三原辰乃は日本の一地方で生まれて日本で育った男であるため、本当なら魔王代行でもなければ指揮者でもなければ女でもない。ついでに言うなら、辰乃という名前でさえない。
音楽と言うものには、ほとんどかかわりにならない人生を送ってきた。むしろ、中学生の合唱大会の時期になって声変わりが始まり歌えなくなって、練習の際に『ちょっと男子ィ~』などと注意を受けていたグループに所属していた。
さらに言えば、その注意を受けて反射的に反発を覚えながらも何も言い返せずに縮こまり、歌いたくないからとか声が出ないからという理由で指揮者を申し出ることもできないようなタイプだった。
およそ注目されるのが何より苦手で、隅にいるのが好きで。
それは就職をして、勤め人として働くようになってからも変わらなかった。
音楽には、やはりあまりいい思い出がない。カラオケに連れていかれても、流行りの曲ひとつ分からないのだから、無理矢理マイクを持たされても童謡ぐらいしか歌えない。盛り下がっても自分のせいではない。苦痛だった。
それが気が付けばこんな城の中にいて、指揮棒を握らされて、女になって、楽団を率いさせられている。
……悪い夢。
そう思い込みたい気持ちさえ萎えてしまったのはいつのころだったろうか。
今では、どちらが悪い夢なのかさえあいまいなのだ。
現状が自分の記憶とすべて食い違っている。記憶を信じられる根拠は何もない。
かつての自分に固執しても、それらが戻ってくるわけではない。
男だと言ってみたところで、日本人の勤め人だと主張したところで、今は虚しいだけだった。
「……あああ~、キュアを信じよ、キュア以外のすべてはまやかしなり……」
呻きながら、辰乃は指揮棒をゆらゆらと動かす。
相変わらず魔王城は『光の縛鎖』で取り巻かれている。楽団員たちの姿は目を凝らしても見えず、魔王城はただただ静かだった。
この世界は、『天球統率者』と呼ばれる存在に支配されているのだという。
凋落し、権能を失った魔王たちは、『天球統率者』とかれが遣わす『天球使』によって支配されている。
それは、魔王の代行として指揮棒を握らされている辰乃も例外ではない。
『天球統率者』は、影の力を嫌い、影の力を使う魔王を目の仇にしていた。ふだんは魔王たちを貢納のために野放しにしているが、ひとたび影の力を感知すればこうして魔王城に縛鎖を張り巡らせて、魔王の力そのものを拘束する。辰乃の指揮に従う影の楽団たち……『揺蕩する影法師』たちは、まさに拘束対象となる。
拘束された魔王は世界から隔絶され、勇者たちを打ち倒すすべを失ってしまう。
しかも、そちらの方が平和に、つつがなく過ごせるかと言われれば、それはまた別の話なのである。
魔王領域の力のない魔王と言うのは、およそこの世界で最も脆弱な存在だ。食糧もエネルギーもなく、搾取され、細って弱って死んでいくだけの虫けら以下の生き物。
いかにも哀れがましい。
そういうわけで、辰乃はみじめな虫けら以下の存在から脱するために、魔王城の編成を目下変更中だった。
『光の縛鎖』に縛られ、雁字搦めとなった魔王城は、何も永久に世界に関われなくなるわけではない。影の力を抑え込み、魔王城で発動する力の種類を変更すれば、拘束が解かれ、ふたたび魔王としてまともな稼働をすることが可能になる。
ごくシンプルに『キュア』と呼称されるこの魔法を、『天球使』たちは尊んでいた。
赦しの祈り、回復の願い、お目こぼしを得るための嘆願の祝詞だ。
「はあ~わたくしは矮小な『天球統率者』さまの忠実な奴隷でございます……王を名乗ることすらおこがましい奴僕です……」
「よくもまあそんなに次から次へと」
「卑屈な言葉が出てくるよな、あんた」
「恥ずかしくて一緒にいるところ見られたくない」
「引くわ」
「矜持の欠片もない」
「『影の楽団』もこれにはがっかり」
「ううううるせえ~! この無責任全開のクソ小動物どもが!」
