックスたちも、男の姿がぶれているのに気が付いたのか、素早く辺りに散り始めている。
 目を瞬かせて、男は自分の指先を見下ろした。辰乃から見れば、そこはノイズを伴いながら少女の細いしなやかな指先になったり、男の手袋に包まれた武骨な指先になったりと瞬きのように切り替わっているのだが、男にそれが見えているのかどうか分からない。
 辰乃の頭には、相変わらずアルドリクの酷薄な顔が浮かんでいる。
 やはり、この男が前任の指揮者コンダクターで、アルドリクに何らかの罰を与えられてこうなったのではないか、だとしたら、この男に接触した自分はどうなるのか。
「……分からない。▓▓▓▓に……載せられていた」
「何かに乗っていたのか?」
「馬に乗る格好には見えないな」
「カガクシャたちが作るような奴かな」
 ケープハイラックスの言葉に対して、男は二つ三つ、何かを口にしたようだったけれど、それはやはりノイズに塗れて聞きとれたものではなかった。
「あんたは自分が何者かを思い出したみたいだな」
「それは羨ましい話だ」
「僕たちは、それをすっかり忘れてしまっているからな」
「自分の名前は思い出せたか?」
 離れて怯える辰乃の代わりに、ケープハイラックスが代わる代わるに声をかける。得体の知れないこの男にはこれぐらい馴れ馴れしく話しかける小動物たちが、アルドリクの前には一切姿を現さないわけである。あの魔王はいったい、どれだけ恐ろしい存在なのか。
「名前らしいものは思い出せた。ただ、これが名前と言えるのかどうか。
 それに、自分が何者かは、今も分からない。何をやっていたのかを、おぼろげに思い出しただけだ」
 男は先程までと比べて明らかに饒舌だった。さっきまで感じていた弱々しい空気も、すっかりどこかに行ってしまったように見える。自分のことについて少しでも思い出せたからかも知れない。小動物たちの言う通り、確かにそれは少し羨ましい。
 もっとも、自分がなにかを思い出したところで、あのアルドリクを恐れずに済むとはとても思えないのだが。
「………ただ」
「あっ」
「ちょっと待った」
 男の言葉を遮って、小動物と辰乃が声を上げる。辰乃は慌てて段差に取って返すと、置きっぱなしにしていた指揮棒を拾い上げた。
 軽く指揮棒を振るうと、魔王城の中をざわめきが満ち満ちる。
 編成はさきほど終えていた。キュアは維持できているし、目を盗んで演奏をするぐらいなら支障はない。辰乃は息を吐いて、背筋を伸ばした。
「奴らだ」
「勇者がやってきた」
「開演だ、指揮者コンダクター。準備はできてるな」
 ケープハイラックスたちの問いに。
「……ああっ!」
 辰乃は思わず叫び声を上げた。足元にいた何匹かが素早い動きで離れていく。
「何だ」
「どうしたどうした」
「いきなり大きな声を出さないでくれ」
「い、いや、その、指揮の練習するの忘れてたなって思って……」
 アルドリクに、そんなことを言われていたのを不意に思い出したのである。
 うろうろと足元に戻ってきたケープハイラックスから、やたらにでかいため息が漏れた。
「そんなこと言って」
「指揮の練習ったって、何をするかだってまだ考えてなかったろ」
「いいから、実戦だ」
「勇者は待っちゃあくれないんだからな」
 急かすような小動物たちの声に、辰乃は眉根を寄せながらも指揮棒を握り直す。腹立たしいが、彼らの言う通りではある。
「──」
 ノイズが走ったような気がして、辰乃はちらりと男を振り返った。男は沈黙したまま、何の表情も読めないままだ。ノイズも、もう聞こえない。
 指揮棒を振り上げるとざわめきが消え、城の中をAの音が通り抜ける。


 魔王城に張り巡らされた光の鎖が、硬い音を響かせながら次々にほどけて砕けていく。
 飾り気のない白い支柱の影から、小部屋に続く扉から、商店街の店の影から、闘技場の観客席から、影の楽団たちが揺らめくように立ち上がり、ひそやかにチューニングを始める。
 呼気の音を立てることさえ躊躇われて、辰乃はゆっくりと深呼吸をした。
 魔王城を摘発した『天球使』たちはまだどこかに潜んでいて、しっかりと目を光らせているはずなのである。魔王領域の外に辰乃の目は届かないが、『天球使』たちは魔王の使う影の力には敏感だ。見つけたら最後、ふたたび光の縛鎖で辰乃の魔王城を縛り付けるだろう。気を付けなければいけなかった。
 何度でも『天球使』たちは魔王を摘発し、光の檻に閉じ込める。そしてキュアが唱えられた時、彼らは魔王を解放し、貢納の義務を課す。
 辰乃は『指揮者コンダクター』として魔王代行として、望んた覚えもなくここで働かせ続けているが、そもそも魔王という存在自体、奴隷と変わりないように思えることがある。魔王などというたいそうな名前がついているけれど、その力はごく小さい。
 いや、小さいわけではない。自分の魔王領域の中ならば、魔王は絶対的な力を誇る。その支配の力を無効化できるのは、勇者の持つ聖なる塩の力だけだ。『天球使』たちは光の縛鎖を用いて魔王の力を抑え込むが、力そのものを消すのではなく、魔王領域を外から覆って、封じ込めているという方が近い。
 たった四畳半の領地に世界のすべてを詰め込むちっぽけな王。それが、この世界における魔王という存在だと辰乃は認識している。辰乃は、さらにその下と言うわけだ。
(あのアルドリクが、果たしてそんな身分に甘んじるのだろうか?)
