魔王魂ピアノ41

魔王魂


あなたが笑っている。

今日は市場にでも行こう、って

言ったのはあなただった。

僕はあなたと一緒に歩くのが好きで、

あなたと手を繋いでいるのが好きで、

いつも、なにか、いいことがある気がした。

今日もそうだった。

見たことのない珍しい屋台が立っていて、

ちょっと覗いてみようかなんて近づいて、

ふたりぶんの菓子を買って食べた。

他愛ない焼き菓子。柔らかくて甘くて、クリームも入ってない。

簡単に紙に包まれて、手で渡されたのを受け取ってふたりで食べて、

これはうまいねってあなたが笑う。

あなたの笑顔を見るのが好き。

僕もあなたも、この国のことは何も知らない。

ごく狭い範囲のことしか。だから、なんでも物珍しくはあるのだけれど、

あなたは僕の手を引いて、いろんなところに連れてってくれて、

新しいものを見つけたら、その喜びを僕にも分けてくれて、

そうしていつも笑っている。

僕は、それが

嬉しくて

痛みで目が覚めた。

辺りはまだ薄暗く、身を切るような寒さで体が震える。吐く息は白い。

辺りを見回すと、岩を背にして眠っていた。

痛いのは、背中も、脚も、喉も、手も、どこも。

でも、とりわけ切り付けられた大きな傷と、刺されたフォークの跡が痛んだ。

触れると、塞がりかけた傷から新鮮な血がじくじくと滲んでいるのが分かる。

治りもしなければ、腐りも虫が湧いたりもしていない。

ともすると、さっき傷つけられたばかりに思える傷。

あんなに痛いのが嫌だったのに、今は安堵している。

この傷が消えたら、きっと僕は耐えられなくて、どこか街や、集落に行って、

あなたを忘れてしまう気がしたから。

だから、これでよかった。

行きたい場所は、僕がこんななりでも許してくれる。

あなたは驚いて、心配するかもしれないけど、

これがあなたのつけた傷だって分かったら、喜んでくれると思う。

そうしたら、夢の中みたいに二人でどこかに散歩に行こう。

僕は人が怖いけれど、あなたと一緒なら大丈夫。

馬鹿げているな、と思いながら、服や髪についた砂埃を払って立ち上がる。

足の裏はずたずたで、小石が刺さって新鮮な痛みを与える。

そんな場所がどこにもないのを知っている。

あなたが死んだのを知っている。僕が殺したから。

夢の中で僕に向けられていた、あなたの嬉しそうなあの笑顔が、本当は血に塗れて、肉の匂いがして生臭く、

僕は力が抜けて冷たくなってゆくあなたの身体を抱いていた。

冷たくなったあなたは手を握り返してくれなくて、手は硬くて、押すと指の跡がついた。

本当はあなたも連れて行きたかったけれど、僕にはあなたの体は重くて、とても無理だったから、

あなたはきっと先に行ってると思い込んで、歩くことにした。

あてはない。

歩いても歩いても、どこかに辿り着くことはない。

誰も二人を傷つけない場所なんて、どこにもないのを知っているから。

知らなかったら、あなたを殺したりなんかしないでふたりで歩いた。

どこまでも、どこまでも歩いて行けた。

でも無理だった。

あなたを殺した。

一緒に連れて行ってもらえなかった。

一緒に死んでもらえなかった。

殺してもらえなかった。

僕がそれについて、なにか、文句を言うのは筋違いだと分かっている。

あなたを裏切って、傷つけて、もうダメだって思わせたのは僕だからだ。

あなたは手を差し伸べてくれて、僕はそれを拒んで、あなたを刺した。

あなたを傷つけた。

『こんなクソみたいな世界から』

『こんなくだらない人生から』

あなたはいなくなった。

僕を置いて。

僕がいるからだ。

あなたを傷つけた僕がいるから。

クソみたいなのもくだらないのも僕だから、

あなたは僕がいる世界にいるのが、きっとほとほと嫌になってしまった。

お前は来るなと言われてる気がした。

分からない。

それはきっと妄想だと思う。

でも、怖くて、

どこにも居場所がないのに、死んだ先であなたに拒まれるのが怖くて、

まだ歩いている。

一歩一歩を踏み出すたびに、刺すような痛みが走る。