足元をちょろちょろとうろつきながら、好き勝手に呟くケープハイラックスたちに向けて、辰乃は思わず叫び声を上げた。
「……お前、お前らな……勇者に私が殺されそうになった時、すっごいスピードで逃げたの覚えてんだからな……」
声に反応して一気に蜘蛛の子を散らしたケープハイラックスたちは、しかし辰乃が肩で息をしているあいだに再びうろうろと足元まで戻ってくる。
摘発を喰らい、魔王城からテクスチャをすっかり剥がされてから、まだ二時間が経過していない。多少は回復しているが、まだ全身が疲労感に包まれていた。
体力がない。これは別に、女になったからと言うわけではない。
「仕方がないんだよ、本能で逃げちゃうんだ。本能で」
「小動物だからね」
「子供もいるしね」
「本当は早く体を返してやりたいんだけども」
「でも、本当の体がどこに行ったか分からないからなあ」
「しかし、僕たちを責めるより、あの魔王を詰った方がいいんじゃないか」
「この魔王城の主はあいつらしいというのに、今まで放っておいて」
「今も仕事ひとつしてないんだからさ」
「……
「いや、ちょっと待って……今情報量が多くて、なんか分かんなくなった。めっちゃ初耳の情報出たでしょ今」
ついに立っていられなくなって、辰乃はすっかり殺風景になった魔王の間の床に尻餅をつくようにして座り込んだ。
玉座もなければ、段差さえなくなっているので、そうするしかない。王冠にマントは据え置きなのが、我ながら滑稽だ。
「ああ、確かに僕は一人だけど」
「ケープハイラックスの群れは群れでそれぞれ存在している」
「僕は、かれらの体を借りているだけだ」
「何でケープハイラックスかは分からないけどね」
「ええ、そんなことある……?」
思わず漏れた辰乃の問いに、足元のケープハイラックスがサッと後ろ足で立ち上がった。
「そういうあんたも、本当の姿も名前も喪っているじゃないか、辰乃」
「うわ、それやめてえ~……」
声を上げて、辰乃はずり落ちてきた王冠ごと頭を抱えた。
名前を呼ばれた途端に、『光の縛鎖』で縛られた時とはまた違った、身体を雁字搦めにされたような感覚が走ったのだ。
自分の本当の名前ではない、という、強い違和感。だが、それだけではない。
三原辰乃は、女としてのこの体に名付けられた、ひとまずの名前である。自分本来の名前は、喉に引っかかったようにどうしても思い出すことができない。
そのうえでこの名前を呼ばれると、自分という存在が上書きされるような、辰乃という女として再定義されるような、言い知れない嫌悪感が突き上がってくるのである。
それならまだ、ただ
「分かったよ、
「ごめんね」
「おう、ありがとう……いや、ってことは、もしかしてそっちも、自分の名前が思い出せない?」
「……その通り」
答えるまで間があったのは、たぶん最初は頷いて済ませようとしたからだろう。ケープハイラックスは今は大多数が何もない魔王の間を右往左往しているので、その中のどれかが頷いても辰乃には分からない。確かに、こうした状態の時は一人の人間にコントロールされているようには見えなかった。
「まあ、僕とあんたの話はいいんだ、
「それより重要なのは、帰ってきたあの魔王のことだ」
「いや、あれは本当にこの魔王城の主なのか?」
「それは……」
辰乃は声を潜めて、視線を巡らせる。
魔王城の編成を組み替えて、『キュア』の発動の準備ができてきたためか、四畳半きりだった魔王の間は、広さを増し始めている。
実のところ、辰乃が摘発されたのはこれが初めてではない。『揺蕩する影法師』たちを指揮する限り、辰乃は影の力を行使することになり、『天球統率者』に見咎められることは避けられないからだ。今までの経験から言って、あと一時間もしないうちに魔王城に張り巡らされた縛鎖は完全にほどかれて、魔王城はその威容を取り戻すはずだった。
とは言え、今は区画さえ区切られていない、学校の教室ぐらいの空間だ。
その隅に立って、天井を見上げるひとりの男がいる。