 魔王の隷属性に考えを巡らせる時、最近はいつもそのことを考える。
 甘んじる気がないからこそ、辰乃に魔王の仕事を任せて頻繁に城の外へ出ている、というのはあり得る話だ。
 しかし辰乃は一方で、勇者との戦いを繰り返すことによって『天球統率者』の支配から逃れようとする魔王たちがいる、と言う話も耳にしている。アルドリクは、そこに参加するつもりはないのだろうか。あるいは、辰乃にそうした仕事を任せることは?
 辰乃はかぶりを振って、指揮棒を腕を振って拳を握った。ぴたりと音が止まり、城は全くの静寂に満ちる。
 呼吸の音さえ大きく響くような、完璧な静けさ。
 その空気を炎が炙った。
 きつく眉根を寄せ、辰乃は四畳半の城の中で目を凝らす。
 しかし、しじまを割って淡々と歩いてくるのは、期待していた相手ではない。
 嘆息して、辰乃は指揮棒を振り上げた。何の曲が流れるのかも知らない指揮者の身ぶりにしたがって、楽団たちが楽器を奏で始める。
 旋律に反応し、篝火を携えた影たちが、見張り台の足下でふと立ち止まった。
「勇者じゃ……」
「ないぞ」
 息を殺して細々と、ケープハイラックスが声を上げる。
「あれは何だ?」
「辰乃、それにこの曲」
 名前を呼ばれた途端に頭がぐらつくのを感じて、辰乃は慌てて膝に力を込めた。取り落としかけた指揮棒を持ち直し、来訪者たちを見つめる。
 成る程、勇者ではない。
 その姿かたちが様々な勇者と違って、現れた影たちの姿は一様だった。
 魔王領域の支配の力が及ばず、こちらへ向かって歩を進めながらも、そこに聖なる塩の力は感じられない。
 篝火を手に携え、炎に皓々と照らされているにもかかわらず、暗く影が落ちてその輪郭をはっきりと捉えることはできない。
 ただし、辰乃の指揮に従って音楽を奏でている『揺蕩する影法師』たちとはまたその在り方は異なっているように見える。確かに音を奏でながらも、揺らめきたゆたい、茫洋とした影の楽団と違って、四畳半の城を征くかれらはいくぶん、その存在がしっかりしている。
指揮者コンダクター、なあ」
「私にも分からないよ。あんな連中見たことないもの」
「そうじゃない。曲の方だ」
「曲?」
 そういえば、さっきもケープハイラックスたちはそんなことを言っていたような気がする。
 辰乃は小声で問い返しながら、影たちが奏でる曲に耳を澄ませた。
 どこかで、聞いたことがあるような、ないような曲だ。いつもキュアを発動する時とは違って楽団の頭数が多いような気はするが、曲自体は静かなものだ。
 静か、というより、地味と言った方がいいかも知れない。ただ、それも『天球使』たちに気づかれないために抑えているのならおかしな話ではない。
「…………この曲がどうかした?」
「マジか」
「分かんないのかよ」
「あんた、ほんとにこういうの詳しくないな」
「悪かったな! それで?」
歌がない
 ひそやかに紡がれた言葉に続くように、楽団が音を奏でる。
 しかしそこに、楽団たちが息を詰めて、なにかを待ちわびるように空白を作ったことに、さすがに辰乃も気がついた。
 明確に、この演奏には音が足らない。ぴったり一つのパートを除いて完璧に曲は形作られているが、それだけに空席が明白になる。
 こんなことは初めてだった。もちろん、知らない曲が南極も奏でられる中で、辰乃が気が付いたのは、だが。
「突破されるぞ、指揮者コンダクター!」
「わわわわっ、分かってる! でも……!」
 主旋律を欠いたまま進行する曲は、ケープハイラックスの言った通り篝火を掲げた影たちに通じている様子もなく、その侵略を押しとどめられもしない。
 だが、指揮棒を振り上げようが振り下ろそうが、影法師たちが辰乃の意志に従うことはなかった。もともと、辰乃からなにか指示を出している、と言うわけではないのである。音を奏でるためのシリンダーはすでにセットされていて、辰乃はそれを回すだけだ。だから、なぜ『影の楽団』が歌手のいるべき曲を、歌うものもなく奏で始めたのかも分からない。おぼろげに知っている曲とは言え、辰乃が歌えるわけでもない。
 どうして、こんなことになったのか。それも、勇者たちではなく、得体の知れない連中がやってきたこの時に限って。
(いつもと違う……!?)
