プロローグ

 霧の中を、赤い大型ハイドラが行く。
 その歩みは、お世辞にも軽やかとは言いがたい。
 ある程度の装甲を持った、重い機体だ。動きに妙なところがあるわけではないが、操縦棺の空気を通じて、緊張がはっきりと俺に伝わってきた。
 無理もない。俺にとってはこの深い霧は馴染みの戦場でも、彼女にとってはこれがまるきり初めてのことなのだから。
 シミュレーターでは何度も訓練をしてはいるものの、これほど濃い霧の中での初めての実戦となれば、いかに彼女と言えどもふだんより張り詰めるのは避けられない。
「心配しないで、フィリップ。悪い緊張感じゃないんだから」
 俺の考えを察したのか、グロリアは外部カメラに映る映像に釘付けになったまま、ひそやかな声を漏らした。
 消え入りそうな小さな声も狭い操縦棺の中ではよく聞こえるが、そもそもが彼女はいつだってはきはきと喋るたちだ。こうやって内緒話のように喋るのも、緊張のあらわれだろう。
「でも、全然違うのね」
「そうだな。霧のあるのとないとでは……」
「そうじゃなくってさ」
 俺の言葉を遮り、グロリアはパネルに指を走らせる。外部カメラの情報は統合され、文字通りの全天表示フルスクリーンに切り替わった。
「あたしだって残像領域生まれだもの。霧の中を走り回ったことだってあるのに。ハイドラを通していると、全然違うんだって思ったの」
 グロリアはそう言ってみせると、ふと破顔する。
 顔がひきつったわけでもなければ、恐怖を紛らわそうとしたわけでもなく、こういう時にグロリアが笑うのは、本当に楽しいからだ。はじめての霧の戦場と、緊張を楽しんでいる。
 得難い素質だが、気楽すぎるきらいもあった。ただ、これで集中力を失っているわけではない。彼女の感覚は、『ゲフィオン』を通じて霧の向こうへと伸びている。
「ああ、すごくドキドキする。すごい勢いでフィードバックされてる感じがする。知らないことだらけだわ。
 ねえフィリップ、あたしたち、生きて帰れるかしら?」
「今日はほんの様子見のつもりだから、さすがに死ぬつもりはないが、どうかな」
 俺の物言いに、グロリアは唇を尖らせて見せた。俺は首を竦めて、操縦棺の中で視線を巡らせる。
 いつものいやな感じを、その気配のとっかかりを、つい探してしまっていた。
 まだにしろもうにしろ、『ゲフィオン』に乗っている限りはどうしようもないことなのだが、それでも神経質になっている。これでは、どっちが集中を欠いているか分からない。
「グロリア、〈デコレート〉はまだ起こさないのか?」
「もうちょっとだけ楽しんでたくて。でも、そろそろ準備をしないといけないね。フィリップ、大丈夫?」
「ああ。いつも通り合図をしてくれ」
「OK、それじゃ、カウントを合わせて……3、2、1――」
 次の瞬間、体の中に流れ込んでくる異質な感覚に、その感覚に対するものではない、〈デコレート〉に対する嫌悪感に、俺は歯を食いしばる。
「さあ、行こう。『ゲフィオン』!」
 けれども、グロリアは笑っていた。だから、俺も耐えられる。
 『ゲフィオン』が、霧の中に透明な歌声を響かせ始める。


 彼女の話をしよう。俺ではなく、グロリア=グラスロードのことだ。
 ただ、グロリアの話をするためには、少しだけ俺についても説明しなくてはならない。
 この残像領域すべてをまだ深い霧が覆っていた頃、俺は乗機の『イグノティ・ミリティ』とともに、戦場から戦場を駆けずり回っていた。
 大した戦績を上げられたわけではない。そこにいただけだ。活躍と呼べるようなものだってしたことがなかった。
 言ってしまえば三流のハイドラライダーだった俺が、三流なりにどこの戦場でどんな風に撃墜されたかについては、きっと誰も興味はないだろう。
 でも、その後がひどかったこと、そして、さらにそののちが幸運だったことは言っておきたい。
 『イグノティ・ミリティ』がおしゃかになり、HCSがうんともすんとも言わなくなって、助けを求めることもできずに、ずいぶん長いこと操縦棺の中で目を閉じていた。破壊された装甲の隙間から濃密な霧が流れ込み、窒息してしまいそうなぐらいだった。霧の中に漬け込まれて、この操縦棺が名前通りに俺の棺になって、そうやって死んでいくのだ。
 撃墜された時点であっさり死んでしまえなかったのを、これほど恨むことになるなんて。想像できるだろうか。通信機も壊れていて、自分がここにいることをだれかに知らせることはできなかったし、声だってもう出ない。息苦しく、全身が激痛で動かせず、噎せかえるほどの霧の中にいるのに喉が渇き、空腹感で腹が痛んでいた。