色眼鏡をかけた金髪の男だ。首の後ろで髪を結び、長い髪を背に垂らしている。
『玩弄する言語の魔王』と、辰乃はあの男を呼んだ。はじめてその姿を見たにもかかわらず、すぐにそれが分かった。彼が、この魔王城の本来の主であることも。
であるなら、ケープハイラックスたちの言うように詰るというよりは、質問すべきことがたくさんあるはずである。
なぜ辰乃を指揮者に仕立てたのか。なぜ指揮者なのか。なぜ自分は女の姿なのか。元の世界に帰してはくれないのか。どうすれば元の世界に帰してくれるのか。
……どうして自分は、あの勇者に抑えがたい衝動を覚えるのか。
しかし。
「……いや、冷静に考えて怖い……」
どう見てもかたぎの人間に見えないのである。
変なことを言ったら殴られるかも知れない。対等に話せるビジョンが全く見えない。
「そんなこと言ってる場合か」
だがそうした恐れは、この小動物には理解できないらしい。
「あいつに聞けばなんかいろいろ分かるかも知れないだろ」
「ほら、さっさと行ってこい」
「意気地なし」
「ヘタレ」
「ヘタレだ」
「わっかんねえかなあ! 怖いって言ってんでしょ! 怖いって!」
「誰が怖いって?」
「びえっ」
それがいつもの小動物の声でないことはすぐに分かる。
振り返ると目が合った。
こういう時に立場の弱いものができることは少ない。
たとえば土下座。相手に無抵抗と恭順の意志を示す、日本人の伝統的な所作だ。土下座というものを知らない異文化の存在であっても、土下座の姿勢を取られて攻撃的だと判断するものはそうはいないだろう。
とは言えこの土下座というポーズ、やるのにはちょっとした思いきりがいる。そもそも相手に引かれる可能性がある。引かれたらそれで勝ち、それ以上は傷つけられないという考え方もなくはないが、さすがに辰乃も恥じらいの方が勝った。
あるいは謝罪。これは土下座よりもマイルドに相手に敵意がないことを伝えられる。
しかしこれは、何に対する謝罪であるのかを明確にしないと逆に相手を怒らせてしまうかも知れない危険な選択肢だ。こちらへ向けて歩いてくる『玩弄する言語の魔王』は、いかにもそういう『下手なことをした結果の地雷』が多そうな空気を漂わせている。逆効果・悪手になってしまう見込みが少しでもあるのであれば、これは論外だ。
であるなら、何事もなかったかのように、失礼に当たらないように丁寧に挨拶をするべきか。
しかし、それこそまったく違う国や世界の人間──人間かどうかも分からない──に対して、いったいいかなる挨拶をすればいいのかが皆目分からなかった。お辞儀をしたら失礼になるかも知れないし、手を上げたら失礼になるかも知れない。『玩弄する言語の魔王』は見たところ西洋人に思えるけれど、辰乃には西洋人がする正しい挨拶の知識がない。西洋と言ったっていっぱい国があるし。
「……へ、えへへ……へへ……」
結果として、辰乃はなにも言葉を発さず、相手に向かってただへらへらと笑うに留まった。
色眼鏡越しに冷ややかな視線が突き刺さる。
何も選ばなかった結果の、これが最悪の選択であったのでは、という考えが頭をよぎり、背筋が寒くなる。
男の手がこちらに伸びた。
避けることも止めることもできない。男の手が辰乃の頬を両側から挟み込み、ぐいと引き寄せる。
「ひぃいっ……!」
情けない悲鳴が出た。そのまま持ち上げられて首の骨がどうにかなる、まではさすがにいかないが、無理に上を向かされて不自然な体勢を強いられる。
こちらの顔を覗き込む男は、何を考えているか全く分からない冷たい顔をしていた。ここまで顔を近づけても、グラスを通しては目の色は分からない。そこに込められている感情も。
辰乃は身を竦めた。
「いやっあのっ、すっ、すいまっ、すいません、なにか失礼をしましたでしょうか! ほんと、魔王様にせっかくご帰還いただいたのに摘発されてお手を煩わせてっ、ほんとすみませんでした! そのっ、土下座とかしますんで!」