この国のどこにも僕の居場所はないのだと、大地が訴えかけてくる。

もういいかな、まだだめだよね。

だから、眠るたびにあなたの夢を見て、

起きたら倒れるまで歩き続ける。

その繰り返し。

庭へ続く窓から柔らかい陽の光が差し込んで、居間は暖かくて、心地がいい。

**が布でできた積み木を振り回して放り投げ、散らばすのをあなたが拾う。

あなたはこどもみたいに振る舞って僕に甘えるけれど、**のことも可愛がってくれて、

抱き上げて、あなたがあやす。

かわいいな、とあなたが笑う。

僕とあなたのこどもだから、かわいいに決まっていた。

窓からの陽の光を受けて、きらきら、きらきら、空の色と同じあなたの髪がきらめいて、

あなたを選んでよかったと僕に思わせてくれる。

しあわせだった。

今日はどこか散歩にでも行こうよとあなたが言う。

あなたは、歩いて出かけるのが好き。

僕も好き。

歩いているだけで、今日もいいことがある気がするから。

あなたと、**といっしょなら、どこへ行ったって、なんでもないものだって、たのしくてしあわせだから。

あなたの腕の中で**がむずがる。

おっぱいの時間かな、と思って、胸を見下ろすと、

そこはあなたのナイフで、ズタズタに引き裂かれている。

夢を見ている間は夢であることに気がつかないから、目覚めて夢だったと気がつく瞬間が一番惨めだった。

あなたの夢をたくさん見る。

幸せで甘くて都合がいい夢をたくさん見る。

今日は隠れようもない荒野のど真ん中で、巨大な虫の亡者に見つかって、方向も分からずにめちゃくちゃに走って逃げた。

何度も転んで、あの不快な羽音が迫ってくるのを聞きながら、振り返らずに走った。

振り切れたのが不思議だったけれど、もしかしたらコインの力だったのかもしれない。

途中から転ばなくなって、羽音もなにも聞こえなくなって、無我夢中で駆けた。

裸足の足の裏はズタズタで、胴体の傷からは新鮮な血がこぼれ続けている。

汗で張り付く服や髪がきもちわるい。

吐き気がして、心臓がばくばくいっている。

砂埃が汗に溶けて、手が黒い。

からだのどこも痛いか痒いかのどちらかでひどくきたない。

こんなにしてまで生きてる意味も理由もない。

でも、あなた以外に殺されるのは嫌だった。

亡者に殺されたら、亡者になるとも聞いたから、

そうしたら死ねなくなって、心を失ったまま、あなたのところへいけなくなって、

それも怖かった。

でも、この国は、植えた作物さえ亡者になると言うから、

荒野の空気を吸って、土の毒素かなんかがたくさんからだに入って、

いずれやっぱり、亡者になるのかもしれなかった。

僕がしていることには、ずっとなんの意味もない。

あの娼館にいる時からそう。

こんな風になるなら、死ねばよかった。

あなたに会う前に、あなたを傷つける前に、ひとりで死ねばよかった。

でも、できなかった。

怖くて。怖くて。

先延ばしにした。

だれかを殺さなければならないと思って、そのぶん生きていられた。

あなたを殺す。

弱いあなたを殺す。

僕と同じ、ひとりのあなたを。

殺せるなんて思ってなかった。

血に塗れた妄想だった。

あなたを殺すのと同じぐらい、あなたに殺されることを考えていた。

あなたは弱いから、僕のことを殺しても、ずっと忘れないでいて、僕のことだけ考えてくれると思った。

あなたも同じことを考えたのかもしれない。

僕たちは同じように弱いから。

もしそうなら、僕たち、同じぐらいひどい。

だったら、もういいかな。

だめだよね。

張り裂けそうな心臓に、くずれおちそうな脚に鞭を入れて、足を踏み出す。

痛くて、苦しい。

どこにも。

行く場所はないのに歩いている。

「よかった」

「あなたを待っていたんです」

「もう来てくれなかったらどうしようかと思ってた」

手を繋いで、あなたを部屋に招き入れる。

あなたのことが好き。

僕を好きでいてくれるあなたが好き。

一人でどこにも行く場所がないあなたが好き。

僕なんかを信用して、僕なんかに甘えきって、なんでも話してくれるあなたが好き。