 戦闘が終わった後にやってきて、撃墜されたハイドラを回収していくジャンク屋や、死体を漁って無事なところを持っていく連中がいるという話は聞いたことがあるけれど、それは俺が死んだ後のことになるはずだった。そう思うと、俺が死ぬまで遠巻きに眺めている奴らがいる気がして、はらわたが煮えくり返った。けれど、それも幻に過ぎなかった。
 歌が聞こえてきたのは、そうして現実と妄想の区別がつかなくなって、しばらくしてからだ。
 知っての通り、霧の中で聞こえる歌にろくなものはない。この時に俺が聞いた歌声だって、敵対する人間にしてみれば不吉以外の何物でもない代物だ。
 グロリアの駆る『ゲフィオン』は、術導肢による霊障を用いる際、少女の声のような音を奏でる。それは操縦棺を通して戦場に『ゲフィオン』の霊障を浸透させる。つまりは、実際の効果以上に、心理的なそれが望めるということだ。
 ただそれは、俺にとっては救いの歌声だった。
 とは言ったものの、操縦棺でくたばりかけていた俺にそんなことが分かるはずもない。霊障が新しい仲間を見つけて喜悦の声を上げているのだ、と思った。その頃にはもうぼんやりとした苦しさだけがあって、楽になれるのならば何でもいいという気にさえなっていた。
《――そこに誰かいるの?》
 だから、『ゲフィオン』のスピーカーを通して聞こえてきたその声を聞いた時、信じられなかった。
 全身の痛みも息苦しさも、空腹も渇きもすべてが一気に吹っ飛んで、モノクロの世界に鮮やかな色が差し込んだようだった。人生で、あそこまで心地のよい衝撃を受けたことは後にも先にない。
 もっとも、スクラップになった『イグノティ・ミリティ』の操縦棺の前に、何度かの跳躍を繰り返して降り立った『ゲフィオン』の姿は、とても美しいとは言いがたかった。
 グロリアも『ゲフィオン』もまだ試験中で、ハイドラの試用と訓練を繰り返してHCSに馴染んでいるところだった。艶やかな赤色に塗られてもいなければ、装甲も不十分で、ところどころパイプが剥きだしになっており、今では考えられなような武骨で不格好な見てくれをしていたのだ。
 けれどその姿さえ、俺にとっては救いの天使のように見えた。
《少し待ってね、今すぐそっちに行くから!》
 耳元で囁くような『ゲフィオン』の透明な歌声とは違って、グロリアの声ははっきりと力強く、どこまでもよく通る。
 間に合わせに組み合わされたパーツがほどけて、ずんぐりむっくりの腹から胸元にかけてがばっくりと口を開けると、その中から豆粒のように小さな少女が立ち上がるのが見えた。『イグノティ・ミリティ』の前に、覆いかぶさるようにひざまずいた『ゲフィオン』からワイヤーを垂らし、彼女はするするとこちらの操縦棺の上に降り立ると、亀裂の間からこちらを覗き込む。
 そして、すぐに体を滑り込ませてきた。
「あたし、あなたを探していたの、ずっとあたしのことを呼んでいたでしょう?」
 その言葉に、馬鹿馬鹿しくも俺が運命を感じてしまったことを、分かってもらえると思う。
 必死で誰かのことを呼んでいたかも知れないが、それもとっくに昔の話だった。声を出してみたことなんてもうしばらくなくて、それでも彼女はここに来てくれたのだ。
 それが、『ゲフィオン』の機能と彼女の適性が一致して、電磁波の残りかすに焼き付いていた俺の思念、SOSの形にさえなっていなかった声なき声を拾っていたのだということは後から知った。
 グロリアは、すっかり破壊されて朽ち果てた操縦棺の中をきょろきょろと見回した後で、俺の方に手を差し伸べる。『イグノティ・ミリティ』に開いた大きな亀裂の間から、光が差し込んで彼女の短い銀髪をきらきらと輝かせていた。
 俺はそこではじめて、霧なんてもはやどこにもないことに気づいた。
 俺が撃墜されて曖昧になっている間に、残像領域を覆っていた霧はすっかり晴れていたのだ。操縦棺の中に霧が入り込んできて窒息しそうになっていたのも、単なる錯覚、俺の頭が作り出したまぼろしに過ぎなかった。
「あたしはグロリア。さあ、あなたの名前を教えてちょうだい!」
 彼女はきっと、この時俺がどれほど感動していたかなんて分からなかっただろうし、これからもそれを知ることはないだろう。
 けれど、俺が生まれて初めて見る青空を背にして、見るものすべてが楽しくて仕方がないというような彼女のあの笑みを、俺は絶対に忘れることはない。
 夢から覚めるような気持ちで、俺は差し伸べられた彼女の手を取った。そして、久方ぶりに人に届けるための声を発した。
「…………フィリップ。フィリップ=ファイヤーストーン」
 だから、俺の話はこれぐらいにして、彼女の話をさせて欲しい。
 彼女の名前は、グロリア=グラスロード。
 割れたガラスの上さえ笑顔で歩くこの娘は、俺の大切な相棒だ。