頬を押え込まれて非常に喋りにくいまま、必死に言葉を並び立てる。
怖い。こんなに無遠慮にものを触るように触れてくる男なのだから、殴るまではそれこそ一足飛びだろう。危機感に、さきほど勇者と相対したようなびりびりとした痺れが全身に走っている。
「……正気か」
ぽつり、と紡がれた『玩弄する言語の魔王』の声は、なぜか安堵していた。
あっさりと手が離される。辰乃はその場に立ち尽くしたまま、男を見上げる。
相変わらず無表情に、彼はこちらを見下ろしている。その中に軽蔑や怒りや憐憫を見出してしまうのは、単に自分の卑屈さが為せることなのかどうか。
男の口からため息が漏れたのにすら、体がびくつかされる。
だが、『玩弄する言語の魔王』は、辰乃に向かって拳を振り上げたりはしなかった。
「お前に礼儀なんざ求めていない、気にするな。俺がいない間、よくやってくれていた、
「は……」
意外なほどに優しいその声音に、辰乃はぽかんとした顔で『玩弄する言語の魔王』を見上げる。
「はぁあぁぁあああ…………」
そして、それが労りの言葉であることに気付いた途端に、その場にへなへなと座り込んだ。全身から力が抜けて、思い出したように汗が噴き出してくる。
(もしかして、思ったよりコミュニケーション取れそうな感じなのか……?)
金髪に色眼鏡に真っ白いジャケットを見て、完全に偏見の目で見ていたが、そしていきなり顔を掴まれたのだから、その印象は一定は間違ってはいなかったと思うのだが、ひとまず今は理不尽に辰乃を殴りつけてくるような人物ではないらしい。
これなら、機会を見計らって疑問を解消したりとか、元の世界に帰してもらったりとかができるかも知れない。
いや、彼は今、「俺がいない間よくやってくれた」と言ったのだ。もう辰乃はお役御免で、すぐに帰還の願いを聞き届けてくれるということだってあり得る。
「あ、あの、『玩弄する言語の魔王』様……」
ぱきん、と。
硬いものが砕け、あるいは折れるような音が響き渡った。
『天球使』による光の縛鎖が、キュアによってついに解除されたのだ。
魔王城がその正しいかたち……魔王の力が行き届いた状態が、正しい状態なのかはともかくとして……を取り戻し、生物のように大きく蠢き始める。
それはつまり、勇者から隔絶された状態からも解放された、ということも意味していた。いずれ、また勇者たちがこの魔王城に押し寄せてくるはずだ。
──ふと、魔王城の回廊を舐める炎を頭に思い浮かべて、辰乃は息を呑んだ。
炎は美しい円環を描き、いとけない少年を起点としている。
途端、膚のひりつくような恐れが全身を駆け巡った。辰乃は自分の体を抱くようにして、腰を折りたたむ。
あの『回転する火の目の勇者』を殺し、あるいは殺される。そんな夢想に満ちた悦びを吹き飛ばすほどに、勇者を目の前にした時の恐怖は激烈で、受け容れがたいものだった。
だというのにそこから助け出された今、その恐れにさえ焦がれている。
「
それを見計らったかのように、『玩弄する言語の魔王』の声が投げかけられた。辰乃は跳ねるように立ち上がり、慌てて頷いてしまう。ぐるぐると、あの勇者のことが頭を巡っていて、それが頭から離れない。
「あっ、あの、『玩弄する言語の魔王』様は、いったい何を」
「……」
『玩弄する言語の魔王』の口元がにやりと笑みの形に歪められた。噛み殺し切れなかったようなその笑みは、どうしてもこちらを嘲っているように見えてしまう。あるいは、威嚇しているように。どうしようもなく、身が縮みあがる。本当に土下座をしようかと思った。
「いやっ、すみません、魔王様ッ、わたくしなんぞが魔王様のご意向を気にするなんてさしでがましい話でございました! 平にお許しくださいませ!」
「アルドリク=フロベール」
「はっ……」
一瞬、何を言われたのか分からない。