あなたを殺すことを考えながら、あなたの話を聞きながら、

あなたの前に他の人に抱かれて、あなたの後に他の人に抱かれて、

あるいはそんなこともなく、一人でただ過ごして、暗い部屋であなたを待ち侘びる。

そうしてあなたは来てくれる。

その時間、僕はあなたのものになって、あなたは僕のものになった。

嬉しかった。

怖くなるくらいうまくいった。

あなたは僕に心を開いてくれた。

僕のために、心を染めてくれた。

僕の前で無防備な姿を晒してくれた。

僕が欲しいと思うものを、ねだる通りに渡してくれた。

あなた。

弱いあなた。

きっとあなたも、僕を弱い女だと思って、憐れんでいた。

憐れんで、憐れんで、たくさん踏み躙った。

あなたは僕が無理だと言っても、嫌だと言っても、泣き叫んでも聞いてくれない。

楽しそうに笑っている。

怖くてひどくて嫌だった。

他の客に、血が出るほど殴られたことがある。

胡椒を振りかけられて、胡椒まみれの指先を突き入れられたことがある。

夢の中で、現実ではありえないようなことをされたことがある。

二人がかりでされたり、一人としているところをじっと観察されたことがある。

あれをしろこれをしろと、たくさんの奉仕を命じられたことがある。

丁寧に、大事に、淡白に、優しく扱われて抱かれたことがある。

客が取れなくて、手入れのように娼館の主人に抱かれたこともある──そう、あなた、あなたがいつも金を渡している、あの白兎の末裔に。

僕を気に入るひとはほかにもいて、何度も来て僕を抱き、恋人にするみたいに愛を囁いた人もいた。

でも、あなたみたいにするひとはいなかったかな。

僕は泣いていて、あなたは笑っていた。

僕の中にある何かを、壊そうとするように執拗にした。

そうして、でも、終わると僕を気遣ったりして、なんでもないように振舞って。

次に来る時にはまた、にこにこと笑っている。

あなたは僕に外の話をいろいろしてくれる。

僕が記憶がないと言ったから、かわいそうだと思ったのか。

自分が外でしてきたことを僕に教える。

クソみたいな世界。

どうしようもない場所。

でも、あなたはにこにこと笑って。

ここはそんなところじゃないでしょう。

僕は本当は知ってる。

あなたもそんなひとじゃない。

だから僕のところになんか来る。

僕を踏み躙る。

その先に、あなたが僕を殺してくれるのを夢想する。

あるいは、あなたが僕に殺されてくれるのを。

でもその日は違った。

あなたはほかの誰かがするみたいに、僕を優しく抱く。

唇が触れて、指先がなぞり、恋人みたいにするように抱く。
 
「いいだろ」

怪訝な眼差しに気づいたのか、あなたは言う。
 
「たまにはそんな気分なんだ」

それじゃあ、ほかのだれかと同じ、

同じですよ、と思ったけど、言わない。

同じだけど違った。
あなたはあなただし、僕はあなたが好きだった。

ほかのだれかがするみたいにされても、あなたがするから違った。

今の時間だけは誰よりも幸せだった。

幸せすぎて、

殺したくも、殺されたくもなくなってしまう。

どうしよう、と思った。

そうしたら、あなたは言う。

たまには外に出ないかって。

僕は、

娼館にいたころはあなたの夢を見なかった。

その代わり、怖くて毎日泣いていた。

苦しくて嫌で、悲しくて、恐ろしくて、

あなたをうまく殺せるか

あなたが僕を殺してくれるか

不安で不安で仕方なかった。

流れる涙に夢が溶けて落ちて、気絶するように眠って、顔がヒリヒリする痛みで起きた。

ずっと、そのことばかり考えていた。

あなたのことばかり考えていた。

恋するみたいに。

恋していた。

いまは、街を見るたびに背を向け、亡者に追われて逃げ、

護衛をつけた隊商を、群れをなして歩く末裔を、ひとりぽっちで立っている救世主を見ては逃げている。

誰にも会いたくなかった。

どこにも行きたくなかった。

僕は弱いから、だれかと話をしたら、

どこか居場所を見つけてしまって、

また誰かに生かされてしまって、

あなたが特別じゃなくなってしまって、