 辰乃は指揮棒を振りながら、首を捻って必死に背後に目を向けた。
 陰気な黒髪の青年……いや、銀髪褐色の少女が、全身にノイズを走らせながらも、まだそこに立っている。天を仰いでいるのは、城の中を流れる楽曲に耳を傾けているからか。
指揮者コンダクター!」
「奴らが向かってきている。よそ見をするな……」
「このままじゃ、見てたって見てなくたっておんなじだろ! ええと……」
 闘技場へ。奈落へ。回廊へ。商店街へ。辰乃は魔王領域の中に視線を走らせる。楽器を構えた楽団員たちが、ぼんやりと揺らめきながら音を奏でているのが見える。その姿は、いつもと変わりない。
 篝火を掲げた影たちも、そういう意味では勇者たちとそう違ったことをしているわけではない。はじめて現れた連中の影響を受けて、こちらの動きが変えられてしまったのかとも思ったが。
(やっぱり、一番大きな変化はこいつだよな……)
 広さにして四畳半。密度にして森羅万象。豊かな音に満ちながらも決定的に何かが足らないでいる城内を一瞥してから、辰乃はあらためて男となった少女、少女となった男を振り返った。天を仰いだまま、ぼんやりと唇を開いて、何を考えているのか定かではない。
 楽団員たちは空席を設けて、歌声を待ちわびているのだ。
 そこに当てはまるのは、こちらに侵攻してきている連中ではあり得ないし、指揮者である辰乃や、ケープハイラックスたちに今さら要請することもあるまい。
 であるなら、旋律の空白を埋めるのは、ノイズまみれのこいつということになる。
「ちょっと……そこの! あんた!」
「……」
 顎を引いてこちらに視線を合わせる頃には、少女の体には再びノイズが走って、あの陰気な男の姿になっていた。それに驚いている余裕もない。篝火を掲げた影たちは、もうずいぶんと奥まで進み始めている。
「あんた、この曲知ってる? 歌えない!? 今ちょっと当楽団、歌手を募集中なんですけど!」
「おい、正気か? 指揮者コンダクター
「この曲、メゾ・ソプラノだぞ!」
「知らねェーよ詳しくねえんだよ! じゃあお前ら歌えんのかよ!」
「歌を、」
 こちらの言い合いの姦しさなど(もちろん、『天球使』たちに見つからないよう、できるだけ声を抑えてはいるのだが)どこ吹く風で、男はぼそりと声を押し出した。その声はすでにぷつぷつと途切れていて、ノイズの気配がしている。
「……歌えばいいのか」
「そう! 話が分かる! ただ、できるだけ楽団に合わせてくれるとありがたいかなって!」
「▓▓▓▓」
「あっ! だめそうなら無理しなくていいんで……!」
「……ああ。きっと、彼女のようには歌えないだろう」
 そう囁く男の声は、いつの間にかノイズがかった少女のものになっている。その表情は、単なる陰気を通り越してただ悲しげで、泣きそうですらあった。
 わずかにいやな予感。
「だが、少しだけ」
 けれども、止めるいとまはもうない。
 辰乃が指揮棒を振り上げるとともに、『影の楽団』たちは幾度目か、城の中から歌声を切望する。
 男は少女の呼吸で、深く息を吸い込んだ。