それが、目の前のこの魔王の名前であると気づく頃には、男は辰乃の横を通り過ぎて魔王の間を出て行こうとしている。王冠は、辰乃の頭の上に乗ったまま、指揮棒は、辰乃の足元に置いてあるままだ。
「『玩弄する言語の魔王』でも、魔王様でも陛下でも名前でも家名でも、好きに呼べばいい。しかし、忘れはするな」
「はっ、はい、ええと……」
「城の様子を確認してくる。
もう返事さえできなかった。『玩弄する言語の魔王』ことアルドリク=フロベールはこちらを一度も振り返らず、見回りに行ってしまった。
「それで、結局何も聞けなかったのか」
「信じられないな」
「次に戻ってくるのがいつか分からないぞ、あの男」
「お前は逃げてただろ……ヘタレはそっちだろ……」
魔王の間。
主であるアルドリクが戻ってきた今、復活した玉座に腰かける気にはとてもなれず、辰乃は冷たい床に座り込んでいた。
その周りを、ケープハイラックスの群れが取り巻き、好き勝手にしゃべりたてている。
「聞きたいことがあるんだったら、自分で聞けばいいでしょ……そういうもんでしょ。私の影に隠れて文句だけ言うの、よくないと思うんですよね……」
「仕方ないだろ」
「勝手に逃げちゃうんだから」
「あいつ、動物に嫌われるタイプと見たね」
「えっ、じゃあ私、ケープハイラックスに舐められてるってこと?」
「でもやっぱりあいつ」
「本当はここの魔王じゃないんじゃないのか」
「もし魔王なら、自分で歩いて見て回らなくたって、領域の隅々まで目が届くはずだろう」
話を逸らされて口を尖らせていた辰乃は、続く小動物たちの言葉に身体をびくつかせて、思わず辺りを見回した。この会話をもしアルドリクに聞かれていたら、と思ったのだった。
しかし、少なくとも今のところは、どこからともなく彼の声が聞こえてくる気配はない。辰乃はため息をついて、
「でも、私はあの魔王……様の名前を知ってたし、あの人、この魔王領域の中にいきなり現れたんだ。
それに、勇者からも守ってくれたでしょ。そんな手の込んだ嘘つくかな……」
いやそもそも、彼の名前を呼んだのも、彼をこの城の魔王だと認識したのも、どちらも辰乃の側からだ。嘘のつきようなどない。ほかの魔王も、『天球使』たちですら、辰乃が魔王そのものではなく、代行を任された指揮者であることを知りさえしないのだから。
「……んっ」
「そろそろ時間か」
「準備をしろ、
「開演だ」
辰乃が声を上げるのに続いて、ケープハイラックスたちもまた次々に急かしてきた。その言葉に頷きもせず、辰乃は指揮棒を拾い上げて立ち上がる。
(しかし、むしろ、この小動物たちは何者なのかしらん?)
ふと胸に沸いた疑問は、指揮棒を持った途端に聞こえ始めた城中のざわめきの中に溶けていったけれども、胸の内には凝ったままだ。
魔王城に響く楽器の音色はすっかり少なくなっていた。
『天球使』の光の縛鎖から逃れ、キュアを維持するためには、演奏の頭数も最低限に絞らなければならない。
ヴァイオリンとピアノ……それこそ、指揮者が必要かどうか怪しくなるぐらいの少人数構成だが、彼らは辰乃の指揮を受けないと働いてくれないので、とりあえず指揮棒を振っている。……そもそも曲も分からず打ち合わせもせず指揮棒を持つ指揮者など、本当なら必要ないというのはもちろんとして。
曲調は軽快で華やか。人数を揃えたオーケストラに比べれば当然壮大さや絢爛さはないけれども、とかく軽妙で小気味よい。
前に聞いた曲が目の前に天上の花畑が広がるような圧倒的な明るさなら、こちらは夜に灯るどこか薄暗い明かり、ステップを踏んで踊り出したくなるような楽曲だった。
そんな運動神経も体力も辰乃にはないけれど。気分の問題だ。
その構造を取り戻し、広大さを復活させた辰乃の魔王城のエントランスを、悠然と勇者が進むのが見える。
そこに炎の色はなかった。
(いないのか)
落胆するのが、自分であからさまに分かる。
勇者であれば、だれでもいいというわけではない。あの『回転する火の目の勇者』でなければならない。
あの勇者を殺すか、あるいは殺されるかしたい。