あなたを忘れてしまうんじゃないかって、

怖くて。

だから、あなたに会ったら眉を顰められるようなひどい格好をしている。

死んでないのが不思議だった。

水も飲まず、何も食べず、ただ歩いている。

ひょっとして、とっくに亡者になってしまっているのだろうかと思って、身体に触れて確かめたりしたけれど、分からなかった。

もし亡者になっているなら、あんなに怖がっていたのがばかみたいだなと思った。

それだったら、怖がる必要なんかなかった。

あなたを殺す必要はなかった。

でも、怖くてとても無理だった。

あれから何日経ったのか、結局数えていない。

最初の方は、丸々二日歩いてみたり、眠ったらまた一日歩いたりしていたけれど、

いまは眠る時間のほうが多くなっている気がする。

もう目覚めないんじゃないかとさえ思わず、気絶するように眠りにつく。

そして、あなたとの幸せな夢を見る。

起きているのか眠っているのかも、曖昧になっている。

だって夢を見ている時は、夢だって分からないから。

痛くて苦しくて、僕にとって都合が悪いことが起こるなら夢じゃない、と、かろうじて判断をつけているだけ。

現実はいつも辛くて、夢はいつも優しかった。

現実にはあなたがいなくて、夢の中にはあなたがいた。

あなたと一緒にいない夢も何度か見た。

あなたが僕のところに来ない夢。

あなたが僕なんかに殺されない夢。

あなたが幸せそうに、僕以外の誰かと過ごしている夢。

子供のあなたが母親に愛されて、わがままなんか言ったりして、楽しそうにしてる夢。

そのどれも嬉しくて、幸せで、ほっとした。

都合のいい夢だった。

あなたを傷つけて死に追いやっておいて、

もしそうじゃなかったら、あなたが幸せに暮らせていたらなんて、夢を見る資格さえあるはずなかった。

許されなかった。

許されないのだ。

だからあなたは、僕を連れて行ってくれなかった。

そう思う。

空腹が激痛になって、喉をかきむしりたくなるような渇きがある。

なぜ生きているのかわからないと言ったけど、恐らくコインの力だった。

たった十枚でも、何もないところから刃物を生み出せるような奇跡が宿っている。

僕が死にたくないと思うから、生かしているのかも知れなかった。

あまりに苦しくて、何度かコインを捨てることも頭をよぎったが、あなたが残してくれたものだから手放したくなかった。

誰にも渡したくなかった。亡者にも救世主にも末裔にも。

この世界に還すことさえ本当はしたくない。

いつかだれか、たぶんお客が、捨てられたコインの行き着く場所があると言っていたっけ。

それも嫌だった。

これはあなたのコインで、あなたが僕にくれたコインだった。

死体を漁って、コインを奪った。

それでこうやって、今もまだ荒野を歩き続けている。

歩き続けて、

足がもつれて、倒れて、

立ち上がって、また歩いて、

歩けなくなったら、這っていった。

気絶して、夢を見て、

目が覚めて、起き上がって、歩く。

今の僕は臭くて汚くて、ぼろぼろで、雑巾より酷かった。

もしかしたら、あなたが会ったら、僕だって分からないかもしれない。

そうしたらどうしよう、と思うけれど、考えても仕方ないことだった。

あなたは死んだ。

僕が殺した。

ただ殺すよりもっとひどかった。

騙して、信用させて、不意を打って、傷つけて、

生きていられないと思わせた。

僕が今受けているのはその報いだと思い込もうとするけれど、

本当は関係なんかなくて、

僕が勝手にそうしているだけで、

あなたはもう、許しも責めもできない。

僕が殺した。

絶望させて、途切れさせた。

あなたを踏み躙った。

謝っても、謝っても、届かない。

好きだって、愛しているって言ったって、

許してほしいって、あなたのところへ行かせてほしいって言っても、聞いてくれない。

僕が勝手に意志を見出して苦しんだり自分を慰めたりしているだけ。

そうして幸せな夢を見て、

まだ都合が良く、もういないあなたを使っている。

どこにも辿り着かないのに、まだ歩いている。

歩いている?