まぎれもない、辰乃自身の欲望としてそれがある。
しかし、なぜかは分からない。かの勇者に対する執着を自覚していも、その理由は見えないままだ。
ただそれは、取り立てて不思議がることではないのかも知れない。
およそ、この魔王城で起こることは不可解で、不条理で、不合理で、理解しがたいことばかりなのだ。自分の本当の名前さえ思い出せないのだから、自分の心の動きひとつ理解できなかったところでどうだというのか、とも思う。
そして、理性は自分はこんな場所におらず、さっさと元の世界に帰るべきだと告げている。
そのためには、あのアルドリクの期待に応え、指揮者の仕事をこなす必要があるだろう。
「気をつけろ」
「息を潜めろ」
「『天球使』たちに見つかるな」
「影の力に気がつかれるな」
ケープハイラックスたちの声は、いつもよりどこかひそやかだった。
キュアが発動していても、影の力が少しでも強まれば『天球使』たちはたちどころに魔王城に光の縛鎖を張り巡らせる。派手な立ち回りは避けなければいけなかった。
ピアノがあるとは言え、楽団の頭数がこれほど少ないのはどうも心許ないのだが、それでもほかの魔王たちが影の力を使っていなければ、相対的に辰乃たちが目立ってしまうのだ。
さっきの今となると、『天球使』たちも余計に目を光らせているはずだ。あろうことか、『天球使』たちがわずかな影の力さえ見つけられるように手助けする魔法を発動させる魔王さえいて、まったく油断がならないのである。
「『玩弄する言語の魔王』は……?」
「あそこだ」
「今は奈落にいる」
「呑気に歩いているな」
「いい気なもんだ」
辰乃の独り言めいた問いに答えて、小動物たちが辰乃の足元を駆け巡りながら声を上げた。
成る程確かに目を向ければ、この魔王の間に近い深層、アルドリク=フロベールが散歩でもするように歩いているのが見える。
勇者が攻めてきたのに気が付いていないのか、それとも勇者が攻めてきてもすべてを辰乃に任せようというのか、こちらに戻ってくる気配も、辰乃の代わりに魔王城の指揮を執る様子もなかった。
──かれは、本当にこの魔王城の主なのか?
ケープハイラックスたちが投げかけた疑問が、ふたたび蘇ってくる。
それと同時に、もうひとつの疑念も。
(今、こいつは魔王城を見通したな。私と同じように……)
何もそれは、今に始まったわけではない。ケープハイラックスたちはつねに辰乃と同じものを見ている。
この魔王城の四畳半の領域を見通せないことをもって、アルドリクがこの魔王城の主ではないという疑いが発せられるなら、翻って辰乃の傍らにいて魔王領域を把握するこの小動物たちは、この小動物たちのあいだに分散したこの少年はいったい何者であるのか。
「あっ」
「こら、よそ見をするな」
「入られているぞ、
「えっ、うわっ、うわわっ!」
鋭く叫ばれ、辰乃は慌てて魔王領域を見回した。魔王城に入り込んだ勇者は見張り台を通り過ぎ、エントランスを抜けて、その先の通路を抜けようとしているところだ。指揮棒を振り回し、停滞していた楽団を再び働かせる。
魔王の力が展開される支配空間、あらゆる世界が詰め込めると称される四畳半の無辺の魔王城であるけれど、魔王領域で魔法を発動するため、魔王城の
たとえば、外敵を迎える見張り台にエントランス、応接間、三叉路に商店街、回廊に闘技場。
これらは必ずしも、名前通りの機能を果たす区画ではない。そう名付けられた場所に何を置くかは、あくまで魔王の裁量に任されている。そこに魔法の発動に必要なものを配置する。
勇者を迎え撃つため……あるいは、勇者を宥めすかすためだ。
「がっ、楽団!」
魔王の間の冷たい床の上で、辰乃は指揮棒を勇者へ向けて差し向けた。
夜の舞いのようであった音楽は様相をがらりと変えて、昼下がりのような緩やかさと優美さを旋律に纏う。
……それは、辰乃も聞いたことがある曲だった。
どこで聞いたかは思い出せない。ただ、間違いなくこれは、元の世界、日本のどこかで聞いた曲だ。時折、『揺蕩する影法師』たちは、こうして辰乃の知っている曲を奏でることがあった。
この世界と、辰乃の住んでいた世界はどこかで繋がっている。知っている曲が魔王城に響き渡る時、辰乃はふと、状況を忘れて安心させられる。
すべては、幻かも知れないのだが。
鎧を身に纏った勇者の足が、曲が変わったのに反応してぴたりと止まった。
警戒したのか、それとも曲を気に入ったのか、とにかく今は止まってくれれば何でもよかった。勇者の考えていることは、辰乃には分からない。
ピアノの伴奏を背に、ヴァイオリンを奏でる影の楽士がゆっくりと勇者へ歩み寄った。
辰乃は指揮棒を振りながら固唾を呑む。上手くいけば楽士は勇者と和解して、一度はこの城から去ってくれるはずだった。
魔王領域の中においても、鎧の中を見通すことはできない。だが、動かないということは、曲に聞き入ってくれているのかも知れない。
と。
「あっ」
不意に上がった声に、辰乃はびくりと肩を跳ね上げた。指揮棒が同じように不随意に動くのを急いで引き戻し、ふたたび一定のリズムを刻む。
もともと楽士たちは辰乃の指揮をしっかり見て演奏しているわけではないのだから、ちょっとぐらい動きが乱れても何ということはないかも知れない。しかし、この世界ではとにかく、何が起こるか分からないのだ。まったく心臓によくない。
「い、いきなり何だ、小動物──」
文句の言葉を、辰乃は途中で止める。いったい、ケープハイラックスが何に反応したのか、それが分かったからだ。
アルドリクがいる。
奈落にいたはずの『玩弄する言語の魔王』──アルドリクが、いつの間にか悠然と魔王城の通路を進んでいるのが見えた。
いや、たぶん、驚くに値しない。ここは本来、彼の魔王領域なのだから、その思い通りにならないものはない。距離など、何の意味も為さない。さっき辰乃の前に現れた時も、アルドリクは唐突だった。
アルドリクは奈落で見た時と同じように、散歩でもするかのように無造作に歩く。その先には、動きを止めた勇者がいる。
「あ、まさか」
こちらに背を向けたアルドリクが、辰乃の漏らしたつぶやきに反応して、こちらを一瞥したようにも思った。
だが、それが確かなことであるか辰乃が考えるうちに、アルドリクは影の楽士の横をすり抜けて、勇者の前に立つ。
──塩が。
視界の中にわずかに散った。
そう思った時にはもう、勇者は姿かたちを失い、アルドリクの足元で塩と化している。
舞台の上に立つように、観客に応えるように、けれど控えめに、アルドリクはこちらに背を向けたまま、緩やかに手を広げた。
辰乃は魔王の間で土下座している。
「わたくしなどが魔王さまを疑ったりなんかして本当に申し訳ありません……殺さないで……」
魔王の間の玉座に腰かけたアルドリクは、渡された王冠とマントを床に置いて、相変わらず酷薄なまなざしで辰乃を見下ろしていた。
「殺しはしない。お前はよくやってくれている。
ただ、疑われているようだったから証明してやったまでだ。あと、この王冠すげえお前の汗が染みてる」
「ギャーッすいませんマジで汗っかきなんでッあっもったいないお褒めの言葉いただきありがとうございます! カスですいません!」
礼を言うのだか、謝罪をするのだか、命乞いをするのだかよく分からなくなってきた。アルドリクは呆れたようにため息をつくと、玉座から立ち上がって辰乃の前までゆっくりと歩いてくる。
「まあ、とにかくだ、
「はい! もちろんでございます! 身命を賭してことに当たらせていただきます!」
勢いよく言い切ってから、辰乃は顔を上げる。アルドリクが笑みを浮かべて鷹揚に頷くのを見て、心から安堵する……
「………………あっ! 違う!」
帰還の願いをするつもりだったことを思い出したのは、アルドリクが魔王の間を去ってからだった。
ケープハイラックスは、やはりいつの間にか逃げていた。