もう、歩けもしていない。

足も動かない。

腕で乾いてひび割れた地面をたぐるけど、前には進まない。

「 」

口を開いたけど、声も出なかった。

ずっと声を出す必要はなかった。

僕にはあなたを呼ぶ名前がなかった。

あなたも、僕を呼ばなかった。

ふたりきりだったから、それでよかった。

ほかのだれも、あなたといる、あの瞬間だけは、

入り込めなかった。二人だけの時間だったから、

それでよかった。

いまはひとりだ。

なんとか身体に力を入れて、仰向けになる。

堕落の国の空は晴れることなく、けれどいまは明るい。

明るさが目に痛いぐらいだった。

暗い部屋で、あなたを待ってた。

僕には、もう、あなたしかいなかったから。

来てくれなくなったら、どうしようかと思ってた。

来てほしかった。

会いたかった。

僕に向かって笑いかけて、

僕が好きだってことをたくさん伝えてほしかった。

何であなたを裏切ってしまったんだろう。

何であなたと一緒に、歩けなかったんだろう。

もうあなたはどこにも行けない。

どこにだって行けるって嘘をついたあなたはどこにもいない。

僕も、もう、歩けない。

分かってる。

ずっとあの部屋にいたかった。

あなたとあの時間を過ごし続けていられたら何でもよかった。

あなたを殺すことを、殺されることを夢見ながら、あなたに愛されて、あなたに傷つけられて、あなたに抱かれていたかった。

何かが変わるのが怖かった。

どう変わるかわからないのが怖かったから、

自分がわかるようにした。

ごめんなさい。

でも、もし、次にまた会えたら、

その時は、あなたと、

動かなくなったあなたの頬を触る。

「ひどいありさまだ」

こんなに辛い思いをさせるなら殺してやればよかった。

「ほんとうに、でも」

でも、

どうしようもなく愛していたから、

他の誰かみたいに、どうでもいい奴らみたいに殺せなかった。

お前はずっと自分を責めるけど、俺だって弱くてひどいやつなんだ。

お前が俺を忘れなくてよかった。

お前が誰にも触れなくてよかった。

お前が誰にも触れられなくてよかった。

お前がひとりでよかった。

お前を傷つけたのが俺でお前に殺されたのが俺でよかった。

お前が亡者になったりして、俺を忘れなくてよかった。

眠るたびに俺の夢を見て、起きて俺がいなくて歩きだす。

俺のつけた傷口から血の溢れるのが、

そのたびに起き上がって俺の望みを叶えようと歩いてくれるのが、

歩けなくなっても、這ってでも遠くに行こうとしてくれるのが。

その全てが嬉しかった。

嘘をつかれたってよかった。

殺すために選ばれたってことだって今はもう嬉しいんだ。

殺されたってよかった。

二人で死んだほうがよかったのかもしれない。

けれど殺せなかった。

愛してしまったから殺せなかった。

愛していて、なのに俺は、あの瞬間までは殺そうと頑張った。

けどできなかった。

何かを失うことにこれ以上耐えられなかったから。

愛を手にしてその愛を自分で壊すことに耐えられなかったから。

だからお前に押し付けた。

お前を殺せなかった俺だってほんとうにひどいやつだ。

ずっとそう思ってる。

お前がこんなボロッボロになってんのに、

それでもこうなって嬉しいって思ってるんだ。

こんな酷いやつでごめんなあ。

けど愛しているから生かしてしまった。

愛してしまって、こんな風にお前を歩かせた。

あー、もっと普通に愛してみればよかったな。

もっとお前の体を普通に楽しんだり、

それこそ無理やり連れ出してデートしたりさ。

二人で人生がどんなにひどかったか語り合って、

じゃあもういいかって二人で笑って死んでみたりさ。

それとも恋人のように2人寄り添って生きてみたりさ。

まあでも、そうするには俺たち時間が足りなかったね。

もっとずっとお前と居たかった。

生きれるのなら生きたかった。

けれどこんな国じゃ俺たちどこも行けなくて、

暗くて狭いあの部屋にしか俺たちのいい場所はなかった。

あの部屋でずっとお前を抱いていられたら、

責務なんて忘れて、ただ二人でいられたら。

名前なんてなくたっていい、お前は俺の事だけを呼ぶんだから、

ま、こんなに遠くまで来たんだから、

きっと俺たちには天国も地獄もないよ。

今度こそ一緒に行こう。

今度はちゃんと連れて行くよ。

お前が弱いなりにがんばったんだからさ、

今度はちゃんと連れて行くよ。

二人でどこでもない所に行こう。

たった10枚のコインをこの世の餞別に。

「愛してる」

「あんたお名前なんてーの」

あなたの手を取る。

「……ぼく、」

あなたの手を取る。

あたたかくて、柔らかい。

よかった。

ちゃんとあなたは、分かってくれた。

「僕の、名前」

言葉が続かない。

うまく答えられない。どう呼んでもらっていいか分からなかったから。

でも、それでよかった。

もう、僕を呼ぶのはあなただけ。

あなたが呼ぶのは僕だけだから。

どこにでも行ける。

二人を誰も傷つけない場所へ行ける。

だから僕は、あなたと、

しあわせで、

しあわせに、

名前なんて問題じゃない。

照れ隠しにかけた言葉だから。

二人でいれば、それだけでいいから。

「じゃ行くか」

どこでもないところへどこまでも。

もうどこにも行かないでいい。

「はい」

あなたと二人で、歩いて行く。

手を繋いで。
[ 女 ] あなた : 0 → 1
[ 女 ] ここではないどこか : 0 → 1